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4話-3 ジェリーフィッシュ・ライフ

「その……前から思ってたんですが、どうして俺を下の名前で呼ぶんです?」 「僕がそう呼びたいからです。今日はお互いプライベートで会っていますし、堅苦しいのも変かと思いまして。お嫌でしたか? 今まで駄目だと言われなかったので、自重していませんでした」 「いえ、嫌というのでは……ただ、落ち着かなくて」  俺は仕事相手と会っている認識だったのだが、そうか。プライベート、なのか、入谷の中では。  思考を巡らす俺を何と思ったのか、相手は不敵な笑みを深くして言う。 「僕だけ名前でお呼びするのが落ち着かなければ、柾之さんも紫音と呼んで下さっていいのですよ」 「いや、それは……」  どういう論理がはたらいてそうなるのか、さっぱり分からない。やはり入谷相手に不用意に発言すると、おかしな方向に持っていかれてしまう。注意しなければ、と思うが、俺が一度でも主導権を握ったことがあったか、という自問には否を返すしかないのだが。  苦い気持ちを実際の苦味で上書きするように、ブラックコーヒーを口に含む。慣れ親しんだはずの苦さが、今回ばかりはよそよそしく舌の上に残った。 「……やっぱりおはぎには、お茶の方がいいですね」 「そうですか? 僕はコーヒーも好きですよ」  いやに「好き」が強調されて聞こえたのは、自意識過剰というものであったのだろうか。  結局おはぎはぺろりと無くなってしまった。入谷曰く、おはぎはエネルギーの吸収効率が良いらしい。忙がしくて食事をゆっくり摂れない時などに、普段から好んで食べているという話だった。  二人ともコーヒーは二杯目になっている。食後の一杯と雑談を交わしながら、普通に和やかな時間を過ごしていることにふと疑問が(よぎ)った。そうだ、訊かなくてはいけないことがあるではないか。 「そういえば……今さらなんですが、今日はどういったご用件で?」 「用件?」突然異国の言葉を耳にしたように、入谷は切れ長の目を(しばたた)かせる。「特にこれといってありませんが。あなたが住んでいる場所を見てみたかっただけです」 「はあ……そうなんですか」  頷いてみせたものの、釈然とした思いが拭えない。三十路を過ぎた独身男のつまらない部屋を見て何になるというのか。  入谷はカップを置いて優しげに微笑する。 「先日は僕の部屋を見て頂きましたからね。好きな人がどんなところで生活しているか、気になるのは自然でしょう?」 「()……ッ」  この距離でストレートに(てら)いなく言われると困ってしまう。非常に困る。  つまり、自分の家を見せたのだからお前の家も見せろ、という等価交換のつもりなのか? 入谷は俺の家に来るつもりが元々あったから、先を見据えて自宅に招いたのだろうか。彼の魂胆が分からない。  分からないが、何にせよこの話題を続けるわけにはいかない。話をすり替えるため、かねてより抱いていた印象を問いにする。 「あの……前から思っていたんですが、入谷さんは和菓子がお好きなんですか? 前々からお菓子のチョイスが渋めだなあと思っていたんですが」 「渋い……そうかもしれませんね。撮影旅行で海外に滞在することが多いもので、舌が和風の味を求めがちというのはあると思います」 「ああ、なるほど……」  間が抜けた嘆息が漏れる。そうだ、目の前にいるこの青年は、世界的にも名の通った写真家なのだ。偶然知り合ったに過ぎないしがないサラリーマンである俺の家に、そんな華々しい人物がいるという事実。改めて考えても現実味がない。 「ああ、そうだ。柾之さんにお渡ししようと思っていたものがまだあったんです」  何かを思い出したように、入谷はおはぎが入っていたのとは違う紙袋を取り出す。中から現れたのは一冊の大判の本。表紙に見覚えがあるそれは、写真家・入谷紫音の写真集だった。 「これ、ご迷惑でなければ受け取って下さい。いつもお世話になっているお礼です。少々古い作品も収録してあるので恥ずかしいのですが」 「ありがとうございます。でも、代金はお支払いしますよ。おいくらですか」 「お代は結構です。差し上げます」 「しかし……」  無料(ただ)ですんなり受け取れるほど、俺は義理を果たしてはいない。  押し問答になる予感を遮って、入谷が伝家の宝刀――つまりにやりとした笑み――を抜く。 「あなたに受け取って頂けないと僕が悲しいです。それに、今後一生このことを根に持ちますが、それでもよろしければお代も頂戴します」  そこまで言われて、嫌とは言えない。  手渡されたものを確かに受け取って、ぺこりと会釈をした。その場でぱらぱらと(めく)りたい気持ちをぐっと堪える。そんなことをすれば、また入谷の前で痴態を曝す事態になりかねないからだ。 「では、ありがたく頂きます。あまりじっくり見られないかもしれないので、先に謝りますね。すみません」 「いえ、いいんですよ。僕が勝手に押しつけただけですから」  写真集の中身は見ないまま、記憶のギャラリーで入谷の作品を思い起こす。街角、港、草原、道端。どれも情感ある作品だったが、ひとつとして生き物をメインに据えた写真はなかった。 「ところで、入谷さんの写真って風景がメインのものばかりですよね。生き物は撮らないんですか」  素朴な疑問のつもりだったが、入谷の表情から柔らかさが消える。触れてはいけない部分だったか、とこちらが焦り始めた頃、入谷は静かに答えを返した。 「そうですね。僕は……生き物を撮るのが下手なんです。上手く、撮ってあげられない」 「え……」  意外な言葉だった。写真のことなど何も分からない俺が惹きつけられるほど、魅力的な写真を撮っているのに。  混乱したが、おそらく下手というのは技術的な瑕疵を指しているのではない、とは窺えた。この話は続けない方がいいのかもしれない。けれど、俺の眼裏には先刻の入谷の瞳の輝きが焼きついている。だから、止められなかった。 「でも、生き物がお嫌いなわけでは、ないんですよね? さっきもクラゲを熱心にご覧になっていたし」 「それは……そうですね。どちらかと言えば好きです」 「入谷さんの生き物の写真、興味あります。もし良かったら、そこのクラゲとか撮ってみませんか? 気楽な感じで」 「……」  テーブルの上あたりに視線をさまよわせ、口ごもる入谷の姿は初めて見るものだった。  そこではっとする。どれだけ無礼なことを言ってしまったか。彼が生き物を撮ったらどんな写真になるのだろう、という興味の気持ちが先走ってしまった。それくらいには、俺は入谷の写真が好きだ。 「あ……すみません。お仕事にしてるものに気楽とか言って。失礼でしたね」 「いえ……。……そうですね、今日はカメラは持参していないので、今度撮ってみようかな」  顔を上げた相手の表情は、真剣そのものだった。冗談を言っているようには見えない。 「その時はまた、連絡下さいね。俺ならいつでも予定空けますから」  そう言いつつ、これは実質次の約束を取りつけているのと同じでは? と思う。入谷が家に来ることに尻込みしていたくせに、一体俺は自分から何を言い出しているのだろう。我ながら苦笑してしまう。  そんなことを考えていたものだから、次に放たれた「好きというなら、柾之さんも同じじゃないですか?」という相手の言葉の意味を図りかねた。 「同じ……というと?」 「先ほどはクラゲに思い入れはないと仰っていましたよね。本当は、割とお好きなんじゃないですか?」  入谷の視線につられ、リビングの隅にある水槽を見る。普通の水槽と違い、エアーのゴボゴボという音は聞こえない。クラゲがあてどもなくたゆたっている様はどこまでも静かで、その静けさがこちらの心の中にひんやりと広がるようだ。  クラゲがいる水槽を見るのは確かに、好きだ。けれど、クラゲ単体だとどうだろう。 「好きかどうかは……でも、シンパシーを感じるのは事実かもしれません」 「シンパシー、ですか」  それはきっと、深層心理で感じていたこと。これまで言語化したことのない気持ち。それが入谷からの問いによって、浮き彫りになっていく。  浮遊するクラゲたち。丸いかさを規則的に動かしながら、その実彼らは泳いではいない。 「クラゲって、自分に似ている気がするんです。あいつら、泳ぐ動作をしてはいるけど、ほとんど水流に流されてるだけなんですよ。俺も今までずっと、特にやりたいことがあるわけでもなく、周囲に流されて生きてきたから。だから似た者同士なのかなって」  その自覚はきっと、入谷と出会ったことで決定的になったのだろう。流されて生きてきた自分と、確固たる意思を持ってひとつの道を選んだ他人とを、比べるなんてことは今までなかったのに。そのふたつの道に優劣はなく、ひとつひとつ独立した生き方だ。そのはずだった。  高校はなんとなく進学校を選び、就職に有利そうだからという理由で大学は経済学部に進み、先輩の紹介で特に思い入れのない会社に就職して、無難に毎日の業務をこなしている。今まで何かを熱で選んだことのない人生。他の会社に行ってもそこそこ上手くやれるだろうが、きっとどこに行ってもその場所に愛着は湧かない、そういう人間。それで不満も不足もない。  けれど、接近すれば見えてしまう。目を逸らしても、瞼を閉じても、他人の人生の眩しさは近づけば伝わってくるものだ。  俺はきっと、気づかないふりをしているだけで、入谷への淡い負の感情を抱いているのだろう。それは明確な劣等感にも満たない、マイナスで不定形の何かだ。その感情は、入谷が自分の知らない知識を持っているといった、単純な差から生じているのではない。言うなればそれは、生きる世界の違いによるものだ。  どんなにささやかでも、(かげ)った感情には己をちくちくと刺す棘がある。心に刺さった針は簡単には抜けない。 「柾之さんは、流されて生きるのは良くないことだと思われますか」 「!」  すぐ近くから聞こえてきた声にはっとする。入谷がいつの間にか、俺が座るソファの傍らに屈み込んでいた。  彼には分かるのだろうか。俺の心の深い部分が。 「それは……」 「勘違いでしたらすみません。柾之さんはそういう生き方を、良く思っておられないようにお見受けしたものですから。僕は、流されるのも悪くないと思いますよ。あなたが言うところの流された先で、あなたは立派に勤めている。それは何ら後ろめたく思うことではないはずです。素晴らしいことです」  そこで入谷はやおら手を伸ばすと、俺の頭を優しい手つきで撫でた。体も頭も途端に固まる。なんだ、これは。  誰かに撫でられるのなんて、おそらく子供の頃ぶりだ。年下の同性に撫でられている謎の状況に混乱しつつも、内心嫌ではなかった。  むしろ、髪のあいだを通る指先が気持ちよくて――。

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