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2 高校編 1 晩春‐③
翌日。朝から雨がしとしと降っていた。犬はケージの中ですやすや眠っている。時々尻尾や耳がパタパタする。昼間はもっぱら寝てばかりだが、知らない人が来ると吠えることもある。
雨なので外へ出るのは億劫だったが、約束したので仕方ない。玄関で傘を探していると、ドアをノックする音がした。直感的に、水野がやってきたのだなとわかった。扉を開ければ案の定、着物姿の水野がずぶ濡れで立っていた。男にしては長い髪の毛先から、水滴がぽたぽた滴っている。
「おま、なんでそんな、濡れて……」
「? 大丈夫だ」
「大丈夫じゃねぇだろ、今日は冷えるのに。早く上がれよ」
リビングで待たせ、急いでタオルを持ってくる。髪は拭けばどうにかなるが、濡れた服はどうにもならない。
「とりあえずそれ脱げよ。部屋干しだけど、一応干しとくから。代わりに俺の、ジャージか何か持ってくる……から……」
思わず目が釘付けになる。水野は素直に服を脱いだが、紺の羽織の下に現れたのは、見覚えのある薄紫の着物だった。雨に濡れて、色が少し濃くなっている。するりと帯を解いてはだけた胸元に覗くのは、やはり見覚えのある真っ白い着物。
どうしてだろう。どうして知っているのだろう。初めてのはずなのに、以前どこかで見たことがあるような気がする。胸がどきどきして、ぐるぐると目が回る。
「どうした、じろじろ見て?」
「あ、いや……なんか、デジャヴがすごくて」
「デジャヴ?」
「既視感っつうの? なんか俺、お前に昔、会ったことがあるような気がして」
水野は目を大きく見開く。
「……まさか、思い出したのか」
「え? いや、わかんねえ。気のせいだろ」
「気のせいなんかじゃない。ちゃんと思い出すんだ」
黒い双眸が俺を捉える。つぶらな瞳。だけど、
「……あ、あの子は……か、変わった目の色をしてた……か、髪も……銀色に光って……すごく、綺麗で……」
記憶を手繰り寄せ、俺は途切れ途切れに言葉を発する。するとどういうわけか、水野の姿がみるみるうちに変わっていく。銀の瞳に銀の髪。濡れた着物もいつの間にか乾いている。同時に、おぼろげだった記憶が鮮やかに甦る。確かにあの子だ。夏休みに一緒に遊んだあの子に間違いない。
「こんなに大事なこと、なんで忘れてたんだろう。来年も絶対に会いに行くって、約束したのに」
水野はどこから転校してきたと言っていたんだっけ? うちのおばあちゃんが住んでいた土地とばっちり被っているじゃないか。どうして今まで気づかなかったのだろう。
「そういう決まりだ、仕方ない。思い出してくれて嬉しい」
水野は美しく笑った。泣いているのじゃないかと思った。
はっと目を覚ます。見えるのはリビングの天井。それから水野の顔。貧血で倒れたのだと水野は言う。我ながら情けない。頭を押さえながら起き上がる。
「あれ、お前、髪……」
「規則が厳しいだろ。それに目立つから」
「あ、ああ、染めたんだな」
目もコンタクトを入れているのか。だけどさっき確かに、まるで魔法が解けるみたいに、全身の色が変わったように見えたが……気のせいか。黒染めした毛が一瞬にして地毛に戻り、また次の瞬間には黒く染まっているなんて、そんな馬鹿げたことがあってたまるか。
「なぁ、お前ほんとにあの時の?」
「そうだ。お前が一番よくわかっているはずだ」
「ああ、確かにそうだ。……お前、瑞季って名前だったんだな」
「あの時も名前教えただろ」
「そうだったっけ。全然覚えてねぇ」
「お前はまだ小さかったからな」
瑞季は先ほど脱ぎかけた着物をすっかり着込んでいた。
「それで、これから何をする?」
これから? これから……ああ、そうだ。まずDVDを見よう。去年の話題作だ。レンタルが始まったので借りてきたのだった。リビングではなく二階の俺の部屋へ。窓から空を見ると、雨は止んで虹がかかっていた。
部屋に友達を呼ぶなんて珍しいことじゃないけど、今日はなんだか落ち着かない。そわそわしてしまう。俺の部屋で、俺の隣に座って、俺の用意した冷たい麦茶を飲みながら、瑞季は映画に集中している。映画を活動写真などと言っていたので一時はどうなることかと思ったが、実際見てみれば普通に楽しめるらしかった。
映画を見終わり、一緒に勉強をした。俺は数学と理科は好きだが他はてんでダメで、特に古典が苦手なので、瑞季に教えてもらった。瑞季は瑞季で、理系クラスのくせに日本史の教科書を持っているようなやつなので数字には弱いらしく、そっちは俺が色々見てやった。
気づけばもう夕暮れ近かった。瑞季は帰り支度をし、教科書を風呂敷に包む。父さんと母さんがそろそろ帰ってくるだろうから会っていけばと言ったが、瑞季はもう帰らなくちゃいけないのだと言った。
「おれのこと……山で昔会ったことは、誰にも内緒にしといてくれ」
「どうして?」
「どうしてもだ」
「学校のやつらにも? 母さん達にも内緒か?」
「お前だけ知っていてくれればいいんだ」
いやに頑なであった。俺はうなずくしかない。
「ありがとう。お前だけ、覚えていればいい」
昔会ったことを、瑞季は覚えていたのにどうして言ってくれなかったんだと言ったら、そういう決まりだから仕方ないんだと言った。どういう決まりなんだと言うと、そういうものは難しく考えるもんじゃないと言う。
「じゃ、また明日だ。学校で」
瑞季を見送ってすぐ、父さんと母さんが帰ってきた。何かを言おうとし、やめた。ただ、クラスの友達が遊びに来たとだけ言った。
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