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5話-2 フェイヴァリット・パーソン

「ってことがあったんだけど。常葉くんのことが好きなのかもね」  常葉が予約を入れた、個人経営の居酒屋でお通しの枝豆を摘まみながら、昼間の出来事を説明する。  店内は白木が印象的な落ち着いた雰囲気で、柔らかい間接照明と半個室という造りも相まって居酒屋というより小料理屋という趣があった。大通りに面していないからか、玄人が通うような洗練された空気もある。装飾の削ぎ落とされた皿に乗って出てくる料理はどれも美味く、アルコールも日本酒・焼酎をはじめとして多くの種類が取り揃えられていた。  この店を紹介したのは自分だが、常葉も気に入ってくれたようで、度々飲みに指定してくる。お互い食事中は煙草を吸わないと分かっているから気も楽だ。  俺が店に到着した時、首元を(くつろ)げた後輩は既にビールをジョッキの半分くらい飲んでいた。自分は車で向かったため、退勤の混雑と駐車の手間のせいで約束の時間から十五分ほど遅れていた。  こちらの顔を認めた常葉はぺこりと軽く会釈をする。 「お疲れ様です。すみません、先に飲んでて」 「うん、いいよいいよ。……すみません、烏龍茶ひとつ下さい」  冷えたおしぼりを持ってきてくれた店員さんに飲み物と適当に見繕った食べ物を注文して前を向くと、ややばつが悪そうな顔の常葉に見返されていた。 「今日、車でした? 俺ばっかり飲んで申し訳ないです」 「いや、気にしないで」  そして、半分のビールと烏龍茶での乾杯が終わり、会話の手始めに給湯室での出来事を常葉に話したのだった。  相手は「うわー」と呻いて途端にあからさまな渋面を作る。 「そんな顔しなくても……」 「だって俺、会社には仕事しに来てるんであって、恋人探しとかする気ないスから。迷惑ですよ。それ、誰ですか?」  にべもない常葉に営業事務の女性の名前を出す。いつも無表情な後輩が、はっきりした憂鬱を顔に浮かべる。 「ああ、あの人かあ。明日から露骨に冷たくしようかな」 「それはやめた方が……そこまで邪険にしなくてもいいんじゃない?」 「何言ってんスか、こういうのは好きとか言われる前に手を打っとかないと。だって仕事関係の人と付き合うとか絶対面倒だし、別れたらどうすんですか? めちゃくちゃ気まずいでしょ、俺は無理ッスね」  そう、ハーブがたっぷりの自家製ソーセージの盛り合わせをもりもり食べながら言う。最初から別れるのを前提とするのもどうかとは思うが、なんとなく気持ちは分かるので何とも言いにくい。  ごくり、と喉を動かした直後、常葉ははたと何かに気づいたように呟く。 「あ。でも、逆って可能性もあるか」 「逆?」 「橘さんが狙われてるのかもしんないですね。俺はダシに使われただけで」 「いやいや、それはないでしょう」  揚げ出し豆腐を一口大に切る手を止めて思わず笑ってしまう。  自分は常葉のように特に外見が優れているわけでもなく、同期の望月のように明るく愛嬌があって他人を先導するタイプでもない。会社では極力目立たないよう、悪目立ちもしないように淡々と生きている。(くだん)の女性とは毎日何かしら言葉を交わすくらいの関係ではあるものの、個人的に何かした覚えも特段ないし、何歳も年下にいつの間にか好意を持たれている状況なんて考えられない。  笑い飛ばした俺に反し、後輩はくすりとも笑わなかった。目を少しだけ細め、こちらを観察するようにじっと見ている。 「俺はもっと危機感持った方がいいと思いますけどね。橘さん、冷めてる割に脇が甘いから」 「危機感って……」 「そのうちぱくっといかれても知らないッスよ」  ぱくっと、て。俺は小魚か何かか?  と思った刹那、いつかの夢の光景が脳裏にフラッシュバックする。クラゲになった俺を見つめて、蠱惑的に舌なめずりをしていた青年写真家。  ないない、とジョークにしてさっぱり流してしまえれば良かったのに、入谷の顔が頭の片隅を過ったことでタイミングを逸する。俺の体のあちこちをぱくりと咥える写真家の、伏せた睫毛の輪郭を芋蔓式に思い起こしてしまいそうになる。あれらは、脇の甘さに付け入られた、と言えるのだろうか――。  いや、何を考えてるんだ。ここは店で、後輩と二人きりだぞ。変な想像はやめろ。  入谷についてはイレギュラーな案件として、常葉が言うような危機感など、会社で過ごす中で持つ必要があるとは思えない。皆の中で、俺は同僚その五かそれ以下くらいの認識だろうと思っているからだ。 「でも、今の会社に十年くらいいるけど、そんな気配を感じたこと一回もないけどなあ」 「それは橘さんが鈍感すぎるだけ」 「ええ……」  常葉は遠慮も何もなく言い放ってビールをぐびりと飲み干す。俺はなぜ、後輩に誘われた席で(しょ)(ぱな)からボロクソに言われているのだろう……。  俺には常葉が何を考えているのか今一つ分からない。こうしてサシ飲みに誘うのだから(なつ)いてくれているようにも思えるが、お互い過度に馴れ馴れしいのは不得手だし、壁を感じるシーンも少なくない。彼の発言のどこまでが本心なのかも不明瞭だ。確かなのは、二人共に深くまで踏み入っていない関係であること。なにせ、俺は常葉がどこに住んでいるかも知らないのだから。  そうやってぼんやりしていたところ、 「橘さんの気持ちはなんとなく想像できますよ。でも、他人に無関心に生きてても、他人が自分に無関心でいてくれるとは限らないスからね」 「……!」  急に冷や水をかけられたような感覚に襲われる。  お品書きに目を落としながら紡がれた常葉のそれは、うっすら喧騒が耳に届く店内にあって、マーカーで強調されたかのようにはっきりと鼓膜に響いた。きっと、俺の心境とシンクロするものだったからだろう。  他人に無関心を貫いていても、他人が持つ好意や悪感情は自分にはコントロールできない。他人は勝手にこちらを見、自分にとってどんな人かを判断し、プラスまたはマイナスの評価を下す。個々人のスタンスなどお構いなしに。それは改めて考えると、とても恐ろしいことだ。 「分かんないスよ。誰がどこであなたを見てるのか」  こちらを見上げてくる常葉の目つきには、他人の心をざわつかせる真剣さがあった。  その後の席は概ね和やかに話が弾んだ。  常葉との飲みで最も盛り上がる会話が、外回り中に見つけた飲食店情報の交換である。営業社員の一日の楽しみといったら一番は食事なので、美味しい食事情報はいくらあっても困らない。あそこの店は味はいいが、大将が店員に怒る声が聞こえてくる。あの店は接客がほどほどで干渉が少なく、居心地がいい。等々、実際足を運んでみないと分からない生の情報も得られるのがよい。  そのあいだ、後輩がここらの飲み屋で一等味が濃いと思われるハイボールをかなりのペースで飲み進めていて心配になったが、顔色は変わらないのでおそらく大丈夫なのだろう。彼は会社の飲み会にはあまり参加しないが、別にアルコールが嫌いなわけでも、飲めないわけでもない。単に場が好みでないようだ。  今まで出席率百パーセントだったのは始まる時間が毎年早い忘年会だけで、他の出席状況はばらばら。二回続けて飲み会に来ることもあれば、半年ほどまったく顔を出さないこともある。営業一課ではレアキャラとして扱われていた。そして、彼が参加する飲み会は女性陣の出席率が異様に高い。  さっき、望月が常葉に誘われないことを愚痴っていたっけ。  同期の嘆きを後輩に伝えると、途端に表情が渋いものに変わる。「ええー」と不機嫌さを隠さない口調はだいぶ刺々しい。 「あの人、俺と飲みたいんスか? よく分かんないなあ……。望月さん、毎回飲み会で俺に彼女がいるかどうか根掘り葉掘り訊いてくるんスよ。それ聞いて何かなるわけでもないのに。橘さんからもやめろって言って下さいよ」 「それは……なんか申し訳ないね。でも望月も一応、あいつなりに常葉くんのこと考えてるんだと思うからさ。あんまり嫌わないでやって」 「分かってますけど、それと好き嫌いは別問題ッス」  辛辣にばっさり切り捨てられた望月のことを、俺はひっそり心の中で憐れんだ。  そこで店員さんが料理を何種か持って来て、それを受け取りテーブルに並べながら常葉が言う。 「まあでも、たまに望月さんのこと羨ましくなりますけどね。橘さんと同期だから、遠慮ないやり取りができていいなあって」 「ああ、常葉くんの同期は営業一課にはもういないからね。やっぱり同期はいた方がいいかあ」  羨ましいという言葉にうんうんと頷く。  常葉と同年に入社した営業の後輩は、転職してしまって既に社内にはいない。別の課なら同期もいるだろうけど、携わっている業務が違うと色々人付き合いの勝手も違ってくるだろう。何だかんだ言いつつ、同じ課の同期は同じ時間を同じ環境で過ごしてきただけあって、やはり先輩とも後輩とも違う特別な存在であることは確かだ。  俺の返答に、しかし常葉は遠い目をする。

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