5 / 12

9話-5 パフューム・トラップ

 風呂場を出て、入谷の家に置きっぱなしになっていた服を纏う。こういう何気ない瞬間からも、ああ本当に付き合っているんだな、という手触りを感じる。  脱衣場からリビングに戻ると、食欲をそそる香辛料と米の匂いがふわりと漂ってきて鼻腔を充たした。性欲が発散された隙間に別の欲が陣取ったみたいに、空腹を急に自覚して腹がぐうと鳴る。見ると、テーブルの上にテイクアウト用の容器に入った料理が並べられている。お茶を淹れていた入谷がぱっと俺の方を振り仰いだ。 「いまちょうど頼んでおいたデリバリーが来たところですよ。以前好き嫌いはないと仰っていたので、今日は中華です。麻婆豆腐と餡かけチャーハンにしてみましたが、いかがでしょう」 「いいね、美味そう。俺の分までありがとうね。いくらだった?」  忘れないうちにとその場で現金を渡す。  入谷が事前に相談しなかったのはたぶん、そうしていたらきっと俺が遠慮していただろうからだ。明日も普通に仕事があるので本当はそろそろ帰らねばならないのだが、入谷の家は居心地がよくてつい長居してしまう。遅くなるほど帰宅するのが億劫になると分かっていてもやめられない。  髪の水気をタオルでとりながらソファに座らせてもらう。あまりに至れり尽くせりで、申し訳なさがちくりと胃の底を刺した。 「腹が減るなあ、この匂い」 「そうですね。僕ももうぺこぺこです、先ほどたくさん運動しましたから」 「……そうだね。俺も」  揶揄にそう返すと、「あしらい方が上手くなったじゃないですか」と言わんばかりに、入谷がにやりと口角を引き上げた。  頂きます、と隣り合って手を合わせ、入谷が用意してくれた陶製のレンゲで食事に取りかかった。  空きっ腹に刺激物は避けるべきなのに、強烈に食欲に訴えかけてくる麻婆豆腐に手が引き寄せられる。とろみがついたそれはまだ熱々で、頬張ると熱さと共に香辛料の複雑な風味が鼻を抜けていった。自分の貧相な舌では唐辛子と花椒と八角くらいしか判別できないが、きっとその二倍以上のスパイスが使われているのだろう。ちゃんと辛いが後味は爽やかである。濃いめの味付けが、しっかり弾力のある木綿豆腐にぴったりだ。  逆に餡かけチャーハンは、餡に入っている蟹の繊細な風味を殺さないよう、絶妙な優しい味わいだった。チャーハンにはレタスが入っていて、俺は米と一緒に食べるのは初めてだったが、しゃくしゃくとした歯触りがアクセントとなり、どんどん食べ進めてしまう。  麻婆豆腐、餡かけチャーハン。交互に食べることで、無限に胃に入りそうな組み合わせだ。 「ねえ、このふたつの組み合わせ、すごく良くない……?」 「ええ、優勝ですね。すごく美味しい」  優勝という言い回しはよく分からないが、入谷の頬も上気しつやつやとしていて、最高に美味いという気持ちは伝わってくる。 「料理がこうだとビールでも飲みたくなりますね」 「紫音くんは明日休みだっけ? せっかくだし飲んだらいいよ」 「でも、あなたが飲めないのに自分だけ飲むのは……」 「そんなの、気にしなくていいって」  恋人はそうですか?と逡巡する様子を見せたが、俺がうんうんと強く頷いてみせると「では、失礼して」と席を立った。  冷蔵庫から取り出した缶ビールとグラスを持って入谷がリビングに帰ってくる。テーブルの上でグラスに注がれる泡立つ黄金色は、綺麗に七対三に分かれた。飲めない身には目に毒なほど完璧だ。  どうぞどうぞと掌で促すと、しなやかな肢体を持つ恋人は存外に男らしい仕草でグラスをぐっと呷る。んく、んく、とあらわになった喉が動くのがやけに色っぽく見えた。 「はあ……美味しいです」 「ふふ。それは良かった」  相手の満足げな表情に胸のあたりが温かくなる。俺もアルコールは嫌いではないが、どちらかと言えば場の雰囲気の方が重要だ。恋人が満ち足りた顔をしているのならもう、それ以上言うことはない。  こうしてどちらかの家でゆっくり過ごし、共に夕飯を食べる。こういうのも――オフィスセックスはこの際脇に置いておいて――良いものだと実感する。  ふと、脳裏を(よぎ)る過去の記憶があった。それは女性の声で、俺を詰っている。  ――ねえ、恋人だったら普通もっと一緒にいない?  ――私に会いたいって思わないの? それってさ、普通じゃないよ。  普通、普通か。恋人なら普通、毎日でも一緒にいたいと思うものなのだろうか。入谷は実際、どう考えているのだろう。今のような一時を、無限にでも引き伸ばしたいという気持ちが、彼にあるのだろうか。だとしたら、現状で満足している俺は肩身が狭い。 「どうかされましたか?」 「……え?」気遣わしげな声をかけられて目を瞬かせる。しまった、急に黙ってしまっていたか。 「考え事をされているようでしたね。香水に関わることでしょうか?」 「あ、いや。そうじゃないんだけど」  大した内容じゃないから、とかわす前に、入谷が俺の腿の上へ手を伸ばし、左手の甲に右手を重ねてきた。お酒が入ったからか、その指先は熱を帯びている。さらりとした感触が心地好く、ぴくりと反応してしまう。 「良かったら話してみて下さい。きっと僕も関係しているのでしょう?」  絹のようになめらかな声の前で、俺の中にある心の柵など無力に等しい。  俺はさらさらと流れる砂のごとくにすべてを話した。自分には現在の距離感がちょうどよいが、ふと不安を感じたこと。もしかしたら入谷が、過去に付き合っていた女性と同じように、不満を抱えているのではないかと考えたこと。 「昔、普通じゃないって何度も言われたんだ。紫音くんもやっぱり、恋人同士ならもっと一緒にいたいと思う?」  無意識のうちに、水分を含んだままの前髪をくしゃりと掻き乱してしまう。  柾之さん、と殊更柔らかく入谷が名前を呼ぶ。 「世間の"普通"に合わせなくてはいけないと、誰が決めたのでしょうか?」 「……!」 「僕たちはきっと、お互いに一人でも生きていける人間でしょう。そういう人間が一組になることに、罪はないと僕は思います。誰かから言われた普通なんて気にすることはありません。僕たちは僕たち。僕らだけの関係を築いていけばいいのです」  恋人の凛とした宣言に、半ば圧倒される。 「と、僕は思うのですが、あなたはいかがですか?」 「うん、そうだね……俺も、そう思う」 「ふふ、良かった」  首肯すると、入谷が目元を緩めてにこりと笑う。  一息置いて、ふと相手が少しだけ声のトーンを落とした。 「でもひとつだけ、本音を言わせてもらえれば……。あなたと過ごす時間に不満はありませんが、今日のような何気ないひとときをこれからも一緒に過ごしたい気持ちは、正直ありますね。あなたと過ごす時間が好きなので」  思わず目を(みは)って息を飲む。それはまさに自分の気持ちそのものではないか。 「それは、俺も同じこと思ってた。君と一緒にいると落ち着くから、好き」 「本当に? 僕が誘導して言わせてしまっているわけではありませんよね?」  入谷がいたずらっ子のように目を輝かせて微笑する。自然な仕草は彼を年齢より幼く見せている。そんなわけないよ、と言って俺も彼と同様にほほえんだ。  体の内側がほっこりとした不思議な温かさに満たされる。なんだか、もはや自分の一部になっていたしこりが、入谷の言葉によってほぐされ、綺麗さっぱり消え去った心持ちがした。まるで魔法だ。

ともだちにシェアしよう!