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2話-4 セカンド・コンタクト

 考えこむ俺を見つめながら、入谷は茶を一口啜る。 「同性に好きだと言われた割には、落ち着いていらっしゃいますね」 「いや、まあ……その前に色々ありすぎて、頭がぐちゃぐちゃというか、それどころじゃないというか」 「確かに、少々苛めすぎたかもしれません」 「いじ……」 「男に体を触られて、嫌ではありませんでしたか」  入谷がまっすぐこちらを注視してくる。  え、と気の抜けた声が出た。今さらそれを訊くのか、という心持ちでもあったし、そういえば自分も気にしていなかったな、と言及されて思い当たったからだ。  言葉を選びながら問いに答える。 「嫌では、なかったです。自分でも不思議なんですが、意識の外にあったというか……。入谷さんのこと、美人だなと思ってはいましたが、男性だということは……そうですね、忘れてました」  入谷の目が丸くなる。無表情のときは冷たく近寄りがたい雰囲気なのに、心の動きが自然に表れたときは、それがだいぶ薄れてやや幼い印象になる。そして、俺はそういう表情の方が好きだ、と思う。好きというのは、好ましいという意味で。  あなたは変わっている、と入谷は独り言を呟いた。 「そう言う入谷さんこそ、嫌じゃないんですか? ご自分の写真で、男に興奮されるのって。あんなに綺麗な写真なのに――」 「いいえ。むしろ興味深いですよ。僕はそういうつもりで撮ってはいませんが、あなたと同じような反応をした人が、これまでに数人いらっしゃいましたし」  そういえば、2日前にそんな話を聞いた覚えがある。ということは、その人たちとも俺と同じような行為をしてきたのだろうか――。  名も顔も知らぬ人の前に(ひざまず)き、淫らに口元を動かす入谷の姿。誰かと深く濃いキスを交わし、ほのかに頬を赤らめ、相手の下半身に伸ばした手を上下に動かす青年写真家。  その幻の光景に下半身が熱を持ちかけ、慌てて妄想を取り消す。 「それじゃあ、今日とかこの前みたいなこと……他の人にもしているんですか」 「いいえ。誰彼構わずしているわけではもちろん、ありません。あなたが初めてですよ」  入谷は机に身を乗り出して、内心どこかほっとしている俺を、組んだ両手越しにじっと見据えた。 「自分の好みの人が僕の写真を見て感じて、辛そうにしている。そんなところを見たら、たまらなくなってしまいます。僕がなんとかしてあげなくては、と」  静かな夜のような入谷の瞳には今、青白く(くすぶ)る情欲の光が灯っている。その瞳を見るとなぜか冷静ではいられなくなって、心臓がどくどくと高鳴り始めた。緊張が高まって唾を飲み込めば、相手に覚られるくらいの音量で喉がごくりと鳴ってしまう。  入谷は不意に机に両手をつき、上半身を腕に預け、こちらに顔を寄せた。ちゅっと軽い音とともに口の端にキスが降ってくる。不意打ちにかあっと頬が熱くなる。 「な、何を」 「ふふ。そんなに身構えなくても、取って食べたりしないですよ」  さっきまで食っていたに等しいのはどの口か。そんなオヤジくさい反論は喉元で飲み込む。  こちらの動揺を察してか、入谷の両目にいたずらっぽい色が混じるのを、俺は見逃さなかった。 「橘さん、お煙草を吸われるんですよね」 「え? ええ、まあ」  入谷の前では吸っていないのに、どうしてそのことを。尋ね返す前に、彼は声のトーンを落として続けた。いたって真面目な顔で。 「先ほどキスした時に苦かったので分かりました。意外ですね、そんな可愛い顔をしてらっしゃるのに。人は見かけによらないですね」 「え、かわ……?」  冷や汗だか何だか分からない汗が噴き出してくる。大胆な台詞の合間に流れで可愛いと言われた気がするが、たぶん空耳だろう。それか、彼は視力が低いのだ。単に乱心という可能性もある。 「見かけによらないと言えば、あちらの方もご立派でしたし。剥いてみないと分からないこともありますね」 「むっ……」  畳み掛けられた言葉が追い打ちで顔に熱を持たせ、居たたまれなくさせる。あちらってどちらだ、と瞬時に(とぼ)けられるほど器用でもない。この熱さは興奮によってではなく、羞恥によるものだ。なぜこの人は真顔で口にできるんだ?  真っ赤になっているであろう顔を両手でぱたぱたと煽る。それを見られるのも嫌で体ごと入谷から(そむ)けた。  写真家の青年は、初めて声を立てて笑った。からりとした、邪気のない笑い声だ。 「おや失礼、褒めたつもりだったのですが」 「褒め……知りませんよ、比べたことないですし……!」 「そうでしたか。こういった話題は恥ずかしい?」 「そりゃそうですよ……! 入谷さんも見かけによらないですね。下ネタ苦手そうに見えるのに」 「下ネタが苦手なら初対面の方のモノを口に咥えたりしません」  それはそうだろうが。わざわざ真顔で正確に言い返してくるあたり、ふざけているのか真面目なのか解釈に困る。けれど、先日にはほとんど感じなかった人間味の一端を、今日はわずかばかり目の当たりにしたように思う。  俺が恨みがましく横目でじっとり睨む先で、入谷の唇がほんのり弧を描く。 「僕は冗談も好きなので。そういうことにも、これから慣れて下さればいいですよ」  これから? これからがあるのか、俺たちの関係に。  入谷の中ではもう二人の展望がはっきり見えているらしい。彼は少々強引なのかもしれない。そう、見かけによらず。  思わず苦笑いすると、今度は入谷がなぜか顔を逸らした。 「やっと笑ってくれた」とぼそりと言ったのが聞こえた気がしたが、たぶんそれも聞き間違いだろう。そうに違いない。  再びこちらを向いた入谷の顔からは、もう感情の発露は読み取れなかった。彼はおほんと空咳をひとつして、居ずまいを正す。それに合わせ、俺も背筋を伸ばした。 「ところであなたにひとつ、ご相談がありまして。仕事についてなのですが」 「伺いましょう」  何かと思えば真面目な話らしい。脳が営業用に切り替わるのを感じる。年下の青年に翻弄されていた自分と、ビジネス向けの仮面を被った自分は、我ながら乖離(かいり)して感じられた。 「ちょうどこれから新しいチャレンジをしようと思っていたのですが、そのために入り用の薬品があるのです。何かの縁だと思いますし、それをあなたのところで扱っているか教えて下さい。薬品名を後ほど仕事用のメールアドレスに送信するので、そちらを確認した上で、一度僕のオフィスに来て頂けませんか。商談という形で」  うんうんと頷きながら話を聞く。願ってもない至極まっとうな依頼だった。向こうから持ち込まれることなど皆無と言っていいうちの業界で、新規の客先が増える絶好の機会。降って湧いた商機とあれば、俄然腹の底から意欲が漲ってくる。 「商談ですか。そういうことでしたら、ぜひお伺いさせて頂きます。よろしくお願いします」 「こちらこそ」  ぺこりとスマートに頭を下げたあと、入谷は感心したように言う。 「橘さんて、仕事の話になると雰囲気が変わりますね。きっと仕事中は優秀なんでしょう」 「仕事中、はって……ひどくないですか」 「冗談ですよ」  (なだ)めるような笑顔を見て、弾むように鼓動が跳ねる。そういう表情はやはり、幼く見えた。  通算2回目の別れ際、ギャラリーの逆光で影になった入谷と向かい合う。 「それでは、またご連絡しますね。柾之(まさゆき)さん」 「お待ちしています」  今夜ここへ来たとき、まさか仕事の依頼をされるなんて夢にも思わなかった。行きとは比べものにならないくらい、帰りの足取りは軽い。入谷の思う壺だった気もするけれど、気分は悪くなかった。今夜は帰って一人酒でも飲もうか。  そういえばさっき名前で呼ばれたな、と時間差で自覚したのは、車のハンドルを握ってからのことだった。

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