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6話-2 バッド・ガイ

 気持ちを切り替えなければいけない。これから久しぶりに入谷のオフィスを(おとな)うのだから。  俺への好意を隠さない青年写真家からは、自分の用件はできる限り一日の最後にしてほしいと要望が出されている。それはつまり……そういうこと、だろう。  仕事相手と会うたびにいかがわしい行為を繰り返す。不健全な関係だと十全に理解してはいる。けれど、頭では理解していても、本能的な部分で体が疼いてしまう自分もいるのだ。  駄目だと分かっているからこそ生じる、背徳的な快感という底無し沼めいた深淵に、俺は足を(ひた)しつつあるのだろう。さらなる深みに進むのも、(ただ)れた感情を振り切ってきっぱり陸地に戻るのも、だらだらと先伸ばしにしている。これまでもずっとそうやって、クラゲのように流され生きてきた。行き着いた先で、いつか手酷い精算を迫られる時が来ると予感しながら。  俺は悪い男だ。  入谷の前の客先で、営業の自分には手に負えない機器トラブルが発生してしまい、技術畑の同僚に引き継ぐのに時間を取られた。薬品汚れのついた作業着を見下ろす。入谷の小綺麗なオフィスにはこの格好で行くのを避けていたのだが、予定が押してしまっては一度社内に戻ることもできない。  社用車のシートで入谷に断りの電話を入れることにした。 「はい。入谷です」と受ける声音はごく普通で、久しぶりに会話する高揚は感じられなかった。 「入谷さん、申し訳ないんですが、今日そちらに作業服で伺っても大丈夫でしょうか? 薬品の汚れも少々ついてしまっている格好なんですが……」 「もちろん構いません。うちでも色々な薬品は使っていますし気にしませんよ。わざわざ断らずとも、橘さんの都合のいいようになさって下さい」 「では、ありがたくそうさせてもらいますね」 「今まで気を遣って下さっていたんですね。僕は橘さんの作業着姿を拝めるのは嬉しいです」 「……っ」  また、入谷お得意の不意打ちだ。何気ないところに趣味嗜好の話を差し挟んでくる技量は、ある意味で天賦の才かもしれない。 「そんな、良いものじゃありませんよ。うちのはよくある平凡な作業着ですから」 「ふふ、デザインが問題なのではありません。それでは、また後ほど。楽しみにしていますね」  そうして電話は切れた。どれだけこちらの気持ちを掻き乱したら気が済むのだろう、彼は。速まった心拍を抑えるために深く吐いた息には、夏の名残ではない熱が混じっていた。  日を置いて接する入谷の涼やかな容貌と佇まいは、何度目であっても真新しい感慨を俺にもたらす。  今日の彼は柔らかそうな素材のシャツに、光沢のある深いブルーのベストとスラックスという格好で、ほんのりした微笑と共に出迎えてくれた。嬉しげに細められた瞳で、そのまま頭から爪先まで舐めるように眺め回されるのでやや気まずい。  こちらの格好といったらグレーなのかくすんだグリーンなのか、何とも言いがたい色の作業着の上下なのだ。そんなに目新しいものでもなかろうに。 「作業着、良いですね。まさに働く男といった雰囲気で」  笑みを深くして満足そうな入谷に、はあ、と曖昧な返事を返すことしかできなかった。  前回のように応接スペースに通され、持ってきた薬品の検品をしてもらう。サインを貰い、事務員の須藤さんがアイスコーヒーを持ってきたところで、入谷がふいと視線を外した。 「須藤さん、今日はもう上がっていいですよ。片付けは僕がやっておきますから」  須藤さんはごく自然な様子でその申し出を受け入れた。「お疲れ様でした」とその場で頭を下げてから、自分の机へ移動していく。その際にこちらをちらりと見やる彼女の流し目は底が深く、雇い主とのあれこれを全て見透かされているようで、どうにも座りが悪かった。  ソファの上でもぞもぞするこちらに構うことなく、入谷は話題を別のものへ移す。 「橘さんにお持ち頂いた薬品でカラープリントの試作品を作ったんです。良かったらご覧頂きたいと思いまして」 「ああ、それはぜひ拝見したいですね」  そうだ、最初に作品の相談役としてこの仕事を仰せつかったのを忘れかけていた。そのお鉢がやっと回ってきたということか。  自分に入谷の相談役など務まるとは思えないが、彼のカラー写真の仕上がりを見てみたい気持ちは確実に存在する。モノクロ写真であれだけ情緒を表現できる人が、カラーで作品を作ったらどうなるのか。  身を乗り出す俺に、入谷は意味深長なほほえみを向けてきた。 「それでは僕の家にお出で頂けますか。現像した写真はそちらに保管していますので」 「それは……はい、もちろん」  ああ、やはりこういう流れになるのは避けられないのか。思わず天を仰ぎそうになるものの、これは仕事の依頼だ、(やま)しいことを考えるな、と己に言い聞かせる。直近で入谷と会った自分の家では空気に流され、相手の(なまめ)かしさに当てられ、結局セックスする寸前まで行った。あのような痴態は繰り返してはならない。絶対にだ。  考えない考えない、と心の内で復唱しながら入谷の後に続く。  彼の生活空間は相変わらず綺麗に整頓されていた。俺の部屋のように物がなさすぎて殺風景なわけではなく、趣味を窺わせるものはたくさんあるのに不思議と統一感があるのだ。  入谷は俺をリビングのソファに座らせると、ダイニングへと一旦下がっていく。そのあいだにちらと常葉の顔が(よぎ)ったが、相談できるような雰囲気ではないなと思い直す。切り出すにしてもタイミングを見計らわねばならないだろう。  一旦奥へ引っ込んだ入谷はいつものようにお茶菓子でも持ってくるのかと思ったが、戻ってきた彼の手の中にあったのは、ラッピングされた薄い箱形の包みだった。  入谷はそれを胸に抱くようにしてはにかみ笑いをする。初めて見る表情だ。 「本題の前に、橘さんにお渡ししたいものがありまして」 「えっと、それは……?」 「僕からのちょっとしたプレゼントです」 「えっ」  予想外の単語に瞠目する。プレゼントとはどういう意味か。 「いやそんな、私は何かを頂くようなことは何もしていませんから。受け取れません」 「僕がただ、あなたにプレゼントしたいだけです。言わばこれは僕のエゴです。どうでしょう、年下の男のわがままと思って受け取って頂けませんか」  眉尻を下げ、困り顔の相手の口元には、目元に反していたずらっぽい笑みが浮いている。誘うような蠱惑的な表情でそこまで言われ、固辞できるような強い精神の持ち主でもない。貰っておくのが礼儀だろうと自分を納得させ、包みを受け取った。  箱には思った以上に重量がない。中身は紙か、布だろうか。 「良かったら、この場で開けてみて頂けますか」と促され、包装紙を破かないよう慎重に開封すると、中身はブランドもののネクタイだった。普段無難なレジメンタル柄ばかり締めている自分が絶対に選ばないような、複雑な幾何学模様が織り込まれている。 「あの、ありがとうございます。さすが趣味が良いお洒落なネクタイですね。今度使わせて頂きます」 「今度? そんなこと仰らずに、今使えばいいでしょう?」 「え……」  入谷が俺の隣に腰を下ろし、至近距離からこちらの目を覗きこんでくる。咄嗟に動けない俺を尻目に、彼の長い指が首元に伸びてきて、何の変哲もない柄のネクタイを抜き去った。そのまま右手が作業着のファスナーをジーッと下ろしていく。  この距離で服を脱がされるのは心臓に悪かった。上着の前を開けられているだけなのに、なぜだか裸に剥かれるような羞恥を覚える。  入谷からは相変わらず高級そうな香水の薫りが漂ってきて、くらくらしてしまう。 「入谷さん、自分でできますから」 「どうぞ遠慮なさらず」  泣きぼくろのある目元を笑ませて俺の抗議を突っぱねる。これが遠慮でないことくらい分かっているくせに、入谷の態度は飄々としたものだ。  彼は箱からネクタイを取り出すと、俺の首元に手早くネクタイを巻いていく。結び目に視線を落とす入谷は存外に真剣な面持ちをしていて、高山に咲く花のような凛とした雰囲気にどきりとしてしまう。どぎまぎしているうちに、やっと入谷の体は離れていった。  上体を仰け反らせて相手は俺の上半身を()めつ(すが)めつ眺める。 「うん、お似合いです」  そう評する顔は満足げだった。入谷の笑顔につられてほっと一息ついたのも束の間、あっと思う暇もなく真新しいネクタイを引っ張られて、入谷の唇と俺のそれが重なった。  触れるだけの軽いキスだったはずなのに、長々と唇を交わしていたように感じたのはなぜだろう。 「ちょ、ちょっと! 何するんですか」 「おや、足りませんか?」  そんなこと誰も言っていない。入谷がこちらへしなだれかかってきて、先ほどより深くお互いが交わる。じわ、と自分の中のものが熱を帯びるのが感じられ、口の端から吐息が漏れる。入谷の指が厚い作業服の上から下半身に優しく触れてくるのがもどかしかった。  もっと、直接――。  いや、違う。俺はこんなことをするためにここに来たのではない。  理性を手繰り寄せて入谷の体を押し返す。 「入谷さん、写真! 写真を見せて下さい」 「ふふ、分かっていますよ。相変わらず真面目ですね」  入谷が面白がるように言い、つややかな黒髪を掻き上げて耳にかける。白い頬は上気して赤らんでいた。  表情にやや残念そうな色が混じっているように感じられたのは、俺の勘違いだろうか。  ともかく、ようやくこれで仕事の話ができる。入谷が運んできたケースに入ったカラー写真は、一枚一枚薄紙で挟まれていた。  誇張でなく期待に胸が弾む。入谷の撮るカラー写真なんて楽しみでしかない。 「では、どうぞごゆっくり」 「拝見致します」  薄紙をめくって写真を一目見て。  う、と漏れかけた声を掌でかろうじて抑えた。

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