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3話-3 ビジネス・トーク

 午後、二つの客先を回ってから一旦帰社し、必要な持ち物を確認して入谷紫音のオフィスへ向かう。  彼のオフィスは住宅街の一角にあった。外観は白っぽい箱に似て、それと知らなければ洒落(しゃれ)た個人邸宅にも見える。入谷と知り合う前の自分であれば事務所のプレートにも気づかずに見落としていただろう。  一階部分はガレージ、三階がオフィスで、二階部分は彼の住居になっているらしい。今日は荷物が鞄と手に持てる薬品のケースだけなので電車で来たが、次回からはガレージを使わせてもらう必要がありそうだ。  夕刻と言えど陽はまだ高く、気温も湿度も衰える気配がない。暑さで吹き出た汗をハンカチで拭う。外階段から三階へ向かい、対応に出てくれた女性に案内されて入谷の城へ足を踏み入れる。空調の効いた空気が頬に心地好かった。外観から想像したより、内部は小ぢんまりして見える。奥に見えるドアが開いて出てきた人影は、果たして入谷紫音その人だった。  会うのは三回目だというのに、朝露(あさつゆ)に濡れて咲き()める花を目にするような、はっとする新鮮な美しさを彼は纏っている。ブラウンのベストとスラックスを身につけているという、それだけの理由だけではないはずだ。  俺を視界に収め、入谷はほくろのある目元を緩ませた。 「お待ちしておりました、橘さん。こちらはうちの事務員の須藤さんです」 「須藤です」と俺と同年代か、少し上くらいの女性が会釈する。 「あと一人アルバイトの子がいるんですが、今日は早めに帰ってもらっています。このとおり、三人きりの小さなオフィスです」 「そんな、ご謙遜を」  二十代で自分のオフィスを構えているのはどう考えても成功者だ。苦笑してしまうが、入谷が言うと嫌味に聞こえないのが不思議である。それに、自分より遥かに成功している同世代を羨ましいと思う地平など、とうに通り過ぎてもいる。  その後アンティーク風の衝立(ついたて)で区切られた、革張りのソファが(しつら)えられた場所に通された。商談スペースなのだろう。さっそく、入谷に指定された薬品を取り出す。数種類の液体のボトルがひとまとめになったものだが、俺は内容物についてあまり理解していなかった。 「ご希望のものはこちらでよろしいでしょうか」 「ええ、これです」相手はボトルのひとつを手に取り、嬉しそうにラベルを見やる。俺はどうしても、ひとつの懸念を口にせずにはいられなかった。 「不躾(ぶしつけ)な言い方になってしまいますが、こちらを弊社から納入する必要性をお聞かせ願えませんか。個人事業主の方でも注文には支障がないはずです。弊社としては問題ありませんが、入谷さんにとっては二度手間なのでは……」 「必要性? それは自明だと思いますが」  若き写真家はほんのりと笑う。そう言われても困惑するばかりだ。押し黙る俺を見かねたか、入谷は声をひそめて囁いた。 「あなたの会社に頼めば、必ずやあなたが担当者になる。僕はあなたに定期的にお会いできる。理由ならそれで十分でしょう」 「会える……って」まるで彼が俺に会いたがっているような言い方だ。会ってどうするというのか。顔がちりちりと熱くなる。 「変な意味ではありませんよ。僕の写真について、少し意見を頂けたら嬉しいなと思っているのです。もちろん、橘さんが良ければ、ですが」 「相談役ということですか? 私に……その役が務まりますか?」  余計困惑が深まり、入谷の深々とした色の瞳を見返す。自分は芸術のセンスもなければ写真の技術も分からない。相談に乗れと言うなら断る理由もないが、入谷のために何かできるとは思えなかった。  目の前にある顔が、にいと笑みを深くする。 「僕の写真を見てあんな風になる方ですよ。他に適任がいますか?」 「……っ」  今度は全身がじわっと火照った。会話が須藤さんに聞こえているのではないか、と衝立の向こうを窺ってしまう。  同時に、脳の冷静な部分が告げてくる。俺は、お(あつら)え向きだというわけだ。薬品の(おろし)の営業で、変態性という弱みがあり、勢いに流されやすい性格でもある。利用価値は文句なしだ。入谷が「好きだ」と言ったのも、もしかしたらその価値を見込んでのことかもしれない。それでも、俺の仕事は変わらないが。 「……入谷さんのご希望であれば、ご相談もお受けします。私で宜しければ」 「僕はあなたがいいんです」  聞きようによっては熱烈な台詞を、入谷は涼しい顔で口にする。このままでは雰囲気に呑まれっぱなしだ。おほん、と俺は咳払いをする。 「以前、新しいチャレンジ、と仰っていましたよね。本日お持ちしたものが関係しているのでしょうか」 「覚えていて下さったんですね。そうですよ」入谷は口元をほころばせる。 「橘さんがご覧になった写真はすべてモノクロでしたでしょう? 注文した試薬はカラープリントの現像に使うものでしてね。カラー写真にもチャレンジしようかと思案していたところ、頃合いよくあなたに出会ったわけです」 「カラープリントの現像、ですか」  説明してもらってもあまりぴんと来なかった。俺にとって写真とはスマートフォンで撮ったり、せいぜいがデジカメで撮ってプリンタで印刷したりするものでしかなく、それ以上の想像がうまくできない。現像と聞くと、暗い部屋で(なにがし)かの作業をするイメージがあるが、それがどこまで正しいのか。  入谷は小さく頷くと、おもむろに立ち上がった。 「一度実際の作業場を見てもらった方が分かりやすいかもしれませんね。良かったら説明させて下さい。こちらへどうぞ」  入谷が導いていく先はさっき彼が出てきた部屋で、そのドアを開けながら彼は「現象室です」と言い添えた。  扉をくぐるとすぐ暗幕が垂らしてあり、区切られた空間は六畳ほどの薄暗い部屋だった。テーブルの上に見たことのない器具が並べられている。酢のような匂いがつんと鼻腔を突く。  それらよりずっと印象的なのは照明であろう。室内の様子をぼんやりと浮かび上がらせる弱い光源は、そのいずれもが暗い赤い色をしていた。様々な機械や道具を朧気(おぼろげ)に照らすそれが、自分にはいかがわしい雰囲気に感じられ、落ち着かずそわそわしてしまう。  ドアと暗幕が閉められた。ここには、俺と入谷しかいない。  相手が説明を始める。まるで洞窟内で話しているみたいに、その響きはどこか非現実的だった。 「現像作業をするとき、モノクロプリントではこのように赤い光の(もと)で行います。ですが、カラープリントではほとんど暗黒状態にして作業を進める必要があるのです。カラーの現像が難しい要因はいくつかあるのですが、それも理由のひとつですね」 「なるほど……」 「ちょっとライトを消してみますね」  入谷がいくつかあるライトを操作していくと、室内はやがて完全な闇に包まれた。誇張ではなく本当に何も見えない。目が慣れてきても見えてくるものはなく、距離感が消失したように感じた。  不意に、現像室が何倍にも拡張したかのような、同時に部屋の壁がすぐそこまで迫っているような妙な感覚に陥り、急速に不安が募ってくる。それは初めて味わう知覚状態だった。 「あの、入谷さ……」 「いかがです。僕がどこにいるのか、お分かりですか」  声はすぐ傍から聞こえる。吐息混じりの艶やかな声が。  一秒ごとに緊張を増す体が、入谷の気配を、息遣いを、体温までをも敏感に感じとる。きっと彼は暗闇の中でこちらをじっと見つめている。そこまで伝わってくると思うのは――俺の錯覚だろうか。  写真家は含み笑いを漏らしたようだった。 「暗闇だと、視覚以外の感覚が鋭敏になりますよね」  そう言ったが早いか。  入谷の手が正確に俺の左手を捕らえた。突然の物理的接触に、全身がびくりと反応してしまう。ひんやりした、そして吸い付くような彼の指が、掌に生き物めいた動きで絡みついた。俺の指の(あいだ)をくすぐり、弄んだ細く長い五指はやがて、つつつ、と手首を辿ってもっと上へと伝いのぼっていく。  アルコールを飲んだときのように、体の内部がかっと熱くなっていた。反対に、肌の表面は敏感に刺激を感じとり、ぞわぞわと粟立ってしまっている。自分の方が年上なのに、これでは翻弄されるばかりだ。  なんだか良い匂いがして、くらくらする。――香水だろうか。  これ以上はまずい、暗幕とドアの向こうに人がいるのに、どうにかなってしまう。入谷の手を振り払う決心をした俺をからかうように、腕を這っていた指は離れていった。  ふっと息をついたのと、赤色ライトが灯されたのがほぼ同時だった。先刻よりも妖しさを増して感じられる光に照らされながら、入谷は妖艶とも言える微笑を浮かべていた。 「おや橘さん、いかがされました。少々お顔が赤いのでは?」 「……きっと、ライトのせいですよ」  意地の悪い質問に返すその台詞は、相手には負け惜しみめいて聞こえたに違いない。

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