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4話-1 ジェリーフィッシュ・ライフ
眩暈がする。目の前で進行している現実が、現実と思えない。
気鋭の写真家・入谷紫音がそのほっそりした肢体を横たえているのは、俺がいつも寝起きしているベッドだ。
ここは他ならぬ俺の家。俺の部屋。
入谷は余裕綽々にほのかな笑みを浮かべ、しどけない様子でこちらを誘っている。
ごくりと大きく自分の喉が鳴った。
出社の途中、ぎゅうぎゅうになったエレベーターの中で、昨日の夕刻以降の出来事を思い返す。入谷紫音のオフィスを話半分に飛び出したあと、会社に戻った俺を待ち受けていたのは営業事務員の同情の視線だった。
同僚の望月に指定されていた薬品を急ぎで客先に届けると、玄関先でそわそわしながら待っていたらしい担当者はあからさまにほっとした表情を浮かべた。小言のひとつやふたつは言われるか、との予想は空振りに終わった。
「ありがとうございます、これでお偉いさんにドヤされなくてすみますよ。申し訳ないけど、朝イチで仕上げなきゃいけないものがあるので、私はこれで」
「ご迷惑をおかけしました。今後このようなことが起こらないように徹底しますので」
「あなたも大変でしたね。担当者じゃないのに、ご苦労様」
「とんでもない。恐縮です」
俺は腰を折って頭を下げた。それはもう、深々と。自分のミスでもないのに謝るなんて、などというひねくれた意識は微塵もない。それよりも、この場にミスの原因であるインターン生がいてほしかったな、と思った。自らのミスによって自分が怒られるだけなら大したこともなかろうが、犯したミスのせいで他人が、それも社外の人が叱責を受けることだってある。それをあの学生には実感してほしかった。
エレベーターから吐き出されて仕事場に着く。営業一課のフロアにはぼちぼち人が出社してきていた。営業は客先から直行のことも多いが、件の学生とメンターである望月 は二人とも揃っている。学生がぺこぺこと望月に頭を下げているところだ。
俺が席に着くと、望月がちらりとこちらに視線をやった。「俺はいいから、橘に謝ってこい」という同期の声が聞こえる。
PCの電源を入れ、横から近づいてくる足音を聞く。橘さん、と呼びかけられて振り仰げば、ぎこちなく薄ら笑いを浮かべているインターン生がいる。
「あの、昨日はすみませんでした。本当に」
殊勝ぽく言って頭 を垂れるのが、どこかへらへらしているようにも見えた。
この彼はきっと、謝り慣れていないのだろう。比較的裕福な家庭に生まれ育って、それが恵まれたことだと強く自覚する機会もなく、大学に苦もなく行かせてもらえている。そんな風に感じるのは俺の偏見かもしれない。
無論、育ちがいいのはよいことだ。社会に出る前の苦労なんて、しないに越したことはないのだから。
この人は温厚そうだから、とりあえず謝っておけば済むだろう。そんな相手の心の声が聞こえてくるようだ。目の前の彼だけではなく、今まで何度もそんなことはあった。初対面で舐められるのには慣れているし、誰を侮 るのも勝手だが、社会人には社会人の謝罪の方法というものがある。
「ああ、別に大丈夫だよ」
俺はわざと何でもないように微笑を作る。相手はすぐさま、胸を撫で下ろしたように笑みを浮かべた。
そうしてから、言ってやる。
「インターンでそれくらいの仕事意識と態度なら、どうせ卒業後もうちには来ないでしょ? だから別に、どうでもいいよ」
場の空気がぴり、と張り詰めるのが分かる。空気も一瞬で凍りついた。
学生の顔から色がなくなり、口がぱくぱくと何回か開閉されるが、言葉は何も出てこない。
「俺のことはいいから、お客さんに謝った方がいいんじゃない」
冷たい口調で勧める。あ、それは、はい……ともごもご答える学生を差し置き、俺は立ち上がって足先を喫煙ルームに向けた。しばらくここにいない方がいいだろう、学生のためにも。
始業にはまだ少し時間があるから丁度よかった。排煙設備を動かし、無人の部屋で煙草を吹かす。ドアが動いたので横目でそちらを見れば、予想通りの顔がそこにあった。やや深刻そうな表情の望月。彼は禁煙しているはずだから、もちろん俺に用があるのだろう。
「橘」
「なに」
「なにって、お前さあ……さっき周りの空気凍りついてたぞ。気づいてたか?」
「もちろん。そうなるだろうと予想して言ったんだから」
深く息を吸い込み、また深く吐く。周囲の雰囲気が悪くなることは当然分かっていた。狙ってやったのだ。自分は学生に嫌われるだろうが、どうせ一生深い付き合いになることもない。
「出た出た、お前の怖いところ」と同期の同僚は苦笑する。でも、と続けた内容は、俺には予想外のものだった。
「あいつには逆効果だったかもな。心入れ換えて頑張りますっつって張り切ってたぞ。ありゃ再来年には俺らの後輩になってるかもな」
「そっか」
先ほどの学生に放った台詞ではないが、自分にとってはどちらでもいいことだ。あれで火がつくような暑苦しいタイプは面倒だろうな、とは思う。望月とは気が合うかもしれないけれども、俺はこの同僚も正直あまり好きではない。
どのみち、好き嫌いで物事を決めるなんて絶対にないので、どちらでも構わないのだ。
望月が長めの髪を無造作にわしゃわしゃと乱す。きっちりセットしているのに勿体ない。
「ああーもう、そうやってクールに決めちゃってさ……。お前って無自覚に後輩に火をつけるところあるよな、常葉 もそうだったし」
「ん?」
突然優秀な後輩の名前が出てきて、耳がそこに反応した。
「常葉くんって? 彼は最初から何でもできてたじゃないか」
「違う違う」望月は掌をひらひらと振る。「覚えてないのか? お前と話すようになって意識変わったって聞いたぜ、飲みの席で」
ま、俺も酔ってて詳しい内容はあんまり覚えてないけど、と無責任に言ってうははと笑う男を睨む。
どうにも思い当たる節がなく、思わず顔をひそめてしまう。俺は一体、常葉に何を言ったのだったか。
考えを巡らせる自分の横で、望月はいつもの調子を取り戻してからりと笑う。絵に描いたような営業スマイルだ。こいつはいわゆる営業っぽい営業で、いつも顔に貼りついている笑顔はよく言えば人懐こく、悪く言えば押しつけがましくて胡散臭い。
「そうだそうだ、肝心のお前にお礼を言ってなかったな。昨日は助かった、ありがとう。今度飯でも奢るよ」
「いいよ、わざわざ。お前が悪いわけじゃないし」
「遠慮するなって。あ、今日でもいいぞ? 久しぶりにサシで飲むかあ」
望月は伸びをしながら白い歯を見せる。俺の話聞こえてないのか、こいつ。これだから押しが強い人間は嫌なのだ。
まあ、営業職に向いているのは本来彼のようなタイプなのだろう。誰にでも興味を持てて(あるいは興味があるフリが上手くて)、どんな話題にも愛想良くついていける、そんな人間。
「遠慮はしてない。お前と二人だと気詰まりだし」
「あのなー……それ面と向かって言うことじゃないだろ、そういうとこだぞ。じゃ、キャバクラにでも行くか」
「行かない。お前、既婚者だろ……お子さんだってまだ小さいじゃないか」
「えー、別に行ってもいいだろ、そんくらい。それに子供を寝かしつけるまで帰ってくるなって嫁さんに言われてるんだよな~」
「知らないよ。そんなに行きたきゃ一人で行け」
もう、どうしてここまで話が噛み合わないのだろうか。そもそもキャバクラ云々なんて朝にする会話じゃない。
ため息を吐きながら、スタンド灰皿に吸殻を押しつける。
「相変わらず冷てえなあ、橘センセイは」
「もう始業時間になるぞ。仕事戻れよ」
「はいはい、真面目くんだね」
「俺は普通だよ。そっちが不真面目なだけだろ」
真面目、という何の変哲もない単語がちりちりと思考を灼 いた。思わず冷笑が浮かびそうになる。数回しか会ったことのない、素性すらほとんど知らない客先の人と、口に出すのも憚 られるようなことを繰り広げている自分。そんな人間が真面目なわけがない。それをここで話題にできるはずもないけれど。
オフィスに戻ると、こちらの姿を認めた学生が勇ましく歩み寄ってきた。俺に声をかけたくてうずうずしていたのだろう。その体から放出されているエネルギーに体が引けそうになる。相手は引き締まった表情で、ほぼ九十度になるまで勢いよく腰を折った。
「昨日と、先ほどは申し訳ありませんでした! 今後は心を入れ替えて、改めて仕事に当たります。どうかご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いします!」
その勢いに面食らってしまう。へらへらしていた態度は鳴りを潜め、ものの数分でまるで別人のような雰囲気になっていた。俺が火をつけたなんて信じられず、ああそう、頑張ってね、と聞きようによっては冷淡な励まししか返せなかった。
ぴりぴりしていたフロアの空気が、いつしか通常と同じほどに和んでいる。
「すごいですねえ、橘さん」
と近くの席の営業事務の女性が言ってくる。いえ、俺は何も、という返答を謙遜と受け取ったのか、視線をPCに戻す前に彼女はにこりと笑みを見せた。
皆の目には、俺は比較的真面目に映っているのかもしれない。ギャラリーや入谷のオフィスで行われたことは、周囲の想像の範囲外に違いないと、自分だって自覚している。付き合っているわけでもない取引先の責任者と、会うたびに他人には到底言えない行為を繰り返しているなんて、どこからどう考えても絶対によくない。
もうやめよう、こんな爛 れきった関係は。心に固く決める。
――そんな俺の小さな決意は、すぐ打ち砕かれることになるのだが。
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