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1話-1 ファースト・インプレッション

 いつもと同じような一日を終えて、客先から自宅へ直帰するところだったのに、一体俺はなぜこんなことになっているのだろう。  足元にうずくまる人影を、陶酔の熱に浮かされながらぼんやりと見下ろす。  今までの人生で熱中できるものなんか見つからなかったし、それはきっとこれからも変わらない。  化学薬品の(おろし)の営業、9年目。そろそろ中堅といってもいい頃合いで、生活に不自由はない。仕事に対しては特別思い入れはなく、かといってやり甲斐を感じないこともなく、日々の業務をこなしているうちに月日が経っている。会社はそれなりにホワイト、給料の不満はなし、人間関係も悪くはない。及第点でまずまずの人生、そんな感じ。  自分一人しかいない会社の喫煙ルームで、一服しながら息を深く吐く。なんだか感傷的に半生を振り返ってしまったのは、きっと今日からうちに来たインターン生と会話をしたからだろう。  まだ大学生の彼のオーラは三十路(みそじ)を超えた自分にはあまりに眩しく、覇気に目も神経もやられてしまったのだ。若さというだけではない。俺にはあんな時期、これまでに一秒たりともなかった。 「(たちばな)さん、お疲れーッス」と気だるげに言いながら、営業の後輩である常葉(ときわ)が喫煙ルームに入ってきた。細身のスーツをぱりっと着こなし、長身で顔立ちも整っている常葉だが、目には生気がなくどんよりと淀んでいる。 「常葉くん。お疲れ様」 「橘さん、インターン生と話しました?」  緑色の細長い箱から煙草を出しながら、後輩が問うてくる。常時熱のない常葉も大学生のキラキラ具合に当てられたクチだろう。  年配社員には禁煙プログラムが適用される昨今、他に人が入ってくる気配はない。苦笑を漏らしながら会話に応じる。 「話したよ。気力がだいぶ持ってかれた」 「そッスよねえ。この会社に何を期待してるんだか。若いって嫌ッスね」 「常葉くんだって十分若いだろうに。今24? 25?」 「25です。俺はもう社会に若さを吸い取られたあとなんで。あいつがもしうちに入社したら、俺と橘さんであの熱を奪って冷ましてやりましょ」 「とりあえずあいつはやめておこうか、常葉くん」  死んだ目で共犯者への誘いをしてくる常葉をたしなめる。彼は社内ではこんなだが、仕事はけちのつけようがないくらいにできる男だし、客先では愛想よくにこにこしているため、うちの重役にやや(けむ)たがられているという点を除けば完璧な営業社員だ。彼の提案は褒められたものではないが、まあ内心では共感できないこともない。  俺も常葉も、物事に対して熱がない、低体温姿勢の似た者同士なのだ。 「学生のうちから働きたいなんて物好きッスよね。ああいう情熱ってどこから湧いて出てくるんでしょうね」 「さあ……俺も、今まで生きてきて熱中できるものに出会ったことがないから、分からないな。この会社に入ったのも大学の先輩の紹介だし」 「でも多分、次に入ってくるのはやる気にあふれた情熱タイプだと思うんスよね。やだやだ、やる気のある同僚なんて」 「それはなかなかの問題発言だと思うけどな」 「えー、だってやる気がなきゃ働けない人間なんて厄介でしょ。橘さん、偉くなって社内環境よくして下さいよ。やる気のない死んだ目の学生ばっかり採用で取って下さい」 「冗談きついな。俺はそんな器じゃないよ」 「そッスかね? 俺はそうは思わないけど。じゃ、お先に」  常葉は言うだけ言って最後ににやりと薄く笑い、ガラス戸の向こうへ去っていった。自分の煙草もとうに短くなっている。俺もそろそろ客先へ向かわねばならない。  ふ、と浅く溜め息をつく。生活に新しい風が吹くのは苦手だ。俺は昨日と変わらぬ日々を愛している。  そんなわけで、好奇心が他人より薄い自分がそのギャラリーに立ち寄ったのは、完全に偶然だった。  一日の仕事を終え、自宅に直帰する旨を上司に伝える。夕飯を食べてから帰ろうとアーケード街の道を流し、適当な駐車場に車を停めた。8月頭の気温は夜と言えどもじっとり重く、時折吹く風も質量があるような生ぬるさだ。それでも、飲食店、アパレルショップ、美容室、ケーキ屋、和菓子店などが道沿いに(のき)を連ねる通りは、帰宅時間ということもあって賑わっていた。子供連れも多く、今が夏休み真っ最中であることを教えてくれる。  近くにある商業ビルに入って探すのもいいかもしれない。そう考え始めたちょうどそのとき、ふと目に飛びこんできた一角があった。雑踏から切り離されたように、大きいショーウィンドウの前には人気(ひとけ)がなく、白い光が薄暗い道に投げかけられている。  なんとなく近づいてみると、構えは洋風でこざっぱりとしており、ショーウィンドウには一点の風景写真が飾られていた。ドアにつけられたガラス窓から内部が伺い知れる。どうやら中にも写真が飾られているらしい。そこが貸しギャラリーだということを、美術の界隈に特に疎い俺はまだ知らなかった。  ウィンドウの中に飾られた写真を見てみる。おそらくヨーロッパのどこかの港町の風景だろう。モノクロで、船と海に落ちる船の影が撮されている。人は写っていないのに、なぜかそこが活気のある場所だと分かる。なんとなく情緒をくすぐられ、気づけば艶めいた木製のドアをくぐっていた。  入ってみると、ひんやりした心地好い冷気に迎えられる。内部は奥に広い構造になっていて、通路がパーティションで仕切られていた。壁も仕切りも真っ白でやや眩しい。モノクロの写真が壁とパーティションにぽつぽつとかけられていた。  見物している人は自分以外に二、三人しかおらず、いずれも裕福そうな年配者だ。ここはギャラリーと呼ばれるところなのだろうと遅れて気づき、美術に縁遠い自分には場違いだという思いがむくむくと湧き上がってくる。しかし入ってすぐに出ていくのも失礼な気がして、居たたまれない気持ちを抱えながら、室内を見て回ることにした。  写真はどうやら、入谷(いりや)紫音(しおん)という一人の写真家のもののようだ。綺麗な名前だ。女性だろうか。  写真はすべて風景写真だ。日本の自然。海外の街角。雲間から覗く星空。水溜まりに反射した電線など。小さく鳥や昆虫が写り込んだものもあるが、人間を写したものは一枚もない。  隅に写真家のサインが入っており、キャプションにタイトルと数字が書いてある。売り物なのだ。値段は5万から10万円ほど。  題材は共通して飾り気のない日常の風景といったふうで、人間の生活の息遣いがどこかしらに感じられ、また水溜まりや水滴などのしっとりした水の気配が必ずあった。  何気なく訪れたのに、写真はもちろん美術品全般をじっくり鑑賞したこともないのに、目が離せないほど強く心惹かれていた。学校の行事でしか美術館に行ったことのない自分が、じっくり写真を味わっている。不思議な気分だった。  けれどそのうち、徐々におかしな事態になってきていることに、俺ははじめ気づかないふりをしていた。最初に感じたのは体の熱さだ。気のせいだ、と小さい違和感を無視し続けていると、だんだんそれが顕著になってくる。発熱したときのように明らかに頭がぼうっとし始め、次いで動悸と呼吸数が多くなり、異常だとはっきり意識した頃にはもうどうしようもなくなっていた。  写真はどれも静謐な雰囲気で、扇情的な箇所はどこにもないのに、俺はなぜかそれらから知らず知らずのうちに官能を感じ取っていたのだ。  四角い枠の中に収められた直線、曲線、点、濃淡、それらすべての要素が絡み合い、こちらの心情を(から)め取ってくるように思われた。平面に写し取られた空気の温度が、生き物の気配が、風の流れが、街の匂いが、俺の肌と身体の内部を優しくくすぐり、時に強烈に掻き立てる。どくどくと心臓が激しく脈打つ。  見ていたら駄目だ。このままだと駄目になってしまう。気持ちは抗うのに、体が言うことを聞かず、縫いつけられたように写真を見つめ続ける。  体の芯が熱い。おかしい。もう何も考えられない。自分がどこに立っているのか分からない――――

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