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第二話(1/2)
夜の体育倉庫は真っ暗だった。面格子が付けられた窓から注ぐ月明かりだけが薄ぼんやりと惨状を照らしている。
倉庫内には湿った石灰と土埃の臭いが、当たりにぶちまけられた赤と白の液体の臭いと混ざり絡まり合った悪臭が充満していた。鼻腔を通っただけで嘔吐を催すような臭いに伊万里は鼻と口を両手で覆う。
そして、複数の男子生徒に囲まれながら魂が抜けた人形のように床に転がっている過去の自分を見下ろした。
制服は乱雑に剥ぎ取られ、身体中には打撲痕と白い粘液がまき散らされ、渇いたそれが体にこびり付いてしまっている。呼吸は浅く、唯でさえ生気が感じられない瞳からは完全に光が消え失せてしまっていた。
あぁ、これは夢なのか。ぼんやりとした頭の中でそう思いながら伊万里は自分の顔をのぞき込む。ぼんやりと開いた口から誰のものかわからない白濁の液体が垂れ流れていることに気が付いて伊万里は思わず声を上げて笑った。だがその笑い声が伊万里を取り囲んでいる四、五人の男達に聞こえるはずもなく――もしかしたら聞こえているからだろうか、彼等の中心にいた男が前に歩み出し、勢いよく寝そべっている伊万里の腹を蹴り上げた。
伊万里の体が鈍く跳ねたと同時に、その口から赤と白のまだら模様をした液体が吐き出される。空気が潰れるような破裂音とともに、無理矢理にこじ開けられた菊門からそこから出るはずのない液体が溢れ出してきた。その様子を見て男は嘲笑するともう一度伊万里の体を蹴り上げる。
いくらこれが過去の記憶の再上映だとわかっていても、あまりにも見るに堪えない。伊万里は男の名前を呼び彼を止めようと手を伸ばす。だが、その瞬間に視界がぐるりと回転し、気が付くと現在の伊万里の意識は過去の自分の身体へと入り込んで一体化してしまっていた。
あの日の痛みが、恐怖が、苦しみが、後悔が、そして意に反して感じてしまった快楽が一瞬にして、同時に、伊万里の体へと流し込まれる。そのあまりの生々しさに、伊万里は大声で叫んだ。
「ごめんなさい、先輩! 俺なんかがいたせいで、俺のせいで、先輩の居場所を奪ってごめんなさい! 何回でも土下座します! 謝りますから、お願いだから……」
いくら声を張り上げても口は動かず、言葉も生まれない。
「お願いだから、もう、痛くしないで、ください……!」
故にその願いが叶えられることもなかった。
大きな振りを付けて、勢いよく腹に蹴りを入れられる。これだけのキック力があるのならば、野球部ではなくサッカー部に入れば活躍できるのではないか。そんな冗談が一瞬頭に浮かぶ余裕があるのだから、やはりこれは夢なのだ。それに痛く安心した伊万里の耳に、スマートフォンのシャッター音が響き渡った。
「きもちわりぃな、伊万里くんよぉ」
甲高い笑い声。一人だったその声はどんどん一人、また一人と増えていった。
「このこと誰かに言ったら、今日撮った写真と動画、お前の知り合い中に流してやるからな。友達の佐倉と大和だっけ? お前が男複数に回されて気持ちよさそうによがってる所見たら、アイツらなんて言うだろうな?」
散々服を脱がされて、恥辱を受けていたときには感じなかった恥ずかしさが急に伊万里の体を赤く染める。なんとかして許しを乞おうとしても出てくるのは弱々しい謝罪の言葉だけだった。
夢だからだろうか。当時は微塵にも感じなかったはずの怒りなんて感情すら湧いてくる。当時感じていた恥ずかしさと今感じている憤りで体が熱せられ、解けてしまうのではないかと思うくらいに火照った伊万里の頭と体は、次に発せられた先輩の声で一瞬のうちに冷やされた。
「志月っていうお前の飼い主様もこんなお前見たらさすがに引くだろうよ、なぁ?」
先輩が知るはずのない、知り得るはずのない志月の名前が出た瞬間、伊万里は目を見開いた。瞬間、今まで感じたことのない恐怖と不安が伊万里の腹を突き上げる。
どうして先輩が志月の事を知っているのか。その答えを導き出すより先に、縋るような声だけが伊万里の口から漏れ出た。
「やめて、ください……志月さんには、志月さん、だけには……」
打撃の痛みと絞めつけられるような苦しさで体が動かない。その代わりにできる限りの声を上げ、伊万里は先輩の姿をした悪夢に懇願し続ける。やっとの思いで動かすことの出来た腕を伸ばし、先輩の足を掴もうとした伊万里の腕を誰かが掴み、痛めつけられ辱めを受けた体を優しく抱いた。
香りの良い――柚子の入浴剤が入った湯に浸かるような。柔らかく手触りの良いふわふわの毛布にくるまれたような。そんな思わずうっとりとしてしまいそうになる心地よさとともに温かな声が伊万里の体に染みこんだ。
「伊万里くん、大丈夫?」
ハッと言うよりはゆるり、ゆるりと伊万里の意識が覚醒していく。長く息を吐き、目を開いた伊万里の瞳に、心配そうに眉を顰める志月の顔が写った。
夢から覚めたのだ。そう理解すると、妙な速さで音を立てていた心臓が落ち着いた伸縮を繰り返し始めた。
なるほど、夢だったからか。自分の記憶を元にして作り上げられた夢だから故に、あの地獄の中にいる過去の先輩が今ささやかな幸せの時を自分に与えてくれる志月の名を知っていたのか。冷静になってきた頭の中。それを理解すると同時に地獄の中に僅かばかりの幸せを投入すると、新たな地獄が生まれる事を知った伊万里は腹部に嫌な痛みを感じる。
唯でさえあの日からずっと今まで先輩から暴行を受ける夢ばかりを見ているのに。これからは暴行だけではなく、志月の名前を出されて脅されるなんて。そう思えば思うほどに伊万里の脳裏に黒々と澱んだ雲がかかった。
――やっぱり俺は、一生先輩から逃げられないのかな。
温かくふわふわした体と頭。幸せな微睡みの中でそんなことを考えてしまい、伊万里は少しだけ泣きたくなった。
鼻の上がツーンと痛くなる。思わず歯を噛みしめた伊万里の頭を志月の大きな手がゆっくりと撫でた。それで引くかと思った涙は、伊万里の意に反して目からこぼれ落ち始める。志月はその雫へ――一瞬、唇を近づけようとして遠ざかり――親指を近づけると優しくそれを拭った。
「怖い夢を見たんだね。大丈夫。怖い人はここにはいないからね。あ、そうだ。ホットミルク作ったよ。いっぱい「遊んだ」後にホットミルクって何かちょっと意味深だけど、安心してね! まだそういうプレイには手を出してないから!」
場を和ませようとしてくれているらしく、志月はおどけた様子でそう言うと、身を起こし、ベッドサイドの机に置いてあるオレンジ色のマグカップを手に取ると伊万里に差出した。伊万里はゆっくりと起き上がりそのカップを受け取る。温かいカップの中からはミルクとシナモンの甘い香りが立ち上っていた。
「伊万里くん、シナモンも蜂蜜も大丈夫だったよね。俺のうちでは、ホットミルクといえばシナモンと蜂蜜なんだ。甘くて良い匂いがして美味しいんだよ」
シナモンと蜂蜜が苦手か否かという話を志月とした覚えは伊万里には一切なかったが、話した覚えがないことを志月が知っているのはいつものことである。きっと自分が飲み食いしている何かを注意深く観察していたか、友人の――佐倉か大和が教えたのだろう。そう推理して伊万里は「いただきます」と呟いた。カップに口を付けカラカラに渇いた喉にほどよく温くなったホットミルクを流し込んだ。
しつこくはないがしっかりとした甘みが口の中に広がる。それが夢の中で味わった血の鉄臭い味と先輩達の体から吐き出された液体の苦みに上書きされていく。
次第に和らいでいく伊万里の表情を、志月は満足げに見つめると伊万里に少し奥へ寄るように促し、自分も布団の中へと潜り込んだ。
「体、痛いところとかない? 今日はスパンキングメインだったから、まだ痛いんじゃないかな、お尻」
志月の手が何も身に付けていない伊万里の腰を撫でた。体に走る電流に思わず伊万里は口に含んだホットミルクを吹き出しかけて口ごもる。慌てて口の中の液体を飲下すと、志月の問いに首を振った。
「本当に? 結構赤くなってたし、大きい音もしてたから大丈夫かなぁって思ってたんだけど」
首をかしげながらに志月は手をさらに下へと這わせる。それに苦言を呈するように伊万里は顔を真っ赤にして志月を睨みつけた。万が一のことを心配しているのだろうか。伊万里はホットミルクを一気に飲み干すと、カップを志月に着き出した。
「ごちそうさまでした」
「もう少しゆっくり飲んでも良かったのに」
それをさせてくれなかったのはあなたじゃないか。伊万里は無言でそう訴える。伊万里の視線に志月は眉を下げて笑い、一言「ごめん」と言うとカップをサイドテーブルに置いた。
もう止めるかと思ったが、ホットミルクが布団へ溢れる心配がなくなったということで逆に志月のアクセルは強く踏み込まれたらしい。志月は伊万里に覆い被さると両手を彼の体の下へと滑り込ませた。そのまま手は下へ、下へと滑り、赤く火照った臀部へと触れた。僅かな痛み。だがそれ以上の疼きを感じ伊万里は奥歯をグッと噛んだ。
それを面白がるように志月は伊万里の筋肉で引き締まった尻を優しく撫でる。その度に伊万里は体を震わせる。そして耳に金属音が響き、そこで初めて自分の首に黒い首輪が巻かれていることを――まだ「遊び」は終わっていないことに気が付いた。
「ねぇ、もうちょっとだけ遊ぼう、伊万里くん」
志月の言葉に首を振る権利は、そもそもそんな考えさえ伊万里には存在していなかった。
「さあ、伊万里くん。おいで」
志月は枕を背もたれにして座る。腕を拡げ伊万里を呼べば伊万里は志月と向き合う形で彼の膝へと腰を下ろした。志月に指示されるまま少しだけ腰を浮かせれば、先ほどの続きと言わんばかりに志月は伊万里の臀部を指の腹が触れるか触れないかの絶妙な指使いで撫で始めた。焦れったさに唇を噛むと志月の指先が、湿った掌が伊万里の臀部へしっとりと触れ、伊万里は身を大きく振るわせた。
先ほど志月の大きい掌でぶたれた伊万里の臀部はあれからしばらく時の経った今でも薄紅色に染まり、じっとりとした熱を帯びていた。刺激を受け敏感になっているせいか志月に僅かに触れられ、撫でられるだけで伊万里の口からは熱い息が漏れ出した。
微かに感じる痛みも伊万里にとっては甘美な疼きに変わる。次第に熱は身体中に広がっていき、漏れ出る声も艶っぽくなっていった。
「伊万里くんが遊び疲れて寝ちゃった後、俺が伊万里くんの体拭いてたときに、お尻こうやって優しく撫でてあげたら、伊万里くんすっごく気持ちよさそうな声出して喘いでたんだよ。知ってた?」
「ん、ッ……し、しらな……ァ、あッ」
「ふふ、そんな感じ、そんな感じ。ほら……もっと鳴いて? 気持ちいいって言って?」
「ひゃ、い……きもち、い……でッ……すぅ」
志月の声に従うように伊万里は口を開き、嬌声を漏らす。それに志月は恍惚の表情を浮かべ、伊万里の臀部をもみ拉いた。時折、閉じた門をこじ開けるように左右に肉を引っ張る。真っ赤な粘膜を冷たい空気に撫でられるだけで伊万里は声を震わせた。
「伊万里くん可愛いねぇ……食べちゃいたい。食べちゃって良い?」
言葉の意味がわからないでいる伊万里の鎖骨の辺りに志月は勢いよく己の犬歯を突き立てた。鋭い歯が食い込む感覚。滲む痛みに伊万里は思わず歯を食いしばりながら唸る。このまま喰われてしまうのでは無いか。そう思えば思うほどに悦が体を支配した。
「あは、元気になってる。ガジッてされるの好き?」
志月の問いに伊万里は必死に首を縦に振る。舌舐めずりをする音が志月の口元から聞こえる。その音を聞くだけで伊万里の体は震えた。
「ねぇ……ガジッてしながら、お尻叩いたら……伊万里くんどうなっちゃうだろうねぇ」
「ぇ、あ……」
伊万里は自分の頭の中が真っ白に染まるようなそんな心地を覚える。目を潤ませ、志月を見下ろすと、彼は楽しげに口の端を上げその唇を伊万里の胸元へと滑らせた。ほどよく発達した胸筋を志月の厚い舌がなぞる。
粘っこく熱く、旋回するようにその舌は伊万里の胸飾りの周りを這った。ムズムズと熱が燻り、喉の奥からは切なげな鳴き声が漏れる。だが、志月の舌は、唇は、ヌラリと光る犬歯は決して伊万里の赤く腫れた胸飾りへとは伸びてくれない。
志月さん、と上ずり震える声で名前を呼べども返ってくるのは「まだ」と「我慢」という言葉ばかりだ。その間も志月の舌と指先での愛撫は止らない。小さくはあるが確実に自分を攻めてくる刺激に伊万里は耐えきれず手持ち無沙汰になっていた両腕を志月の頭に絡ませた。
「しづきさんッ……! も、ゥ……むり……ッ」
どれだけソコへと彼の口を向けるように誘導しても、志月の頭は上手くそれを躱す。挙句、相変わらずの笑い声を返され、伊万里は脳みそが煮立つような感覚を確かに感じた。だが、それが怒りや苛立ちによるものなのかすらも伊万里にはもう判断できない。ただ身体中の熱は上昇し続け、痛いほどに反り上がった伊万里の中心からは粘り気のある透明な液体が溢れ始める。その液体が芯から滴ってはこぼれた雫が志月の着ているスウェットに染みを付け続けていた。
服を汚してしまった。謝らないと。咄嗟にそう頭では思ったが最早考えたとおりの言葉が出せなくなってしまっている伊万里は永遠と口から母音だけを溢し続けた。
芯にはどんどん熱が溜まっていく。苦しみだけが募っていき、壊れそうになる。朱く腫れているその胸のしこりを、敏感になっているその肌を、少しだけ強く、荒く、激しく刺激してくれさえすれば。
伊万里は天井を見つめ涙を流しながら、水面に浮いた餌を食む金魚のように口を動かした。
「し、づきさ……もう、いッ――ぁ、いかせ、て、ェ……」
「だーめ♡ 人に頼み事をするときには、どんな風に言うんだっけ? ねぇ、伊万里くん♡」
甘い声が熱された脳内に響く。なんと言えばよかったんだっけ。こういうとき、何時も「先輩」はどうやって自分をどやしていたのだっけ。思い出そうとしても頭が回らなくなってしまっている伊万里に志月は眉を下げて語りかけた。
「しょうが無いなぁ、伊万里くん。じゃあ、俺がお手本の言葉言ってあげるから、俺の後に続けて言ってみて?」
「いい?」と尋ねるその言葉に伊万里は姿月の顔を見つめ、間の抜けた声で返事をする。それすらも愛おしく思えたのか志月は僅かに顔を上げると笑い声を漏らした。
「じゃあ、行くよ? 「イかせてください」」
「い、イかせて、ください……」
「「お願いします」」
「おねがい、します」
「そうそう。じゃあ、さっきの繋げて言ってみて?」
「イか、せて……くださいッ……お、おねが……い、します」
ほとんど絞り出すような声で伊万里が懇願する。瞬きをすれば伊万里の大きな瞳から熱い涙がこぼれ落ち、志月の額にその雫が降り注いだ。
「ちゃんと言えたねぇ。良い子だね、伊万里くんッ!」
満足感。それだけではない。優越感や恍惚感。その全てを混ぜたような歓喜の声が志月の口から上がる。
その声とともに予告も無く勢いよく志月の手が伊万里の臀部へと振り下ろされた。鈍く高い打撃音が響き渡る。それと同時にぷっくりと充血した突起に噛みつかれ伊万里は音にならない嬌声を喉から吐き出し体を仰け反らせた。頭のてっぺんから爪先まで、甘美な痺れに支配される。一度では無く、二度、三度と破裂音が響き、幾度となく胸元を噛まれ刺激が与えられる度に伊万里の体は大きく痙攣をすると、志月のスウェットの上に熱を吐き出した。
何度、絶頂を迎えただろうか。最早、口の端から流れ落ちる涎すら気にも留めず喘ぐ伊万里の体を志月は抱きかかえベッドの上に転がった。そして、愛犬を褒めるように優しく頭を撫でる。しばらく、快楽の海に沈んでいた伊万里を眺めていた志月は伊万里の口から垂れる唾液を指で拭うとそれをゆっくりと舌で舐めとった。
甘い蜜か水飴のように見えて、存外無味なのだな。いや、もしかしたら直接壺の中へと舌をしのばせれば、もっと濃く甘い味を堪能することが出来るのでは。そんなことを思っていた志月の意識は枯れかけている伊万里の「ごめんなさい」の声で引き戻された。
「ん? どしたの、伊万里くん。何か謝るようなことあった?」
「志月さんの、服……汚しちゃって……」
「あぁ、そんなこと? 大丈夫、洗えば……って、伊万里くん?! 何してるの?」
突然自分の身体に馬乗りになったかと思うと服についた白濁の粘液を虫が樹液を啜るかの如く口にし始めた伊万里の頭を志月は無理矢理掴んで引き剥がす。ぼんやりと虚ろな目をした伊万里は、本気で志月が何に驚いているのかがわからないといった様子で首をかしげた。
「どうしたんですか」
「それはこっちの台詞だよ。何してるの」
「掃除を、」
「そんなことしなくて良いから……それに、俺そんなこと頼んでないでしょう?」
「でも、先輩は何時も、」
「伊万里くん」
志月の声が急に低くなる。その瞬間、伊万里は暖かな快楽の海から引き上げられた。
「俺は、「先輩」じゃないよ」
サァッと伊万里の体から血の気が引いていく。急激に冷やされた体が震えだし伊万里は体を起こすと咄嗟に口を押さえた。
急に腹の奥から何かがせり上がってくるような心地がする。ただ、ただ「謝らないと」という言葉が瞬時に伊万里の頭の中に渦巻いた。
謝らないともっと酷いことをされる。
酷いこと? そんなことはされない。この人は「先輩」じゃない。
志月さんは「先輩」じゃない。だから、あんな酷いことはしない。
本当に? そうとは限らないじゃないか。だって、お前は――。
「伊万里くん」
名前を呼ばれる。顔に手が伸びてくる。不意に体が強ばって動くことが出来なくなる。そして、ガードなんてする暇もなく、志月の手が伊万里の顔を静かに撫でた。
伊万里はいつの間にかグッと閉じていた目を開く。開いた目の先にいたのは眉間に皺を寄せ、眉を下げながらに俯く志月の姿だった。
「……ごめん、伊万里くん。怒るつもりはなくて……違うんだ、ごめん」
何時もの朗らかで明るい志月からは想像が出来ないほどに暗く沈んだ声。伊万里がその声に驚いていると志月の手が力なくベッドの上に落ちた。咄嗟に伊万里はその手を握りしめる。すると、志月は強く伊万里の手を握り返した。
「……自分は醜いなって、時々思うよ。伊万里くんは決して、俺のものじゃないのにね」
「そんなこと、ないです。俺は、志月さんの、」
「「志月さんのもの」って?」
自嘲気味に笑う志月に伊万里は咄嗟に頷いた。頷いて、直ぐに耳の辺りが熱くなるのを感じた。よくわからないが不思議と鼓動が早くなる。次に出す言葉がわからなくて困っていると志月は伊万里の腕を引き、自分の体の上へうつ伏せにさせた。
「じゃあさ、伊万里くん、」
志月の垂れた目がじっと伊万里を見つめる。一体何を言われるのだろう。何を如何しろと命令されるのだろう。そう考えるだけで伊万里の体は先ほどまで使っていた生暖かく甘美な海へと連れ戻されるような心地がした。
志月はゆっくりと口を開く。開いて、閉じて、言葉を咀嚼するように口をもごつかせると、志月はいつものように笑った。
「さっきみたいな事はしないこと! いい?」
伊万里は目を丸くした。拍子抜けをしたのだ。なにか、もっと、別のことを言われると思っていた。だが、ぼんやりとしている伊万里を置いて志月は伊万里に話し続けた。
「さっきの、先輩に言われて無理矢理してたことの一つなんでしょう? 伊万里くんがしたいなら話は別だけど……あ、もしかして、したかった?」
「い、いえ……別に、」
「でしょう? 俺も伊万里くんも気持ちよくないことはしない! はい、これ決定。わかった? あと、あぁいうことしたいなら、事前に確認してくれると嬉しいな。俺も驚いちゃうからさ……あ、俺、服着替えて何か飲み物持ってくるね。あと湿布も……」
口早に、捲し立てるようにそう言うと、志月は転がすように伊万里をベッドの上に下ろすと目をぱちくりと何度も瞬きさせる伊万里の方を見向きもせずにタンスから綺麗な寝間着を取り出す。そして、そのまま宣言通りに脱衣所へと向かって行ってしまった。
「……しづき、さん」
ぽつりと名前を呼ぶ。返事が返ってくるわけがなく、伊万里は唯呆然と志月が消えていった脱衣所の方を見つめた。
「本当は、俺に……何を、して欲しかったんですか?」
その質問に対して、答えが返ってくる事は無かった。
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