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第3話

珍しい。純粋にそう思った。 誰に聞いても愛らしいと答えるだろう顔に不機嫌な表情を貼り付けて、ふんふん鼻息荒く近づいてくる男が、だ。 平均に僅かに満たない身長はアイドルという可愛さと格好良さを売りにした職業には丁度いい、だから大股で向かってくる平均的な足の長さも藍田には合っている。 東京の数年後に控えた国際イベントに備え、禁煙化が進む世の流れはこんなテレビ局のビル一つにも及んでいて、階の隅に追い立てられるように作られた喫煙ルームはタレントと局員の垣根を越え、喫煙者にとって楽園となっていた。 夢を売る職業柄公にはしていないが、菅井は喫煙者である。 勿論吸い始めたのは成人を済ませたあとなのだから堂々と口にしようが捕ま るわけではない。けれどキラキラ輝く笑顔を振りまき汚い中身を見せてはならない特殊な仕事には、真っ白な煙で肺を真っ黒に穢す煙草は似合わないのだ。 ストレスが溜まろうが辛かろうが覆い隠した部分はファンにとって応援する要素とはなり得ない、だから煙草は隠れて吸うくらいが丁度良い。 一本目を口にし先端に火を翳したタイミングで喫煙ルームのガラス扉が開くと、スニーカーのペタペタした足音が荒々しく迫る。 「おい、このトラ野郎!」 くわっと歯を剥いたところで大きくはない口は、ただでさえ僅かな恐ろしさを更に半減させた。 ただいつにない怒りは目尻の険しさと、普段とは違う、もっと幼い、それこそデビュー前から喧嘩をした時にだけ呼ばれる呼び名に現れていた。 菅井 の虎鉄と言う名から虎の字をもじったその呼び名は藍田が怒ったり呆れたときにだけ発動されるものである。 「…りく、お前煙草吸いすぎじゃない?歯茎、色が濃くなってる」 ばしん、と乾いた音が鳴る。叩かれた頭は大した痛みもない。 けれど怒りの方向転換を試みたがセリフを誤ったようだ、菅井はいつもこうだった。藍田を煽る言葉をついつい口にしてしまう。 「痛い…」 「うるせえ」 取りつく島もないとはまさにこのことか、普段はどちらかといえば飄々としている藍田がここまで機嫌の悪さを表すのはよっぽどのことであったけれど、菅井には直球に怒りを向けられる覚えがない。 灰皿にまだ長さの残る煙草を押し付ける。 それを合図にしたようにまだ肩を上げる藍田も、ベンチの 余った部分にどかりと腰掛けた。 しかし菅井の方が身長も体重も上なせいで、ガタがきはじめているベンチはビクともしない。 ガラス扉一つ隔てた向こうの廊下では慌ただしくスタッフたちが書類の束や機材をうんと抱え歩いていようと、隔離されたこの檻では関係のないことだった。 そう、この喫煙スペースを初めてみたとき、まるで見世物小屋の檻のようだなと思ったのだ。 液晶画面を通して、或いは紙面を通して常に笑顔を作るアイドルも胸を裂き肺を開けば真っ黒に汚れている、そんな現実を見せつける檻。 だからきっとここではアイドルもサラリーマンも職人も分け隔てない、皆同じ世間から忌み嫌われた喫煙者であることに妙な安心感が煙と綯交ぜになって胸を満たす。 暫くの沈黙のあと、藍田は怒り任せに突撃してきた手前、話の入り口を探すように眉を寄せ俯きいつも履いている汚れたスニーカーの足先を睨みつけていた。 幼いころから見ているその仕草は今も変わらず、こうなってしまった藍田の意地が折れるのは長い時間がかかることを菅井は経験上よく知っている。 何しろ菅井と藍田、そしてメンバーの一人である桐生拓海は何の因果か事務所のオーディションを受けた日も同じならば、誕生日がそれぞれ二ヶ月違いの同い年、都内の芸能コースがある高校に三人まとめて通った正真正銘の同級生なのである。 付き合いの長さと濃度なら、年長組である来栖と日向に勝っている。三人各々の扱い方も熟知していた。 ここは菅井が切り出すしかということも。 「んで、何をそん なに怒ってンの?出会い頭にさ、怒鳴っちゃって。りくらしくないよー」 ぶす、と音がしそうなほど、不貞腐れ唇を尖らせた藍田の表情もいつものこと。 二人の間に喧嘩は存在しない。それはこう菅井に優しく、まるで兄のように促されれば藍田は話さざるをえないからだ。 「…一昨日、虎鉄と飲んだじゃん」 2日前の夜を思い起こす。 確かに事務所での打ち合わせを終え一旦家に帰ったあと夜になり藍田を飲みに誘った。 なんならここ最近は結構な頻度で藍田と食事を共にしている。 今度は最初に誘ったきっかけの日が過った。あの日はコンサートの打ち合わせがあり、メンバー五人が事務所集まる予定だった。 菅井が一番遅れて会議室に入った時点で藍田の様子は普段と違っていた。 何で も、来栖が躓き手放した珈琲を被ってしまったらしい。でもそれだけではない気がする。憂鬱で気怠げな目尻はガス抜きが必要だと思えた。 夜になりマンションへ戻ったあと、珍しく2コールで電話に出た声もいつも通りを装っていたけれど、菅井にはわかる。 案の定、調子が良い時の飲みの誘いは断るくせに「奢るよ」の一言のあと、数秒の沈黙があり行く、と短く返ってきた。 思わず笑ってしまって、空気の震えを感じ取ったのか「何?」と不機嫌な声に、顔を合わせているわけではないが首を振った。 待ち合わせ場所に現れた藍田は、やはり機嫌が悪い。 菅井の行きつけの店に入り、兎に角美味い料理と酒を飲ませた。ここではまだ不機嫌の理由を訊ねない。 腹が膨れほろ酔い具合が回ってきた ころ、二軒目のバーへと連れ込み多めにグラスを開けさせるとするする言葉は吐き出された。 なんでも以前の彼女との写真を週刊誌に売られたこと、映画の宣伝のためにいいように扱われたこと、そのことで今朝蘇我野に大目玉を食らったこと、避難のため引越しをしなければならなくなったこと、フィフスが事務所内のお荷物状態であるのに他のメンバーに迷惑をかけてしまう自己嫌悪。 酒を潤滑油にした舌はするする本音を滑らせる。 元々色白な頰を赤らめ、どこか泣き出しそうに見えるのは目元のホクロのせいだろうか。 その夜は酒の許容量を越え今にも寝息を立てそうな藍田の身体を抱えてタクシーに乗り込み菅井のマンションへと帰ったのだ。 「あー、お前が泥酔したやつね。つか、りくあ んま飲めないのにここンとこよく飲むね」 「誘ってくるのそっちだろ」 恨めしそうな批難の目線は痛くもかゆくもない。誘うのが菅井ならば、乗っかる藍田も藍田である。 「で、一昨日がどうしたって?俺はべろべろになったりく君を一生懸命抱えて、わざわざお前の部屋まで運んでやったんだぞ?」 「え、部屋まで?お前が?」 驚いたように目を丸める藍田に、今度は菅井がはあ?っと首をかしげる番だった。 ここ数回二人で呑んだあと酔っ払い眠りこける藍田を放っておけず決まって菅井のマンションに運んでいたが、それは翌日の仕事現場が同じだからだった。 しかし一昨日は違う。 翌日菅井はレギュラー番組の収録が朝イチからあり、藍田は一日オフらしく、休みの日に何をすればいいの かわからない、と二軒目に突入してすぐつまらない口を叩いていた。 だからわざわざ藍田が今一時的避難先として生活しているアパートまで送り届けたのだ。 でなければ重い身体を担いで住宅街の外れにある古びたアパートまで誰が行くものか。 小さい口を動かして寝息と寝言を漏らす身体をしっかりベッドに寝かせ、鍵を拝借して部屋を後にした。失念していたのは、鍵はポストに入れておいたから、というLINEを送り忘れたことだが。 「俺昨日は別の仕事があったから泊めてやれないし、しょうがないからちゃんと部屋まで運んで寝かせたよ。あのなんも無い殺風景な部屋に。鍵無かったっしょ?」 「…酔ってたから、どこかで落としたと思った」 「じゃあ今日どうしたの?」 「スペア使った 」 なるほど。そう納得する菅井に反して藍田の顔はどんどん色を無くす。白を通り越しいっそ青くなっている。 「それが怒ってた理由?置いてかれたと思った?」 藍田は一瞬考える仕草を見せ、小さく頭を振った。男にしては大きくない掌で自らの行いを恥じるように顔を覆う。 「…俺、虎鉄が送ってくれたあと、起きて外出たっぽいんだよね」 「はあ?!」 「ドア前で倒れて寝てるの隣の部屋の人が見つけてくれてさー…起きたらその人のベッドだった」 自分が帰ったあと起こっていたとんでもない出来事に言葉を失う。なんなら脳内では軽くパニック状態に陥り現実逃避を始めている。酒癖の悪さもここまでくれば考えものだ。 しかし一番重要なこと思い至り、すぐ現実へ引き戻された。 まさかとは思うが。 「え、その隣の部屋の人って…女?」 「いや、オッサン。そこはセーフ。間違いは起こってねえよ」 よかった、と安堵の余り胸を撫で下ろす。 アイドルでは御法度の熱愛報道のために暫く大人しくすることを強いられてるというのに、更にダメ押しで一夜の過ちを犯したとなれば藍田の立場はいよいよ危うくなる。 それにメンバー五人のうち、最も過激なファンが多いのが藍田なのだ。 自分は恋人だと思い込んでいるファン層というのはどのメンバーにもいる。 だが藍田の少し放っておけない雰囲気が母性をくすぐるのだろうか、そういうファンに追っかけやら、はたまた愛と憎しみ混じりの誹謗中傷を受けることが他のメンバーより際立っていた。 藍田が飄々と振る舞う のは感受性の豊かさを隠すためであって、本来ナイーブな性格で傷つきやすい。昔からそんな幼馴染を守るのは菅井の役目である。 「よかったー…そこだけでもセーフならまだ大丈夫だろ」 「良くねえし!つか、俺虎鉄とドア前で別れたのかと思ってた」 「ああ、だからあんなに怒ってたわけね」 漸く納得がいった。同時に心外でもある。 年月にして十年近く共にいるというのに、自分を酔っ払った友人をそのままにして帰るような男だと思っているのか。 「そ、んなんじゃねーけど…、」 気まずく逸らされる黒目が、一瞬でも疑った証拠となってしまうことに藍田は気づかない。 はあ、と呆れたため息をつくと、びくりと怯えた肩が跳ねた。 「そんなんじゃないけど?」 「…隣の部屋の 人、俺が酔ってプリン食いたいプリン食いたいって言ってたらしくて、わざわざ寝てる間に買ってきてくれてて。ベッドも俺が占領しちゃってたし…、起きてすぐ帰ったんだけど、やっぱりお礼しなきゃダメだよな…?」 お願いだからもう忘れてしまえと言ってくれ、縋るように見つめる丸い瞳がそう訴えかけている。 いつも周りの意見に合わせる、悪く言えば流される、実に藍田らしい。こういうときの判断も菅井に任せてしまう。 そして菅井はそんな優柔不断な幼馴染が、可愛くて仕方がないと思っている。その気持ちがおかしいとは、微塵も思っていないのだ。 「まあ、今後トラブルにならないように…一時的つっても、前もってお前が住んでることの口止めするために菓子折りくらい持っていったら?」 突き放す言葉を想像していたに違いない藍田は、苦虫を噛み潰した表情で受け止める。 「…やっぱりそうだよなあ」 「りくは人見知りだもんね」 後頭部をゆっくり撫でてやると掌にふわふわ柔らかい髪が馴染む。 「隣の人、そこまでしてくれるってどんなひと?そもそも大丈夫なわけ?お前の変なファンとか」 「いや、俺のことはよく知らないみたいだった」 思い上がりだ。菅井は少し恥ずかしい気持ちになった。 フィフスの認知度なんてその程度という事実をすっかり失念していた。 アイドルとしては大手事務所に所属しているとはいえ、グループ名が世間に知れ渡ることなど至難、メンバー個人名ともなれば余計である。 いつだったか、あれは確か蘇我野がマネージャーとしてついまばかりのとき。 本来グループは五人が一番適している、一般的にグループアイドルの名前と顔が一致するのは五人が限界だからだと言っていた。 六人になれば途端にグループ名は知っていてもメンバーの名前は知らないという現象が起きる。 だから俺はお前たちをトップにする、とも。 本当にそんな日がくるのだろうか。 今のフィフスが、アイドル好きな若い女ならともかくオジサンと呼ばれる世代に自分たちの前や顔が知られているわけがない。 「…でも、」 突如身体を巡った不安を藍田の声がかき消した。 「でも、なんか不思議なひとだった」 喫煙ルームなのに一本の煙草も咥えない唇が、どうしようもなく不自然に映った。 △ △ △ 「りく、どうしたの?」 入れ違いで入ってきた桐生に見下ろされる。 吸いすぎは百害あって一利なし、そうわかっていながら二本目に火をつけた。 「どうしたって?」 「今すれ違ったとき難しい顔してたから」 藍田に聞いた話を包み隠さず話すと、桐生はまるで先程の菅井と同じく目を丸くし口をあんぐりと開けた。そんな呆けた顔をしても桐生の少しエキゾチックな色男っぷりは崩れない。ただ、まだ煙草を咥える前でよかった。 「ばっっかじゃねーの?!つか、虎鉄が一緒ならそんな呑ませるなよ」 「えー、だって楽しくなっちゃったんだもん」 幾ら説教を垂れようが無駄、菅井の軽い言葉尻に桐生は眉間のシワを深くする。 「楽しいからって、今は大人しくしておかなきゃいけない時期だろ」 何もなかったならよかったけれど。 安心したのかぽってりした唇の間から長い息と、菅井の吸う煙草とは違う煙が同時に吐き出される。 ドラマやバラエティで共演した女優たちからはキスしたくなる唇と評判で、間に煙草が挟まると更にその色気は増した。 同い年なのに桐生の方が何歳も大人びているようだ。 「次からは気をつけるってさ」 「お前もだよ」 「はーい」 鋭く睨まれてしまうと肩身がせまい。 流石に三本目に火をつけることは戸惑われて、喫煙ルームを後にしようと立ち上がった。 「でも、」 背後で桐生が独り言のように呟く。 また「でも」だ。 「珍しいな。りくが他人に興味を持つのって」 一瞬にして目の前が暗くなる。 充満する煙のせいか、息だって苦しくなってきた。 どうして、そう問いかけたい相手はいない。 ただ、あの時藍田の唇が告げる言葉を不自然に感じた理由に気付きたくなかった。 他の誰か、五人の輪から外を気にする藍田なんて知らない。 そんなことを、何故気づいてしまったんだろう。

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