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2話-3 セカンド・コンタクト

 橘さん、と出し抜けに名を呼ばれ、顔を上げると真剣な目が俺を見返した。 「つかぬことをお伺いしますが、橘さんはご結婚されていますか」 「え……いえ」  問われるままに答えを返す。どうして今そんなことを訊くんだ、と尋ねる余裕もない。入谷はさらに問いを重ね、 「それでは、現在お付き合いしている方はいますか」 「いえ、いませんが……」  あっと思う間もなく、性急なほどのスピードで華奢な指が伸びてくる。下から顎を捕らえられ、だらしなく半開きになっていた口が、入谷のそれで塞がれる。 「ん……っ」  柔らかい唇だった。男も女もあまり変わらないものなんだな、と思考の一部が妙に冷静に分析する。キスするから事前に恋人の有無を確認したのか。律儀なのか大胆なのか分からない人だ。  キスは触れるだけでは終わらない。下唇をつつく舌先に促されて口の力を抜くと、熱い舌がぬるりとこちらに入ってきた。快と不快が奇妙に混じった感覚がぞわりと背骨を伝い昇る。  キス自体久しぶりで刺激が強かった。歯列を撫でられて背中が粟立ち、唇を柔らかく()まれて脳が溶けるような快さを感じる。かと思えば、ぴちゃぴちゃと音を立てて、ねっとりと舌同士が絡む。年下であろう青年の上手さに若干おののきながら、負けじとキスに応えていると、息もつかせぬようなテクニックの応酬に目の前がくらくらしてきた。  その間も入谷の手は止むことがなく、こちらのいいところを的確に攻めてくる。上も下もどろどろにされていた。物理的にも、精神的にも。  頭が霞がかってきたところで入谷の唇が離れ、焦点が合わないほどの距離で見つめ合う。入谷の怜悧な頬もほんのり紅潮していて、艶やかな瞳の表面に、俺の顔が映っていた。  橘さん、と吐息混じりに呼ばれれば、腹の奥がずくりと脈打つ。 「あなたのこと、もっと知りたいです」 「なん、で」 「好きだから」  好きって、なんだ。その真意を問う前に、入谷は俺の首筋に吸いついてきた。ちゅ、ちゅ、と(ついば)むように口づけを落とされる。それが何とも愛おしげな様子で、まるで恋人にするものみたいで混乱が余計深まってしまう。それでも体は正直で、彼が触れたところから熱が広がっていくように思われた。  考えを巡らす余裕など俺にあるはずもない。ただただ快感を享受させられ、それが体内にとぷとぷと満ちていって、早く放たないと頭も体もぐずぐずに崩れてしまいそう。  やがて、体の芯の方から何かがせり上がってくる感覚があり、体の輪郭が溶けそうなくらい、いよいよ悦楽がのぼりつめていく。 「ぁ、もう……っ」 「出していいですよ」  言葉尻を待たず、俺は入谷の掌に盛大に白濁を散らした。椅子の上で()け反り、背骨が背もたれに強く押しつけられ、足先までがびくんびくんと大きく震える。射精する瞬間が信じられないほど気持ちよくて、手で口を覆って声と吐息をなんとか抑えた。  赤熱していた快感の波が、一転して急速に引いていく。脱力する身体とは裏腹に、脳は目覚めるように冷静さを取り戻し、今度は後ろめたさに溺れそうになる。 「たくさん出ましたね」と掌を見下ろしながら言う入谷の声は淡々としていた。まるで実験結果を確かめる科学者のような口ぶりだ。  ティッシュで手を拭う入谷を眺めながら、俺はまた逃げ出したい衝動に駆られていた。ああ、またやってしまった、という自責の気持ち。年甲斐もなく流されてしまった、という気恥ずかしさ。胸の内側がずっしりと重たくなり、後悔に苛まれる。  入谷が俺の股間をも拭き取ろうとするので、さすがに固辞して萎えた自分自身を拭う。その間も、青年は透徹した瞳で俺を見下ろしていた。三十路を過ぎた男のへたったモノなど、見ていて愉快な気分にはならないと思うのだが。誰かに見られながら後処理をすることほど惨めなものはなかった。  その後、尻尾を丸めた犬のように帰り支度に取りかかろうとするも、「少しお話ししていきませんか。色々訊きたいことがおありかと思いますので」という入谷の声に引き留められる。  話? 一体何を話そうというのだろう。この空気で顔を合わせる自体気まずくないのか。俺は非常に気まずい。  入谷はこちらの困惑にも頓着せずに、てきぱきとカップとポットの用意をし始めた。さっきまで濃厚すぎるキスをしていたのが嘘だったみたいに。 「今お茶を淹れますね。お茶請けがないので、申し訳ないですが橘さんがお持ちになったものを開けさせて頂きます」 「はい……何でも……」  まだぼんやりとしたまま、青年の様子を窺う。  和洋折衷らしい、取っ手のない二脚のカップに注がれたのは焙じ茶だった。香ばしい匂いが鼻腔を優しくくすぐる。もしかしたら彼は意外に渋い趣味なのかもしれない。俺が持参した甘くない塩味のクッキーと相まって休憩時間のような雰囲気になり、いくらか場が和やかになる。  お茶に口をつけ、互いに人心地ついた頃、誘ったくせに何も言葉を発しない入谷に痺れを切らし、こちらから話を切り出した。 「あの……好きって、言いましたよね」 「申し上げました」 「あれって、どういう意味ですか」 「どういう、と言われましても」  入谷が持ち上げていたカップを下ろす。ことり、という音がいやに大きく響いた。 「そのままの意味です」 「いや、だって……初めて会ったのが2日前ですよ、俺たち。顔を合わせるのも2回目だし」 「好意に時間や回数は関係ありません。一目見て、あなたのことを好みだと思いました。俗に言う、一目惚れというものでしょう」  青年の目は恐ろしいほどにぶれがない。あまりの事態に、俺は二の句が継げなくなってしまう。  好みという単語に、俺が知らない意味があるのだろうか。万が一にもその可能性はないが、そう考えてしまうくらいには現実逃避したくなる言い分だ。  俺が、この美形男性の好み。訳が分からない。はぐらかされたわけでもなさそうだ。 「えーとそれは、冗談ではなくて?」 「もちろん、真面目に言っていますよ」 「うーん、でもそんなことありますかね? 俺が入谷さんに、ならまだ分かりますけど。顔の偏差値的に」 「僕が一目惚れしたと言っているのに、可笑(おか)しい方ですね」  入谷は蕾がほころぶように、ふふっと笑みを漏らす。その雪解けに似た微笑には、人目を惹き付ける強い力があった。 「あなたはご自分の魅力にまだ気づいていないようですね。きっとご自身で思っているよりも、実際はもっと魅力的なのに」  万人の目を釘付けにできそうな微笑をたたえながら、入谷はそんなことを言う。これも冗談ではないらしい。自分の魅力。それは蜃気楼のように茫漠とした言葉だった。  仕事柄、己を客観的に分析することには慣れている。外見だと上背はそこそこあるものの、目鼻立ちは十人並みだし、特別劣った部分こそないにしても、一目惚れされるようなタイプじゃ決してない。  営業職だから身なりにそれなりに気を遣ったり、取引相手の話題についていけるように広く浅く知識を身につけてはいるが、そもそもの話、他人への興味が薄い人間なのだ。そんな自分に一目惚れ? 何かの間違いとしか思えない。  2日前のも、さっきのも、おかしな性癖の男を懲らしめてやろうという算段なのでは、と疑ってもいたのだが、その線は捨てて良さそうだ。加えて、俺の勘違いかもしれないが――――入谷は感情を表に出すのがただ不得意なだけ、という説すら浮上してきた。

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