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第二話(2/2)

「お邪魔しました」 「本当に家に帰るの大丈夫……? 今日無理させちゃったから。ちゃんと歩いて帰れる? 俺が途中までついていこうか?」  伊万里は僅かに俯くと首を振り、静かに頭を下げた。そんな伊万里を心配そうに見つめてはいるが、志月はそれ以上引き留めることもなくいつも通り伊万里に手を振る。それにもう一度頭を下げてから、伊万里はいつも通り玄関の扉を出て、いつも通り志月の部屋を後にした。  外はもう夜の帳が下りていて、辺りには冷たい風が吹き荒れていた。雨が降ったのか土の臭いが鼻腔に香り、アパートの廊下も僅かに濡れている。雪になるほど気温が冷え込まなくてよかったと安心する反面、今朝干した洗濯が濡れてしまったと思うと一気に気が重くなった。  伊万里は高校に入ってからほぼ一人暮らしの状態で、実家である一軒家に暮らしている。父親は出張で国内を飛び回り、父親しか愛せない母親は父親の出張について行ってしまった。故に、雨が降ってもそれに気が付いて洗濯物を取り込んでくれる家族は、伊万里の家に今はいない。玄関を開けても出迎えてくれるのは冷え切った空気だけだ。  別に母親を連れて行った父親も、父親について行った母親も伊万里は恨んでいない。だが、一人で住むにはあの一軒家は広すぎた。廊下を一人で歩くだけで「自分は今一人なのだ」と痛感させられる。その感覚が、伊万里にとっては嫌でしかたがなかった。  それに、「一人」だからこその危険も伊万里にとってはしっかりと、確かに存在していた。 「――っ!」  志月の家から徒歩十数分。自宅がやっと見えてきたところで伊万里は足を止め、直ぐに物陰へ隠れた。家の前に人影が見えたのだ。よく見慣れた、人影が。  自宅の方からインターフォンの音が響く。音は一回だけでは鳴り止まず、何度も何度も鳴らされ続けた。その感覚の狭さからインターフォンを鳴らす人物が如何に苛立っているのかがわかる。それだけで反射的に足がすくんだ。  どうして今日来たのだろう。いや、前回だって「どうして今日?」というタイミングであの人は自分を呼び出した。だから、別に驚くようなことはない。よく考えたらあれからもう一ヶ月ほど経つ。そろそろ来るかな、という予測は立てられたはずだ。それが今日かどうかはわからなかったとして。今日はどうしてあんなにもいらついているのだろうか。自分が中々姿を現さないからか。いや、あの人は何時だって何かに苛立った状態で家に来るか連絡をしてくる。今日もイライラしたからそれを鎮めるために自分に、また――。  音が響く度に伊万里は体を震わせる。嫌な汗が額を伝った。  ――志月さんに連絡しなきゃ。  恐怖の中、前に志月に言われた言葉を、約束を思い出す。  ――あの人がまた現われたから、ちゃんと志月さんに言わないと。  伊万里は震える指先で志月の連絡先を探す。そして、やっとの思いでそれを見つけ出し、通話ボタンを押した――その瞬間、伊万里の頭上に影が出来た。 「こんな所で何してんだよ。伊万里くん?」  喉が冷たい風を吸い込む細い音が鳴った。思わず手からスマートフォンが落ちる。だが伊万里にはそのスマートフォンをとることも、顔を上げることも出来なくなってしまっていた。 「おい、聞いてんのかよ、伊万里!」 「はっ、はい……! み、宮治、先輩」  伊万里は声を震わせながら上を見る。そこには獣のような鋭くギラついた目で伊万里を見下ろす男の姿があった。身長は志月よりは低いはずなのに、志月に見下ろされるときには感じない恐怖と嫌悪感が伊万里の頭を支配する。そのことを承知の上で宮司というこの男は大きな口を歪めて見せた。 「遅いご帰宅だなぁ。え? こんな時間までどこ行ってたんだよ? もう部活はやってねぇんだろ?」 「友達の家に行ってて、」 「その友達ってのはあれか。この前の「縛ってくれる友達」か?」  伊万里は前回最後に宮治にあった日のことを思い出す。あの日は志月と「遊んだ」次の日で、遊んだときの縄の痕がまだ体に残っていた。それを見て宮治は怒り狂い伊万里を蹴り続けたのだ。 「いいなぁ。変態のお前に付き合ってくれる良い友達が出来てよ。お前の体をそんな風にした俺に感謝して貰わねぇとな?」 「……」 「んだよ、その眼は? 何か言いたいことがあるなら言えよ」 「今日は、何のご用ですか」  訊くまでもない質問。伊万里の前に現われるとき、この男は決まってこう言うのだ。 「用なんて決まってるだろ? 遊ぼうぜ、伊万里くん」  その言葉とともに勢いよく宮治は拳を振り上げる。そのまま速度をつけて振り下ろされる拳を、交わせるはずなのにもかかわらず伊万里は決して体を動かすことなく左の頬でその打撃を受けた。鈍い痛みとともに、もう口の中が切れたらしい。鉄の味が口の中に広がる。それを飲み込む暇もなく胸ぐらを掴まれ口の端から血が混ざった唾液が垂れてきた。  そのまま容赦なく同じ箇所をぶたれる。伊万里は思い切り歯を食いしばると眉間に皺を寄せた。  宵闇が宮治の顔に闇を落とす。彼の顔はこんなにも醜く、彼から与えられる痛みはこんなにも不快なものだったか。以前襲われて、後に志月に叱られお仕置きをされてしまったあの夜にも覚えた不快感。今まで宮治から暴行された際には意に反した快楽を感じてしまう瞬間があったのだが今はそれすらも無い。  唯思うのは「志月さんだったら、もっと気持ちいいはずなのに」等という言葉だけだ。  志月に同じように頬をぶたれたら自分はどうするだろうか。きっと謝り涙を流しながらどうすれば志月が喜んでくれるか助言を請うだろう。かつて自分が、宮治に対して、どうすれば許し解放してくれるのかを縋りながら訊いたように。  一方的に続けられる唯憂さ晴らしだけを目的とした暴力の中。そんなことをぼんやりと考えていた伊万里の腹部に宮治の膝が食い込む。鈍い痛み以上に込み上げてくる吐き気に伊万里は思わず口を覆った。やっと崩れ、苦しそうに歪んだ伊万里の顔に宮治は心底悦を感じているような笑顔を浮かべる。粘り気のある唾液が溜まった宮治口が弧を描くと同時にネチャリと気味の悪い音を立てた。 「そろそろ、暗くて人気のない場所にでも行こうか。お前の家とかさ」  そう言って宮治は伊万里のスラックスのポケットへと手を伸ばす。その中を弄ってしばらくした後に目当てのものを見つけられなかった宮治は伊万里を睨みつけた。 「お友達に変な入れ知恵されたな?」 「……」 「伊万里……おめぇはな、俺の玩具として黙って殴られて犯されときゃいいんだよ!」  宮治が拳を握りしめ振り上げる。ずっと宮治を睨みつけていた伊万里がグッと目を閉じた――その時だった。  遠くの方から声が聞こえる。 「お巡りさん! こっちです! 向こうの方から怒鳴り声が聞こえて……」  その声に宮治は伊万里を投げ捨てるように地面へと叩きつけると、そのまま声がした方とは逆のほうへと逃げていった。  地面に這うと同時に「通話中」になったままのスマートフォンが伊万里の目に入った。それに安心すると同時に「無茶をするなぁ」と思った伊万里の体に影が出来る。その影はやけに温かく伊万里には思え僅かに顔がほころぶ。影は濃く小さくなると申し訳なさそうに伊万里の頬を撫でた。 「遅くなってごめん」 「しづ、きさん……」 「口動かすと痛いでしょう? 喋らなくて大丈夫だから……伊万里くんの家、上がらせて貰っても良いかな。手当てさせて?」  伊万里が頷くのを確認してから、志月は伊万里の鞄の中にある生徒手帳を開き、その中から鍵を取り出した。そして、転がったままになっていたスマートフォンを拾い、通話を切ると、スマートフォンと生徒手帳を鞄へ入れる。そのまま片方の肩には伊万里の鞄を提げ、もう片方の肩で伊万里の体を背負うようにしながら、ゆっくりと伊万里の家へと足を進めた。 「ど、どうしたんだよ伊万里……その怪我」  翌日。教室に入ってきた伊万里を、彼の友人である佐倉と大和が驚きの形相で取り囲む。昨晩、志月に手当てをして貰った伊万里だったが、想像以上に殴られた痕は赤く腫れ、痛々しい傷を残していた。  今までも数々の残る傷をつけられ続けた伊万里だが、腹や背と違い今回殴られたのは顔だ。手当をどれだけしたところで「怪我をした」というその事実を隠すことは難しい。結局伊万里が心配のあまり伊万里の家に泊まっていった志月には「今日は休んだ方が良いんじゃない?」と何度も言われた伊万里だったが、今日は欠席にうるさい教師が担当している数学があるため、気は乗らないが登校した。だが、友人達をここまで心配させてしまうのならば、いっその事休めば良かったかもしれない。伊万里は昨晩、宮治の怒号を聞いた以降上手く思考が出来なくなった頭でぼんやりと考えた。 「なぁ、何があったんだよ」 「……階段から、落ちた」 「だからってそんな、顔から行くか?」  佐倉に尋ねられるが上手い返しが思い浮かばない。かといって、「宮治先輩に殴られたんだ」などと正直なことが言えるはずがなかった。この二人にはあまり、宮治に関わって欲しくなかった。自分の痴態を晒される恐れがあるからではない。純粋に、あの人物によって数少ない友人が危険にさらされるのが怖いのだ。 「両手が塞がってて……上手く受け身が取れなかったんだ」  そう言ったきり、何も訊いてくれるなとでも言いたげに目を伏せると伊万里は自分の席へ向かう。教科書やノートを机の中へ入れると、彼はそのまま机に突っ伏してしまった。  友人二人も伊万里にこれ以上事情を聞くのは止め、佐倉は自分の席へと戻り、大和は――一人、志月のクラスへと向かった。 「志月先輩」  一級上の学年だろうが臆することなく、大和は志月を呼ぶ。クラスメイトに囲まれていた志月は大和の顔を見ると少し決まり悪そうに眉を顰め大和のほうへやってきた。 「どうしたの、大和くん」  当たり前のように志月は一度も彼に名を名乗ったことがないはずの大和の名前を呼ぶ。大和も当然それに驚くことなくあどけなくはあるが凛とした目で志月を見据えた。 「伊万里のことで話があるんですけど」 「怪我のこと? あれは、昨日俺の家から帰るときに階段から、」 「あれって、宮治先輩がやったんですか」  志月の反応に大和は眉を下げ、口を歪めた。 「場所変える?」 「そうですね」  一時間目の授業が始まるまでにまだ十五分ほどある。二人は屋上へ繋がる階段の方へ向かう。そこがこの学校内では一番人が来ない場所だ。  大和はあの学校の人気者である志月と一緒にいることに緊張しながら、別のことに対しても緊張感を抱いていた。先ほどからどう考えても志月の様子がおかしいのだ。表情がいつもと変わらない、朗らかなそれだが眼の色がいつもと違う。  その眼には明らかに怒りの色が滲んでいた。  大和はその眼に見覚えがあった。近所に住む野良猫のボスが他の猫に自分のテリトリーへ侵入されたとき。背中の毛を逆立て、牙を剥いていたあの猫と同じ目を隣にいる身長百八十センチ越えの男はしていた。 「怒ってます?」 「そりゃ、可愛がってる後輩をあんな目に遭わされたからね。怒らない方が難しいよ」  妙に長く感じた目的地までの旅を終え、二人は踊り場に腰を下ろす。大和はなんだか怖くなって自分の上履きについた汚れをじっと見つめながら口を開いた。 「……時々、怪我してるんだろうなって感じの歩き方で学校来るときがあったんで、もしかしてとは思ってたんですけど、あいつ、まだ宮治先輩となんか絡んでたんですね」 「俺も本当は関わって欲しくないんだけどね」 「呼び出しくらったり、家に突撃されたりも、まだ続いてるんですか」 「続いてる。ねぇ、大和くんはどこまで知ってるの。伊万里くんと宮治とか言う先輩のこと」 「あんまり。ただ、伊万里がレギュラー入ってから、明らかに宮治先輩の様子も伊万里の様子も可笑しくなったんで、後つけたことがあって。それで、暴力受けたり、呼び出されたりしてることは知りました。伊万里が部活止めた理由も、あの人なんじゃないかって……佐倉と話したことはあります。伊万里の口から聞くことはなかったし、これからもないと思いますけど」  大和はグッと自分の拳を握りしめた。食らいつくように見ていた上履きの染みが増えたような気がする。気付けば視界が滲み始めていた。 「俺も、佐倉も、伊万里のこと助けなきゃって、思ってるんです。でも、あんなの見たら、怖くて、宮治先輩にも、伊万里にも何も言えなくて。でも、このままじゃ、伊万里、殺されるんじゃないかって、思って……!」  大和はグシャグシャになった顔を服の袖で拭う。そしてやっと顔を上げると志月の目をじっと見つめた。 「志月先輩、どうしよう。俺、どうしたらいいんだろう」  助けを求める目。今まで何度も見たことがある目だ。志月は自分にこの目が向くのが好きである。自分を必要として自分に縋ってくれるその目が。ただ、今の志月は大和の自分を見つめる目が酷く恐ろしく見えた。  伊万里をあの先輩から遠ざける術を志月は知っている。  一時的かもしれないが、気休めかもしれないが、どうすれば彼を守ることができるか。それを知っている。  今の伊万里にとって最も危険を助長する理由となっているのが、伊万里の家庭環境だ。家は一軒家。しかも、今家には伊万里以外だれも住んでいない。家に帰るまでの道中は閑散とした住宅街で昨日志月が叫んだことに対して野次馬の一人も見えなかった。近場には茂みや物陰の多い自然公園もある。隠れて人にばれるとまずいことをやりたい宮治にとって伊万里の家やその周辺地域は、非常に都合がよい環境になっていた。  ならば、伊万里をその環境から遠ざけてやればいい。例えば――その解決案はもう志月の頭の中に存在していた。伊万里を助けたあの日から、ずっと。  けれど、この行動をとれば、この考えを伊万里に伝えそれに彼が頷いてしまったら伊万里はまた自分に近くなってしまう。自分にとってまた伊万里が特別になってしまう。今まで志月にとって特別だった人にそうされてしまったように、もしも、伊万里にまで「もう、いらない」と捨てられてしまったら。今度こそ自分は壊れてしまうのではないか。  その恐怖と同じくらい、伊万里が昨日のような目に――昨日以上の酷い目に遭わされてしまう恐怖も感じていた。  志月の頭の中に天秤が浮かぶ。その片方にはかつての自分が、もう片方には傷だらけの伊万里の姿が乗っていた。グラグラと天秤が揺らぐ。その揺れでバランスを崩した伊万里が、初めて会った時と同じ眼で志月を見つめてきた。震える桜色の唇がゆっくりと動くのを見て志月は大和に話しかける。 「――大和くん、大丈夫。俺がなんとかしてみせるから」 「志月先輩が?」 「うん。実は、考えるだけで考えて、実行していなかった計画というか、案みたいなものがあるんだ。根本的な解決にはならないけど……でも、今回みたいに急にっていうのは避けられるようになると思う。だから、大丈夫。安心して」  志月の言葉の通りに大和は安心したような顔をすると勢いよく頭を下げた。 「ありがとう、ございます!」  大和からの感謝の言葉に志月は微かに笑った。以前はこの言葉に強度の興奮を覚えていたはずなのに、今は「嬉しい」を超えることはない。それを改めて感じると同時に、自分の中にいる伊万里の存在がどれほどまでに肥大しているのかを痛感した。  授業開始五分前を知らせる予鈴が鳴り響く。慌ててもう一度お礼を言うと教室へ戻っていく大和の姿を見送ると、志月は一人階段へ腰を下ろした。  これでいい。自分のこの決意は何も間違っていない。だって、彼に捨てられてしまう恐怖よりも、彼があのろくでもない先輩の手にかけられ自分の知らぬ所で傷ついてしまう恐怖の方が遥かに大きいではないか。遥かに大きいはずだ。そう思っているはずなのに、志月の頭の中ではまた天秤が動き出そうとしていた。  じっと床の汚れを見つめる。黒くへばりついた汚れ。見つめていると次第にそれがどんどん大きくなっていくような錯覚さえ覚えた。それに併せて、志月は自分の中にしみ出してくるある思いの存在に気が付いた。それは頭で理解するより先に志月の口端から溢れ出てきた。 「伊万里くんが、俺無しじゃ息できなくなっちゃえば良いのに」  そうすれば、彼が自分から離れることにここまで脅える必要はないじゃないか。思う存分、彼に尽くし続けることが出来るではないか。  そこまで考えて、志月は寒気を覚えた。  いつかの――家中を駆け回っていた義弟が棚にぶつかった拍子に上から物が落ちてきたとき。その下にいた志月の事など目もくれず義弟を守るために、その場から逃げようとした志月を跳ね飛ばし義弟に覆い被さった母親を見たあの日。あの時、自分の頭上に落ちてくるブリキ缶に写った真っ黒な瞳をした自分を見ているような。あの、怒りとも憎しみとも形容しがたい感情を瞳の奥に宿していた自分を見ているような。そんな感覚を覚えて頭を抱える。 「教室、戻らないと」  立ち上がると同時に足がフラつく。僅かに壁にもたれかかりながら、志月は唯ひたすらに、伊万里の笑顔を見たくなっていた。 「伊万里くん、迎えに来たよ」  放課後。何時もの調子で迎えに来た志月に、伊万里はいつもと変わらない仏頂面を向けた。朝に比べ腫れが引いた顔は、それでも顔いっぱいに張られているガーゼのせいか痛々しく見える。帰ったら消毒をし直さないと。そう思っていた志月の下へ伊万里は黙って駆け寄ってきた。 「じゃーな、伊万里! また明日!」 「志月先輩も、そいつが階段から落ちないように見守りお願いしますね」  手を振る大和と佐倉に二人は揃って手を振り返す。そのまま肩を並べて、廊下を行くと自然と視線が二人の――正確にいうと伊万里の方へと集まってきた。やはり皆伊万里の怪我が気になるようだ。  しかたがないとはいえ、正直気分はあまりよろしくない。志月は心配げに伊万里の顔を見る。だが、伊万里の表情は変わらないままだ。 「傷、まだ痛む?」  志月の問いに伊万里は首を振る。不本意にも痛みに耐性がついてしまっている伊万里にする質問ではなかったな。反省した志月は続けて小声でこう訊いた。 「じゃあ、気持ちいい?」  切れの鋭い肘鉄が的確に志月の腹部へ決まった。あまりにも従順で大人しいから油断していたが、彼も嫌だったらちゃんと飼い主の手を噛めるようだ。安心して笑っていると伊万里はハッとして、腹をさする志月の背中をさすった。 「す、すみません」 「いや、今のは俺が悪い……ふふ、い、伊万里くんの攻撃鋭いね……ふふ……」 「どこにそんな笑う要素があるんですか……」  この人のツボはよくわからないな。そんなことを思いつつ、それでも笑う彼が愛おしくて伊万里は志月を支えながら昇降口へと向かった。靴を履き替える間も志月は小さく笑い続ける。やっとその表情が動いたのは帰路につき、人気がなくなり、伊万里が口を開いた時だった。 「気持ち良くなかったんです。昨日殴られた時も、この前殴られた時も」  土を踏む音に掻き消されそうな小さな声で伊万里はそう呟く。すると、どうしたわけか自分が何かを呟けば、直ぐに返事をくれるはずの志月がいつまで経っても何も発しない。伊万里は上を向く。伊万里を見下ろす志月の顔は苦虫を噛み潰したように歪んでいた。怒っているような、悲しんでいるような――伊万里はふと、宮治のせいで肩を怪我したとき、病院で母親が見せた表情を思い出した。  瞬時に「謝らないと」と伊万里は口を開く。だが発せられた謝罪の声は志月の「伊万里くん」という声に掻き消された。「なんですか」と尋ねれば、困ったように顔を赤くしたり蒼くしたりする志月を見て伊万里は首をかしげる。しばらく口元を手で覆っていた志月は当たりを見渡し、誰もいないことを確認してから伊万里に話しかけた。 「あの、それって、もうSM的なプレイはしなくてもいい的な……ご主人様はお役ごめん的な……そういう感じ?」  志月の酷く焦った様子に伊万里は純粋に戸惑った。昨日、自分を助けに来たときだってここまでは焦っていなかったはずだ。伊万里に目線を合わせたいのかやや猫背になりながら、一切伊万里の方を見ようとせずに目を泳がせる志月に伊万里は怪訝そうに眉を顰めると首を振った。  その仕草だけで安心したらしい志月は長く息を吐いて姿勢を正す。顔色もいつもの様子に戻ったが、続いて出た伊万里の言葉にまた顔色を変えた。 「志月さんにされるのは、ちゃんと、気持ちいいので」  志月の頭の中で甲高い音が鳴り響いた。そう、ちょうど金属バッドでボールを打ち上げたような。そんな音だ。同時に頭の中が真っ赤に染まっていくのがわかる。気のせいかもしれないが鼻の奥の方から鉄の匂いがした。 「多分、俺、志月さんじゃないとダメ、なんです」  ――俺は一体今、この子に何を告白されているんだ?  ベッドの上で聞いたらまた違った――もう少し余裕な反応が出来たかもしれない。しかし今は外だ。しかも、志月の頭の中にはこの後伊万里に相談しようと思っていた重要事項がいっぱいに詰まっている。そこ急に爆弾を投下されたのだ。上手く処理が出来るはずがない。 「志月さん?」  小さな声で名前を呟きながら、伊万里は志月の顔をのぞき込む。口を覆っていてよくわからなかったが、こちらを見つめる瞳は、餌を目の前にした獣のようにギラギラと鈍い光りを灯していた。いつもは優しいはずの目が、「遊んでいる」ときのように鋭くこちらを睨んでいる。その事実だけで伊万里は脳の奥に確かな痺れを感じた。  今入るべきではないスイッチが入った気がして、慌てて伊万里は志月から眼を反らす。だが、今度は志月の腕が伊万里の方へと伸びてきた。躱す暇もなく、躱す理由もなく伊万里の小さな体は後から志月の腕の中へと収まってしまった。  道のど真ん中。普段なら外では手さえ繋がない志月が、家に入るときもやけに周りを気にしている志月が、自分を野外で抱きしめている。イレギュラーなシチュエーションだからだろうか。伊万里の中の「スイッチ」は完全に押し込まれてしまった。  誰かが、しかも知り合いが通ったらどうしよう。そこの家の窓から誰かが覗いたら。そこの家のドアから誰かが出てきたら。そんな恥ずかしさや危機感ですら伊万里にとっては官能を刺激する薬にしかならない。背中に志月の体温を感じ、それに微睡みながら伊万里は大きな音を立てて鳴る胸を押さえた。 「……」  じっと志月の言葉を待つ。すると数分も経たぬ間に志月が熱っぽく声を漏らした。 「……いけないよ、伊万里くん」  ねっとりと志月の声が伊万里の鼓膜を撫でる。だが、その声に僅かに嗚咽らしき息遣いが交ざっていることに気が付き伊万里は顔を上げる。真っ赤な鼻をした志月は確かに目を涙で滲ませていた。  悦楽の世界へと足を踏み入れかけていた伊万里はハッとして現実へと意識を戻す。身体と頭が急に冷え、慌てた伊万里は振り返り、気が付くと志月の頬に手を伸ばしていた。それに志月は目を見開く。それと同時に志月の瞳から熱い雫がしたたり落ちた。 「ダメだよ、伊万里くん」 「何が、ダメなんですか」 「伊万里くんにそんなこと言われたら……伊万里くんにこれ以上必要とされちゃったら、伊万里くんのこと本当に手放せなくなっちゃう」  志月のその言葉に伊万里は驚嘆の声を上げた。 「俺……志月さんと離れること……なんて、考えたこと……なかったん、ですけど……」 「でも、この関係もいつまで続くか、」 「嫌だ」  強い声を響かせ、伊万里は志月の体を抱きしめる。その行動が心底意外だったらしい。志月は体を一瞬強ばらせると、伊万里の腕から逃げようとする。だが、伊万里の腕は決して志月の体を離さなかった。 「伊万里くん、」 「嫌です。もう、俺は、志月さんの物なんです……あの時、俺を拾ったのは志月さんですよ? ペットは最期までちゃんと責任持って飼ってくれないと嫌です」  伊万里の腕はまるで鎖のように志月の体に絡みつく。 「俺の事、もっと縛ってください、志月さん」  伊万里の潤んだ瞳には、寂しさや悲しみではなく、熱や享楽に近いそれが灯っていた。  なるほど。薄々気が付いていたが、自分が彼を縛っているとばかり思っていたが、逆だったようだ。  志月は空を見て細く、長い、息を吐く。そして、「わかった」と小さく呟いてから再び伊万里の顔を見下ろした。 「もっと縛ってあげるから、今から俺の言うこと、聞いてくれる?」 「はい。何でも言ってください。何でも言うこと聞きます」 「俺と一緒に暮らそう」 「――え?」 「俺の家で俺と一緒に暮らそう」  遠くの方から子ども達が走ってくるのが聞こえる。伊万里は慌てて志月から手を離す。そして僅かに距離をとると顔を真っ赤にしながら俯いた。隣を風のような勢いで子ども達が数名駆け抜けていくのを見送ってから伊万里は熱くなった自分の頬をガーゼ越しに両手で覆う。なんだか熱が増すほどに頬の痛みがぶり返してくるような心地がした。そのまま恐る恐る顔を上げる。  そこにはいつもの優しい笑顔ではなく、真剣な顔をした志月がいた。伊万里の頭にふと昨日の志月が浮かび上がる。 「あの、もしかして、なんですけど……」 「本当は昨日――いや、ずっと前から言おうと思ってたことなんだ。伊万里くんを一人にすることも不安だし、あの先輩に家がばれているならあの家にいること自体が危険でしょう? それなら、俺の家に一緒に住んじゃえばいいんじゃないかって。もし、家がばれて殴り込まれたときに喧嘩が出来る自信はないけど、それでも、いるといないとじゃ伊万里くんへの被害も全然違うだろうしね……今まで勇気が出なくて言わなかったけど、昨日の事とさっきの伊万里くんの言葉で言う決心がついた。伊万里くん、一緒に暮らそう」  静かに手を握りながら、志月はぎこちなく微笑む。それに伊万里は顔を赤くしたままその手を握り返した。 「迷惑、じゃありませんか」 「あれ? 何でも言うこと聞くんじゃなかったっけ? それに、伊万里くんは俺のものだもん。俺の伊万里くんが俺の知らないところで殴られたり、犯されたりする方が俺は嫌だよ」  志月の言葉が柔くて触り心地の良い布のように伊万里の体を包み込み、温かく香りの良いお湯のように体へと染みこんでくる。それが気持ち良くて、伊万里は顔を蕩けさせた。伊万里のその表情を見て志月の顔から一瞬表情が消える。そして見る見るうちに満面の笑顔へと形を変えていった。 「俺と一緒に暮らそう、伊万里くん」  「ねぇ、返事は?」と志月が首をかしげる。伊万里は志月と同じような笑みを浮かべた。 「はい。喜んで」 「よかった。それじゃあ、今から荷物とか取りに行こうか。教科書と服だけで大丈夫かな。あ、念のためにご両親にも連絡入れとこうか。大丈夫だよ。俺この日のためにちゃんとシナリオは考えてるから。ふふふ……これから一緒に暮らせるんだね。もう帰り道の心配もしなくて良いんだ。晩ご飯も一緒に食べられるし、お風呂も一緒には入れるよ。それに、一緒のベッドで伊万里くんと眠れるんだ……楽しみだね、伊万里くん」  伊万里の手を引きながら、志月は夢見心地でそういう。彼のみている世界と同じ世界にいるのか、伊万里も何処か夢を見ているような喜びに満ちた顔をして「そうですね」と笑顔で頷いた。

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