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8話-8 スタート・ポイント

 好ましい気だるさを感じながら、「ごめん。ちょっと水飲んでくるね」と身を起こす。  洗面台の鏡を見ると、自分とは思えないほど締まりなくにやけていて遠い目になる。でも、仕方ない。一緒に気持ちよくなれたことが、途轍(とてつ)もなく嬉しいのだ。  コップ一杯の水をごくごくと飲み下し、何枚か重ねて用意されているタオルで汗ばんだ体を拭く。  ベッドのある部屋へ戻ると、恋人は先刻とは逆に上半身裸の姿で窓辺に立ち、カーテンを開けて大きなガラス窓から外を見ていた。  宝石をばらまいたような夜景よりなお美しいシルエットに何秒か見とれる。入谷の後ろ姿はほっそりとしているが、肩や背中などに男性的な筋肉の隆起もちゃんとある。さっきまであの体を抱いていたのか、と思うとまた、下火になった炎が赤熱する心地がした。 「何か、面白いものあった?」  低くゆっくり尋ねつつ、後ろから全身を抱きすくめる。腕の中で肩が跳ね、総身が身動(みじろ)ぎした。 「いえ、特には……」  そっか、と応えながら入谷の寝間着のボトムスの中へ右手を差し入れる。股間に手を伸ばして、下着の上からそこを扱いてやると、先ほど出したばかりだというのにすぐに反応して固くなってきた。ギャラリーで二回目に会ったときとシチュエーションは似ているが、位置が完全に逆転している。  俺の鼻先でしっとりした黒髪が悶え、乱れる。  甘く、高くなった声が入谷の声帯から絞り出された。 「や、柾之さん……」 「嫌? だったら、やめる?」  優しく問うと、相手はふるふると小刻みに頭を横に振る。何かを我慢しているような、本当に小さな動きだった。 「そ、うではなく……直接、触ってほし……」 「うん、了解」  下着から上向きつつある昂りを取り出す。既に先端から先走りがあふれていて、俺の手を濡らした。親指でそれを塗り広げ、握った手を往復させれば、そこはくちゅくちゅと淫猥な音を立てて悦ぶ。 「すごい。もうとろとろだね」 「……っ、んん……」  吐息に熱がこもり始める。眼前にある薄い耳たぶが真珠みたいに妖しく光って見え、誘われたように優しく歯で挟む。  と、入谷の全身が突然びくりと跳ねた。こちらが驚くほど顕著な反応で、それを意外に思う。彼の息はいつの間にか、ものすごく荒くなっていた。握りこんだ昂りもぴくぴくと震え、張り詰めている。 「紫音くん……?」 「あ……名前、呼ばないで……っ」  薄明かりの下でも、彼の頬や耳の先が真っ赤になっているのが目に見えた。ふと思いついて、今度は耳介に舌先を這わせる。やはり彼は著しい反応を示し、体から力が抜けたと見えて、窓ガラスに手をついて下半身を支えた。それでも腰から(くずお)れそうになるので、体を支えてやらないといけなかった。  ふ、と耳の裏に息を吹きかける。 「紫音くん、耳弱いんだね」 「言わないで、下さい」 「もしかして、紫音くんが俺にしてきたことって、自分にしてほしいことだったりする?」  尋ねると入谷の体がわずかにこわばる。彼は恥じらいのためか、ふいと顔を逸らす。 「……それは、どうでしょう」 「はぐらかすんだ?」 「……っ」  固まった総身を抱き寄せ、横顔を間近で見てはっとした。目の表面が潤んでいる。俺は彼を攻め立てたいわけでも、泣かせたいわけでもない。 「言いたくないなら訊かないよ。ごめん」  頬に軽く口づけて入谷の体を解放する。彼は目を潤ませたままで気丈にほほえんでみせた。 「あなたは優しすぎます。そこは"だったら体に訊こうかな"になるんじゃないですか?」 「……それはさすがに、俺には言えないって」  本人から斜め上の台詞が提示されて笑ってしまう。請われたり命令されたりしたら言えなくもないが、真顔で言いきるにはかなり精神力を奮い立たせないといけないだろう。  入谷はカーテンを閉めて俺をベッドに誘う。 「柾之さんの、そういう優しいところも好きですけどね」 「それなら、良かった」  布の海に二人して倒れこんだ。鼻先を触れ合わせて戯れながら、夜の長さに感謝する。  カーテンを通した柔らかい光の中で目を覚まして、一瞬ここがどこだか分からなくなった。  隣ではすうすうと寝息を立てて入谷が寝ている。そうだ、昨日はホテルのレストランで食事をして、同じ部屋に泊まって、結局片方のベッドはろくに使わず終いで……。さんざん体を重ねたのが、清潔な朝日の下ではまるで幻みたいに思える。  しかし、夢ではないのだ。俺たちは恋人として、きっと一歩先に進んだのだと確信を持って言える。  まだ眠りの中にいる彼のなめらかな頬をそっと指先で撫でてみる。そういえば寝顔を見るのは初めてだ。美人は寝姿も綺麗なんだななんて、この気持ちは決して恋人贔屓ではない、はずだ。  ホテルに備え付けの時計を確認すると、八時半を少々過ぎている。このまま起きてもいいが、まだ幸福な惰眠を貪ってもいい。どうしようか、と考えを巡らせていたところで、薄い瞼がぱちりと開いた。 「おはよう、紫音くん」 「……おはようございます、柾之さん」  朝一番の挨拶の声は少し(かす)れていて、それが妙に愛しく思えた。  入谷が身を起こすと、布団がめくれて眩しいほど白い肌があらわになる。当然と言うべきか、彼も俺も何も着ておらず、昨夜は薄暗い部屋でしか全身を見ていなかった目に、その(なまめ)かしい肢体はほとんど毒だった。  どうかしました?と言わんばかりの流し目と小悪魔的なほほえみに、昨夜の残り火がじわりと再び熱を持つ。 「紫音くん、チェックアウトは何時なの?」 「十時ですよ」 「じゃあ、もう少しできるよね」  耳の下に手を添えながら、むくむくと湧き上がる気持ちを抑えながら囁く。  入谷には言葉の意味が正しく伝わったようだ。爽やかな好青年の顔から、ぎらついた光を目に宿す狩人の顔へ、一瞬で変貌する。 「おや、まだ足りないんですね? 昨日あんまに何度も僕を揺さぶっておいて……柾之さんのえっち」  咎めるような言葉に反し、響きは甘くとろけている。舌なめずりをするみたいにちろりと覗いた舌が、いやに生々しかった。  入谷が俺の上に乗ってくる。ずしりとした体重が好ましい。 「それは、紫音くんが相手だからだよ……君以外の人にはこんな風じゃない」 「嬉しいですね。願わくば、僕だけ見ていてほしいです」  何回目とも知れない口づけを交わす。朝の光に照らされながら交わる背徳感に、体が燃え上がるようだ。  夜と朝の累計で、消費したゴムの数は二人合わせて二桁に到達し。  その代償として、俺たちは朝食を食べ損ねることになった。自分のあまりの間抜けぶりに溜め息も出ない。 「ごめん、せっかくのホテルの朝食を、俺のせいで……」 「いえ。応じたのは僕ですから。……それにしても、あなたの絶倫ぶりは予想以上でしたね」 「い、いや、俺はそういうんじゃないから! ……たぶん」  落ち込む俺を慰めているのか何なのか、入谷はにっこり笑って平然とそんなことを言うのだった。  互いに気持ちを伝え合い、肌を触れ合わせ、セックスをして。上手くいかないことも多々あったけれど、彼が笑ってくれているから良しとしよう。  でも、俺たちの関係はきっと、これがゴールではない。  ここがスタート地点で、通過点なのだ。

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