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3話-1 ビジネス・トーク

 大きなベッド、真っ白いシーツ。その上に、シャツをはだけさせた青年が横たわっている。入谷紫音(いりやしおん)だ――彼の眉からは力が抜け、双眸はとろんと蕩けており、視線だけがいやに熱っぽくこちらに注がれていた。ベッドの端から先は塗り込めたような暗がりに沈んでいて、ここがどこなのか考える余地もない。  けれど、そんなことはどうだっていい。今俺が感じるべきなのは、こちらを誘うような、心をざわつかせる彼の眼差しだけだ。  闇夜に燃える火に飛び込む蛾のごとく、彼の白い肌に強烈に惹きつけられた。彼の承諾を待たず、性急にほっそりした脚を抱え上げる。掌にひやりとした感覚が広がるのは、相手の肌が冷えているからか、俺の手が熱を持っているからか。入谷の顔以外の肌の部分――体や脚など――をよく見ようとするのだけれど、なんだかぼやけていてはっきりしないのがもどかしい。  柾之(まさゆき)さん、と相手が俺の名を呼ぶ。吐息混じりの、聞いたこともない甘い声。そのねだるような響きに煽られ、男にしては細い腰を鷲掴みにする。彼の体で一番無防備な部分へ、無我夢中で腰を進めると、敏感になった切っ先が熱くて狭いところに迎えられた。  自分の呼吸が荒い。なんて気持ちがいいんだろう。欲望のままにずんと奥まで突くと、下にある体が耐えきれないと言わんばかり身を悶えさせ、握りしめた拳によってシーツに(ひだ)ができる。 「んん、おっきい……」  薄い唇から吐息混じりに漏れる切なげな呟き。それから何分と持たず、俺は(こら)えられずに青年の中で達した。  カーテンの隙間から陽の光が射し込んでいる。暴力的なまでの明るさだった。  今の光景と感覚はもちろん全部、夢だ。俺は彼の肌を見たことがないし、だからこそ服の奥の像がぼやけていたのだろうし、あんな甘い声も聞いたことがない。夢の中でもうっすら気づいていたことだ。なんという不埒な夢を見ているんだ、俺は。どろりとした自己嫌悪が心臓の周りにまとわりつく。  身を起こそうとしたところで、下半身の違和感に気づいた。それは身に染みついた、慣れ親しんだと言ってもよい感覚だ。確認しなくたって分かる。 「嘘だろ……この歳で夢精するのかよ……」  頭を抱えるとはこのことだ。久しく忘れていた下着の不快感に、思わずため息が出た。二回しか会ったことのない、名前くらいしか知らない青年とセックスする夢を見て、思春期のように夢精までする。本当にどうかしてる。  入谷と知り合う前の自分に言って聞かせたら、鼻で笑われることだろう。冗談きついよ、お前はそんな人間じゃない、って。  鬱々としたままスマホを見る。平日の起床時刻とほぼ同じ、朝7時過ぎ。土曜なのであと1時間ほど寝ておきたいが、下着がこんな状態では二度寝するわけにもいかない。  着替えるためにベッドから抜け出て、そのまま朝食を摂ることにした。  朝のメニューは平日も休日も基本変えることがない。バタートースト2枚に、メーカーで淹れたコーヒー、ヨーグルト、バナナ1本。手がかからなくて済む、何年も食べ続けている朝食のメニューだ。飽きないのかと問われることもあるが、毎朝同じものを体に入れると生活リズムが整う気がするし、一人で食べるなら慣れていて手軽なものが一番だ。  テレビをBGM代わりに眺めつつ、特に何を思うでもなく食事を終える。腹が満たされて歯磨きを済ませると、後ろめたい気分は和らぎ、代わりに思考に浮上してくるのは入谷の幻の肢体だった。夢とどこかで自覚しながらも、俺は自分の意思で彼を抱いた。それって、つまり――。  ごくりと生唾を飲みながら、寝室のドアにちらと視線をやる。今二度寝したらもしかすると、あの続きが見られるのではないか?  それにほら、コーヒーを飲んでから仮眠をとるのは良いと聞くし……と自分に言い訳をしながら、俺はまたいそいそとベッドに潜り込んだ。  結果として、それは失策だった。  油絵の具を何重にも重ねたような、(ねば)ついた暗闇が広がっている。  闇の中、呆然と突っ立っている自分の姿を、俺はやや上方から別の視点で眺めている。己の分身の前には二人の女性が憤然とした様子で仁王立ちしていて、誰かがスポットライトを当てているかのように、三人の全身はぼんやりと明るかった。女性たちは俺に向かって次々と言葉を放り投げている。投げつけているといった方が正しいか。非難、疑問、悲しみ、怒り、やるせなさといった強い負の感情が甲高い声に滲んでいて、傍観しているこちらの頭の中にも、ぐわんぐわんと反響するようだった。  不意に気づく。彼女たちは自分の元カノだ、と。高校時代にひとり、大学時代から社会人になるあいだにひとり、それなりに長く付き合っていた元恋人たち。二人が揃って(まなじり)を吊り上げ、棒立ちの分身に詰め寄る。 「ねえ、私たち付き合ってるんだよね?」 「だったらどうしてこんな別々に過ごしてるの?」 「恋人だったら普通もっと一緒にいない?」 「柾之くんは私のこと大事にしてくれないよね」 「特別じゃないんでしょ」 「あなたが何を考えてるのか、全然分からない」 「本当に好きなの、私のこと」 「柾之くんのこと、信じられないんだって」 「普通は」「どうして」「普通だったら」「なんで」「普通なら」「いつもそう」 「あなたの人生に、私は必要ないみたいだから」 「さよなら」「さよなら」  二人は矢継ぎ早に言葉をぶつけて去っていく。まるで機関銃で撃たれたかのように感じられた。全て、聞き覚えのある台詞。交際相手さえ特別扱いできない男に業を煮やして、俺の元から去っていった彼女たち。  眼下の俺は何も答えない。  忘れたふりをしていた。そうだ、俺は――。  30分前に設定しておいたアラームが鳴っている。  全身に、じっとりとした脂汗(あぶらあせ)をかいていた。彼女のことなんて、久しぶりに思い出した。どうして、こんなタイミングで。  いや、本当は分かっているのだ。入谷紫音の一件があったからに違いなく、彼女らは釘を刺しに夢の中に現れたのかもしれない。お前は――俺は、特定の誰かを特別に大事にすることができない人間なのだ、と。  今まで、請われるままに交際してきたけれど、恋人という存在が最後までよく理解できなかった。愛情はあったと思う。しかし、相手との如何(いかん)ともしがたい愛情の量の差が、結局は破局を招いた。親きょうだいに対しても、結局は他人だという気持ちを小さい頃から持っていたから、つまるところ俺は冷たい人間なのだと思う。  だから。だからこそ。  入谷紫音に対して湧き出るこの気持ちは何だ。文字通り寝ても覚めても彼のことを考えてしまう、この感情が一体何物なのか、俺は齢31にして戸惑っている。  昔の嫌な思い出が頭の中をぐるぐると廻り続けている。昼前から出かけるつもりだったのに、完全に気力が萎えてしまっていた。  今日はもう、自堕落に過ごそう。投げやり気味に決意する。どうせ、自分の裁量で何とでもなる予定しか入れていない。冷房の効いた部屋でソファに寝そべりながら、毒にも薬にもならないテレビ番組を観たり、クラゲが餌を食べるところをぼんやり眺めたりしながら、土曜日は極めて怠惰な時間を過ごした。

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