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5話-3 フェイヴァリット・パーソン

「……そういうことじゃないんだけどな……。まあいいや」 「?」  そういうことじゃないとは、ではどういう意図だったのか。常葉には説明する気はないようで、今来たばかりの揚げたての唐揚げをむしゃりと頬張っている。まあ、わざわざ口にするまでもないことならそれでもいいか。  後輩は一人で、タルタルソースがたっぷりかかった唐揚げをはくはくと平らげていく。対してこちらはちびちびとたこわさを口に運んでいる。相手の様子を眺めているだけで胃がもたれてきそうだ。なんて、きっと俺も常葉くらいの頃は先輩にそう見られていたのかもしれないが。  不意に、常葉のいつも眠そうな両目がこちらに向いた。 「橘さんも食います? 鳥唐」 「え? いや、大丈夫」  あまりにも良い食いっぷりだったものだから、見つめすぎたかもしれない。物欲しげな目に見えていたのなら気恥ずかしい。  常葉は口の中のものを嚥下してから、俺の手元をそれ、と顎で示す。 「たこわさって味します? 俺、未だに良さが分からないんですよね」 「味がないことはないよ? 良さはまあ、人それぞれの好みだろうけど」 「なんつうか、たこわさって捉えどころがないじゃないスか。白子とかもですけど、そういう得体の知れない食べ物苦手なんスよね。存在の意味が分からないというか」 「存在の意味かあ……」  どこかおかしみがある常葉の言い分を聞きながら、食べ物の意味とは何なのだろう、と考えこんでしまう。改めて言われると、栄養以外の食べ物の存在の意味とは何なのか? 議論になったら俺は何も発言できないなと思う。  相手は噴き出しそうになるのを拳で押さえていた。 「いやいや、橘さん。そこは別に真剣に考えなくていいとこでしょ。望月さんだったら"お前の方が意味分からんわ!"って笑ってますよ」 「まあ、そうかもしれないけど。でも、俺も若い頃は常葉くんと似たような感じだったかもなあと思って」  懐かしさを覚えながら返した言葉に、常葉はなぜか口の片端を引き上げる。 「若い頃って。俺も橘さんもあんまり変わんないでしょ」 「いや、全然違うよ!?」  つい声が大きくなってしまった。変わらないなんてことはまったくない。大いに違う。後輩は冗談と受け取ったらしいが、こちらとしては同意しかねる。  よく考えずとも、二十五歳と三十一歳は明らかに年代が隔絶している。六年前の自分を思うと、ほぼ別人のような気がするほどに。  常葉はまだ納得がいっていないらしく、小首を傾げていた。 「えー、そうスかね」 「だって年代で言ったら中一に小一が同じだろって言ってるようなもんだよ? さすがに変わらないことはないでしょう」  と口では言いつつ、年上に対してと年下に対してでは年の差の感覚が違うのは確かかもしれなかった。例えば自分の場合、同じ二歳差でも三十三と聞けば同年代で話も合いそうな気がするが、二十九だったら二十代だし、若くて感覚が違いそうなイメージだ――例えば、入谷紫音は俺からすれば若い。さすがに六歳差もあると、常葉のようにあんまり変わらないなどと口が利けたものではないが。  後輩は一応得心したようだった。 「あー、まあそう言われたらそうスね。でも橘さんは普通にまだまだ若いと思いますよ」 「そう見えてるなら嬉しいけど、やっぱり味覚とか色々変わってるからね。体調がいいときでも元気いっぱいって感じではないし、徹夜はもう、完全に無理だし」  二十代前半だった時との違いを並べていて、自分で少し悲しくなってくる。若くないと口先では言いつつ、精神年齢はさほど変わっていないからだ。気持ちは二十代の頃と同じようでいても、体の方は年齢に正直である。なんとも世知辛い。 「そういえば、前に上手く眠れなかったって言ってましたよね。あの時、何かあったんスか」  何杯めかのハイボールを飲み干した常葉が訊いてきて、しばしきょとんとしてしまう。  俺が寝れなかったって? そんなこと話したかな……と言いかけながら記憶をたどると、そうだ。確かに思い出した。  あれは最初に入谷に会った翌日のこと。下半身がどうにも昂って自慰がやめられず、そのせいで寝不足になったという情けない理由で、後輩にコーヒーを恵まれたことがあったっけ。  今の今まで忘れていた。よくそんな細かい出来事まで覚えているものだ。  急に秘密の一端をつつかれて、平静を装おうとしたのに舌が(もつ)れてしまう。 「いや……あれは、仕事には関係ないことだから。今はちゃんと眠れてるから平気だよ」 「ふうん、そッスか。仕事に関係ないところでは何かあったってことスね」 「……それは」  語意を的確に掬い取られ、急に喉がからからに渇いてくる。  あった、などとは口が裂けても言えない。常葉は何かを探ろうとしているのか? なんとか違和感なく切り抜けなくてはいけない。肌の表面の体感温度がすっと下がっていく。  沈黙を破ったのは相手の方だった。こんな空気になったのが不本意だとでも言うように、頬を軽く掻いている。 「ああ、すいません。別に私生活のことをあれこれ訊く気はないんです。そんなことしたら望月さんと同類だし」 「はは、言うねえ……」  二人のあいだの雰囲気が和らいだのに安堵したのも束の間、「ああそうだ」と言葉を継がれ、心の準備をする(いとま)もなかった。 「ずっと気になってたんですけど、入谷紫音て写真家の人、男じゃないスか?」  今度こそ呼吸が一瞬できなくなった。周りの心地好い喧騒も、静かな琴のBGMも、急速に遠退(とおの)いていく。思わぬところで今日ずっと脳裏をちらついていた名前を出され、心臓がどくんと強く跳ねた。  どうしてこの流れで入谷が話題に出てくるんだ。ずっと気になってたって、なぜ常葉が入谷を気にする?  わざわざ調べたのか、入谷紫音という人間のことを。彼が男であることはホームページには載っていないけれど、おそらく新聞記事や外国のニュースを見ればすぐ分かることだと思う。ただ知るには能動的に調べる意思が必要なはずで、常葉がそこまでする理由はないはずだ。  悪い想像だが……もしや彼は何か勘づいているのか。仕事場の先輩が、得意先の責任者と、会うたびにどんなことをしているのかを。  いやいやそんなはずは、とばくばくうるさい心臓を必死に宥める。 「それは、うん。男の人だけど……?」  相槌を捻り出すと、常葉の方が(いぶか)しげに眉をひそめる。 「橘さんに"美人なんですか"って訊いた時、そうだって頷いてたじゃないスか。てっきり女の人なのかと思ってましたよ」 「いや、その……男性だけど、美人って言葉が一番しっくりくる人なんだよ」  俺は一体何を弁明しているんだ。常葉は一体何を知りたいんだ?  へえ、と何の気持ちもこもっていない感嘆を漏らして、後輩がこちらの目の奥を探るようにじっと見つめてくる。アーモンド型の形のよい目には遠慮もぶれもない。息苦しいほどの、無言の圧。時間にしてほんの数秒だったはずが、俺には何十分も見られ続けたように思えた。  ふ、と前兆なく常葉が視線を外す。間髪入れずすっくと立ち上がったものだから、こちらの胃の底が冷えた。何だ、次は。 「ちょっとお手洗い行ってきます」  そう言い残し、こちらの反応も待たずに風のように去っていく。  足音が十分遠ざかったのを確認して、ふうっと深く息を吐いた。冷や汗で湿った首筋をおしぼりで拭い取る。  今のは何だったのだろう。命拾いした、とでも独白してしまいそうな自分に気づき、ひきつった乾いた笑いがひとりでにこぼれた。  席に戻ってきた常葉は、先ほどのやり取りがまるでなかったかのように、いつもの気だるげな様子に戻っていた。  何にもあっさりしている彼のことだから、きっと先刻の件にはもうけりがついたのだろう。そういう風に解釈しておこう。  俺は相手が席を外しているあいだホッケの身をほぐしていたが、手先を動かしながら常葉に訊きたいことがあったのを思い出していた。同僚の望月が言っていた、俺が常葉の心に火をつけたらしい件である。  何か話題を振られる前に、こちらから口火を切る。 「――って望月が言ってたんだけど、常葉くんは心当たりある?」 「それを本人に訊いちゃいますか」  常葉は珍しく、はははと声を上げて笑った。白く綺麗に揃った歯がちらりとこぼれる。言葉とは裏腹に、機嫌が良さそうな笑い方だった。 「分かりますよ。もちろん覚えてます。俺、研修が終わって初めて客先に挨拶に行った時、全然愛想よくできなかったんで会社に戻ってから課長にめちゃめちゃ怒られたんスよ。その時のことでしょうね」 「ああ……」  そうだ、話を聞いたら記憶が甦ってきた。

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