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2話-1 セカンド・コンタクト
日頃なら機械的に済ませているメールの送受信作業が、今日は遅々として進まない。昨夜の後ろめたい、ある意味では目眩 く経験のせいだ。
偶然立ち寄ったギャラリーで、風景写真を見てなぜか興奮してしまい、写真家本人に知られた挙げ句、公用の場であんなことを――――。
俺の心は朝から戦々恐々とし、大荒れの状態にあった。大変なことをしでかしてしまったという思いに留まらず、今にも入谷から、または警察から、電話がかかってきそうな気がしているからだ。お宅の橘という社員は、風景写真を見て性的に興奮する異常性癖者なんですよ。そう告げられたら、俺は社会的に完全に終わる。
社内の固定電話や個人の携帯が鳴るたび、ぎくりと体に緊張が走る。同じことを堂々巡りに想像してしまい、緊張感が引き伸ばされ、だんだん吐き気さえしてきた。今のところ警察や入谷本人から電話はかかってきていないし、どこかから噂が広まっている気配もないが、安心はできない。
問題はそれだけではなかった。パソコン画面を見ていても、入谷が自分の前にうずくまっている情景がちらつき、一向に集中できないのだ。昨晩ベッドに入ったあと、どうにも体が疼いてしまい、入谷の指先と熱い舌を思い出しながら、寝るまでに2回も抜いてしまったことも要因だろう。寝不足になると理解しながら止められなかった。青年の凪いだまなざしを思い出すと、なぜか頭の芯がじんと痺れ、全身が熱を持つのだった。
俺はどうにかなってしまったのかもしれない。己の意思で理性を制御できなかったことなど、これまでに一度もなかったのに。もっと若い頃、女性と付き合っているときでさえ、だ。
嘆息しながら目頭を押さえていると、営業一課の課長の声がフロアに響いた。
「おーい、倉庫使ったの誰だ? 鍵閉まってなかったぞ」
ぼんやりとしていた意識が急に明瞭になる。倉庫とは廃盤になった薬品や試験品などが納められている薬品庫に近い場所で、中には有害なものもある。1時間ほど前、所用があって倉庫に入った。そのあと、俺は施錠したか? 覚えがない。犯人は確実に自分だ。
「すみません課長、それたぶん僕です」
立ち上がって正直に白状すると、課長は吊り上がっていた眦 をやや和らげる。
「なんだ、橘か。珍しいな。気をつけろよ」
「はい……面目ないです」
自分の体が小さくなった心地で、すごすごと椅子に座り直す。隣席の女性社員が気遣うような笑みを向けてきたのへ、曖昧に愛想笑いを浮かべて応じておいた。これでは仕事にならないどころか、致命的なミスまでしかねない。しゃっきりしろ俺、と自分に言い聞かせる。
芳 しい匂いが鼻腔をくすぐって、ずい、とマグカップが視界に差し出された。そこから伸びる腕を目でたどる。無表情の常葉がそこにいた。
「顔色悪いッスよ、橘さん」と湯気の立つコーヒーを二人ぶん持ちながら、仕事のできる後輩が言う。
「はは、後輩に心配されるなんて、駄目な先輩だな。俺は」
「具合でも悪いんスか? 半休取るなら俺が仕事やっときますけど」
「いや、そこまでじゃないよ。少し眠れなかっただけだから、気にしないで」
「じゃ、眠気覚ましにちょうどよかったですね」
「ああ、ありがとう」
外が紺色、内が白色のカップを受け取りながら、中堅社員として情けないところを見せてしまったな、と若干凹む。そんなに顔に出ていたのだろうか。プライベートを仕事に引きずるなんて、社会人としてあり得ない。
「そういえば常葉くん、俺のカップがどれか知ってたんだね」
「まあ、よく話す人のくらいは、さすがにね」
話題を誤魔化すと、後輩は整った顔のパーツをほとんど動かさずに答える。
そうか。俺は自分以外の持ち物が誰のものかなんてまったく把握していない。興味がないからだ。自分のカップを使っている人なんて、このフロアだけで20人以上いる。常葉も俺と似た者同士だと思っていたが、彼は意外に周りを見ているようだ。なんだか姿勢をたしなめられた気になって、ますます肩身が狭くなる。寝不足の胃とエアコンの冷気で冷えた体に、コーヒーの熱さが染みた。
メール業務を再開して、眉間をぐりぐりと揉む。後輩相手にはああ言ったが、このままでは大丈夫でないことは明らかだ。もう一度、入谷紫音に会いに行くべきではないのか。キーを叩きながら思考を整理しようとしたが、迷走する思いは形になってくれなかった。
なんとか目立ったミスなく一日の仕事を終え、常より若干遅い時間に家に帰る。俺を出迎えた明かりのない空々しい部屋では、飼育しているクラゲの水槽だけが冷ややかな淡い光を放っていた。暗い室内をそのままに、緩い水流に乗って浮遊するクラゲたちをしばし眺める。彼らは俺にとって唯一の癒しだ。かといってペットというほど愛着はなく、自分にとっては観賞物に近い。
それでも、ゆったりとした収縮と拡張のリズムを見ているうち、毛羽だった心が少しずつなめらかになっていく。
やがて俺は決意する。明日、またあのギャラリーを訪問しようと。
あんなことがあった翌日に入谷に会いに行くのもおかしい気がするから、1日挟んだのはたぶん正解だったんだろう。そんな自己弁護をしつつ、気を落ち着かせるためには駐車した車内での一服が必要だった。
折しも日付は金曜日で、ギャラリーがある通りは一昨日よりもさらに混雑している。時間帯はギャラリーが閉まる20分ほど前。ギャラリーから人がいなくなる時間を狙った結果だ。
歩くたび、左手に提げられた袋と菓子折りがかさかさと摩擦音を立てる。感じたことのない緊張感にいつもの歩き方を忘れ、ぎこちなく歩みを進める俺を、ありがたいことに誰も気にしていない。
ギャラリーの前まで来たところで気合いを入れ直す。ここまで来たら後戻りする選択肢はない。怖 じ気づく前にギャラリーのドアを開け放つと、真っ白い光に目の前が染まるようだった。
整然と並ぶ写真の数々には目もくれず、奥まった一角へと足先を向ける。そこに彼はいるはずだ。心臓が痛いくらい早鐘を打っている。
椅子に腰かけて、何やら書き物をしている人物。彼はもう確信しているかのように、ゆっくり面をこちらに上げて、うっすらとほほえんだ。
どくりと一段強く鼓動が跳ねる。やはり入谷紫音は美しい男だった。身のこなしが洗練されていて、纏う雰囲気は涼やかで。鋭い尾根を持つ雪山のようだ。
髪を耳にかける仕草に、同性でも惹き付けられる妙な色気を感じてしまう。
「橘さん。また来て下さったんですね」
「……こんばんは」
こちらが会釈し終える頃には、入谷の柔らかな笑みはもう消えていた。彼が俺に対してどういった感情を抱いているのか、現時点では判断がつけられなかった。
袋から菓子折りを取り出して、慎重に入谷に差し向ける。
「先日は失礼致しました。これ、お詫びの品と言ってはなんですが、どうか受け取って頂けないでしょうか」
「お詫びというと? 何のお詫びでしょう」
艶やかな黒髪を揺らして小首を傾げる青年。その口調にはわずかだが、面白がっているような響きがあった。こちらはここで失敗したら身が滅ぶかもしれないという背水の陣、または一世一代の正念場のつもりでいるのに。
もどかしい気持ちを抑えて、「ですから、先日私がここで――――」と言いかけて、2日前のあられもない光景が脳裏にフラッシュバックした。そうだ、目の前にいる彼の咥内に、俺のものが迎えられて、熱くて濡れていて――――。
頬が熱を持ち、青年の薄い唇が急になまめかしいものに見えてくる。
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