19 / 42
5話-1 フェイヴァリット・パーソン
入谷が一糸纏わぬ姿で俺の上に乗っている。
これは夢だな、とすぐに分かった。分かってからうっすら思ったのは、夢だから何でもできてラッキーだ、ということだった。
入谷は眉根を寄せ、何かを堪 えているような苦しげな顔をしている。それなのに頬を赤らめて、快 の混じった吐息を漏らしているのだから、それ以上ないほど扇情的な様子になっていた。そそり立った入谷の昂りからは、透明な液体がとぷ、とぷ、とあふれ出てきている。
俺の中の冷静な部分が、騎乗位になるなんて迂闊だと微笑する。上に乗るなど、自分で逃げ場をなくしているのと同じなのに。
「紫音くん、ここ? 気持ちいい?」
俺は相手のすべすべした太腿をがっちり掴み、腰を突き上げた。入谷の体が弓のようにしなる。その拍子に、ぱたた、と彼の汗が腹に降ってきた。
「ちゃんと言ってくれないと分からないよ」
彼の奥の方の襞 をじっくり味わいながら、入谷を揺さぶり続ける。口調はあくまで穏やかに、意地の悪いことを臆面なく囁いているのは、果たして本当に自分なのだろうか。入谷の喉からは甘い嬌声が間断なく漏れ出ていて、こちらの情欲を刺激し続ける。
たまらない。彼とのセックスは本当に気持ちいい。本当にしたことはないのに、それだけは確かだと断言してしまえる。
これが夢で良かった、と考えながら、俺は何回も何回も入谷の中に吐精した。
かと思えば、急に目の前の景色が転換する。次の瞬間には、俺は水槽の中で揺蕩うクラゲになっていた。なぜ分かるのか分からないが、とにかく夢なので分かるのだ。水槽のガラスの向こうには、背後に暗がりを背負った入谷がいる。その人影は巨大だが、きっと彼が大きいのではなく俺が小さくなっているのだろう。何せ俺はクラゲなのだから。
うっそりと笑う入谷が細い指先を差し出すと、ガラスの壁をやすやすと潜り抜け、俺の傘の部分まで届く。そこを指先でつんと弾かれて、水中で体勢を崩してしまう。入谷の反対側の手には、先日見たばかりの黒文字 が握られている。ああ、俺はあれで水羊羹か何かのように切り分けられて、彼の赤い舌に乗せられ、狭い消化器官を押し流されていき、末には入谷の体の一部になるのだろう。その未来を思うと、悪くない気分になるのだった。
入谷紫音。彼に食われるなら本望だ。
目元を弓形 に笑ませながら、俺を見下ろした入谷がちろりと舌なめずりをした。
夢の中の俺はどうかしてるんじゃないかと度々思う。先日入谷がうちに来てからというもの、嗜虐的だったり倒錯的だったり、これまでの自分では想像もできなかった内容の淫夢を見ることが多くなった。あれから彼とは顔を合わせていないにもかかわらず、だ。
俺すら知らない自分の内面を暴かれて、触れられて、意識させられる。それに、快感を覚え始めている自分がいる。
入谷とのいかがわしい行為は辞めようと決意しているのに、夢とはいえ進んでセックスを楽しんでいるのはどう考えても駄目だろう。自己矛盾に陥っている。流されすぎだ、それこそクラゲじゃないんだから。
頻繁にそんな夢を見るのに、毎日の仕事は淡々とこなせるのだから人間というものはなかなかよく出来ている。
昼休み中に会社に戻ると、廊下ですれ違った後輩の常葉に声をかけられた。
「あ、橘さん。ちょうどよかった」
「何かあった?」
「今日の夜空いてますか。仕事終わったらメシ食いに行きません?」
彼からの食事の誘いは珍しくない。彼を連れ回す先輩社員は何人もいるが、彼から誘われるのはおそらく、今のところは俺だけだ。
今日は長引きそうな案件はないし、断る理由もない。
「うん、大丈夫だよ」
「じゃ、店は予約しとくんで。十九時スタートでいいスか? 場所とかは後でメールします」
了解、とほとんど業務連絡に近いやり取りをしてそのまま別れる。と、背後からぬっと伸びてきた腕に肩を掴まれた。
「たーちーばーなー」
「うわ、なんだよ」
俺の名前に恨めしげな節をつけて登場したのは同期の望月である。じっとりした湿った流し目で俺を睨んできた。
「なんだよは俺の台詞だよ。なんで常葉の奴、お前ばっかり誘うわけ? 俺一回も声かけられたことないよ? しかも俺から誘っても全部断られるしさあ。あいつが新人だったとき指導したの俺だぞ? おかしいだろ~なあ~」
なあ~と体を揺すられても俺の知ったことではない。課の飲み会の時に彼女がどうたらだの、お酒の席のセオリーだの、そういう話題を常葉に振っているから煙たがられていることは端から見れば明白なのだが、それを言ってやる義理もない。
望月は人の耳を憚 るように声を低く潜める。
「ていうか、あいつ絶対俺らのこと内心じゃ馬鹿にしてるよな。橘と話すときの口調も舐めてるしさあ」
「うーん、そうかなあ……。俺は違うと思うけど」
常葉のあの気だるい口調は素のもので、別に先輩を舐めくさっているから出ているのではない、と俺は理解している。内心で俺たちをどう捉えているかを知る術 はないため、完全には否定できないが。
同期の男はふうと深く息を吐く。
「顔がいい奴はいいよなー。それだけで苦労しなくて済むんだから」
羨望と批難混じりの調子に、今度ははっきりと拒絶の気持ちが湧いて出てきた。「それは違うだろ」と強く否定する。さっきはきっぱり否定できなかったが、常葉が仕事ができるのは顔が整っているからではないし、苦労していないわけでもないことを、サシ飲みの場で色々聞いている俺は知っている。望月の意見も本気ではないと分かってはいたが、ただの難癖のような言葉を容認できなかった。
「彼自身の能力と、顔の良さ云々 は何も関係ないよ」
望月は気圧 されたように身をわずかに引いてから、大袈裟に肩を竦 めてみせた。まるで洋画の登場人物のように。
「そんな怖い顔すんなって、ジョークだろジョーク。そこはあれだよ、"望月だって同じくらいイケメンだよ"って言うべきだと思うぞ。なあ、橘センセイよう」
「お世辞でも絶対言わない」
「なんでだよ~」
うざったい同期をやっとのことで振りほどき、コーヒーを淹れるため給湯室に向かう。そこの作業台がびちゃびちゃに濡れていたものだから、布巾を出して拭いていると「あの……橘さん」と後ろから声がした。
振り返ると、二畳ほどの狭い給湯室の出入口から、営業事務の女性がおずおずといった様子でこちらを窺っていた。社歴は常葉より長いはずだが、営業事務員には彼女の後輩がいないからか、どこか新入社員っぽさが抜けきっていないように見える人だ。
今日はよく声をかけられる日のようだった。
「そこ汚れてましたか? すみません、気がつかなくて」
「ああ、いえいえ」社内清掃は外注しているが、こういうところは内勤の社員がこまめに掃除しているはずだ。だからといって、営業が見て見ぬふりをしていいとは思わないが。
「自分の後に来た人に僕が汚したと思われるのも嫌なので。あ、ここ使います? 退《ど》きますよ」
「あっ……いえ」
「?」
一旦場所を譲ろうとしたものの、何やら決然とした目で見返されて足が止まる。相手は一度深めに呼吸してから、言った。
「橘さん、常葉さんとお食事行かれるんですよね。それ、私もご一緒できないでしょうか」
「え、今日ですか?」
予想もしない申し出に面食らう。と同時に、ははあなるほど、と納得の気持ちも生じた。
常葉は社内では冷淡な印象だが、長身で顔立ちも整っている。冷たいとはいえ他人を困らせることはしないし仕事もできるのだから、好意を持たれるのは自然な成り行きと言えるだろう。それを彼が喜ぶかどうかは別の話だが。
彼女は先ほどの常葉と俺の会話を耳にしたのだろう。そこで意を決して、でも常葉に直接持ちかけるのはハードルが高いので俺に話しかけてきた、そんなところだろうか。さすがに向こうから誘われておいて、勝手に参加人数を増やすことはできないけれど。
「うーん、僕の一存では決められないので……。今日この後会った時に、別の日ならどうか訊いてみることはできますが」
「じゃ……じゃあ、よろしくお願いしたいですっ。よろしくお願いします!」
勢いよく下げられる頭を見下ろしながら苦笑いする。俺も面倒な役回りを仰せつかったものだ。
ともだちにシェアしよう!