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3話-5 ビジネス・トーク
張り詰めた空気をわざと崩すように、入谷が口調を軽く、明るく変える。
「そうだ。あなたの体が僕の写真のどの要素に反応しているのか、調べたら楽しそうですね。元のフィルムなのか、現像の方法なのか、構図、被写体……カラー写真をご覧になったら何か分かるかも知れませんね」
軽口の形で提案された内容に、しかし俺は笑えなかった。ここで愛想笑いもできないようでは、営業職としては失格だ。
入谷はふ、と息を吐 くと、緑茶を受け皿ごとテーブルの中央へと押しやり、前触れなく立ち上がった。そのまますたすたと歩み寄ってきて、俺の隣にすとんと座る。「?」と思っているうち、「あなたはなかなか笑わない」と低く呟いたが早いか、入谷の華奢な体がぐいっと倒れかかってきた。
そんな動きは予測していなかったために身構えることもできず、二人して横ざまにソファに倒れこむ。頭がばふんと弾む感覚があった。痛くはないが、なかなかの衝撃だ。
「入谷さん? 大丈夫ですか」
胸のあたりにある黒髪の旋毛 を見ながら尋ねる。
入谷は面 をこちらに向け、ふふっと不敵に口元を吊り上げた。至近距離にあるその表情から、なんとも言えない色気が漂っていてどきりとする。
「ずいぶんとお人好しなのですね、橘さん。今のは押し倒したんですよ」
「えっ……」
思いもかけない告白に絶句するしかない。押し倒すなんて、どうしてそんなことを。
二人で座ってもゆったりしていたソファは、寝転ぶには狭くてほとんど身動 ぎすらできないほどだ。加えて、こちらの体を押さえている入谷の力も弱くはなく、体勢を元に戻そうとする俺の動きを許さない。細く見えるとはいえ男性なのだ、と当たり前の事実をこんな状態になってから思い知る。
入谷は間 を置かずに次のアクションを起こした。こちらに覆い被さるようにして、俺の首筋あたりをふんふんと嗅ぐ。まず頭に浮かぶのは焦りだった。
「あ、あの! 今日は駅から歩いて来たので……臭いかも」
「大丈夫ですよ。橘さんの匂いがこの前より濃いだけです」
それって臭いということではないのか。若干ショックを受けているうちに、首をぞろりと舐め上げられた。それだけで、ひ、と危うく声が出そうになるくらい、ぞくぞくとした快感が全身に伝播 する。
「ちょっと、こんな時間から――」
「営業時間外になったらいいんですか? 意外と真面目なんですね。営業マンは遊び慣れているのでは?」
「それは……偏見ですよ」
この状況はまずい。流されたらきっと、後戻りできなくなる。
頭では分かっているのに、体が早くも熱くなり始めている。なんとか目を逸らそうとするのを、入谷は許してくれない。今や俺の視界のほとんどを、逆光になった入谷の顔が埋めていた。
「先日、僕はあなたが好きだとお伝えしました。そう言っている男の部屋にのこのこ上がっておいて、嫌だと仰るのですか? あなたにも少しはそのつもりがあったのでは?」
「俺は決して……そういうのじゃ」
本当にそうか? 入谷からメールで午後の遅い時間を提案されたとき、俺はうっすらとでも期待したのではなかったか。
例えば、このようなことを。
「柾之さん」
「……っ」
入谷が耳の傍で名前を囁く。甘く脳髄をとろかすようなそれは、まるで麻酔だった。じんと痺れたみたいに身を固くしていれば、耳朶を柔らかく食 まれ、舐められて、総毛立つような感覚が背筋を走る。
相手は唇で肌に愛撫を施しながら、手慣れた様子で俺のシャツのボタンを外しにかかっていた。ああ、このままでは脱がされてしまう。
「あの、待っ――」
「あなたが見せてくれたら僕も見せますよ」
湿り気を帯びた誘いに、思わず目を見開く。いや待て、見たいのか、俺は?
上目遣いにこちらを見る入谷と視線がかち合う。その瞳の奥に情欲の光がちらついているのを認めて、なぜだか胸が高鳴った。
夢で見たばかりの、幻の入谷の肢体が脳裏を過 っていく。夢の中では彼の体の細部はあやふやだった。けれど、今目にすることができたなら……。
ぐるぐる考える俺を、彼は待ってくれない。しなやかな指が蠢いてシャツをはだけさせ、ネクタイを上に退 け、あっと思う間もなくアンダーシャツを捲 り上げる。火照りだした肌を、エアコンの冷気がひやりと撫でた。
入谷は体を起こし、俺の曝 された地肌を舐めるように見る。
これはかなり、いやとんでもなく恥ずかしい。頬を熱くする俺を、入谷はなぜか満足げな顔で見下ろしている。
「柾之さん、なかなか良い体をしていらっしゃいますよね。何かスポーツでもされているんですか?」
「いえ……週二日くらいジムに行っているだけで、あとは何も」
ジムに行っているのは別にこんな風に他人に体を見せるためじゃなかった。三十路を迎えて運動不足が気になり始めたからで、会社から健康促進のための補助金が出ているからでもある。鑑賞に堪 えられるような体には全然仕上がっていない、と思う。
相手はなるほど、と首肯した。細い指先が側筋のあたりをつつつと撫で上げ、予期しない刺激に「んん」と鼻から抑えきれなかった吐息が漏れてしまう。なんだか皮膚が敏感になっている気配がした。
「可愛い反応ですね。好きです」
うっとりとしたその呟きが、どこか遠く聞こえる。
可愛いだなんて、人生でほぼ言われたことのない言葉だ。"可愛げがない"なら何度も言われたことがある。揶揄でないのなら、きっと入谷は視力と聴力がよくないのだ――。
「さて、約束は守らないといけませんね」
独り言みたいな呟きが上から降ってくる。
入谷は俺に跨 がったまま、ベストとシャツのボタンを順に外して脱ぎ捨てていく。それはこちらに見せつけるようにじりじりとした、緩慢な速度だった。我知らず、瞬きを忘れるほど真剣に、指先の動きを追ってしまう。
早く、と俺は声に出さずに懇願していた。
早く、早く。服を脱いだところを見たい。見せてほしい。
入谷は、ワイシャツの下に何も着ていなかった。まず綺麗な形の鎖骨が、みぞおちが、うっすら筋肉のついた腹が、順に目の前に現れていく。その光景が眼裏 に焼きつき、なめらかな肌に目が惹きつけられて、ごくりと生唾を飲み込んでいた。
入谷の上半身が、完全にあらわになった。色白な人はやっぱりほくろが多いんだななんて、頭のどこか冷静な部分が他人事 みたいに感想を抱いている。全身に散りばめられたほくろを掌でなぞったら、さぞなめらかで気持ちのよい感触なんだろう。
そうだ。俺は、この体を夢の中で犯して……。
思考がぼうっとし始める。下腹に血が集中していくのとは逆に、全身はふわふわとしていた。ギャラリーで、入谷の写真を見たときのように。
入谷はうっそりと笑んで俺の下半身へと手を伸ばし、
「僕でも起 つんですね」
その一声は冷や水に等しかった。
そうだ――前回までの二回と今回では、決定的に異なる点がある。前回までは、俺が写真を見ていてなぜか感じてしまったから、責任を感じた入谷がやむを得ず処理してくれただけなのだ。今日はまったく事情が違う。俺は、入谷本人に対して、興奮してしまっているのだ。
顔が炙 られたように火照る。今度は羞恥と、申し訳なさのせいで。
「ッ、すみません、見苦しいものを見せて」
「いえ、僕は嬉しいんですよ」
そう言って、美貌の写真家はやや悲しげに眉尻を下げた。少し乱暴な手つきで、艶のある黒髪を掻き上げる。
「もどかしいですね。あなたに僕の気持ちが伝わらないのが」
俺はまだ、疑っている。入谷がなぜこんな突出したところがない男に「好きだ」なんて言うのか。その裏にあるものは何なのか。年上の男を翻弄して、一体何がしたいのか。
疑いながら、流されている。
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