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第1話

ずるずる重石をつけたような足を引きずりながら階段を上がる。 たった三階への階段が残業疲れの身体には無限に続く螺旋階段のように感じた。 三十歳も半ばを過ぎて、疲労の回復が追いつかず平日は毎日こうである。 よいしょ、と掛け声をつけ最後の一段をあがった、同年代に比べ肉付きは無い方だが軽く息切れしている。 築年数は程々の三階建てアパートは部屋数も多くない、階段を真ん中にして左右には二部屋ずつ扉が並んで終わりだ。 滝谷の部屋は右側の角部屋で大股を開けばたった数歩で辿り着く狭さも、一年以上空き部屋になっている隣室のおかげで騒音に悩まされることもない今の環境もわりと気に入っていて、駅から徒歩15分という距離と引越しの手間を天秤にかけたところで絶妙なバランスで揺れもしない、いつも片方に傾いたまま、変わらぬ日々をもう五年続けている。 けれど、そんな平穏な日々に一石を投じるように、今日は蛍光灯に照らされた短い廊下に見知らぬ姿が立っていた。 滝谷の隣室の扉に鍵を突っ込んでいる男、パーカーをすっぽり被っている横顔は鼻先しか見えず、背はあまり高くない。 ただぶかぶかと布が余るパーカーにストレートのデニムという格好がどことなく男の若さを教え、猫背に丸まった背中が生活感を垣間見せる。 若い男の姿が消えガチャンと鍵がかけられた音を聞き、滝谷も我に返って玄関の鍵を開け部屋に入った。 くたくたになった靴を脱ぎながら、隣はいつ越してきたのだろうと記憶を辿っても一向に思い出せない。 ここ最近は休日出勤も続いていたし、毎日残業で帰宅も深夜とあっては気が付かなくてもしょうがないのだろう。 このご時世で近所づきあいなど無いに等しく、現に隣室に以前住んでいた住人の顔すらあやふやだ。かろうじて男だったことは覚えている。 玄関から直でリビング続きの寝室へ向かい、スーツを脱ぎクローゼットにかけ早々今朝ベッドに脱ぎ捨てたトレーナーとスウェットに着替えると洗面所へ行く。 たっぷり男くさくなったワイシャツを洗濯機にそのまま放り込む。スメハラなんて言葉がある世の中だ、今年37歳になる滝谷にとって他人事ではない。 簡単に顔を洗い歯を磨けばもう後は寝るだけ、シャワーは朝浴びることにする。 一日中窓を閉め切っているせいで空気が濁った寝室に再び戻りベッドに横になるとなんとかアラームだけセットして、枕元にスマートフォンを投げた。 あとは3秒で夢の中、滝谷は寝つきの良い男なのである。 もう何杯目の珈琲だろう、そう思考は沈むのに数えることは放棄した。 インスタントの泥が沈殿したような色も無駄に舌をピリつかせる味もとうに慣れてしまった、何せこれは残業に欠かせないお供なのだ。 到底大手とはいえない設計事務所では一つ一つの案件の比重や一人一人の技量が大きく業績を左右する。 今抱えている物件は、統廃合する学校を保育所と併合しより良い子育てと教育の環境を作るというもので、市が直接宣伝に関わるから選ばれれば事務所の名前も大々的に知れ渡るし、少子化と学校の統廃合はどの県でも今やすぐにでも取り掛からなけ ればならない問題なのだ、一つが決まればそれがモデル校になり次の仕事にも繋がる有力な切っ掛けになる。 絶対に落としてはならない案件な分、コンペには大手事務所からも多数参加すると聞いていた。 ぐっと事務所備え付けの狭い給湯室で腰を反らせ気合いを入れ、デスクへ戻ると一時間ほど前に退勤したはずの春山の姿があった。 「あれ、さくらちゃんどうした?」 「よかったー。滝谷さんまだ残ってたんですね。デスクに居ないからとうとう仕事投げ出して失踪したのかと」 ぺろっと小さな舌を見せ軽口を叩く彼女は、手に持ったドーナツチェーン店の箱を軽く振って見せた。 春山は今年入社三年目になるが、持ち前の人懐こい表情と細やかな気配りが、難しい性格の多い歳の離れた上司たちにもウケている。 「駅まで行ったら車両点検とかで電車が止まってて。だいぶ待つみたいだから戻ってきました。コレ差し入れです」 「お 、ありがとう。でもこんなに食えないよ」 「やだなあ、私の分ですよ」 箱の中にはたっぷり砂糖の練りこまれたカラフルなドーナツが六つ並んでいた、一体幾つ食べるつもりなのかと鼻歌を奏でながら給湯室へ珈琲を淹れにいく細い後ろ姿を見ながら呆れてしまう。 絶対数が少ないとはいえ男所帯の事務所の中で彼女が一番の大食いであることは会社の社員にとって周知の事実だが、それが中年の年齢からくる胃袋の衰えのせいなのかはたまた彼女の胃袋が余程強靭であるのかはまだ解明されていない。 部屋の中が珈琲の芳ばしい香りとドーナツの甘ったるい匂いで充満すると、さっきまで眉間辺りに集まっていたやる気も何処かへ散漫した気がした。 「滝谷さんどれにしますか?」 いつの間にか自分のデスクから引いてきた椅子に座り呑気にそう問いかけ滝谷が指した定番プレーン味のドーナツを皿に乗せ手渡すと、残りの五つを箱ごと膝に置き頬張り始めた春山の食欲に感化されたのもあるかもしれない。 壁にかかっている丸時計は既に21時前を告げている。 今日はこれを食べたら帰ろうと決め、滝谷はドーナツにかぶりついた。 かれこれ三十分雑談とお茶で時間を潰し、いよいよ仕事どころではなくなって、スマートフォンで事務所最寄り駅を検索すると電車の運行が再開したらしい。 春山にマグカップの片付けを頼み慌ててデスクの上を整理して、二人で事務所を出ると十一月の風が容赦なく吹き付ける。 下に目黒川の流れる短い橋を渡り交番横を通りながら、夜勤の勤務に就いたばかりであろうに欠伸をする制服姿の警官に軽く会釈すれば、大口を開けていた姿をばっちり目撃されてしまった気恥ずかしさからか、照れたように笑った。 段々と駅が近づくにつれ車や人通りが一気に増える。 都心というわりに駅の周辺は昔ながらの喫茶店や建物も多く、更に離れれば住宅地が並ぶ街並みはのどかな昼時の散歩には持ってこいだが、冬に両足を突っ込みかけている季節はただ辛いばかりである。 肩を竦め巻き付けたマフラーに鼻先を埋める。くん、と鼻を鳴らしても何のにおいもしないのは気のせいだろうか。 早く電車に飛び乗って温まりたい、けれど隣を歩く春山の女性らしい小幅な歩調に合わせ気持ちだけが急いた。 漸くたどり着いた駅は長らく電車が止まっていたにも関わらず人の多さはいつもの週末程度で、まだ21時を回った時間とあれば華の金曜日を無駄にするまいと飲みに行くのだろうスーツ姿のグループが幾つもある。 ホームへ降りると発車ベルが鳴り響く中ぎゅうぎゅうに押しつぶされながら無理やり乗り込んだ。 勿論春山の華奢な身体を極力隙間がある方へ誘導し盾になるよう覆うが、ここで彼氏でもない人間が触れるわけにもいかずぐっと足裏に力をいれ踏ん張った。 たった二駅間を揺られ押され時には硬いカバンの角をぐいぐい当て付けがましく擦り付けられ、降りる頃には冬場だというのに汗が滲んでいた。 ここからは春山と違う路線の地下鉄に乗り換える。 ドーナツのお礼に食事にでもさそうべきなのかもしれないが、若い女にとってそれは同じ歳頃の男にそうされてこそ嬉しいものなのだ。 「それじゃあまた月曜日に…、さくらちゃん?」 滝谷が首元のマフラーを鬱陶しげに抜き取り春山を見送ろうとすると、彼女の大きな目は交差点向こうのビルに設置された巨大モニターに向いていた。 「フィフスだー。新曲出したんだ」 「フィフス?」 つられてモニターを見る。 そこには若い男五人が踊ったり、カメラに向かい微笑んでみたりする映像が流れていた。 MVなのだろうが、駅前の喧騒にかき消され曲は上手く聴き取れない。 「染谷プロ所属のアイドルですよ、アイドル!男のアイドルと言ったら染谷プロってくらいですけど、滝谷さん知りません?」 「うーん、俺はそういう若い子が好きなのは全然…。さくらちゃんはああいうアイドル好きだっけ?」 「いやー、私も本当は別のグループが好きなんですけど、なんかフィフスはちょっと頑張ってほしいんですよねー」 「なんで?」 「グループの雰囲気も悪くないしデビューして何年も経ってるのになかなか陽の目を見ないっていうか。後輩グループにぐいぐい押されてて。そういうのって応援したくなるじゃないですか」 「ふーん、そんなモン?」 「そんなモンです!」 新曲買おうかなー、と顎に手を当てる春山の隣で再びモニターを見上げる。 歌詞は聞こえないのにNowOnSaleの音だけがやたらに響いた。 同時に、少しタレ目でまだ少年の幼さを残した黒髪の男の横顔がアップで映し出される。 あれ、と何かが記憶の片隅に引っかかった。 予定より一時間は早く帰宅出来たはずなのに、いつもと変わらず重い足取りで一つ一つ階段を上る。 コンビニで買った弁当と缶チューハイの入った袋が揺れるたびガサガサ擦れ、静まりかえった建物全体を震わせているようだ。 よっと、とやはり最後の一段を気合いで上がったとき、漸く長い一週間が終わった実感が湧いた。 今日は酒を飲んでゆっくり風呂に浸かる、そしてアラームを切ってベッドに潜り込んでしまったら次に瞼が開くのは明日の昼だろう。なんと幸せなことか。 他人が聞いたら細やか過ぎて幸せと呼ぶには不相応な予定を立て、右側の廊下を行こうと足を向けると数日前と同じように人影があった。 いや、同じようなといえば語弊がある。 数日前見たのは隣室の鍵を開け中へ入っていく男の姿だった。 今日は違う。 あのとき顔ははっきり見えなかったが、背格好から同じ男だろうと判断する。 男は玄関扉にもたれかかり廊下に脚を投げ出しぐったりしている。 一瞬どこか怪我をしてるのではと慌てて駆け寄りしゃがむと、ゆったりした呼吸に合わせパーカーを着た胸が深く上下するのがわかった。 「んー…」 ぼそぼそした呟きは寝言に似ている。 違う、これは寝ているのだ。 聞き取りづらい呟きを拾うため顔を近づけたら鼻先をむわんと酒のにおいが刺激する。 飲み過ぎて酔っ払いの成れの果て。 どうしたものか。まだ11月、されど11月。こんな薄着で朝まで寝かせておけば凍死とはいかないまでも、身体に何らかの影響はあるだろう。 滝谷はお人好しではないが自分の目覚めが悪いことはしたくない。 考えあぐねていると、うーん、と呑気に気持ち良さそうに寝こけている男が身じろいだ。 頭に被っていたフードがずり落ち顔が露わになる。 すっかり閉じた瞼はその奥の眼球の大きさは教えてくれなくとも涙袋に影を落とす睫毛の長さはわかる。 本来は白いのだろう頰は酒で薄っすら赤らみ、唇は上がちょんと少し出ていて、鼻先は丸みがあり、左目の下に涙ボクロ。 どちらかと言えば可愛らしいという表現が相応しいのだろう、初めて目にした隣人の顔をまじまじ見つめながら、何か違和感が過った。 初めて見るのに、初めてではない感じ。 これと同じ感覚を直近で感じた気がするが、思い出せない。 「んんー…」 そんな思考を散漫させるかのように再び男がぐずりながら目を人差し指で擦った。 まるで幼子がする仕草が、何故か男にはしっくりくる。 起きるかという期待は打ち消され、男はむにゅむにゅ唇を動かした。 「プリン…食いたい…」 「は…、はあ?」 冷えたコンクリートに座り込んだ男の脚、視線を背後へ持っていくと尻に潰された財布らしきものがデニムポケットに捻じ込まれていた。 「まさか酔ってプリン食いたくなってこの状態かよ…」 呆れた長い独り言にイエスかノーを答えるべき相手は呑気に再び寝息を立て始めた。 いつ起きるかもわからない、だけどここに放置するわけにもいかない。 他人の部屋に勝手にあがれない、むしろ部屋鍵がどこにあるかもわからない。 数分前に立てたせっかくの細やかな休日の予定があっという間に壊れていく。 長いため息に後悔を流し、滝谷は男の腕を取り首に回し身体を抱えた。 全く意識のない成人男性の全体重がずっしり襲う、翌日の腰痛を覚悟すると吐き出したばかりの後悔がすぐによじ登ってきた。 器用に鍵を開け玄関に入る。狭いスペースは男二人の身体だけで余裕がなくなる。 一旦隣人を廊下に寝かせ、足からスニーカーを抜き取り適当に投げた。 これくらい雑に扱ったところで後々文句を言われる筋合いもない。何しろ深い眠りの奥にいる酔っ払いは、こっちの気も知らずふにゃふにゃ平穏な寝息を漏らしている。 廊下に上がり再び細い身体を抱えずるずる引きずりながら、寝室に辿り着くとシーツがくしゃくしゃになったベッドの上に横たえた。 これで三歳は年老いたかもしれない、どうしてくれる。 そうぐつぐつ胸の内でだけ文句を煮ていたら腹が盛大に鳴った。 胃袋を満たせば苛立ちも少しは治るのか、玄関に置きっぱなしのコンビニ袋を取りソファに倒れこむように腰掛けネクタイを緩める。 途端に呼吸が軽くなった。 せっかくすぐに食べられるよう店で温めてもらった弁当は冷え切ってしまい、湯気の水滴が蓋にこびりついていたが、事務所で口にしたドーナツ一個では満足しない腹は中に入れば何でも構わないとばかりに、内臓をきゅうっと締め付ける。 冷めた唐揚げを口に放り広がる油を缶チューハイで流し込む、何とも味気が無く脂肪がつきそうな食事だ。 滝谷に恋人と呼べる存在が居たのはもう三年以上前の話である。 その頃は所謂同棲だったので、帰れば大抵彼女の作った温かい食事が待っていた。 それが幸せだったのだな、と気づいたのはこの部屋から彼女の愛用していたクッションやよく読んでいた小説、何年も着ていたコートやらが一つ一つ消えていってからだった。 人間は愚かだ。 帰ったらひとけのある部屋の意味をぶるり、と肩を震わせて漸く、本来暖房は自分でつけなければならないのだとわかるのだから。 チューハイを飲む度ごくごく上下する喉仏の音以外が部屋から無くなるのを誤魔化すためにテレビをつけた。 滝谷は普段からバラエティもドラマもあまり関心がなく、見るのはせいぜい朝の天気予報くらい。 半ばインテリアと化しているテレビの配置だけは完璧なのだけれど。 早食いなせいで残り一つになった唐揚げを箸で挟んだ。 すると、聴いたことのある歌が耳に流れ込み顔を上げる。 チカチカ場面が切り替わる画面に映るのは、丁度つい一時間ほど前、渋谷駅で春山と見た大型モニターで流れていたアイドルの新曲MVのCMだった。 さっきはごちゃごちゃした街の喧騒で歌詞は全く記憶に残らなかったけれど、明るいリズムと曲調はラブソングではなく青春を楽しむソレなのだろう。 歌って、踊る五人組。 そこではた、と気づく。 右から二番目の男。 黒髪であまり背は高くなく、色白で、上唇はちょんと上を向き、鼻先はまるく、そして、左目の下の涙ボクロ。 どこかで見たことが。 いや、正確には見たことはないのかも知れない。 だって、たぶん、あの瞼の下に、こんな丸い瞳が隠されているだなんて、知らない。 一人ずつアップになり、最後にNowOnSaleの文字。 映ったあの横顔。 「えっ、は、はあー?!」 夜中なのも忘れ大声を上げ、ぽろりと敷いたラグマットの上に唐揚げが落ちるのも構わず寝室に駆け込んだ。 こんもり人一人分に膨れたベッドは呼吸に合わせ上下している。 やっぱり酔っ払いはまだここで、滝谷のベッドで寝ている。 自分の部屋なのに何故か忍び足で近寄り、リビングから差し込む光に浮かぶ布団で半分隠れた顔を見下ろす。 いやいや、隠さなきゃいけないのは全くもってそこじゃないから。 下半分が隠れたところで何の意味もないじゃないか。 だって、きっとこの男が誰かと判断する上で重要だろう左目の下の涙ボクロは、きっちり見えている。主張している。 もうまさかではない。 「…嘘だろ。え、…フィフス?」 テレビ画面の向こうでとびっきりの笑顔を見せていたアイドルの寝息を聞きながら、滝谷はただ立ち尽くした。 (続)

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