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10話-1 ロール・プレイング

「せんぱい」  歌うような彼の表情はうっとりとしていて、いつもとはまるで別人だった。 「ねえ、橘先輩。えっちなことしましょう?」  眼前にある整った顔が、とろかすような笑みを形づくる。見たことのない目をした彼が、そこにいた。  暦も11月になれば秋の深まりも底が見え、近づく冬の足音に嫌でも気づいてしまう。例年なら「もう少しで年末か、慌ただしくなるなあ」程度の感慨だが、今年は特別だ。なにせ個人的な、しかし大きな変化があったのだから。  秋は恋人――入谷紫音と気持ちが通じ合った季節だ。そんな二度とない季節を、もう少しだけ味わっていたい。……なんて柄にもない感傷的なことを考えてしまうのは、ずっと入谷のそばにいる影響なのだろうか。  ちらりと横目で右を見る。そこには恋人のシャープな横顔があり、彼は真剣な目で愛車の運転をしている。きりりと引き締まった表情でありながら、どこか余裕も漂わせて。  今日は二人で出かける、つまりデートの約束をした日だった。付き合い始めてから改めて初デートをするなど、あまりに照れ臭くてこそばゆい気持ちになるのが、少し嬉しくもある。普段車の助手席にはほとんど座らないから、車窓から見える景色は少しだけ新鮮だ。  入谷は先ほど、俺が住むマンションの近くまで車で迎えに来てくれた。彼の愛車はイタリアのメーカーのもので、こぢんまりとした小粋な佇まいを持っており、入谷の雰囲気によく似合っていた。外装も内装も鮮やかな赤で統一されていて、計器類も全体的に丸みがあって可愛らしい。車に特別な思い入れがない俺でも、シートに座るなり「おはよう。いい車だね、紫音くんに似合ってる」と何気なく言ってしまうほどの納得感があった。 「そうですか? ありがとうございます。カーセックスするには少々狭いですけどね」  入谷の返事はそんな、朝には似つかわしくない豪速球だったが。 「か……っ、朝から飛ばすねえ……」 「お褒めに(あずか)り光栄です」 「別に褒めてはいないよ……」  そして如才なく言ってにこりと笑う入谷に、じっと熱く見つめられて困惑したのだった。シートベルトを締める動作がそんなにおかしいのだろうか? そんな焦燥混じりの疑問も、次の入谷の発言で蹴散らされた。 「しかし……オフホワイトのニット、ですか。非常に助かりますね」  (ひたい)を押さえて軽く天を仰ぎながら、ふうと息を漏らす恋人。ああ、これはもういつものやつが始まったみたいだぞ、と俺は得心した。  今日の格好もさして面白みはない。大きい編み地が入った生成(きな)りのニットに、オリーブグリーンのストレートパンツ。何が入谷の琴線に触れたのやら。 「助かるって、何がだい?」と訊いてみる。 「そうですね。強いて言えば僕の命が、です」 「大袈裟だなあ」 「大袈裟ではありません。あなたのオフホワイトニット姿くらい破壊力があるものなんて、他にそうそうないですよ」 「助かるとか破壊力とか、矛盾してない……? よく分からないけど、お気に召したなら良かったよ」 「そういう無自覚なところが罪深いんですよねえ……」  車を発進させながらの嘆息はいやに悩ましげだった。そう言う彼の格好は上品なライトグレーのハイネック、膝の上にはグレンチェックの上着を畳んで乗せている。オフィスで会うときとは明確に違う雰囲気に、俺の方こそどぎまぎしているのだ。こういう気持ちを(てら)いなく口にしてしまえる恋人を、素直にすごいと感じる。  しばらく入谷の運転に身を任せ、幹線道路の流れに乗ったところで、俺はずっと気になっていたことを言葉にした。 「ところで、今日はどこで何をするの?」  そう、デートしましょうと言われただけで、入谷からは目指す場所も目的も聞かされていなかったのだ。昨日まで「当日までのお楽しみですよ」とはぐらかされていたのだが、もう聞いてもいい頃合いだろう。  入谷は目元を笑ませてこちらを一瞥(いちべつ)し、歌うように言った。 「柾之さんには、僕の買い物に付き合ってもらいます」  思いがけない返答に目を瞬く。 「買い物に? それはもちろん構わないけど。何を買うの?」 「服ですよ。柾之さんのね」 「俺の?」  予想外の展開に声が高くなる。  入谷はいたずらが成功した無邪気な子供のように、こちらへぱちりとウインクを飛ばした。 「ええ。あなたはスタイルが良いですから、少し華やかな格好もお似合いだと思いまして。僕が見繕った服を一度着てほしいと思っていたんです。もちろん、無理強いはしませんが」  入谷の中の自分のイメージに驚きつつ、似合わない気がするけどなあ、と反射的に返しかける言葉を飲み込む。 「……似合うかは分からないけど、紫音くんに選んでもらえるのは楽しみだな」 「嬉しいことを言って下さいますね」  入谷の声は弾んでいた。  彼にコーディネートしてもらえたら、新しい自分に出会える気がする。そんな風に期待感で胸を膨らませている自分が心底不思議だった。変わらないことを長年心地よく思い、変化は厭わしいだけだったのに。何なのだろう、この心境の変わりようは。  俺の人生に清廉な風を吹かせ続ける恋人は、車を海の方向へ向けて運転を続けている。  どうしようもなくこの人が好きだ。不意に、潮が満ちるように、そんなことを思った。  到着したのは、広大な敷地にショッピングモールやミュージアム、観覧車などを擁する一大観光地だった。  そのうちのショッピングモールへ連れ立って入る。この世の様々な店を一箇所に集めたかのようなフロアには、自分がいつも世話になっている量販店なども入っている。個人経営のセレクトショップなんかに案内されることを予期して若干緊張していたが、これなら無様なところを入谷に見せなくて済みそうだ。 「さて、どうしましょうか」  腕時計で時刻を確認している彼をちらりと見やる。  入谷はハイネックの上に丈の長い上着をさらりと羽織っていて、ホワイトのスキニーパンツに黒いショートブーツというモノトーンの組み合わせがばっちり決まっている。休日だけあってカップルや子供連れが多い中で、彼は際立って目線を集めていた。「見て、あの人」「格好よくない?」「モデルさんかな」とひそひそ囁く声が鼓膜まで届く。入谷がモデルなら俺は彼に付き添うマネージャーってところか。そう見えているのなら、それでもいいが。  顔を上げた入谷はにこりと笑んで、俺の手をあるショップの方へ引いていった。ほどよくナチュラルで、ほどよく上質な服が揃っている。買い物をしたことはないが、俺でも聞いたことのあるブランドだ。 「柾之さん。今考えていたんですがどうでしょう、時間を決めて互いに似合いそうな服を選ぶというのは。面白いと思いませんか?」  楽しげな提案に、俺はすぐにうなずくことができなかった。 「俺も紫音くんのを選ぶってことだよね? そういうの、センスないからなあ……笑わない?」 「絶対に、あなたが選んだものを、笑ったりしません」  入谷は真面目な顔になり、一句一句噛んで含めるように断言する。その気迫がどこか可笑しくて、口の端が自然に上がってしまう。 「うん、じゃあ頑張って選ぶよ。時間はどうする?」 「あまり長すぎても迷いそうなので……三十分でいかがですか? 試着室の前で落ち合いましょう」 「了解。じゃ、三十分後に」  こうして〝相手に似合いそうな服を選ぶゲーム〟がスタートし、俺は時間を目一杯使ってあれこれと迷い、上下を合わせて三点選んだ。  誰かのために服を選んだことなど初めてで、脳の使っていない部分がかっかと熱くなっているような心地がする。入谷は集合場所で、かごを片手にもう俺を待っていた。 「ちょうど時間ですね。それではさっそく着てみましょう」  彼がにこやかに試着室を示すのに戸惑いを覚える。 「え、一緒に入るの?」 「大丈夫ですよ。中は広い造りになっていますから」  入谷の言うとおり、カーテンで仕切られた向こうは三メートル四方ほどの面積があり、三面を鏡が覆っていた。靴を脱いで踏み入れるとやたら毛足の長い絨毯が足裏を受け止める。ちゃんとした店の試着室はこういう感じなのか。 「それでは、僕が先に着てみていいですか? 柾之さんが選んでくれたもの、見たいです」 「う……うん。どうぞ」  俺は得体の知れない気恥ずかしさを感じながら自分のかごを相手に手渡す。ふむふむ、と中身を検分する彼の顔をなぜだかまともに見られない。自分の思考回路や趣味嗜好がそこに表れている気がして、裸に剥かれているのにも似た気持ちになるからか。 「では、試着してみますのでそちらを向いていてもらえますか? 目も瞑って下さいね」  俺は素直に体を回転させて瞑目した。空間が大きい三面鏡になっているから目を瞑れというのは分かるが、そもそも我々は何度も裸を見せ合っている仲だ。入谷の中では別問題らしいがなんだか面白い。  これならカーテンの外で待っても同じだったのでは、と落ち着かない気持ちでしばらく衣擦れの音を聴く。もういいですよ、と許可され振り向けば、もこもこした白いフェイクファーの上着に、ぴたっとした黒い革のパンツを纏った彼がいた。興がるような表情で、「いかがです?」と茶目っ気たっぷりに腰へ手を当てポーズを取っている。  普段の彼とはかけ離れた雰囲気の上下。それでも、入谷は隙なく着こなしていて。  俺が何かコメントする前に、彼は自らの格好をまじまじと見て言う。 「僕はあなたの中ではこういうイメージなんですね。少々意外でした」 「……紫音くん、ちょっと笑ってない?」 「断じて笑っていません」  すん、とした表情でこちらをまっすぐ見てくる目。その様子に、思わず俺の方がふっと噴き出してしまう。

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