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第1話

 酒を飲んで暴れたことだけは覚えていたが、どう暴れ、何故酒を飲んだのかはよく覚えていなかった。陸前高田(りくぜんたかた)咲桜(さくら)は牢屋の中で横になっていた。身元引き受け人があればすぐにでも出られたが、生憎咲桜には身元を引き受ける者はいなかった。そうなるとあと3日はこの牢屋に留まることになる。それがこの地の決まりらしかった。見せ物のように鉄格子の奥には日常があり、すぐ手前には事務机で作業をする巡査が制服に包まれた背を丸めている。咲桜と揉めた相手は女房と娘が身元引き受け人として3時間ほど前にすでに来ていた。腹を掻きながら、欠伸をする。落とし物や産まれた猫の当てについての相談でそれなりに駐在所に人の気配はあった。戦火を逃れた土地は長閑(のどか)で、飲んだくれ暴力沙汰を起こした人間にも飯が出るほどの余裕があるようだった。腐れた酔っ払いよりも鮮やかに赤らんだ空を開け放たれた駐在所の出入口から眺め、夕飯まで寝るつもりでいた。しかし駐在所がそろそろ閉まる頃にまた相談者があった。目を引くような鮮やかな薄紅色の着物と茶色と見紛うが紫色らしい袴に、高いところで結われた栗色の髪は毛先が巻かれ、猫の耳を思わせるような大きな紅いリボンで飾ってあった。あまり見ない風采は咲桜の中でも強く印象に残る。15、6の少女といった具合で、円い目や小さな顔は保護欲を煽る感じがあった。彼女は巡査に話す前にちらと咲桜のほうを一瞥した。そして会話の途中、巡査のほうも何度か咲桜を見遣った。咲桜のほうでもよく聞こえなかったが2人の姿を眺めていた。結果的にはまったく咲桜は関係のない話らしかった。町中では浮くくらいの風体の少女も巡査のほうも特に咲桜に何か言うことはなく別れた。  ほどなくして巡査は咲桜に冷えた飯を出した。地続きの少し離れたところでは食うに困り、戦死よりも飢えによる死没者が多いくらいだったが、ここでは麦飯に煮干しが2尾浮かんだ味噌汁と切り干し大根、玉子焼きが出た。巡査の配偶者が作ったらしかった。駐在所は巡査の住まいも兼ね、今日のところは咲桜1人しかいないため食卓に誘われたが水入らずの団欒に混ざるわけにもいかず断った。かなり面倒見のいい夫衆(ふうふ)のようで、間食に蒸かし芋まで出る始末だった。いい土地に流れ着いたな、と咲桜は思った。飯を平らげ横になる。  牢屋の生活は酷く快適だった。晒しものと行動の制限が罰のはずだったが、むしろ咲桜はこの暮らしのほうが(しょう)に合っているとさえいえた。起きる時間も気の向くままで、目が覚めた頃には巡査は事務机につき、親子の相談に乗っているところだった。鉄格子の前には朝飯らしき握飯と漬物の乗った皿が置かれ、食器を通すための穴から引き寄せる。 「そちらのお方と、探すのを手伝いましてよ」  胡麻握りを食らっていると、駐在所によく響き渡る芯のある声がして咲桜は飯から意識を逸らした。あの浮世離れした感じのある風貌の少女が事務机の横に立っている。今日は違う色の着物だったがその鮮やかさは昨日と変わらず、リボンは同じだった。巡査は彼女に何か言って、それから受付窓口からよく見える牢屋の扉が開け放たれた。 「なんぞ」  咲桜は塩握りと胡麻握りを先を食べ、最後に残していた味噌握りと漬物の乗った皿を隠した。 「ねぇ、ちょっと人助け。あの女の子がお人形無くしちゃったんだって」  娘は巡査に相談に来ていた親子を視線で示した。 「お嬢ちゃん、何。つうか誰」  訊ねてみるが彼女は肩を竦めるだけだった。 「知らない人についていけないよ」 「…火子(あかね)。ねぇ、お願い。ついでに身元引き受け人になるからさ」 「え、ヤダ」  ここの飯は美味かった。寝床が固い以外に不満はなく、3日経とうとも出るつもりなどない。 「だってお兄さん、行く当てあるの?」 「ここ」 「でも明日には出て行かなきゃでしょ。お兄さんに用があってさ。話聞くだけでもいいから。ついでに人助け、ね?悪い話じゃないでしょ」  咲桜は味噌握りを齧った。少女は両手は合わせている。まるきり面識がない。まず15、6程度の年頃の知り合いがいなかった。おそらく初対面だろう。 「悪い話する人はみんなそう言うよ」 「言わないよ」 「いいや、言うね」 「言わないもん」  指に付いた米粒を舐め取り、咲桜は娘から顔を背けた。胡麻と高菜の漬物は歯応えがあった。 「名前なんていったっけ」  咲桜は訊ねた。名乗っていたような気もするがろくに聞いていなかった。 「火子(あかね)」  火子(あかね)というらしき娘はその円く大きな目にいくらか期待を込めていた。 「分かった。でもお巡りさんはどうなのさ。いいの?オレという大きな魚を逃して?」 「うん、もう話通してあるからね」  巡査はまだ親子と話していた。火子はそこに一声掛け、咲桜は重い腰を上げた。腕を引かれ(ひしお)や煙の匂いがする町中を歩いた。子供たちが走り回り、家庭菜園といった規模の畑には案山子(かかし)が斜めっている。 「で、何見つけるんだっけ?お宝?大判小判?」 「お人形。布製の。青い服の女の子のお人形だって」  火子は咲桜の腕を放さなかった。引っ張るように歩く。 「で、灰汁(あく)どい話って何?」 「人聞き悪いな。お人形見つけたら話す。そしたら純喫茶(カフェー)で話しましょ、純喫茶(カフェー)で」  彼女は「純喫茶(カフェー)」と口にするときだけ、言ってみたかった言葉をやっと使えたような解放感を思わせる、年相応よりいくらか幼い雰囲気を醸し出した。むしろ早熟(ませ)た子供が背伸びしている感じだった。咲桜は渋々と人形を探しはじめる。指定された場所を生垣に顔を突っ込んだり、側溝に身を伏せたりして、やっとブロック塀の透かしの中に捻じ込まれていたものを見つけた。先に見つけた誰かが踏まれたり風で吹き飛ばないようそこに入れたらしかった。数歩離れたところを探す火子に報告すると、彼女は拍手をして喜んだ。駐在所に人形を届け、火子に連れられ喫茶店へと入る。咲桜にはまるきり縁のなさそうなところだったが火子ははしゃいでいた。席に案内され、彼女は落ち着きなく品書を開いた。咲桜はよく磨かれたテーブルに頬杖をついて、居酒屋や鍋物屋とは違う装いをぼんやりと眺めていた。 「くりぃむそーだ、あたくし、初めて見ますわ!」  火子は早口で喋り、それから気拙げに品書から咲桜を窺った。 「どうぞ、気になったものをご注文くださいな。大事なお話は純喫茶(カフェー)でするものなんですからね」  咳払いし、畏った調子で彼女は言った。咲桜も品書を眺めたが想像しづらいものばかりがメニューに載っている。酒類はなかった。 「気狂い水はないんだね。んじゃ煎茶」 「給仕さん、くりぃむそーだを2つくださいな」 「ちょっと」 「ここは純喫茶(カフェー)なんだから。珈琲(こーしー)かくりぃむそーだしかありません」  彼女はうきうきしながら店内を見回している。新しい形態の店ではあったがこの地にあるということは、咲桜が今まで関心を持たなかっただけで、すでに時代に根付いているのだろう。しかし火子も初めてのようだった。そうでなければ余程、この純喫茶というものに対する並々ならぬ熱意があるかだ。 「ンで、運び屋か何かの話だっけ?」 「違う。ねぇ、お兄さんさ、田舎暮らしとか興味ある?」 「あ、何、不動産?」 「違う。住み込みのお仕事の斡旋」  咲桜は腕を組み、背凭れに寄り掛かった。火子はまだ品書を興味津々に眺めていた。 「働くとかヤだよ」 「うん、別に働かなくてもいいんだ。ただあたくしと一緒に屋敷に住んで欲しくて。雇われ兄貴っていうの?」 「言わないよ。初めて聞いた」 「じゃあ今から言うことにして」  しかしこれから当てもなく、働く口もなかった。そろそろ所持金も尽きる。怪しさはあったが、本当ならば悪い話ではない。 「なんで?屋敷におっかない化物でも出るとか?」 「化物は出ません。化物は、ね。ただ居てくれるだけでいいんですの。あの駐在所での暮らしとそう変わりません。ただ居てくれるだけで…」  彼女は品書を閉じ、給仕がくりぃむそーだを持ってきた。咲桜は毒々しく泡を吹く鮮やかな萌黄色の液体とその上の白い物体に色を写す不自然な赤さの桜桃(さくらんぼ)を暫く観察していた。火子は目を輝かせ、そこに鉄製の匙を入れた。 「何これ?毒?」 「くりぃむソーダですわ。梨瓜の味がするじぅすです!ほら、食べてみて!」  咲桜は首を捻りながら冷やされているらしき首の長い匙を手にした。 「これ口に入れていいものなのかい?」 「お兄さん、都会からきたんじゃありませんの?」  火子は白い物体を掬いながら咲桜を睨んだ。彼は苦笑いを浮かべた。風采の違いから酔っ払いに絡まれ暴力沙汰に発展したのを思い出す。 「そうかも」 「田舎暮らしもいいものですわよ。ね、悪い話じゃない」 「でもなぁ…」 「あそこの駐在所を出たり入ったりする気なの?」  それも(やぶさ)かではなかった。何より飯が美味い。巡査は優しく、巡査の夫君は無口の恥ずかしがり屋だが表情は豊かな美人だ。あの夫衆(ふうふ)の世話になるのも悪くない。公的扶助に甘えるということだ。寝床の固さなどは取るに足らない不満だ。 「今は悠々自適かも知れませんけれど、他にも牢に入る人はいるんですからね」 「あ~、そうか。それは盲点だった」  火子に倣うように咲桜は形を変えていく白い物体を匙で潰した。鮮やかな深い萌黄色が白ずむ。 「分倍河原(ぶばいがわら)さんはあたくしの家の遠縁ですのよ。あの夫斎(ふさい)に寄生しようだなんて思わないことね!」  分倍河原は巡査の苗字らしかった。意外な繋がりを知る。 「他にも当てはあるんですのよ。でも都会から来たみたいなお兄さんに、是非とも田舎の暮らしを提供したいと思ったからこんなこと言うですの。お兄さんが首を縦に振ってくれたらなぁ。美味い飯も柔らかい寝床もあるんですのに」 「あと、女。お嬢ちゃんよりもうちょっと年上で、肉付きのいい娘がいいね」  適当なことを述べれば、彼女は半目で睨んだ。それでも白い物体を掬う手は止まらない。 「……まぁ、居ないこともないです」 「ふぅん」  甘い柔らかな物体と鮮やかな緑色の液体に胃が冷えていく。枝まで真っ赤に染まった桜桃を娘にくれると、彼女は喜んだ。この少女とは会ったばかりだが、野良猫を手懐けてしまった時に似た守りたくなるような放っておけない近しさを覚えるところがあった。 「じゃあ行くだけ行くかな。暇だし」 「やった!」  咲桜は折れて、彼女は楽しみにしていたらしきくりぃむそーだを急いで飲みはじめた。 ◇  火子は山奥へと案内した。山を越えるには適さない服装でも慣れているらしく、すいすいと身軽だった。反して咲桜は岩に座ったり、木々に縋りつき、()を上げた。夏に差し掛かる頃だったが緑の中は涼しく、黒々とした陰の中に落ち着いてはまた歩き始める。 「もう少ししたら滝があるんだ。そこで涼もう」  皮革で作られた給水袋を彼女は差し出した。遠くで鳥が鳴いている。水を二口ほど飲んだ。喉は渇いていなかったが、体内から冷ましたかった。空気は心地良かったが、膝は軋み、脹脛は張っている。足の裏は平たく固まったみたいだった。 「田舎って田舎過ぎない?」 「じゃあド田舎。でもちゃんと村だし、家は大きいよ」 「まぁ、寝て金貰えるならどうでもいいけどさ…帰りはヤだな」 「帰りは反対の山から丁車を使えますわよ」  まるで何の躊躇いもなく彼女は有料の送迎車を使うように言った。喫茶店でもなかなか値の張るくりぃむそーだを2人分も頓着無しに支払っていた。何より身形(みなり)からして、かなりの資産家の出であることを匂わせている。何せ、屋敷で寝ているだけで給金が出るという。 「お嬢ちゃんさ、もしかして金持ち?」  彼女は円い目を大きくして咲桜を見た。 「考えたこともありません」 「あ~、金持ちだね。お父さんが軍人さんとか?」 「いいえ。父上は……村の裁判士をしておりますわ」  咲桜は顔を顰めた。裁判士といえば世間からいっても厳格で堅物な印象しかない。果たして裁判士が家で寝て食う生活を許すだろうか。 「それ、大丈夫なの?」 「何がです?」 「寝て暮らしてて」 「あたくしのご友人なら喜んでくださいます」  少し休み、また歩き続ける。道は緩やかになり、細流(せせらぎ)の音に向かって進むと疎らな木々の奥左手に滝が見えはじめた。そこには人気(ひとけ)があり、若い男たちが順に滝から飛び降りたり、浮かんだりしながら遊んでいた。水の色はまるで喫茶店で飲んだくりぃむそーだのようだった。 「あれは?」 「村の若衆ですわ。毎年あんなことをして死者を出してますの。前年の死者が毎年水辺から若い人を連れ去ってしまうって話ですのよ。足を引っ張り合う社会は、死者も生者もそう変わりませんわね」  呆れた物言いで火子は一瞥もしなかった。滝の音に疲労はわずかに紛れる。咲桜は水遊びを眺めながら歩いた。澄んだ美しい水面は繁吹(しぶ)き、次々と白くなっては碧翠色に溶けていく。まだどぼん、と音が涼やかに響いた。そのたびに清々しくも(かまびす)しい声が上がった。 「死体が浮かべばまだ良い方なんですのよ。帰りに亡霊まで数えてしまうせいで、村に戻ってきてから行きよりも数が少ないことに気付くんですから、捜査も遅くなってしまうんです」  火子の怒りっぽい声を聞き流す。滝壺に落ちた若者の1人はいつまで経っても浮かんでこなかった。仲間たちを驚かせようとふざけているのかも知れない。しかしそれを考慮しても、姿を見せない。白雲水に隠れ、沈んだ陰も見えなかった。 「あれ、マズくない?」  咲桜は立ち止まった。先をすいすい歩いていた娘も足を止め、滝壺に目をやった。 「なんてこと!」  火子は悲鳴を上げ、薄い木々の間を擦り抜け、斜面を滑り降りた。咲桜もその後を追った。仲間内のひとりが流れに逆らって滝壺に入った。潜るのまでが見えた。水浴びをしていた若者たちは火子を見ると慄然とし始めた。すでに皆、血相を変えている。すでに異変に気付いているようだった。 「どうして毎年毎年危険なことをするの!」  火子は一人ひとりの顔を見ながら叫んだ。水辺を囲い、浮かび上がらない若者と、潜ったまま戻ってこない若者の2人を待つ。少しして、緑色の水面から2人の若者が飛び出した。片方は明確に意識があったが、もうひとりのほうはぐったりして青白い顔をしていた。火子は呆然としながら彼等が岸辺にやってくるのを見ていた。意識のないほうの若者は砂利の上に寝かされ、ずぶ濡れの若者は休む間もなく人工呼吸を行う。水滴が散った。滝の音と鳥の囀りが聞こえた。火子は神妙な顔付きでそれを眺め、他の仲間たちも力強く動く胸骨圧迫するひとりを見守っていた。やがて、溺れていた者は水を吹き返す。火子は胸を撫で下ろした。仲間たちにも威勢が戻る。まだ砂利の上に座り、騒ぐ仲間たちを見ながらへらりと笑った若者の頬を火子は打った。咲桜はぎょっとする。 「お前はうちの庭番なんですよ。自覚はあって?」 「まぁまぁまぁまぁ、そう怒りなさんなって」  掴みかからんばかりに吠える娘を咲桜は押さえた。状況が分かっていないらしい若者は打たれた頬を撫でながらきょとんとしている。 「家名に(きず)が付いたらどうするんですの?他所の村で生きていけまして?」 「まぁまぁまぁまぁ、終わりよければすべて良しってことで。な?」  早く村に行き、畳でもいい、横になりたかった。この若者たちが村のものならばそろそろ着くはずだ。目処が立てば、疲労も忘れ、村に到着することに意欲が増した。 「…も、申し訳、ありません」  若者は火子と同年代くらいで、まだ少年といった頃合いだった。日に焼けても瑞々しい肌と、引き締まった肉体は目にしたが、特に顔は見なかった。何人もの同じ年代で揃って裸体で並ばれては顔の見分けもつかなかった。 「お願いだから、下人ごときが家名に瑕を付けないで!」 「ほらほらほら、行きましょ、お嬢ちゃん。こういう体質は隠蔽を生むって決まってるもんだし、良くね?そうカッカすんなって」  感情的に叫ぶ華奢な肩を抱いて咲桜はさっさと彼女を山道に連れ戻す。八つ当たりされるかと思ったが火子は肩を震わせて息を乱した。 「またやってしまいましたわ。見苦しい!忘れてください。忘れて!忘れるのよ!」 「3歩で忘れましたよ。名前なんでしたっけね、お嬢さん。ここはどこ?あなたは誰?ワタクシハ…」 「もう!」  火子は咲桜の背中を叩いた。 「下人だなんて、また身分差別をして!醜い!けれどもね、お父様は尊いお方らしいのです。野州山辺(やしゅやまべ)家の名に瑕が付いては…」 「でもさ、寝て飯食って女と遊ぶ居候飼ったらさ、それもマズいんじゃないの」 「それは大丈夫。それは、ね。都会から来た食客という(てい)ですから」 「金持ちも大変ってこったな」  咲桜は火子が落ち着いたことに安心し、疲労も目的も忘れてしまった。斜面下の若者たちももう帰るようで、茂みの中を行くのが枝の狭間から見えた。 「帰ったらきちんと謝ります」  それからは無言だった。日没前に高所から村が見えた。季節柄、日は長かった。目的地が見えた途端足は軽くなり、火子を追い抜かんばかりに駆けた。 「金春(こんぱる)村といいますのよ」 「こんぱ…なんだって?」 「金春(こんぱる)村。春に眩しいほどの景色を見せますの」  村の入口を示す立て看板を越えた。途端に今までまったく予想もしていなかった不安に襲われた。それなりに家屋は見えた。思っていたよりも規模のある村ではあったが、隔絶された土地というのは往々にして閉鎖的の裏返しともいうべき排他性を持ち、狂信者ともいえるほど保守的なものだ。それを忘れていた。喫茶店があるようなそれなりの町でも、異なった風貌の咲桜は足を踏み入れ早々に喧嘩を売られたものだった。都会から来たものに対する劣等感にも似ていた。それが横一列が暗黙の了解とされる均衡を崩壊させるのかも知れない。実際、咲桜の姿を見た村民は他所者をきつく睨んだ。火子が追い付き、話し掛けるとやっと許される。彼女はこの村で力があるらしかった。咲桜は村民と話す火子を置いてさらに奥に進んだ。柿が吊るしてあったり、軒下に捌かれた魚が干されている。古めかしい家々を眺め歩いていると怒声が響く。体格の良い男が一歩一歩踏み締めるように咲桜のほうへ向かってきていた。泥棒か何かと勘違いされているらしく、罵倒が続いた。農具を武器にして、咲桜を狙っている。その後ろでまだ村民と話している火子が面食らって、彼を気に掛ける。 「待って、待って。その人は悪い人じゃないんだ」  半裸の少年が駆け寄り、間に割って入った。髪からして濡れた形跡がある。威圧的な村民は振りかぶっていた農具を下げるが、まだ興奮した様子だった。 「火子ちゃんのお連れさんだよ。そうですよね?」  少年は咲桜を振り返った。円みを持ちながらも吊った目は無邪気で、小さな唇は可憐な感じがある。形のない細い針で胸の中心を奥まで貫かれたような心地が咲桜の中にあった。雷鳴のない閃きにも似ていた。この少年の声以外聞こえなくなり、彼以外、霞んで見えた。 「だから悪いようにはしないはずだよ」  咲桜はそこに立ち竦み、火子がやっと彼等のもとに辿り着く。彼女は彼女の登場によって弱気になった村民に説明し、やっとその場が収まった。半乾きの髪の少年を穴を空ける勢いで見つめ、彼は熱視線には気付かないで火子に頭を下げる。 「さっきはぶって悪かったわね!」  半ば自棄になりながら火子は少年に謝った。彼は人の好さそうな笑みを浮かべ、詫びを撥ね退けた。仔猫を思わせる目は咲桜に移り、視線がぶつかると微笑みを浮かべた。咲桜は驚いて顔を逸らしてしまう。火照る。名前を知りたかった。しかし言葉が上手く出てこなかった。火子の細い腕に掴まれ、小言を吐かれるがそれも右から左、或いは左から右に流れていってしまった。脳裏に自分よりも5つほど若そうな少年の笑顔が留まり、特に細まった光を吸い込む大きな目は離れなかった。二言三言かけられた、溌剌とした声も忘れられないよう何度も繰り返す。しかしほんの数分でも時間が経つにつれ劣化していく。屋敷の荘厳な門や、途切れない傘塀、入ってすぐに見える立派な庭園、苔の中に埋まった石畳や鹿威(ししおど)しにも気付かないで、あの少年のことばかり考えていた。

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