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番外編 バレンタインデーの話

 金曜日の教室。いつもより何やら皆が浮き足立ち、賑やかな雰囲気に包まれている教室内で志月は自分の前の席である須藤の相手をしていた。彼はわいわいと何かと交換し合う女子を見つめ、深く溜息を吐く。その様子を志月は首をかしげ、須藤が話し始めるのを待っていた。 「志月、明後日ってバレンタインだよなぁ」  明後日の二月十四日はバレンタインデー。当日が日曜日であるためか、志月のクラスではバレンタインデーのチョコレート受け渡し大会が本日二月十二日の金曜日に執り行われていた。  いまいち明るい顔をしていない須藤に志月は口の端を上げると冗談めかしく言葉を口にする。 「悪いけど、俺から須藤くんへあげる分はないんだ……ごめんね」 「いいよ。別に志月からのチョコはいらねぇよ。そうじゃなくてさ」  須藤の視線の先にはチョコレートやクッキーを机の上に広げている女子達の姿があった。お茶の入ったタンブラーを片手にお菓子をつまみながら談笑する景色はまさにお茶会だ。だがその輪に男子生徒の姿は見られない。完全に乙女の園が教室の一角に形成されていた。  それに須藤は大きな溜息を吐き志月の方へ向き直った。 「昨今の「友チョコブーム」のせいでさ、女子が最早チョコを男子に渡してくれなくなっている現状が今あるわけですよ。これは由々しき問題では?」 「朝のホームルームの時、橋本さんと松下さんがクラス全員にチョコ配ってくれたじゃない」 「そうだけどよぉ……」  机の上に大切そうにホームルームの際に橋本と松下がクラスのみんなに配った金貨をもしたチョコレートを置いている須藤。そんな彼の声が届き、彼を不憫に思ったのだろう。お茶会に参加していた女子生徒が二人。こちらへと歩み寄ってきた。一人の手には短い棒。カラフルな丸いチョコレートがたくさん入っている入れ物である。 「おうおう、哀れな男子たち。そんなに欲しいならチョコを恵んでやろう」 「あざます! 花梨様あざます!」 「私もー」 「田崎さんもあざっす!」 「はい、志月くんにもあげる」 「ありがとう」  男子二人は花梨からカラフルなチョコを、田崎からコーヒー豆の形を素手で受け取る。初めは砂漠で水を恵んで貰ったかの如く満ち足りた顔をしていた須藤だったが、志月の手を見た途端その顔が引きつった。 「あの、二人とも、どうして俺のチョコは一つずつで志月は五つとか六つなのでしょうか?」 「志月くんには日頃お世話になってるもん。この前もストーカー彼氏撃退してくれたし」 「私も。志月くんのおかげで新しい彼氏で来たし」 「やべぇ、ぐうの音も出ねぇ」  有り難そうに、妬ましそうに須藤はチョコを頬張る。それをチラリと見て志月もそれを口に入れ花梨と田崎へ微笑みかけた。 「二人ともありがとね」 「こっちこそ。いつも、ありがと」 「これからもよろしくー」  手を振り二人はお茶会へと戻っていく。その様子を最後まで見送ってから須藤はまず一粒チョコを食み、その味を噛みしめた。 「俺も慈善活動しようかなぁ。お前みたいに」 「え、俺、いつ慈善活動なんてしてた?」 「……無欲だよなぁ、お前って」 「そんなことないよ。俺も人並みに欲はあるって」 「例えば?」 「そうだな……」  頭を悩ませる志月に須藤は冷たい視線を送る。どうせ自分たちにとっては「その程度?」と思うようなことしか志月は言わないだろうと須藤は高をくくっていた。  須藤と志月は中学校時代からの仲である。その頃から志月は欲のない男でまさに聖人君子を体現していた。一時期彼女はいたらしいのだが、それでもきっと彼はまだ「清らかである」と須藤は信じ切っていた。きっと肉欲もなく、ましてやバレンタインに誰かからチョコレートを貰いたいなど、そんなことは微塵にも思っていないはずだ。  そうな妄想を抱いていた須藤は志月から出た言葉に絶叫した。 「好きな子からチョコ貰いたい」 「は!? お前、好きな奴とかいるの?!」 「うん」 「え、どんな奴? 同級?」 「年下」 「この学校?」 「うん」 「何組だよ?」 「二組」 「一年二組でお前が好きな奴かー! 誰だろう……って……」  光り輝いていた須藤の目はずんと暗くなる。完全に冷え切った眼で、須藤はまた大きな溜息を吐いた。 「お前、それ、あれか? 「伊万里くん」か?」 「そうだけど」 「それは……そうか、一応まぁ好きな子にはなるのか」  全くもって志月と伊万里の関係を知らない人間から見れば、志月と伊万里は仲が良い先輩と後輩である。須藤は完全に志月から伊万里に対する「好き」が「Like」だと思い込んでいるのだろうな、と志月は心の中で笑いつつチョコレートを一粒ずつ口の中に放り込んだ。舌に甘さが纏わり付く。それを堪能しながら志月はぼんやりと宙を眺めた。 「伊万里くん、チョコくれるかな」 「……貰えるといいな」 「まぁ、あまり期待はしてないけど」とは言わずに、志月は静かに笑った。 「ごめんなさい……その、バレンタインとかあまり……気にしてなくて……」 「そうだよね。ここ数日のうちにそいいう会話でなかったもんね」  来る二月十四日。一緒に朝食を食べ、志月がアルバイトへ行き、帰宅し、一緒に昼食を食べ、ゆっくりと二人で何をするわけでもない時間を過ごし「おやつの時間」がやってきたところで志月はぽつりと「今日ってさ」と話を始めた。初めは目を点にしていた伊万里だったが、志月が「バレンタイン」という言葉を出した瞬間。志月でさえ見たことが無い顔をして――ムンク作の「叫び」によく似ていた――震えた声を上げた。  恐怖しているわけではなく、心底申し訳ないといった顔だ。それが何となく可愛らしくて志月はずっと変わらぬ笑顔を伊万里へと向けていた。 「今からチョコ買いに行きます」 「いいよ、気にしなくても」 「でも、」  立ち上がった伊万里を志月は無理矢理座らせてその体を抱きしめる。それに少しだけ伊万里は体を強ばらせると静かに俯いた。依然、心の中は靄ついている様子だ。きっと、「バレンタインだから何かをしないと」という気持ちでいっぱいなのだろう。  こうなったときの伊万里は頑固だ。いくら「何もしなくても良いよ」といっても納得してはくれない。志月は眉を下げて天井を見る。そして、「じゃあ」と伊万里に囁いた。 「一個だけお願い」  伊万里はキラキラとした眼を志月へと向ける。それに思わず吹き出してしばらく、三十秒近く声を我慢しながら笑った志月はまだニヤついた顔を貼り付けたままで呆れ顔の伊万里の頬を撫でた。 「チョコ、「あーん」ってさせて?」 「俺が、志月さんに?」 「ううん。俺が伊万里くんにするの。安心して。俺が貰ったやつじゃなくて、ちゃんと俺が伊万里くんのために買ったチョコでするから」  志月は喋りながら立ち上がるとキッチンの方へ消えていく。そして、どこからか取り出したチョコレートの箱を持ってきた。深緑の箱には金色の箔押しがしてある。箱だけでも高そうだなと思っていると、開かれた箱の中には全て違う種類の艶やかなチョコレートの粒が六粒だけ。どれも各々の美しさと芳醇な香りを纏いながら鎮座しており伊万里は思わず身構えてしまった。  せっせと飲食店のアルバイトをして、コツコツと貯めたお金を崩して自分のためにチョコレートを買ってくれたのだ。そう思うと何も準備しなかった事をとてつもなく後悔する。そんな伊万里の心情を知った上で、志月は伊万里の顔を無理矢理上げさせた。 「はい、伊万里くん。あーん♡」  今にも泣きそうになっている伊万里はその震える口を開け、差出された四角いチョコレートを食む。チョコレートをゆっくりと口の中で溶かすとミルクチョコレートの滑らかな甘さが口いっぱいに広がった。  美味しい。それが嬉しくて、申し訳なくて悲しくて伊万里の頭の中は溶けたチョコレートのようにドロドロとぐちゃぐちゃになってしまっていた。  志月は恍惚の笑みを浮かべ次のチョコレートを差出す。アーモンドが乗ったそれを目を閉じながら口にする伊万里の頭を撫で回し志月は熱い息と甘い笑い声を漏らした。 「ふふ……伊万里くん可愛いねぇ。餌付けされてるみたいだよ」  「可愛い、可愛い」と何度も口にする志月に伊万里は訳がわからないままに、ただ褒めてもらえたことがなんだか嬉しくて笑顔を漏らす。そのまま唇に当てられたホワイトチョコレートに噛みつこうとした伊万里。彼の頭上から志月の声が降ってきた。 「伊万里くん、待て」  ぞわりと伊万里の背筋を甘い疼きが走り抜けた。そのまま伊万里は志月の目を見つめて静止する。だらしなく開いた口からは僅かにチョコレートの茶色が混ざった唾液が垂れ始めていた。  心臓が妙に早く打つ。その音がちょうど三十回鳴ったタイミングで志月はこの形に歪んだ口をゆっくり動かした。 「食べて良いよ」  別にチョコレートが好きなわけでもない。腹を空かせているわけでもない。だが伊万里は志月が差出したホワイトチョコレートに勢いよく齧り付く。その瞬間、なんだか妙に満たされたような気がして伊万里は夢中になってチョコレートの味を味わった。 「待て出来て偉いね、伊万里くん」 「ん……」  耳元で大きな音を立てて血液が流れるのが聞こえる。頭がクラクラする中で、カカオの香りだけが妙にはっきりと伊万里の鼻に香っていた。そのまま伊万里は志月に差出されるチョコを、時折「待て」をされながら一粒一粒堪能した。  最後に六つ目の真っ赤なチョコを味わう。何やらベリーの甘酸っぱい味が口腔内を満たしていく。最早味の食べ比べも出来ない状態の伊万里だったが、このチョコレートが一番好きかもしれない。そう思いながら伊万里は舌で何度も口の中を舐め回した。 「美味しかった? ……そんなに頷かなくても大丈夫だよ。良かったぁ。俺、バレンタインデーに誰かにチョコを買うの初めてだから、これでいいのか結構悩んだんだ。ホワイトデーのお返しとはちょっと違うからね。伊万里くんに喜んでもらえて俺も嬉しいよ。俺の手から何かを食べる伊万里くんも凄く可愛かったし」  満足げに語った後、志月はふと自分の指を見る。しばらくして、何かを閃いたのか顔をパッと明るくし、わざとらしく眉を下げて唸るような声を上げた。 「……指にチョコがついちゃった」  伊万里の目の前に志月の大きく無骨な手がゆらりと揺れる。熱で溶けたチョコレートが付着した指。伊万里はもうすでにその指に釘付けになってしまっていた。 「伊万里くん、舐めてくれる?」  待ちわびた声が、言葉が、伊万里の鼓膜を揺らす。伊万里は小さく返事をしてからおずおずと志月の指を咥えた。  指についたらしいチョコレートの味らしき甘さを僅かに感じた伊万里だったが、直ぐに違う味を愉しみ始める。歯を立てないように舌だけでそれを舐め、吸う。口の中へ沈めた指が僅かに顎裏を撫でると、甘い声と共に伊万里の体が僅かに震えた。それでも伊万里は決して指を離さず必死にしゃぶり続ける。 「上手だよ、伊万里くん。そのままこっち見て」 「ひゃい……」 「うん、いい顔……あれ、伊万里くん、「ソレ」どうしたの? 俺の指舐めてこーふんしちゃった? いけない子だねぇ」  下腹部の膨らみを指摘され伊万里はやっと志月の指を離す。ねっとりとした糸が伊万里の口と志月の指を結んだ。 「ご、ごめんなさい……」 「ふふ、良いよ。でも、このままじゃ伊万里くんが苦しいだろうし、お願い聞いてくれたお礼もしたいから、さ」  志月はゆっくりとベタついた手で伊万里の首筋を撫でる。 「ちょっとだけ遊ぼう、伊万里くん」 「は、はい」  嬉しそうな返事を聞き、志月は伊万里の首輪を取りに行く。チョコレートはもらえなかったけれど、「甘い物」は手に入ったしこれはこれで望み通りだ。志月は静かにほくそ笑むと伊万里の首輪を手に取るのだった。

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