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3話-4 ビジネス・トーク

 脱力感を覚えながら、応接スペースに戻る。須藤さんが持ってきたのだろう、席にアイスコーヒーが置いてあった。  ソファに腰を下ろすと、暗闇での出来事など嘘だったみたいに、入谷が平然と「いかがでしたか。現像室は」と尋ねてきた。まるで映画の感想を訊くような、気軽な調子で。  俺も頭を切り換えよう。動揺を見せたら何かに負ける気がする。何にかは分からないが。 「そうですね、不安なような、安心するような……何とも言えない感覚でした」 「分かります。自分も考え事をするとき、現像室にこもることがあります。身体感覚がなくなって、思考が宙に浮いているような気持ちになるのです」  俺の感想を受け、入谷は教師のような顔で頷く。  しかし俺が抱いた感情は、そんな穏やかなものだけではないのだ。 「暗闇とは、不思議なものですね。……しかし、現像室で伺ったことは、一般常識なのでしょうか」 「というと?」 「写真の知識も現像室も、自分にとっては初めて耳にして体験するものでした。それでなんだか――急に不安になったんです。自分がとても無知に思えて」  座ったままで膝をぐっと握りしめる。自分の口調は、客先の責任者に対するものではもうなくなっていた。  自分は、人並みに常識は持っていると思っていた。ところが入谷と共にいると、あらゆる物事が新鮮に感じられて、己の空洞の大きさを知らされる思いがする。しかも、31年間その(うろ)の存在に薄々気づきながら、それでもいいかと放置して生きてきたのだ。口にはとても出せないが、羞恥すら感じるほどだった。  青年写真家は表情を変えず、思案げに小首を傾げる。前髪が一房(ひとふさ)、はらりと(ひたい)に落ちる。 「一般常識かどうかは……僕には分かりかねます。けれど世間的には、現像室に入った経験がない人の方が多いのではないでしょうか。それにあなたは不安と仰いますが、僕は知らないのが悪いこととは思いません。知らないと自覚したなら、その時点から知っていけばいい。器を知識で満たすのはいつからでもできますから」  そう言って入谷はこちらを安心させるようにほほえむ。彼の言葉は岩に染みこむ雨水のように、俺の心にすっと入りこんだ。  この青年は、何者なのだろう。まるで俺の言外の気持ちが分かっているかのようだ。  もっと、彼の本質に迫ってみたい。もっと入谷紫音という人間を知りたい。昼に読んだプロフィールのように、無味乾燥なものではなく。それは初めての感情だった。  コーヒーで唇を潤してから入谷が真顔に戻る。 「偉そうに言ってしまいましたが、僕もそんなにたくさんのことを知っているわけではありません。 小さい頃から、写真だけだったもので」 「ああ、入谷さんのホームページでプロフィールを拝見しました。そんなに昔からなんですか」 「ええ。きっかけは小学生になる前だったと思います。僕が写真に興味があると知ると、父がいきなり高価なカメラを僕に買い与えましてね。子供にはあまりに不相応なカメラを」 「お父様が……」 「彼は画家なので、息子が芸術方面の分野に興味を抱くのが嬉しかったのかもしれません。そこからはもう、一本道です」  ほほえましいエピソードが披露されたというのに、俺は少々困惑していた。語られた内容とは裏腹に、入谷の声は真冬の厳しい風くらい冷えきっていたからだ。俺への慈雨に似た温かい励ましとは正反対の、その冷ややかさ。  父親と何か確執があるのかもしれない。  ほのかな予感はあったが、その場では上手い返しを考えることもできず、そのまま流れで事務的な打ち合わせへと移行した。  今後納入する薬品の数量・納品のスケジュールのすり合わせと確認を行い、納品書にサインを貰う。これで今日の必須業務は完了である。ちらりと時計を確認すると、まだ定時にはなっていなかった。 「これから少しお時間ありますか? 良かったら、僕の自宅にもいらっしゃいませんか」  俺の心理を読んだかのような誘いが降ってくる。直帰の予定にしていた俺に、断る理由もなかった。  入谷が住んでいる二階の住居部分へは、オフィス内部から続く階段で降りることができた。二階へのルートは、この三階からの下り階段と、ガレージの奥からの登り階段とのふたつあるらしい。  入谷からの誘いに軽く乗ったものの、彼が普段寝起きしている空間に入るというのは、パーソナルスペースに踏み入る行為だと遅れて気づく。当然、入谷だって常に写真家として生きているわけではない。人間なのだから風呂にだって入るし、寝間着に着替えて睡眠だってとる。オフィスと違い、そこには少なくともいくらかの生活感が漂っているだろう。  そう自覚し始めるとどうにも変な緊張感が拭えない。生唾を飲みこみながら、通されたリビングのソファに腰かける。 「少々お待ち下さい。美味しい栗羊羹をお持ちしますので」 「あ、お構いなく……」  俺の断りに構わず、入谷はリビングを出ていった。  それにしても、栗羊羹とは渋い。やはり彼の趣味なのだろうか。  待つあいだに、部屋を見渡してみる。壁紙は淡いグレーで、八畳ほどのゆったりしたリビングだ。入谷のイメージ通り、部屋中小綺麗に片付けられている。置かれているソファや棚やテーブル類は見るからに質のいいものだし、窓際にいくつか置いてある観葉植物はきちんと手入れされているのが分かる。  しかし最も目につくのはやはり、壁にたくさん飾られている写真だろう。それが入谷のものではないことが俺にはすぐ分かる。画面全体の雰囲気や被写体の選択も判断材料だが、何より自分がじっと見つめていても体に変化がないからだ。我ながらその判別方法はどうかと思うが……。  彼はいつもこの部屋でどう過ごしているのだろう。コンポで好きな音楽を聞いたり、テレビで衛星放送を観たり、ソファに身を横たえてうたた寝したり、植物に優しく水を遣り、満足げな表情をしたりすることもあるだろうか。その横顔はきっと、どんな瞬間でも美しいのだろう。  そこまでぼんやり考えて、いかんいかんこれでは妄想じゃないか、とはっとする。初めて彼女の部屋に来た男子学生じゃないんだから。俺と入谷は、あくまで仕事上の付き合い。それを忘れてはならない。  入谷が栗羊羹と、水出しだという緑茶を持ってきて、勧められるままにそれを口にする。そういえば前にもこんなことがあったっけ。あれは、最初にギャラリーで出会った日のことだった。入谷にされた(または、してもらった)ことを芋蔓式(いもづるしき)にずるずると連想してしまい、無理やり思考を断ち切る。  緑茶を上品に飲みながら、入谷がふと口元を笑ませた。 「橘さん、オフィスではとても他人行儀でしたね。ご自身のことを"私"なんて仰って……少し面白かったですよ」 「それは……他にどうしようもないじゃないですか。他に人もいるのに……」 「あんなことをした仲なのに、今さら?」相手はくつくつと笑う。「それに須藤さんなら、僕の嗜好を理解してくれていますので大丈夫です。彼女は口が堅い人ですよ」  全然大丈夫じゃない。嗜好って何をどこまでですか、とは恐ろしくて訊けなかった。  話題を変えたくて、目だけで周りを見る。やはりここは、写真の話題がいいだろう。 「そういえば、この部屋には入谷さんの写真は飾ってないみたいですね」 「ええ。僕はまだ、自宅に自分の作品を飾るほどナルシストにはなれませんから。ここにあるのは尊敬する写真家の作品です」 「へえ……以前ギャラリーで見ましたけど、写真って10万円くらいなんですよね」 「――高いと思われますか」  すっと目を細める入谷。その声に険が滲んでいて、慌てて言い添える。 「ああいや……むしろ逆で、一般の人でも手が届くくらいの値段なんだなと思いまして。俺も入谷さんの写真、何か買おうかな」 「ふむ。それを毎晩オカズになさるおつもりで?」  真顔で繰り出されたそれに、危うくお茶を吹き出しそうになる。俺はキャッチボールをしていたつもりだったのに、ものすごい勢いでボールを打ち返された気分だった。あまりのことに、含んだお茶を飲み下すまで何秒か()が生まれる。 「……っち、違いますよ! そういうことじゃなくてですね」 「ふふ、冗談です。まあ、僕としてはそうして下さってもいいのですが」表情をやわらげて写真家は言う。少し怒ってみせたのも、どうやら演技だったらしい。「最初から写真の値段を好意的に捉えて下さる方は少ないので、嬉しかったですよ」 「ああ、そうなんですか……」  順調な芸術家人生を歩んでいるように思える入谷だが、彼にも思うところはいくつもあるのだろう。 「写真なんていくらでも複製できるのだから、何万円も対価を求めるのはおかしい、と露骨に口にする人もいますから。現像はけっこう手間がかかるのですけどね。条件によって、同じフィルムを使っても人それぞれ個性が出ますし。カメラも、フィルムも、現像液も、撮影場所への移動費も、もちろん写真の技術だってただじゃない」  淡々と続けられる言葉に、俺は口を挟めない。それらは決して言い訳がましいものではなく、自分の作品に対する矜持(きょうじ)と誇りが伝わってくるものだった。俺は仕事にそのような感情を抱いたことはない。給料や生活のためだけとも言わないが、少なくとも愛と呼べる思い入れは一切ない。  入谷は写真を愛し、また写真に愛されているのだろう。生きて見ている世界が違う。そんな風に感じた。

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