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2話-2 セカンド・コンタクト

 絶句してしまった俺に代わり、入谷が目元を和らげて話を引き継ぐ。 「すみません、意地の悪いことをしてしまって。でも、あなたがお詫びというのは、不思議な感じがしませんか」 「そ……うですか?」 「だって、同意を得ずにあなたの体に触れたのは僕の方ですよ。法的には僕の方が罰せられると思いませんか」  そうなのだろうか。分からない。あってはならない振る舞いを先にしたのは俺なのだから、やはり(とが)は自分にあるように思える。  そこで至近距離から目を覗きこまれて、ぎくりと全身がこわばった。  入谷の目は、危険だ。右目の泣きぼくろに視線がいったら最後、深い色の瞳に捕らえられ、逃げることができなくなってしまう。  まるで罠だった。あるいは、甘い蜜で虫を誘う食虫植物のような。 「もしかして、心配していましたか? 僕が警察に相談したり、あなたの会社に報告するんじゃないかって」 「……仰る通りです。正直、生きた心地がしませんでした」 「その点はご安心下さい。僕はあなたとのことを他の誰にも知らせるつもりはないし、怒ってもいないし、ダシにしてあなたを脅したりもしません。ですから、このようなものは不要です」  そして、菓子箱を突っ返すようなジェスチャーをする。それでは困る、と俺の気持ちが色めき立った。受け持ってもらえないとこちらの気が済まないし、心情的に休まらない。口を開きかけるも、入谷に視線で制される。 「というのが僕の気持ちなのですが、それだとあなたが困るでしょうし、せっかく下さるというなら頂いておきますよ」  すらりと長い指がお詫びの品を受け取ってくれて、ようやくほっとした。これで来週から、職場でびくびく過ごす必要もなくなるだろう。 「すみません、こちらの気持ちまで汲んで頂いて。では、私はこれで」 「それから、あなたに訊きたいことがあります」  さっさと引き下がろうとしたのに言葉尻を捕らえられる。だけでなく、引っこめる前の俺の左手首を、入谷の右手ががっしり掴んだ。存外に強く込められた力と、有無を言わさぬ様子に顔が引きつる。これ以上、何を話すことがあるのか。  恐る恐る相手の表情を窺うと、切れ長の双眸が鋭く俺を見据えていた。物々しい雰囲気に呑まれそうになる。 「……何でしょうか。なんでも、正直に答えます」 「まあ、そう慌てずに。少々お待ち下さい」  相手は先日と同じように、俺を残してパーティションのあちらへと消えていった。案の定、ややあって施錠の音が届く。デジャヴにくらくらした。既視感と言い捨てるほど生易しいものではないが。今日は一体何が起こるんだ?  身を固くしていると、迷いない足音がすたすたと後ろから近づいてくる。振り返るよりも早く、入谷が背中側に肉薄してきて、低く耳元で囁いた。彼の肉体の気配に、ぶるりと総身に震えが走る。 「どうか教えて下さい」 「な、何を」 「僕の作品を見ると、あなたの心と体がどう変化するのかを。実際に写真を見ながら、僕に教えてほしいんです」  ――感じたんでしょう。僕の写真で。  吐息混じりの声が耳朶(じだ)をくすぐり、ぞくりと背中が粟立つ。口調は穏やかなのに、首筋に冷たい刃物を当てられているような心地がした。感情を読み取れるものがほとんどないから判断しにくいが、入谷はやはり怒っているのだろうか。  彼の頼み事は自分にとっては命令に等しい。元より俺に拒否権などない。 「分かり……ました」と受け入れる声が緊張で(かす)れた。  どの写真が最も性的に感じるのかと問われ、俺は一昨日の興奮を思い出しながら、夕暮れの風景の前に立った。草原に立つ一本の老木。雲の多い空。その切れ間から、星の光が点々と覗いている。  どこからどう見ても、森閑(しんかん)として静謐な写真なのに、俺の体は女性のヌード写真を見るよりも激しく、それどころかアダルトビデオを観るより覿面(てきめん)に反応し始める。これはおかしいと細々と主張する理性を、大波めいた情動がたやすく飲み込んでいく。  入谷は俺のすぐ後背に立って、どうですか、と無感情に問いかける。 「体と心境の状態はいかがですか」 「――体が、熱くなってきました。写真の中の空気に、体を……撫でられているような感じがします。そういう写真ではないって頭では分かってるのに、止まらないんです……」 「なるほど」 「こんなことは初めてで、自分でも混乱しています。脈拍もかなり早まって、息も熱くなってきて……少し、涙も出てきたような感じです」 「そうですか」  自分の身体に起こる変化を列挙していく。何の羞恥プレイなんだ、これは?  しかしその時の俺には置かれている状況を顧みる余裕はなかった。そばに感じる入谷の気配が、さらに自分から思考能力を奪っていく。(こら)えきれずに膝がぶるぶると震えてきた。誰でもいいからどうにかしてくれ、と捨て鉢のように心が叫ぶ。  あの、と絞り出した声はみっともなく震えていた。 「だんだん、考えるのが辛くなってきて、もう」 「感じすぎて辛抱できないと」  淡々と状況をまとめた入谷が、やおら両腕を後ろから伸ばしてきて、俺の下半身に触れた。突然の物理的刺激に全身がびくりと跳ね上がる。瞬間的に漏れそうになったおかしな声を、なんとか奥歯で噛み殺した。  股間をまさぐる入谷の指は、下から上につうと撫で上げてくる。 「確かに、固くなっていますね」 「ちょっ、と、入谷さん……ッ」 「ここは外から見えませんから、ご心配なく」  そういう問題ではないのだが。スラックスの股の部分を、入谷の手が二度三度と往復する。腕の動きしか見えないのが何ともいやらしい。淡い快感ともどかしさに、息がいっそう熱くなっていく。もっと、直接触ってほしい。つい2日前、この場でしてくれたように。 「いりや、さん」 「この体勢だと少し辛いですね。椅子に座りましょうか」  優しげに告げられた言葉を、ゆっくり吟味する余裕もない。年端もいかない子供のように、俺はこくこくと頷いた。  異常と言うほかにない。こんな状況は、異常だ。  椅子に腰かけた自分は、スラックスと下着を腿の中ほどまで下ろされ、他人に見せてはいけないところを剥き出しにしている。写真家の青年は俺の膝に(また)がるような格好になっていた。  入谷は間近で見ても変わらず美しかったが、至近距離で顔を見合わせることに恥じらいと戸惑いを隠せず、視線は斜め下方に逃がしている。股にぐりぐりと硬いものが当たって、ああ彼も()っているんだ、こんなに綺麗な人でも勃起するんだな、と頭の片隅でそんな由無(よしな)し言を思った。  既に先走りでたっぷり濡れていた俺のそれは、入谷が指の腹で扱くと、粘着質の水音を立て始めた。過重に耐えかねた椅子がそれに合わせてギッギッと擦れ、塞ぐことのできない耳を犯してくる。入谷の指は細く華奢な印象だが、それでも女性の手とは全然違っていた。指の節が刺激になって、快感が奥からどんどん引き出されていく。  こんなことは駄目だ。こんなの、許されるはずがない。断って、拒んで、さっさと帰宅すべきだったのだ。分かっているのに、それでも本能の深いところが入谷を求めてしまう。何かに()き動かされているように、彼の指に合わせて腰が勝手に揺れてしまう。

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