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9話-6 パフューム・トラップ

 ふ、と感嘆みたいな一息が漏れる。 「紫音くんはすごいな。君といると、俺は素のままの自分でいられる気がするよ」 「おや、それは僕もずっと思っていました。なんだか運命的なものを感じますね」  甘い囁きを受けて、恋人の綺麗な横顔をじっと見つめてしまう。 「……すごくロマンチックなことを言うね」 「そうですね。でも、そのロマンチックの中にあなたもいるのですよ」 「紫音くんってさ……王子様みたいだよね」 「それは初めて言われました」  褒め言葉と受け取っておきます、と入谷は笑みを深くしたのだった。  懸念事項も解決したところで、夕飯の続きに取りかかる。冷める前に、と掻きこむようにして皿を空にすればもう、満腹だ。入谷は食後のお茶を飲みながらしみじみと言う。 「普段デリバリーはそんなに頼みませんが、たまにはいいものですね」 「ほんとそうだね。紫音くんと一緒だと、美味いものがもっと美味しく感じられるし」 「本当ですか? 僕もそう思っていたんです」  今日はこんな会話をよくしている。気持ちが通じ合っているようで嬉しく、またこそばゆい。誰かが聞いたらバカップルとでも言われようが、幸いここには俺たちしかいない。  不意に柾之さん……と吐息混じりに呼ばれ、その密やかさに体がびくりと跳ねる。いつの間にか腿と腿とがぴっちりくっつき、そこから熱が伝わってきている。 「う、うん? どうかした?」どぎまぎしているのを押し殺しながら訊き返す。 「次に休みが合うとき、買い物に付き合って下さいませんか? これまであまりデートらしいこともできていませんでしたから、それも兼ねて」 「うん、もちろんいいよ」  なんだ、そんなことか、と内心ほっとして軽く請け合う。入谷とデートだなんて新鮮な響きだ。  気持ちを弛緩させたのも束の間、は……と恋人がいやに悩ましい息を漏らしながら、こちらの肩にもたれかかってきた。 「紫音くん?」 「すみません……ちょっと酔ってしまったみたいで」  ビール一缶で? という疑問を飲みこむ。 「め、珍しいね。お店ではもっと飲んでも酔わなかったのに」 「外では気を張っていますからね。今はあなたしかいないので、どれだけ理性を失っても平気でしょう?」  呼気を多く含んだ、甘えるような声音が脳髄のあたりを痺れさせる。入谷の方を窺うと、濡れたような光を放つ瞳と視線がかち合った。  いや、それだと俺の理性の方が危ない気がするのだが……。  急激に高まる緊張感に全身が強張る。速まっていく心臓のリズムを感じていると、入谷の掌が内腿に入りこんできて。 「まさゆき」とやや舌足らずな発音で呼び捨てにされ、雷に打たれたみたいに全身が硬直した。 「あなたから、してほしい……」 「紫音、くん?」 「ね。して……?」  そう切なくねだる声が、体の内側の熱を呼び覚ます。  こんなの、拒めるわけがない。  導かれるように、入谷の形のいい顎に手を添えて口づけていた。片手を相手の後頭部に回し、ほんのり水分を含んだ黒髪を強弱をつけて掻き回す。舌を絡ませると、ビールの苦味をじんわりと感じた。水音が徐々に大きくなって鼓膜を侵す。 「ん、ふ……ぅうん……」  鼻から抜ける入谷のあえかな喘ぎ声が、どうしようもなく俺の下半身を刺激する。熱に浮かされるように、彼をソファの上に押し倒していた。  さっきさんざん熱を放った下半身に、また急速に熱が集まりつつある。このまま前戯もそこそこに突き入れてしまいたい、という暴力的なほどの欲求が沸き上がった。興奮してちかちかと瞬く脳細胞が早く早くと俺を()き立てる。  入谷の後ろはまだ、先ほどの交わりの余韻を覚えているはずだ。そこは俺のものにすんなりとなじむだろう。いいところもきっとすぐ見つけられる。  (むさぼ)るようにキスを続けながら、手を伸ばして入谷の股間をつうとなぞり上げる。さっき俺のもやもやを凛とした佇まいで解体してくれた青年のそこは、固く熱くなって刺激を求めている。もっと手を伸ばし、恋人の後ろに指を這わせると、布越しにひくりと動くのが分かった。欲しいからちょうだい、と誘っているようにしか思えない、淫靡に過ぎる蠢き。  入谷の服を脱がせるため、一旦身を起こす。俺の下に寝そべる恋人は、こてん、という擬音がしっくりくる角度で小首を傾げ、俺に曖昧な視線を送っている。  その視線は、ぼんやりとした焦点の合っていないもので。  冷や水を浴びせられたように、脳内の熱がすうっと冷めていく。そうだ、彼自身が言ったじゃないか。入谷はいま酔っている。正気ではないのだ。  ――前後不覚の状態の相手に無理やりしたら? それは、犯罪だ。  俺はがばりと体を起こした。 「お、俺、そろそろ帰るから、ごめん! 寝るときはちゃんと歯磨いて、暖かくするんだよ!」  着てきたスーツをかき集めながら慌てて言い募る。書き起こしたら変な文面になっているだろうが拘泥(こうでい)していられない。このままここに居続けたら社会的にまずいことになる。  入谷はきょとんとした顔で、帰り支度をする俺を見やっていた。鍵もかけるんだよ、と最後に言い置いて入谷邸を後にする。  全速力で車に辿り着いてから、ハンドルに上体を預けてはああ、と深く深くため息をつく。危なかった。もう少しで独りよがりな欲望を大切な人相手にぶちまけるところだった。  胸の内に染みみたいに広がるのは罪悪感と自己嫌悪、それから。  ――あんなの、反則だろ。  どこか夢見心地で見つめてくるとろんとした瞳。普段の理知的な雰囲気からかけ離れた甘い声。俺の理性を一発でぐずぐずに溶かす名前の呼び方。  まだ肌と服のあいだに熱が(わだかま)っている。酔ってあんな風に甘えてくるということは、普段はああいう欲求を怜悧な容貌の下に隠しているのだろうか? どうしよう、恋人が可愛くてたまらない。この悶々とした気持ちをどこにぶつければいいのか。  そのままぽうっとした心地で運転したら事故を起こしそうだったので、煙草を一本だけ吸ってなんとか落ち着きを取り戻す。いい大人の男が情けない。  いつもより気を遣って車を操作する。自分のマンションまでの帰路の夜景が、やたらぴかぴかと輝いて見えた。こんなことは初めてだった。  帰宅して家事や就寝の準備をするあいだも、いつになくぼんやりしてしまった。二十二時半頃『ちゃんと鍵かけた? 歯も磨けた?』とメッセージを送ると、『はい、お母さん』と茶化した返事が来て思わず笑ってしまう。メッセージは『デート、楽しみにしていますね』と続いた。酔っていたとはいえ量はビール一缶、さすがに記憶ははっきりしているようだ。 『俺も、楽しみ』  口元の笑みを抑えられないまま返事を送信すると、間髪入れずにハートが山盛りになったような絵柄のスタンプが返ってくる。やけに素直だ。もしかしたらまだほろ酔い気分の中にいるのかもしれない。  送られたハートのスタンプを指でなぞる。俺は愛されているのだろう。こんな自分が、こんなにも幸せでいいんだろうか。あまりにも充足していてそわそわと落ち着かない。生まれてこの方味わったことのない感情が、キャパシティを超えて溢れだしそうだった。  その夜はきたるデートの日を思い描きながら、夢も見ないほど穏やかで深い眠りについた。

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