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3話-2 ビジネス・トーク
入谷の仕事場に行く期日が巡ってきた。
彼が構える個人オフィスには、午後から向かう予定である。俺の中には軽い緊張と幾ばくかの高揚感があった。昼休みに入り、ネクタイを少しだけ緩める。
二回目のギャラリーでの接触のあと、彼からメールで送られてきた指定の薬品は聞いたことのない製品だった。写真の現像に使うという説明以上のものはなく、芸術方面に疎い俺が耳にしたことがないのも当然ではあった。うちの会社で扱える薬品のリストに入ってはいるものの、納入実績はゼロ。平穏な日常をわずかに乱すくらいの波は立つな、と思った。
彼のオフィスを客先にすることは事前に課長の承認を得ているが、見積書を上司に提出した際、懸念通り一悶着(と言うほどでもないが)あったことを思い出す。
担当客先の中でもかなり小口の部類。主な取引先である大学の研究室や、分析会社とはまるで異なる新規の客先。扱ったことのない商品。大歓迎されるわけもない。営業一課の課長のデスクに直接呼ばれたときにも、やっぱりな、としか思わなかった。用件なら予想できていたからだ。
課長は不機嫌でも当惑しているわけでもなく、ただ純粋に見積書に疑問を抱いているようだった。
「新規客先の見積書の件でしょうか」何か言われる前に自分から切り出す。
「ああ、呼ばれた理由が分かってるなら話が早いな。聞いたことない薬品名だったけど、何に使う薬品かな、これ?」
「写真の現像に使う液をセットにしたものです。課長が仰る通り、過去に販売実績はありません」
「写真? 写真ねえ……これ、うちから納入する必要性はあるのかな」
課長はPCの画面を見つめている。そこに俺が提出した見積書が表示されているのだろう。入谷が指定してきた薬品は別に個人でも購入はできる。自意識過剰かもしれないが、フロアの近くにいる社員たちが聞き耳を立てている気配がした。知らず、手汗が滲む拳を握りしめる。
「その点は先方のご希望ですので、採算が合えば問題はないかと思われます。今回の納品数は少ないですが、今後数量は増えていく予定です。継続しての契約も見込めます」
「ふむ」
「今回の客先にとどまらず、いずれ印刷物を扱う他の客先へと、これをきっかけに販路を拡大していくこともできるかと」
後半は思ってもいない希望的観測だ。ぎりぎり、虚言にはならない程度の。課長は俺に視線を戻して表情をやわらげる。
「まあ、毎月の売上ノルマはいつも達成してくれているからね。何か問題があるわけではないし。じゃあ、このまま進めて下さい」
「ありがとうございます」
努めて冷静に頭を下げたが、心の中では大きくガッツポーズをしていた。
そんなこともあって、無事に薬品が手元に届き、この日を迎えられたことに俺はひとまず安堵していた。
オフィスの皆が社食を食べに引き払ったタイミングを見計らい、グループ企業用のメーラーを立ち上げる。入谷から貰ったメールを開き、そこに記されていたホームページのURLをクリックした。小綺麗に整えられたトップページが現れる。
そこには当然と言うべきか、彼が撮った写真があしらわれていた。仕事場で息を乱すわけにはいかないので、それらをあまり見ないようにしながら目的のリンクを探す。自分が今見たいのは入谷のプロフィールだった。
俺は、入谷紫音についてほとんど何も知らない。二度もあんなことをしたにもかかわらず、だ。
目的のリンクの先には、彼が辿ってきた足跡が簡潔に列挙されている。どこにも顔写真はない。あれだけ綺麗な顔ならメディアが放っておかないのに、と思ったところでその浅はかな考えを打ち消す。だからこそ、入谷は顔を公開していないのだろう。写真家より作品に目を向けてほしい。そんな無言のメッセージが、ページのそこここから聞こえてくるではないか。
入谷のプロフィールを頭に入れておく。生まれ年(自分より二学年下だ)、出身地、経歴。幼少の頃からカメラに親しみ、俺でも知っている有名な美大を卒業後、ヨーロッパでの大きなコンテストで受賞、逆輸入的に日本でも知名度が上がりつつあるようだ。名の通った写真家のアシスタントを経て、個人オフィスを立ち上げたのが二年前。絵に描いたような順風満帆の人生である。
そんなにすごい人だったのか……と圧倒され、感慨深くコンビニで買った弁当の容器に手を伸ばしたとき。
「いりやしおん」
「うわっ」
すぐ後ろから声がして、てっきり無人だと思いこんでいた俺は椅子の上で数センチ飛び上がる。反射的に振り返ると、後輩の常葉 がいつの間にか背後に立っていた。長身を屈 めて俺の肩越しにPC画面を覗きこんでいる。かなりの顔の近さに胆 が冷えた。
「びっくりしたなあ……どうかした?」
「橘さんこそ、昼休みに写真家なんて調べてどうしたんですか」
芸術なんて興味ない人なのに、という言外の台詞が聞こえるのは被害妄想が過ぎるだろうか。背筋を伸ばした常葉は無表情でこちらを見下ろしている。いつものことだが、感情がまるで読めない。
「ああ、今日これから仕事で会うんだよ。新しい客先の人で」
「ふうん。そんなに美人なんですか」
淡々と尋ねてくる声に、思わずえっと返してしまう。なぜ常葉が、美人かなんて訊くんだ? 入谷の繊細な顔立ちが脳裏を過 って、動揺に心臓が落ち着きをなくす。
美人かと問われたら、確かに彼は美人だ。
そこに立つ後輩は、見間違えでなければ少しだけばつが悪そうな顔をした。
「いや、橘さんが楽しみそうな顔してたんで、よほどの人なのかと思って」
「あー……まあ」
非常に居心地が悪い。そんなに顔に出ていたのか? そもそも、俺は入谷に会うのが楽しみなのだろうか。分からない。心をなんとか平静に保ち、誤魔化し笑いを常葉に向ける。
「いや、そうかも……しれない、かな」
煮え切らない返事に、ふうん、と気のない相槌を打った後輩は、それきり入谷への興味を失ったようだった。表情を一ミリも変えないまま、片手に提げていたコンビニの袋を胸のあたりに掲げる。
「ところで、橘さんも弁当なら一緒に食べません?」
後輩の誘いに否やはない。
無人のミーティングルームに連れ立って歩く道すがら、常葉と雑談を交わす。自分より背の高い後輩と並びながら、俺も普段の調子を取り戻していた。
「社食でも外で食べるのでもないなんて珍しいね。今日は何かあったの?」
「あー俺、週に一度は社内で一人で食ってんスよ。騒がしいのがどうにも苦手なんで」
そうなのか、知らなかった。理由が彼らしくて、思わずほほえんでしまう。
会社内で昼食を二人きりで食べるなんて不思議な気分だった。ハンバーグ定食風の弁当と、お湯を注ぐタイプのスープを長机に並べている俺に対し、常葉が袋から取り出したのはサンドイッチと、おにぎり二個、スポーツドリンク。若者の昼食としては心許ない要素が多く、少々心配になってくるラインナップだった。
プライベートに立ち入るようだけど、と断ってから、
「常葉くん、普段からちゃんと食べてる? ちょっと栄養バランスが気になって」
「大丈夫スよ。けっこうそういうのは気にしてますから」
「ああ、そうなの?」
「ええ。こう見えて俺、家で飲んでるのは大概野菜ジュースなんで」
それだけだと駄目なんじゃ? と咄嗟には返せなかった。真顔で繰り出されたそれが冗談なのかどうか、一瞬迷ったからだ。
しかし――もつもつとサンドイッチを咀嚼し終え、おにぎりの包装を剥こうとする彼の動向を見るに、どうも真面目な発言だったらしい。
クールで効率のよい生活を送っていそうな常葉の意外な言動に、俺は笑うこともできなかった。せめて今度、野菜食べ放題のしゃぶしゃぶにでも連れていってあげようと心に決めた。
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