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第2話
朝一で良くないことが起きると、その日一日は厄災に見舞われる。自分の中で幼い頃から築いてきたジンクスを、藍田は二十歳を超えた今も信じている。
「明後日発売になる週刊誌だ」
マネージャーに手渡された二日早い曜日が書かれた雑誌は中を確認する前から不穏な空気を放っていた。
キッチリ折り目のついたページを捲る。
飛び込んでくる大きな見出し文字と見開き一面に写された写真。
「…何で今更この写真が?」
「確かに今更だ。お前が小松ひなと別れたのはもう一年近くも前だからな」
鋭いマネージャーの指摘に苦い記憶が掘り起こされる。
丁度一年程前のあの時は、別れる別れないの大騒動でだいぶ精神を削られた。
雑誌にはそんな修羅場を繰り広 げた相手と自分が隣り合って並び、マンションへ入っていく写真がデカデカと載っている。
「もうお前があの子と関わってないことはわかっている、大体この写真も一年前のものだしな」
「じゃあ何でこれが今出てくるわけ?」
マネージャーは悔しいとばかりにギリギリ奥歯を鳴らした。
「二週間後に小松ひな主演の映画が始まるだろう。その話題作りに決まってる。彼女、この一年程で若手女優の中では後輩の人気が凄いから本人も事務所としても焦ってるんだろう」
藍田はほんの数ヶ月恋人として過ごした写真の中の女を見下ろす。
やはり一般人とは違い作り顔でなくても写りのいい目鼻立ち、スタイルだって並外れている。
向こうから告白されて付き合ったとはいえ、相性は悪くなかった。
ただ藍田は常に何か足りない空洞を、胸の内に抱えていて、彼女はそれを満たしてくれる存在に値しなかった。だから別れた。我ながら最低だと思う。
けれどそのは空洞は幼い頃、この仕事を始める前からこの胸の風通しを良くしている。
両親も揃っていて、母は役所勤めだし父は勤続25年の会社員。
兄弟は三つ上に兄が一人の男系家族、ごくごく普通の家庭で育った。
だが、藍田は兄と自分の違いを知っている。
小学校でリトルリーグに入り、中高は野球部で汗を流しいつも輪の中心にいる兄と、一方で何をしても冷めた目を沈ませ途中で放棄する弟。
そんな弟を兄は邪険にすることもなく、お前にも何か楽しいこと見つかれば良いのにな、とよく頭を撫でてくれた。弟はその掌の熱ですらどうでもよかった。
誰と一緒にいるでもなく、毎日なんとなく学校へ行き部活もやっていないから授業が終われば真っ直ぐ帰宅して、いつも家で本を読む。おかげで六年使ったランドセルは小学校を卒業する時もぴかぴかだった。
しかし転機は中学へ上がりすぐ訪れた。
従姉妹が芸能事務所へ勝手に履歴書を送ったのだ。
一次審査通過の報せが届き事は発覚した。
こんなこと一生に一度あるかだから、とあまり気乗りしない藍田の背中を押し見送った母には長男と違い消極的で少々卑屈な性格の次男が変わるチャンスかもしれないという親なりの焦りがあったのかもしれないが、その隣で嬉々として手を振り芸能人に逢ったらサインよろしくね、と強請る従姉妹は明らかにそちらが目的だった。
結果は見 事最終審査も合格、藍田は染谷プロの研修生になった。
いざ始めるとダンスも歌も未経験ながら持ち前の器用さで上達は早く、二年が経つ頃には数いる研修生の中で最前列のポジションを勝ち取っていた。
その頃には研修生ながらもファンがついて、先輩グループのバックに立っているときも名前を呼ばれた。
けれど、それがなんだというのだろう。
女の子からの黄色く甘い声援も藍田の何もかもを揺さぶらない、左胸の肋の奥に出来た空洞を埋めてくれない。
思っていたより長く続けてしまったが、高校にあがったら辞めどきかもしれない。
そう思っていた矢先に、誤算は起きた。
次期デビューグループのメンバーに選ばれてしまったのだ。こんな言い方をしたらデビューを夢見て今こつこつレ ッスンを積んでいる研修生に申し訳ないが、藍田はデビューなど望んでいなかった。そう、断じて俺はデビューなんてしたくなかった。
だのに大人の輪に呑まれ洗濯機でぐるぐるかき混ぜるように日々は過ぎて、新聞の一面でデビューが報じられ記者会見を開き初めて記者からマイクを向けられ、その録画をはしゃぎながら家で繰り返し見る両親の姿に、当時まだ16歳だった少年が逃亡などできるはずもなく。
藍田陸は染谷プロ五組目の五人組アイドルグループ、フィフスとしてデビューしたのである。
それが六年前の話だ。
「陸、聞いてるか?」
苛立ち混じりの声に我にかえる。
「う、ん。聞いてる」
誤魔化そうという気持ちが無意識に表れたのだろう、躓く返事にマネージャーは眉を寄 せた。
「とりあえず、明後日これが発売になったら嫌でも騒がれる。スポーツ紙の一面に出ることはもうタレコミでわかっているから、お前のマンション近辺にもうろつく記者やファンが出てくるに決まってる」
「…揉み消しも間に合わない、か」
「事務所としてはアッチの方が力があるからな。ギリギリになってこっちに連絡がきたんだ、胸くそ悪い」
マネージャーである蘇我野はまだ29歳の若さながら事務所内では敏腕と知られていて、去年までは先輩グループについていた。
彼自身口は悪いが180を超えているだろう身長にスーツ下に隠された厚い胸板と、太い首の上に乗った小作りな顔に似合った切れ長の目は事務所さえ違えば俳優としてデビューしていてもおかしくない風貌をしている。
し かし彼は、タレントのマネジメントが天職、が口癖の男で、その言葉に違わず先輩グループをマネージャーを務めていた僅か三年の間に国民的アイドルと言われるまでに成長させた。
そしてそんな敏腕マネージャーがフィフスについたということはつまりそういうことだ。
伸び悩み、崖っぷち、後がない。
デビューさせたはいいがもう六年目、事務所としてもどうにかしなくてはならない危惧があるのだろう。
それはメンバー5人、全員が理解している。
「写真にも背景にマンションが写り込んでるから場所の特定もされやすい。…この部屋、更新そろそろだったな?」
「え、うん。そうだけど」
「じゃあこれを機に引っ越しだ」
「マジで?!めんどくさ!」
「うるせえ、文句言うな。後処理 は全部こっちがやるんだ」
ただでさえ冷たい印象を与える細い目尻で凄まれれば、口を紡ぐ他ない。
自分が悪いと自覚がある分尚更である。
「ウチの他のタレントが住んでるところはマズいな…、とりあえず新しい部屋は俺が探しておくから。明日から一時避難先を用意する、今日は帰ったらひとまず必要なものまとめとけ」
威圧感にそのまま押され頷いた。
まだ朝と言える時間なのにどっと疲れが襲う、これから一日の平和を願わずにはいられなかった。
事務所四階の奥の会議室に入ると呑気な寝息が聞こえた。
備え付けのパイプ椅子に座り机に突っ伏した背中が丸まっている。
先ほどまでのマネージャーが纏っていたピリピリとひりつく空気とは違う平和な世界に理不尽な怒りが 湧き、よれた週刊誌で眠る男の頭を軽く叩く。
「…むぐっ」
隣の椅子に腰掛けだらしなく足を投げだす。
叩かれた衝撃にむくっと持ち上がった頭は最近明るいブラウンに染め直したばかりで、伸ばしているのかそれとも伸びてしまったのか、額をすっきり見せる前髪は片側を耳にかけていた。
「…あれ、陸。もう蘇我ちゃんと話終わったの?」
男はキョロキョロ寝ぼけ眼を彷徨わせ、隣に座る藍田を見つけると気が抜けたように再び頰を机にべったり押し付けた。
「まあね。都くんひとり?」
「んー…暁良くんが今事務所まえのスタバ行ってる」
日向都はメンバーの年齢順でいえば上から二番目、年長組であるにも関わらず、ふあっと大口を開け欠伸を漏らし、袖が伸びたカーディガンで目を 擦る幼い仕草がその年齢を忘れさせる。
日向の長い指がまるでいまいましいもののように放られた週刊誌を拾うと、中身なんて大して興味もないだろうに、パラパラ高速で捲った。
そしてやはり折り目のついたページで止まった。
「あらー、なに。陸、撮られちゃったんか」
「撮られたっていってもソレ一年も前の写真だから」
「じゃあ何で今更」
「大人の事情で良いように使われたんだよ」
「ふうん、じゃあ蘇我ちゃんに呼ばれたのもコレ?」
「そう」
今日は年明けから始まるツアーの打ち合わせのため、メンバー全員が午前中から事務所に集まることになっている。
予定時間より少し早いけれどまあいいか、そんな気楽な気持ちで事務所の玄関を潜ったところで怒りを隠しもしないマ ネージャーに呼び止められたのだ。ほぼ同じ時刻に事務所入りした日向には全て見られてしまった。
「蘇我ちゃん怒ってた?」
「…引っ越しさせられる」
「うわ、ごしゅーしょーさま。ま、彼女バレるの陸はコレで4回目だからしょうがない」
「言っとくけど、そのうちの一回は完全なるガセだし」
「ははっ、共演しただけで熱愛の噂立てられンのは勘弁してほしいよなあ」
何が楽しいのか、日向はのんびりした口調でもう興味を無くした雑誌の紙をびりびり破り遊びだした。
「でも都くんだって今彼女いるっしょ」
「いンや、別れたよ」
「…ああ、だからまた暁良くんが世話焼きだしてんのか」
「ふふ、わかりやすいよね。暁良くん」
ここには居ないメンバーの顔を思い浮かべる。
彼はきっとカフェモカを美味しそうに飲む日向を想像し、誰しもにイケメンと言われる顔をだらしなく崩壊させながら、長い列に並び順番待ちをしている姿は、あまりにも想像に容易い。
「でも都くんも残酷だよね。グループ内での揉め事は困るんだけど」
「残酷じゃないよ、俺はちゃんと彼女作ったら暁良くんに報告してるし、暁良くんも彼女作りなよって言ってる」
「それが残酷なんじゃん」
「ばか。あれだけの優秀な遺伝子、残さねーと勿体無いだろ。俺は暁良くんの子供だっこするのが夢なの」
酷い夢だ。
そういっておきながら日向はいつもすぐ彼女と別れるのに。
マスコミにすっぱ抜かれた回数は藍田の方が多くても、付き合って別れてを繰り返しているのはメンバー内では 断トツで日向だった。そして普段は何かにつけて日向の世話を焼き触れたがる暁良が彼女がいる間はただの同じグループのメンバーに戻り、別れるとまた甲斐甲斐しく隣に寄り添うのだ。
もう六年以上そうしている二人の間にある気持ちの意味を一言で説明するには難しい。けれど第三者である藍田もなまじっか常に二人の至近距離にいる分、じれったい。
その証拠に、今だって暁良は日向が飲みたいとわがままを言ったのだろうカフェモカをわざわざ買いに行っている。
「…ふーん、大人の恋愛だ」
「恋愛なんかじゃない。…でもこんな駆け引きばっかりの大人なら、なりたくなかったな」
苦笑いする日向の顔は、普段朗らかに笑う口元とは違い少し歪んでいた。
するとバタバタと慌ただし い足音が、廊下の向こうから近づいてくるのが聞こえた。それは部屋の前で急ブレーキを踏むようにぴたりと止まり、同時にバタンと扉が開く。
冬の風に髪が乱れるのも気にならずに駆けてきたのか、息を切らした暁良が日向用のカフェモカが入っているはずのコーヒーチェーン店の紙袋を下げていた。
「とおるくんごめん!遅くなっ、あ!」
整わない呼吸のまま踏み出した暁良のつま先が扉の段差につっかえる。
まるでスローモーションの如く、左手に握られていた紙袋は宙を舞い弧を描いた。
綺麗な曲線の先にいるのは、藍田。
空中でカップの蓋が外れ茶色い液体が、振り返った目の前に広がり頭から降り注ぐ。
ほら、ついていない。
△ △ △
深い眠りから段々と意識が浮上する瞬間が気持ちいい。
現実と夢の境界を彷徨って、自分が何者なのか何物であるのか、忘れられるから。
そこから一歩上にあがってしまえば、歪む世界に投げ出される。
まだふわふわ漂っていたいのに、逃げることは許さないとばかりに、何かに引っ張られるようにして重い瞼が持ち上がった。
ぼやけ焦点が合わないうちの視力はあてにならず、他の使える五感を探る。
無意識に布団を顔まで引っ張り鼻をくん、と鳴らす。どうやら覚醒の淵にいる脳は嗅覚を選んだようだ。
くんくん。何度も確認する。そして気づく。
これは今まで全く嗅いだことのないにおいだ。
瞬間、瞼が思い切り上がった。
「…え、は?」
ぱちぱち瞬きを繰り返し寝起きによる眼球の乾燥を誤魔化すと、ぼやけていた天井がクリアになる。
白い色は、一時避難場所として借りている自室と変わらない、しかし決定的に何かが違う。
被っていた布団を引っ張ってみる。
薄いブルーのシーツは藍田の趣味ではない。
じゃあ誰の、と聞くのも恐ろしい。
勢いよく起き上がる、すると同時にまるで鈍器で殴り飛ばされたような衝撃がこめかみに襲った。
「うあ、ぐ、ぁっ、!」
起き上がった身体はそのまま背中から倒れた。
ぼふんとマットレスが弾むとまたふわりと先程と同じ、そしてやはり嗅ぎなれないにおいが漂う。
意識がはっきりしてくるのとは逆に、ぐるぐる視界が回っている。
視界だけじゃない、胃までむかむかを締め付ける。
この症状には覚えがあった。それどころか何度も、もうしないと誓ったはずだった。
完全なる二 日酔いのせいで、ここが自分の部屋の自分のベッドの上ではないとわかっているのに身体は全く動かない。
スキャンダルから逃れるため、わざわざマスコミに探られないような物件に避難してきたというのに、なんたる失態。
これが蘇我野に知られようものなら怒られるだけでは済まないかもしれない。
記憶に残るあの冷たい目尻を思い出し、サーっと血の気が引いて更に気持ち悪くなるという悪循環まで起こし始めた。
酒での失敗は記憶を無くしてしまうのだ、この部屋が女のものだったらどうしよう。
「…おーい、大丈夫か?」
一度ぎゅっと瞼を閉じ、現実逃避に二度寝を決め込もうか迷っていると柔らかな声が落ちてきた。
低く、でも耳の穴を一直線に抜け、鼓膜まで届く声。
この部屋の主、それ以外は考えられない。
心の中で縋るようにわけもわからず念仏を唱えながら、瞼を開く。
カーテンの隙間から差し込む日光に照らされた明るい室内にもう眼球は慣れていた。
目の前にある、ドアップの顔。黒目と視線が絡む。
「お、よかった。すげえ悲鳴聞こえたから、起きたんだと思って。ほら、これ水」
そう言ってひんやりしたグラスを額の上に乗せる男。
薄目で見ても、無精髭と目尻にスッと引かれたシワ、くっきり浮き出た喉仏の隣には筋が通っていて、幾つも歳上だということがわかる。
水が溢れないようグラスを受け取ると、思わず誰?、と口をついた。
男は一瞬目を丸くして、口角を上げ笑った。
まあ誰かはおいといて、とりあえず、おはよう。
何故だろう。
やっぱり、その声は迷いなく、藍田の鼓膜に届いた。
(続)
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