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1話-2 ファースト・インプレッション

「恐れ入ります。大丈夫ですか」  至近距離からかけられた男性の声に、はっと我に返った。  慌てて見ると傍らに、すらりとした見目の整った青年が立っていた。色が白く、背は身長178cmの俺よりやや低いくらいか。(つや)やかな長めの黒髪と、切れ長の一重の瞳が目を惹く。右目の下側にほくろがあった。中性的な容貌に、美人、という形容詞を無意識に当てはめる。男性相手に初めてのことだ。  青年は夜空を思わせる落ち着いた声音で続ける。 「具合が悪そうでしたので、お声がけさせて頂きました。大丈夫ですか? 当ギャラリーはそろそろ閉館の時間となります」 「え、あ……はい」  辺りを見回すと既に人の姿はない。入ってきたときに人が少なかったのは閉館間近だったからか。どれくらいここにいたのだろう。体の熱が引かず、思考に(もや)がかかっている。 「すみません、もう出ますんで」 「お待ち下さい」  青年がこちらの袖口を掴んで引き留めたのでぎょっとする。彼は表情に何の色も浮かべずに続けた。 「失礼ですが、そのままの状態で外に出るのはお控えになった方がよろしいかと」 「え……?」  青年の視線を追って自分の股に目をやる。  そこは、スラックスの上からでも誤魔化しようがないほどに膨れていた。熱っぽい頬が一段とかあっと熱くなる。自分の体がこんな状態になっているのに気づかないなんて。いやそれより、公共の場で股間を大きくするなど、完全に変態のそれである。  鞄で前を隠しながら、しどろもどろに弁解する。 「いや、これは、何でもないんです。そのうち治まりますから……」 「僕の写真をご覧になっていてそうなったのですか?」 「僕、の……?」 「はい。僕が写真家の入谷紫音です」  目の前が真っ暗になる。なんてことだ。男性だったのか、と驚く暇もない。  写真家本人に見られるなんて最悪中の最悪だ。こんな場所で警察を呼ばれ、公然猥褻罪で現行犯逮捕され、俺の人生は終わるのだろう。唯一他人に誇れることと言えば、熱を持たないながらもこつこつ仕事に取り組んできたことだけの、自分の人生が。  入谷と名乗った青年はパーティションの向こう側へと俺の手を引いていく。それに力なく従うしかない。 「こちらにいらして下さい」と言って入谷が俺を連れていったのは、シンクやテーブルがある楽屋裏のようなスペースだった。  彼は(きびす)を返してどこかへ歩いていって、俺は所在なく取り残される。長机の上にはサインが入った写真集が積まれていた。ここで警察が来るまで俺を待たせておくのだろう、と思うと総身が震えた。それなのに下半身の熱はまだ引いてくれない。彼女がいたときでさえこんな風になったことはないのに。  かちゃり、と静かな室内に響いたのはおそらく、鍵の音だったのだろう。閉じ込められた、逃げ場はない、といっそう眼前が暗くなる。  パーティションのこちら側に戻ってきた入谷は、羞恥にまみれて壁際に棒立ちになったままの俺に歩み寄り、無言でなぜか足元にうずくまった。何をするつもりなのだろう。恐怖と申し訳なさで骨の髄まで(すく)み上がる。  入谷は俺を見上げ、静かな瞳のままゆっくり言葉を紡ぐ。聞き間違えでなければ、その響きはとても優しげだった。 「たまにいらっしゃるんです。僕の写真を見てそういう状態になる方が」 「え……」 「僕のせいですから、責任を取らないといけませんね。少し、失礼します」  混乱した頭では相手の言葉が理解できない。何が何だか分からぬまま突っ立っていると、おもむろにカチャカチャとベルトを緩める音が鼓膜を震わせた。え、え、と恐慌を来して入谷の行動を呆然と注視する。下半身にひやりとした空気を感じた。彼の長く神経質そうな指が、腫れ上がった男の象徴をスラックスの中から取り出したのだ。  信じられない気持ちを消化できず、動揺する俺を差し置くように、青年はぱくりと開いた口からいやに赤く見える舌を差し出して、竿の部分を躊躇なくぬるりと舐め上げた。 「う、……っ」  唐突で物理的な刺激に肩が跳ねる。反射的に変な声が漏れそうになって、咄嗟に掌で口を覆った。  どうして? 何が起きている? 自分のモノが、初対面の青年の咥内に深く迎えられている。なぜ? 疑問だらけなのに、体は正直に刺激に反応する。咥えられるなんて久しぶりだ。熱くて、濡れていて、吸い付いてきて、気持ちいい。青年の舌がうねり、亀頭を舐め回したり、鈴口をつついたり、先を吸い上げたり、バリエーション豊かに蠢き続ける。混乱と快感の波間で、ぐちゃぐちゃに揉まれているみたいだった。  ぴちゃぴちゃという水音がいやらしく耳を犯し、こらえようとするのに腰が揺れてしまう。何もかも分からないまま、相手の喉の奥に(たかぶ)りを擦り付けている己が信じられない。  やがて、大きな愉悦の波が襲ってきて、瞼の裏が一瞬白飛びした。 「ん……、……ッ」  全身を仰け反らせ、苦しいほどの快感に耐える。快楽の波が去ったあとは、激しい脱力感に襲われた。ふうーっと深く呼気を吐き、はあ、はあと肩で大きく息をする。足に力が入らなくて、背中を壁に預け、その場にずるずるとへたり込んだ。  口でされるなんて初めてでもないのに、こんなに我を忘れたことはかつてなかった。パンツとスラックスを直す気力も湧かぬまま、ふと目を開けて、背中に冷や水を浴びたように現実に返る。  美しい顔を白濁で汚したまま、写真家の青年がこちらを冷静な表情で見下ろしていた。何回罪を重ねるつもりなのだ、俺は。顔がさっと青ざめるのが自分で分かった。 「す、すみません、あの、お詫びは何でもしますので」 「あなたが謝られることではありませんよ」  入谷はテーブルの上にあったティッシュで白濁を拭き取ると、もう一度俺の顔をじっと見つめた。 「あなたのお名前は」 「え」 「お名前を伺ってもよろしいですか」 「た、橘……です」  しどろもどろになりながら何とか答える。頭が空っぽになったようだった。青年に見つめられるとなんだか無性に体が疼く。さっきまで俺に痴態を演じさせていたのが嘘だったみたいに、入谷は平然としていた。  彼が床から何かを拾い上げる。なんだ? 見覚えがある、と感じた瞬間に自分の名刺入れだと気づく。無造作に放られた鞄から飛び出ていたのだろう。  焦りがどっと噴き出すもののもう遅い。入谷がケースから出した名刺をしげしげと眺める。名刺にはもちろん、名前の他に勤務先や連絡先が印字されている。崖から突き落とされるような絶望感が、またも視界の明度を下げていった。  入谷は紙片に目を落としながらぽつりと呟く。 「化学薬品の卸の営業。柾之(まさゆき)さんと仰るんですね」 「……そ、そうです、が……あの、俺は一体」 「ここのギャラリーの展示は3日後までやっています。良かったらまたいらして下さい」  入谷は名刺入れと鞄をこちらに渡すと、俺の見間違いかもしれないが、わずかにふっとほほえんだ。あんなことをしでかしておいて、表情が変わったのはその一瞬だけだった。  俺は呆気にとられた。さっさと机の上を整理し始める彼の動作をしばし唖然と見つめ――――はっとして衣服を整えにかかった。  そこからは気恥ずかしさで写真家の青年と顔を合わせることもできず、逃げるようにギャラリーをあとにした。夕飯を食べ忘れたと気づいたのは、呆然としたまま寝仕度をして、のろのろとベッドに入ってからのことだった。

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