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5話-4 フェイヴァリット・パーソン

 あの時は確か、営業車の傍で常葉がこんこんと叱られていたのだっけ。あまり人が通らない時間帯だったけれど、商品を取りに帰社した俺が偶然二人に出会したのだった。  課長は明らかに頭に血が昇っていて平常心でなく、まだ学生然とした雰囲気の常葉が終始むすっとしていたのも火に油を注いでいた。なぜ課長が憤っているのかは、少し聞いていれば充分察せられた。これはまずいなあ――と思い、咄嗟ににこやかな表情を貼りつけて声をかけた時の、二人のはっとした顔は今でも思い出せる。 「課長、そのくらいでいいんじゃないですか。N車の車がありますし、もう部長さん見えているのでは」 「ああ、そうか……そうだな。橘、常葉のこと頼めるか」 「はい」  上司に首肯してみせ、彼が足早にその場を去ってから、大丈夫だった?と常葉に尋ねようとした。が、その言葉は喉元ですぼんで消えてしまう。相手はほっとした表情を浮かべるわけでもなく、俺のことさえ冷めた目で睨みつけていたからだ。  相手の方が背が高いため、なかなかの迫力である。はああ、という新入社員らしからぬ長い溜め息が常葉の口を突いて出た。 「馬鹿ばかしい」  吐き捨てるようにそう続いたものだから、思わず驚いて目を丸くしてしまう。 「常葉、くん?」 「何も楽しくないのににこにこ笑って、それで仕事ができるようになるって? あなたもそんな風にへらへらしてると、みっともなく見えますよ」  若さが滲む常葉の毒舌を受けて俺が思ったのは、その気持ち分かるなあ、ということだった。 「……そう。俺、笑ってるように見えた?」  微笑を保ったまま問いを投げかけると、常葉は怪訝に眉をひそめながらも「……はい」と頷く。意外と素直な反応だ。根が悪い人間ではないのだろう。  俺が顔からすべての力を抜き、すうっと笑顔を消せば、相手の表情筋が目に見えて強張った。瞳の奥に恐怖の色が一瞬走って消える。無表情の俺はたぶん、そこそこ冷たい目をしているのだと思う。 「俺はさっきから全然笑ってなかったよ。笑顔を作っているだけ」 「……」 「常葉くんは、愛想笑いするのが馬鹿らしいって思ってるんだよね。実は俺も同じだよ。心から笑ってるわけじゃない。でも、君には笑っているように見えた。だったら、それで充分じゃないかな?」 「それは」 「さっき君は仕事ができるようになるのかって言っていたけど、ただ口角を上げてないだけで仕事以前のことを注意されるなんて、それこそ馬鹿らしいと思わない? 実際は笑ってなくたって、他人に笑顔に見えればそれでいいと思う。そうだな、顔の筋肉の運動とでも考えてみたら?」  それでどうだろう、とにっこり笑いかけると、常葉は一歩後退(あとずさ)った。ああ、これは引かれたかな、と頭の冷徹な部分が判断する。まあでも、別に構わないだろう。直接指導もしていないし、この先接点ができるかどうかも怪しいし、すぐ辞めるかもしれないし。  ところが常葉が次にした行動は、決然とした瞳をこちらに向けることだった。 「あの……!」 「はい?」 「先輩の名前、訊いてもいいですか」 「ああ、橘です。……よろしくね、常葉くん」 「よろしくお願いします」  常葉はそこで深く頭を下げた。そこから懐かれているのかいないのか、けっこうな時間を社内外で共に過ごして今に至る。  ハイボールのジョッキに手をかけた常葉が、皮肉っぽく唇の端を吊り上げてみせた。 「あん時の俺、生意気すぎてヤバかったッスね。自分が課長だったら全力で腹パンしてましたよ。あの後練習して愛想笑いもできるようになりましたけど、橘さんがいなかったらたぶん今でもイキったままでしたね。橘さんもさすがにムカついたでしょ?」 「どうかなあ」天井から吊り下げられた和紙の照明を見上げつつ腕組みする。「むしろ面白い子が入ってきたと思ったかもしれないね」 「マジすか? 橘さんて変わってますよね、やっぱり」 「そうかなあ……。ねえ、やっぱりってどういうこと?」 「ははは」  常葉は答えずに器の中身をぐっと(あお)る。説明するまでもないということなのか。彼がそう思うなら深入りすることもないだろう。  後輩はアルコールで濡れた唇もそのままに、再度こちらに視線を注いだ。 「ていうかさっきの話、橘さんは忘れてたんスね。俺にとってはけっこうデカい出来事だったんですけど」  口調には俺を責める響きはない。事実確認のような、ごく淡々とした調子だ。  それを受け、体の前でひらひらと手を振る。 「忘れたわけじゃなくて、記憶にはあったよ。常葉くんの話を聞いたら思い出した」 「それを忘れてるって言うんじゃないスかね」常葉はなぜか愉快げに体を揺らす。「橘さん、俺に全然興味ないですもんね」  ――全然興味ない。  無造作に放たれたその一言が、鋭い矢のように心臓に突き刺さる。気づいていたんだ、と思った。  常葉が強く記憶している物事を、俺は同期からのヒントがあっても思い出せなかった。  つい先ほども、俺は常葉の言う「やっぱり」の意味を深追いしなかった。  それはなぜか。彼に特段の興味がないからだ――彼の看破する通り。今も、申し訳ないという気持ちより先に、痛いところを突かれたなという気持ちが先に湧いてくる。 「それは……ごめん」 「否定しないんですね。いやいや、あなたはそうだから良いんですよ。そのままでいて下さい」  いつも舌鋒鋭い後輩の声音は存外に柔らかかった。興味を持たないままでいてくれなんて、何やら不思議なお願いもあったものだ。  責めているわけではないのなら、ありがたく言葉通りにさせてもらおう。きっと、指摘されてなおスタンスを変えようとしない俺のこういったところも、望月なら冷たいとか怖いなどと評するのだろう。そう考えると、口に含んだ烏龍茶がビールほどに苦く感じられた。  その後、しばらく他愛もない会話を続けてふと、待てよ、と脳が数分前の会話を反芻する。  興味ないですもんね、と常葉は俺に言ったが、そう言う自分自身はどうなのだろう。この、目の前でつくねを頬張っている、何にも熱を持っていなさそうに見える青年に、興味を持っているものなどあるのだろうか?  だんだん夜も深くなってきた。周囲のほろ酔い気分のざわめきに当てられたか、後輩に少々意地の悪い質問をぶつけてみたくなった。 「常葉くんはさ、今までの人生で何か熱中したものってあった? 部活でも趣味でも、何でもいいんだけど」 「ん、俺スか?」  不意の質問だったのだろう、相手はもごもごと咀嚼してからそれを飲みこむ。 「んー、それって人でもいいです?」 「うん、何でも」  頷きつつ、心の内では返答を意外に思った。「社内恋愛なんて面倒なだけ」と言い切るクールな青年が、誰かに熱中していたということか。想像がつかない。  常葉はおしぼりで手を拭いてから、 「熱中したっていうか、現在進行形なんスけどね。俺のは『今日も推しが尊い』ってやつです」  そうおどけたように言って、長い指と指とを合わせ、拝むような仕草をする。  推しが尊い、とは。急に飛び出した馴染みのない言葉の組み合わせに、きょとんとしてしまう。 「推しって……アイドルとか、そういうのだっけ」 「んー、そもそもはそっちの界隈から出てきたワードらしいですけどね。今は何にでも使っていいんですよ。俳優とかバンドとか作家とか、アニメとか漫画のキャラクターとか、友達とかはたまたペットとか」 「へえ……」  常葉の口元には隠しきれない笑みが浮かんでいた。それは常ではあまり見られない、自然な笑顔に思えた。 「俺の推しはまあ、普通に人間ですけど。俺はね、その人が毎日健康に憂いなく過ごしてくれてるなら満たされるわけですよ。推しの心配事は全部俺が引き受けたい、くらいの気持ちでいるんです」 「そう、なんだ」 「推しがいる生活ってのは良いッスよ。日々潤いがあるって言いますかね、大袈裟だけど自分にとっては生き甲斐に近いかな」  常葉はいつになく饒舌だ。俺の知らない、純粋な光を瞳に宿している彼は、まるで別人のように見える。その姿がひたすらに眩しい。  推しとは元々アイドルに使う用語だそうだが、常葉のそれはなんとなく、手の届く身近な範囲にいる人を指しているのではないかと思われた。

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