32 / 33

4 終章 2 厳冬

「柊! 柊也! いい加減起きなさい! 遅刻するわよ!」    階段の下で母さんが叫んでいる。   「いつまで寝てるの! さっさと起きる!」    勢いよくドアが開いて、とうとう布団を引っぺがされた。   「う……も、なに……」 「寝ぼけてないで起きなさい!」 「寝ぼけてねぇしぃ……だってもう夏休み……」 「やっぱり寝ぼけてんじゃないのよ。夏休みだけど今日は大学行くんでしょ! オープンキャンパスで何かやることがあるからって、昨日自分で言ってたじゃないの」    おーきゃん……? その一言で一気に目が覚め飛び起きる。   「そうだった! やっべぇ、今何時!?」 「七時四十五分」 「やばいやばいやばい、どうせならもっと早く起こしてよ!」 「あんたねぇ、ちょっとは自分で起きる努力ってもんを――」 「無理だって。俺が今まで一人ですっきり起きれたことあった?」 「ったく、いつまでもそんなんで大丈夫なのかしらね」    母さんの小言に文句を挟みつつ、俺は倍速で準備をした。食パンをほぼ丸呑みし、自転車をかっ飛ばして駅まで向かう。そういえば、どうして俺はわざわざ隣駅から電車に乗っているのだろう。最寄りからでも同じ方面に電車は出ているのに。特急が停まらないからだっけ? もっと大事な理由があったような気がするが。    ここ数日の……あるいは数週間の、もしくは数か月の記憶がどうも曖昧だ。靄がかかったように朧気だ。そのせいか意識までぼんやりして、両親や友人からは心配されるし、授業中にも注意される始末だ。この間なんか授業後に教授から呼び出しを食らって、追加で課題を出されてしまった。    俺ってば本当ダメなやつだな。つい先日二十歳の誕生日を迎えて、年齢的にはもう立派な大人だっていうのに、本当情けない。……だけど、俺ってそんなにダメなやつだったっけ? 昔はもう少し覇気のある人間だった気がする。でも、いや、どうなんだろう。自分のことは自分が一番わかってないって言うしな。     「――先生? 先生ってば、聞いてんのかよ」    今もそうだ。バイト中だってのにぼんやり考え事なんかして。意識が低い。右隣に座っている生徒――確か中学二年生――があからさまに不機嫌な顔で俺を見る。   「ぼーっとすんなよな、一応仕事中だろ?」 「いや、うん、ごめんな。それで何、質問?」    ぼんやりしていると月日は川の流れのようにあっという間に過ぎゆく。今年の夏休みも何もできずに終わった。変わったことと言えば、友達と夜中飲み明かしたことくらいだ。後は家でゲームをしたりバイトをしたりしていただけ。気が付けば季節はもう秋だ。   「はぁー? ちげぇし。勉強の質問なんかしねー」 「もう、やめなよケイちゃん。先生に向かってそんな言葉遣い」 「うるせー、童貞は黙ってろ」 「ひっどぉい」    左隣の生徒が右隣の生徒をたしなめるが、なんだか口喧嘩のようになっている。この二人は同い年の幼馴染だ。一緒に塾に通っている。   「喧嘩はやめて、勉強しなさい。わかんないとこあったら教えるから」 「だからちげぇって。先生オレさぁ、彼女できたんだけどさぁ」 「エッチしようとして断られたんだよね」 「ユウてめ、なんで言うんだよ」 「だってほんとのことじゃん。ケイちゃんだって結局童貞のくせに」    また喧嘩になりそうなので一旦落ち着かせる。   「で? なんでそんな話」 「だ、だからぁ、どーしたらえっちさせてくれんのかな、って。先生彼女いるよな? 大学生って毎晩ヤッてんだろ? どーしたらいいか教えてよ」 「いや俺は彼――」 「何言ってんのケイちゃん。理系大学生に彼女なんてできないんだよ。先生もどうせ童貞だよ」 「てか中学生のくせにそん――」 「はぁぁー? お前こそ何言ってんだよ、ユウ。先生彼女いるって前言ってたろ。お前が言ったんじゃん。デートしてるとこ見たって」 「ボクそんなこと言ってないよぉ。ねぇ先生? 先生彼女なんかいないよね?」 「い、いいからちょっと静かにしなさい。ほら飴、飴あげるから」    食い物で釣ってようやくクールダウンだ。中学生ってこんなに子供っぽかったっけ。あんまり無駄話してると塾長に怒られるからやめてほしい。   「ねぇ先生ぇ、何かいいアドバイスくれよぉ」 「別に、そんな焦ることじゃないだろ。まだ中学生なんだから」 「普通焦るだろ。早くヤッて、これでこいつはオレのもんだって安心したいんだ。いつフラれるかもわかんないのに」 「だったら尚更焦っちゃだめだろ。彼女の気持ちも考えてあげないと。女の子はデリケートなんだぞ。ていうかお前、避妊とか色々……」 「あのねぇ先生。ケイちゃんはね、幼稚園の頃からずっとその子に片思いしてたんだよ。だからもう待ち切れないっていうか、付き合えただけでイキそうなんだよね」 「はぁあ!? ユウてめー、あることないこと言うんじゃねー」    ケイは真っ赤になって怒る。ユウが言ったことは本当なのだろうな。  しかし、それだけ待てたならエッチだってまだ待てるだろう。むしろ待てよ。彼女の気持ちが決まるまで待てよ。それまでにコンドームの着け方でも練習しておけばいい。大体中学生で童貞がどうのこうのなんて、最近のガキは早熟だな。俺なんかやらずに二十歳だというのに。いや、別に恥だとかは思ってないけど。   「ていうか、先生にそんなこと訊いたって無駄だって。恋愛のことなんて知らないんだから」 「またその話かよ。ユウが忘れてるだけで、先生彼女いっからな。な、先生」 「いや、俺彼女なんていたことないよ」 「ほらね」 「はぁー? なんでそんな嘘言うんだよ、別れたの? 水族館でデートしてたって、ユウが言ったんじゃん。写メ送ってもらったし。金髪でボーイッシュな感じの、えーと、でも貧乳だったような……」    カメラロールを漁るが、そんな写真は出てこない。当たり前だ。水族館なんてここ数年行っていないし、デートに至っては一度もしたことがない。    あーあ、塾講師とはいうものの、生徒の雑談に付き合わされてばかりだ。どうして俺はこんなところで必死に金を稼いでいるんだろう。遊ぶ金ほしさ? 金に困るほどは遊んでいない。何かもっと大事な理由があった気がするのに、はっきりとは思い出せない。生徒が言っていた、金髪でボーイッシュな感じの彼女でもいりゃあ、働く理由になるんだけどな。      ぼんやりしていると月日はあっという間に流れゆく。学園祭は友達と回り、後夜祭も見た。そういえば、去年はどうしていたんだっけ。去年は学園祭に来たんだっけ。来なかったんだっけ。後夜祭は見なかったような気がするが、じゃあ代わりにどこで何をしていたんだっけ。思い出せない。    何も起きないまま今年もクリスマスが終わり、ぼんやりしている間に年末が来る。バイトもないので、例年通り家で過ごす。夕飯に国産牛肉のすき焼きを食べ、年越しと共に天ぷら蕎麦を食べ、歌番組を見て炬燵でごろごろする。除夜の鐘を聞いていたら、なぜか泣きたくなるくらい悲しくなってきて、大晦日にも関わらずさっさと眠った。     「あんた、最近ちょっと疲れてるんじゃない? 隈ができてるわよ」    ある時母さんに言われた。東京で初雪が降った日のことだ。   「……心配するほどのことじゃないよ。来年から研究室入るから、そのために色々準備があって忙しくて」 「それならいいけど、あんまり無理はしないようにね。最近はごはんもちゃんと食べてないじゃない? 若いんだから、いっぱい食べなくちゃ」 「うん。わかってるよ」    本当は、夜眠れないせいで疲れているのだ。ごはんだって、食欲が湧かないから食べられない。時々、どうしても眠れなくて朝になってしまいそうな時は、犬をケージから引っ張り出して抱っこして寝るのだが、求めている温もりとは別物だということが如実にわかってしまい、喪失感ばかりが浮き彫りになって余計に虚しい。    喪失感とはいうが、一体何を失ったのか忘れてしまった。俺に失って困るものなんてあっただろうか。何も失っていないのに、何かを失ったという感覚だけが残っている。大切だったはずの記憶、温み、声、匂い、味、そういったものを丸ごと全部遥か遠い過去に置いてきてしまった。   「ねぇ母さん。おばあちゃんの家って、どこだっけ」 「茨城の?」 「違う、そっちじゃなくて」 「山形のおばあちゃん家? なんで今さら」 「行きたいんだ」 「行きたいったってあんた、行ってどうするのよ。あの村はもうないのよ。住んでた人はみんな出て行っちゃって。おばあちゃんはその前にこっちへ越してきたけど、それだって亡くなってからずいぶん経つのに」 「わかってるよ。わかってるけど行きたいんだ。地図描いてよ」    その場所へ行けば、失ったものが何だったか思い出せるような気がした。きっとあの場所に俺の大切な全てを置いてきたのだ。こんなものはただの直感で何の保証もないけれど、このまま、胸にぽっかり空いた穴を抱えて生きるのは死ぬよりも辛い。喉を潤す水もないまま、飢えと渇きに苦しみ続けるなんて絶対嫌だ。      春休みに入ってすぐ、両親には内緒でおばあちゃんの住んでいた村へ行くことにした。心配させるといけないから、二泊三日で友達と旅行に行ってくると嘘を言って出てきた。    鈍行列車は平野から山中に入り、トンネルを抜けると雪国であった。山々に囲まれた渓谷で、それ以外には何もなく、ただ雪だけが深く積もっている侘しい風景。東京ならとっくに運休しているだろうが、北国の列車は強かに雪を掻き分けて単線の線路上を漸進していく。    駅に着いた。降車の際に運賃箱に料金を入れる。屋根がない野晒しのプラットフォームに降り立つ。駅員はいない。年老いた老婆が一人、古びた駅舎のベンチに座っていた。   「月沢村にはどう行けば行けますか」    老婆の話は要領を得なかった。とにかく北へ行けと言う。   「歩いて行けますか」 「ええ、ええ。お千ちゃんによろしくねぇ」 「そうですか。ありがとう」    俺は北へ向かった。二時間も歩いたが景色はほとんど変わらない。延々続く銀世界と、時々民家が建っているだけだ。途中軽トラックが通りかかり、助手席に乗せてくれた。   「あんなとこへ何しに行くんだい」 「昔住んでたんです」 「今は晴れてるからいいが、暗くなる前に必ず山を下りるんだぞ」    空を見上げる。決して晴れてはいない。どんより曇っている。でも雪は降っていない。橋の手前で降ろしてもらい、そこからまた歩いた。    既に村に入ったはずだが、記憶は依然として戻らない。住む者のいない村は廃墟と化している。まるで何十年も前からそうであるかのように、建物は朽ち果て、道は崩れ去っている。    だんだん雪が深くなる。歩くのがしんどい。気づくと山に入っていた。そういえば古ぼけたお堂がぽつんと立っていたなと思い出し、探してみたけど見つからない。山奥に湧き水があったような気がして闇雲に探してみるが、やっぱり何も見つからない。    帰り道がわからなくなった。陽が落ち、暗闇に粉雪が舞う。長靴を履いていたが、雪に埋もれた時に靴下まで濡れた。手足が凍え、震えが止まらない。このまま孤独に死ぬのかもしれないと急に恐ろしくなった。

ともだちにシェアしよう!