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4話-2 ジェリーフィッシュ・ライフ
本日一件目の客先との約束より早めに会社を出て、コンビニの駐車場に社用車を停める。
駐車場を使わせてもらう駄賃に缶コーヒーを買って、今はスマホの暗い画面をじっと見つめているところだ。
――昨日、礼を失したことを謝るために、今すぐ入谷に電話すべきだ。
そう分かっているのに、なかなか踏ん切りがつかないまま一分、二分と時間が流れる。
これ以上引き延ばすと次の予定に支障を来 す。そんな局面になってやっと、発信のアイコンをタップした。が、何と言うべきか考えがまとまっていない。仕方ない、もうどうとでもなれ。
相手は二コール目で出た。本来の声とは少し違う音に変換された、でも同じなめらかさを持った声が、通話口から流れ出てくる。
「はい、入谷です。いかがされましたか、橘さん」
その落ち着いた声音に内心ほっとする。昨日のことを根に持っている気配は感じない。良かった、いつもの調子だ。
「昨日のことをお詫びしたくて。不可抗力とは言え、途中で飛び出してしまい失礼しました」
「途中、ですか。何の途中でしたか」
揶揄するような色を滲ませて入谷が問うてくる。セックスの、とは口が裂けても言えるはずがない。
昨日も彼は俺の耳元で、湿った声で囁いていたのだっけ。そう回想すると、入谷の声が耳のそばから聞こえてくるのに耐えられない気持ちになり、たまらずハンズフリー通話に切り換える。
「……入谷さん、からかわないで下さい」
「僕は何も言ってはいませんよ。想像したのはそちらですから。……ご用件はそれだけでしょうか」
「あ、いえ……お詫びと言ってはなんですが、私にできることがあれば拝命致しますので。何かありましたら、いつでも仰って頂ければと」
それは社交辞令のつもりで、そこで会話を切り上げるつもりだったのだが。
「そうですか……では、橘さんのお宅に伺いたいです」
「えっ」完全に想定の範囲外の要望がすぐに返ってきて、素っ頓狂な声が出る。「うちに、ですか」
「ああ、もちろん僕の個人的な希望なので、駄目でしたら無理にとは申しませんが」
ストレートに願望を口にしながら、入谷はすぐしおらしくこちらを気遣う。計算ずくなのか、そういう性格なのか、分からない。いずれにしても俺はその揺さぶりに翻弄され、決然とした態度を崩されてしまう。
「いや……いえ、無理というわけでは。でも、本当に何もありませんよ、うちには」
「構いません。では、今週末などいかがでしょう」
またこの揺さぶりだ。入谷はこちらの懐にするりと巧みに入ってくる。しかし、今週末なんて――すぐに来てしまうではないか。
脳内にある箱をあれこれひっくり返して断る理由を探す。元々の持ち物が少ないから大がかりな掃除は必要ないし、土日に外せない重要な用事があるわけでも、その他入谷に来られたら困る理由があるわけでもない。
駄目だ。これは……断れない。
自宅で昨日のような事態になってしまえば、もう逃げ場はないだろう。どうやら週末までに、覚悟を決めておく必要があるらしい。
「分かり……ました。詳しくはまたメールでもして頂ければ」
「それでは、楽しみにしていますね」
いつでも冷静沈着な写真家の少し弾んだ声が、俺には追い詰める言葉に聞こえた。
入谷は、何を考えているのだろう。「好き」と言う割に、俺にどうしてほしいのかはまったく口にせず、距離だけ詰めてくるあの青年写真家は。「付き合ってくれ」というならシンプルで分かりやすいのに。
――夢の中で無体をはたらいておいて、いざ心の準備ができていないなんて抜かす自分も、大概不誠実だが。
予想どおり、週末はすぐにやってきた。いつもは休日になるのを指折り数えているようなものなのに、客先への訪問や社内の打ち合わせ、接待、後輩との食事などを消化しているうちに、いつの間にか土曜の朝になっていた。
部屋の掃除は済んでいる。来客用のスリッパも用意してある。コーヒーメーカーのスイッチを入れてしばらく経った頃、インターホンが鳴らされた。約束の十一時を数分過ぎたところだった。
ドアホンの確認もすっ飛ばしてドアを開けると、私服姿の入谷がそこに立っている。
「こんにちは。押しかけてしまい、すみません」
青年写真家はそう言いながら薄い色のサングラスを外す。こんにちは、と返しながら、この時点で俺は少々動揺していた。初めて見る入谷のオフの姿に、見入ってしまっていたからだ。
上半身は幾何学模様の総柄の半袖シャツ、下半身は麻っぽい生成 のストレートパンツ。足元はラフな印象の靴――エスパドリーユというのだったか――で、踝 と細い足首が覗いている。
全体的に華やかさと爽やかさが同居しており、写真で見るモデルのように完璧な出で立ちだった。外は酷暑だというのに、涼やかな白皙の美貌には汗ひとつ浮いていない。こちらが適当なシャツとチノパン姿なのが申し訳なくなってくるほどだ。
そこまでで自分が思う以上にじろじろ見てしまっていたらしく、可笑 しげに相手が口の端を引き上げる。
「ふふ。そんなに僕の格好が物珍しいですか?」
「あ……すみません。入谷さんがすごくお洒落だったので、びっくりしてしまって」
「あなたに会えるので、気合いを入れて選んできたんですよ。なのでそう言って頂けると嬉しいです」
「そう、ですか」
俺に会うから、気合いを入れて? 不可解な台詞だが、こんなところでいつまでもやり取りしているわけにはいかない。
「すみません、玄関先で長々と。どうぞ上がって下さい」
「お邪魔します」
入谷が会釈をし、履き物を脱ぎ、屈んで靴を揃える、その何気ない動作がすべて洗練されていて美しい。眩 いばかりのオーラを放つ彼がこの平凡なマンションの一室にいることに強烈な違和感を覚え、足元が少し覚束なくなった。
今日この日、彼の目的は一体どこにあるのか? 身構えておくに越したことはないだろう。
入谷がリビングのドア近くに置いてある水槽を認め、「あ、クラゲ」と声を上げる。
ほとんど殺風景と言っていいこの家の中で、その丸い形の水槽だけが異質な存在だった。水で満たされた中には水草も砂利もなく、ただクラゲたちが寄る辺 なくふわふわと水流に流されている。種類はごく普通のミズクラゲだが、個人で飼育しているのは確かに珍しいかもしれない。
目を丸くしてほの明るい水槽を覗きこむそのときだけ、入谷はどこか幼く見えた。
「お好きなんですか? クラゲ」と問う彼の瞳は好奇心できらめいている。
「好き……というか、元カノが置いていったものを管理し続けてる感じですかね。水槽を死蔵するのも処分するのも面倒ですし。クラゲに思い入れはあんまりないですが、動きを見ると癒されるので」
「なるほど、そうですか」
相手は水槽に視線を戻す。こちらのつまらない説明に鼻白んだのか、それに関係なく面白がってくれているのか、横顔からは察することができない。
元カノをわざわざ引き合いに出さずともよかったかもしれない、なんて、俺は何を気にしているんだろう。入谷は取引先の責任者で、俺はただの担当者。別にそういうのじゃないんだからと、言い聞かせてもちくりと胸が痛むのはなぜだ。
入谷に二人掛けのソファを勧め、自分は一人掛けの方に座る。と、入谷は手に提げていた紙袋から箱を取り出してテーブルの上へと滑らせた。パッケージの端に小さくロゴが印刷されていて、上品な印象を受ける。
「これ、手土産です。良かったら一緒に食べましょう。僕が好きなお店のもので、お口に合えばいいんですが」
「ありがとうございます、わざわざ」
「いえ、こちらが無理を言って訪問しているのですから。おはぎはお好きですか」
「おはぎ……ですか?」
てっきり洋生菓子か和菓子あたりの箱かと予想していた俺は思わず目を瞬 かせてしまう。おはぎといえば、大昔に祖母が作ったものを食べたきりだ。当時はあまり美味しいと思えなくて、ほぼ食わず嫌いなまま今まで来ている。
何と言ったものか口ごもるこちらをよそに、入谷の繊細な指先が包装を解いていく。中にはちょこんとした可愛らしい大きさのおはぎが、仕切りに収まって行儀よく整列していた。餡は様々な色があり、種類はあんこだけではないようだ。色とりどりなそれらは、一見しておはぎと分からない。
「美味しそう、ですね。それにすごく綺麗」
偽らざる正直な感想だった。「今、皿と飲み物持ってきますね」と腰を浮かせると、入谷は目元を緩ませた。
リビングと一続きになっているダイニングを抜け、ほとんど無用の長物になっているオープンキッチンの天板部分で作業をする。二人ぶんの取り皿とコーヒーカップを用意しつつ、ソファに座る入谷の様子を見やる。背筋をすっと伸ばしたいい姿勢のまま、彼は室内を眺めているようだった。ただ座っているだけなのに存在感がすごい。
おはぎならお茶の方がいいだろうが、生憎この家には茶葉も急須もなかった。不準備を詫びると、「おはぎにコーヒー、初めての組み合わせです。試してみるのも楽しそうですね」と社交辞令だろうが入谷はほほえんでくれた。
取り分けたおはぎを、付属していた黒文字 で半分に割ってみる。断面を見ると、ご飯はほとんど原形がなくなるまで潰されており、見た目だけなら内と外がひっくり返った大福のようだ。一口大に切り分けて口に入れると、まずあんこのほどよい甘さが舌に広がる。一回、二回と噛むごとに、つぶあんとご飯の風味がほろりと一体化して口いっぱいに広がり、素直に美味しいと思えた。
「ん……! 美味いですね、これ」
「それは良かった」
入谷は上品に、かつ流れるような動作でおはぎを食べ進めている。まるで彼の周りだけ清涼な風が吹いているかのようだ。
あんこのおはぎの次は、かぼちゃ餡を試してみる。こちらの方が甘くなく、デザート感は薄い。感想を差し挟むのも忘れ、ぱくぱくと最後まで食べてしまっていた。
そこでふふっと笑い声が聞こえて視線を上げると、何か楽しいことがあったかのようににこにこ顔の入谷と目が合った。
「……何か、面白いことでもありました?」
「いえ、柾之さんの笑顔を拝見できて嬉しいなと思いまして。ご馳走さまです」
「……っ」
彼が"ご馳走さま"に合わせていたずらっぽく手を合わせる。思いがけない不意打ちに、ぼっと頬のあたりが熱を持った。気の抜けた無防備な顔を見られたようで、だいぶ気恥ずかしかった。
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