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4話-6 ジェリーフィッシュ・ライフ

 洗面所に寄ってからドアへ向かう間にも、招かれざる訪問者はずっとインターホンを押しまくっている。あまりにも遠慮のない音の間隙を縫うように、 「まーくうん、いるんでしょー? 私だよー、居留守は通じないからね~」 「げ、つぼみ……」  ドアの向こうから聞こえてきた声に、俺は思わずげんなりした。自分をまーくんと呼ぶ人物はこの世に一人しか存在しない。  観念するように扉を開くと、思った通りそこには見知った顔があった。能天気に片手さえ振って見せる姿に、ぐらっと憤りが湧く。 「やっぱりいるんじゃん。久しぶりー」 「あのさ、何回も鳴らさないでくれる? 聞こえてるから」 「ごめんごめん、お邪魔しまーす」 「おい、勝手に……」  家主の制止も聞かず、ボストンバッグを肩に提げたつぼみがずかずかとリビングへと上がり込んでいく。何回も来ているから自分の家と同じような感覚なのだろう。勝手知ったるなんとやら、だ。 「あれ?」  リビングのドアを開けたつぼみが高い声を上げる。嫌な予感がして肩口越しに部屋の中を覗くと、衣服を綺麗に正した入谷が背筋を伸ばし、ダイニング部分のテーブルに就いていた。  この二人をこのタイミングで鉢合わせさせてしまうなんて。最悪だ。頭を抱えて(うずくま)りそうになる。  こちらへにこやかに振り向いた入谷の顔には、柔らかだが有無を言わさない調子で「どなたですか?」と書かれていた。  つぼみはそれには気付かずぷりぷりと怒り始める。怒りたいのはこっちなのだが。 「ちょっと、まーくん! お客さんが来てるならそう言ってくれないと。恥ずかしいでしょ」 「はあ……そっちが言わせなかったんだろ。すみません、入谷さん」  こちら、俺の姉のつぼみです。  と紹介すると、彼の目がひどく驚いたように見開かれる。そういう反応には慣れていた。俺たち姉弟を始めて目の前にする人は、大抵がそんな表情を浮かべる。 「そうでしたか。初めまして、僕は橘さん――柾之さんの友人の入谷紫音といいます。……ええと、何と言いますか」 「あー、仰りたいことは分かりますよ」 「全然似てないと思ったでしょう? 私たちも似てないと思ってます」  そう、自分たち二人は似ていない。誰しもが驚くくらいの似ていなさなのだ。  年齢は三才違いで、姉は既婚者、実家暮らし。顔の造作はそこまでかけ離れているわけではないが、とにかく性格が違いすぎる。  能動的に目立たない生き方をしている弟とは対照的に、姉は耳目(じもく)を集めるのが何よりも好きで人前に出たい目立ちたがり屋。つぼみという名に反し、蕾のような奥ゆかしさは微塵も持ち合わせていない。弟が評するのもなんだが、顔立ちは十人並みなのに、立ち居振る舞いにどこか人目を惹く華やぎがあるのは確かだ。  中学の時に姉が務めていた生徒会長の仕事ぶりは、保護者の耳にも届くほどだった。姉の卒業後に入学してきたあまりに性格の異なる弟を目の当たりにし、教師陣が肩を落としたというエピソードもある。思えば中学三年間は姉との比較に反発して周囲に刺々しい態度を取っていた。今となっては未熟だった青い春の黒歴史そのものだ。 「でもちょっとびっくりしたな。まーくん同世代の友達いたんだねえ、意外~」  さも驚いたようにつぼみがまじまじと俺の目を見てくる。姉は良くも悪くも思ったことをストレートに口に出す人だった。  頼むから余計なことを言わないでくれ。 「それで入谷さん? とはどういったお知り合いなの? 仕事関係?」  尋ねてくるのを無視するわけにもいかず、俺は一旦押し黙って考えた。仕事上の付き合いと言えばそうだが、そもそもの出会いはギャラリーだ。取引先の責任者が友人としてこの場にいる、と説明したら少々不自然に思われるかもしれない。この図々しい姉にどこまで説明すべきか?  言い分をまとめていると、先に口火を切ったのは入谷の方だった。 「僕は写真家でして、街のギャラリーでやっていた個展を偶然見かけた柾之さんが、写真を気に入って下さったんです。そこから交流が生まれて、今は仕事で使う薬品も柾之さんの会社から納入してもらっています」 「写真家の方なんですか、すごい! 弟には縁がなさそうな世界ですけど、ちゃんと仕事やれてます? 芸術とか全然興味ないから、この人は」  それは自分もだろ。  無言で突っ込みを入れながら俺は勝手にハラハラしていた。入谷がどこまで説明するのか、耳を大きくして聞いていたからだ。入谷の言葉はすごく清廉で、爛れた関係の気配すら漂わせていない。ひとまずホッとしたのも束の間、入谷が立ち上がって辞去の旨を口にした。 「ご姉弟の邪魔をするのも恐縮ですから、僕はそろそろお(いとま)させて頂きますね」 「あ、いや、そんな」  目礼をしながら入谷が自分の脇をすり抜けていく。  俺は慌てて玄関までその背を追った。前回に続き再びこんな形での別れになるとは、そういう星の下にでも生まれたのかと疑ってしまいたくなる。 「入谷さん、こんな形になってすみません。姉のせいで……慌ただしくて申し訳ない」 「いえ、今日はあなたのおうちに来られて良かったです。では、またオフィスで」 「はい……また」  入谷は蝶が飛び去るように呆気(あっけ)なく、残念な素振りを見せることなくさらりと帰っていった。俺はなんだか拍子抜けして、取り残された気分になった。自分でもなぜ、心の栓が抜けたような気持ちになるのか分からない。  未練がましくしてほしかったのか? 姉に対して怒りを見せてほしかったのか? 俺は、入谷に執着してほしかったのだろうか。  釈然としない心のまま、リビングに戻る。姉は既にリラックスした様子で二人掛けのソファに座り、スマホを弄っている。小言のひとつやふたつ言ってやらないと気が済まなかった。 「来るのはいいんだけどさ、事前に連絡してくれない? こっちにも都合があるんだから」 「電話したよ~? 今から一時間前くらいに」  それは事前と言うのか? 一時間前といえば既に入谷が来ていた時分だ。スマホはサイレントモードにしていたので気づけなかったのだろう。  溜め息を吐きつつ自分も一人掛けのソファに座る。姉はどこかに連絡をとっているらしい。スマホの操作に合わせて明るい色のボブカットの毛先が揺れている。 「で、また旦那さんと喧嘩したわけ?」 「旦那さんて。他人行儀だなあ。そろそろお義兄(にい)さんって言ったら?」 「そんな風に呼べるほどまだ親しくないよ」 「まあ、まーくんもうちのも人見知りだからねえ」  つぼみは訳知り顔でうんうんと頷く。人見知り、なんて三十路過ぎの男に使う言葉ではないが、反論もできないので黙っておいた。姉と比べればほぼすべての人間は人見知りの範疇に入ってしまうだろうが。 「それで? いつまでここにいるつもり?」 「んー、明日中には帰るよ。はーあ、帰る実家がないとこういうとき困るんだよね」  姉は言わば婿をとった形で実家に住んでいるが、たびたびこうして家出してくる。転がり込む先は弟宅だけでなく友人宅をローテーションしているらしい。  姉によるとそこまで重大な喧嘩はしたことがなく、彼女自身が頭に血が昇りやすい性格なので少し冷却時間を設けているだけ、とのことだったけれど、それが世間一般の夫婦においてよくあることなのか俺には分からない。夫婦仲が良好なのは今のところ確かであるようだが、元は他人の家に義父母と残されている義兄の心境を思うと、同じ男として同情したい気持ちになる。  俺の思索など想像もしていないだろうつぼみが、ぽいとスマホをテーブルに放った。そういえばさ、とワントーン明るくなった声に嫌な予感がする。 「入谷紫音さん? すごく綺麗な人で驚いちゃった。まーくんとは住む世界が違うっていうか。写真家さんって本当? なんかモデルとか、芸能人みたいにオーラがある人だよね。ねねね、そういう活動はしてないの? どんな人? どうやって仲良くなったの? もっと詳しく聞かせてよ」  入谷への興味をあからさまに出され、頭が痛くなってくる。姉は人並みに芸能人の結婚話やゴシップが好きなタイプの人間だから、こうなるのは目に見えていたのだ。なんでこのタイミングで夫婦喧嘩なんかしたんだと夫婦共々恨みたくなる。 「そんなの聞いてどうするんだよ」  問い返す声は自分で思ったよりもきつくなり、詰問めいた響きを帯びた。つぼみは刹那、(ひる)んだ表情を見せる。 「どうするって……別に、どうもしないよ。ただの世間話でしょ? 弟の友達のこと訊いて何か悪いの?」  悪いわけでは……ないだろう。しかし三十路を超えて友人の話をきょうだい相手にするものか? そのもやついた感情を抜きにしても、入谷に関することを他人に知られるのはどことなく面白くなかった。  はあ、と嘆息して額に手を添える。こうなると少しは情報を渡してやらないと姉は追求の手をやめない。 「別に……ちゃんとした真面目な写真家だって。ホームページに顔写真を載せてないくらいだから、芸能活動もしてないと思うよ。仲良くなったのは……向こうから色々、声かけたりしてきてくれて。それだけ」  まさか自分が彼の写真で性的に感じてしまい、その後も友人同士ではしないような行為を繰り返している、とは口が裂けても言えない。 「へえ~、あんな綺麗な人がね……。まーくんのどこを気に入ったんだろうねえ」 「さあね」  一目惚れした、という彼の言葉はどこまで信用できるのだろうか。  そこで姉が沈黙し、じっと俺の顔を見つめてきた。なんだ? 相手は眉をひそめ、不審そうにしている。 「なんか話を聞いてたら怪しい気がしてきた。本当に友達なの?」 「え。本当にって」  まさか、これまでの話で勘づいたとでも言うのか? 冷や汗が滲み出る。背中あたりがすうっと冷えた。  姉は一転して真面目な調子で切り込んでくる。 「まーくん、騙されてるってことはない? そのうちたっかい健康食品とかネズミ講の商品とかさ、買わされるんじゃないの? 気をつけた方がいいんじゃ」 「彼はそんな人じゃない」  皆まで言わせず俺は途中で遮った。何も知らない姉に、入谷を悪く言われるのは我慢ならなかった。  どうしてだろう、俺だってそんなに彼のことを知らないのに。  厳しい否定に驚いたのだろう、つぼみは一瞬ののち表情を和らげる。 「ごめんね。怒らせるつもりじゃなかった、今のは忘れて。本気で疑ったわけじゃないから」 「……うん、分かってる」  怒らせる? いま俺は怒っていたのか。他人のために怒ったことなど、ここ数年は少なくともなかった。入谷と知り合ってから、戸惑うことばかりだ。  つぼみが来なかったら俺は、入谷と一線を超えていただろう。俺は、入谷とどうなりたいんだろうか。このこそばゆいような落ち着かない気持ちは、一体何なのだろう。 「ねえまーくん、何か食べるものない? お昼食べてなかったからおなか空いちゃった。カップ麺でもいいよ」 「せめて何か買ってくるもんじゃないか? こういう時……」  能天気な姉に呆れ返りながら、食糧探しをするため席を立つ。  俺の脳内では、入谷との関係を真剣に考えないと、という思いがぐるぐる渦巻いていた。

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