2 / 34

第2話

 火子(あかね)はまったく話を聞いていなげな咲桜(さくら)に気遣わしげな眼差しを向けながら玄関戸を引いた。使用人が框に座し、深々と頭を下げる。虎の剥製と異国情緒のある衝立が置かれ、壁には大判の水墨画が飾られていた。咲桜の感覚でいえば装飾過多な嫌味な感じがあった。 「こちらは今日からあたくしの先生になる…えーと、何でしたっけね?」 「陸前高田(りくぜんたかた)咲桜」 「そう、陸前先生ですわ。住み込みで看てくださいますの。ですからお食事の用意等々、お願いしますわね」  火子は穏やかな口調で使用人に話し、咲桜は長い通路を抜けた。 「お父様にお会いしていただきますけれど……会えるかしら。少し待っていてくださる?忙しい方なものですから」 「裁判士だもんなぁ~」  そう言うと彼女は少しばつの悪そうな表情をしてひとり様子をみに行った。そしてすぐに戻ってくる。 「大丈夫でした。来てください」  付いていくとすぐにある襖の前で、火子は深く呼吸をした。彼女は小声で「いいですわね?」と問うた。娘が恐れるほどの人物なのかと直前になって緊張感を持ったが、彼女は返事を待たなかった。襖が開く。そこには布団に入った青年がいた。一目で断定できるほどの美しさで父親らしき中年の姿は死角を振り返ってみても居なかった。咲桜は隣の火子をみる。 「あれ?お嬢ちゃんの親父は?」  彼女は険しい顔をする。咲桜は布団に下半身を入れる青年と火子を見遣った。 「あれ?」 「初めまして。えーっと、火子のカレシかな?」  青年は穏和に笑った。毛先が少し縮れた暗色の長い髪が日に焼けていない透明感のある青白い肌を引き立てていた。 「違うよ」 「お父様!」 「お父様?」  咲桜は咄嗟に青年を指で差してしまった。火子がその手を叩き落とした。15、6歳の娘がいるようには思えないほど「お父様」は若かった。多く見積もっても35には届かないだろう。まだ20代後半といった年頃で、しかし雰囲気は確かに落ち着き、成熟した色気があった。 「野州山辺(やしゅうやまべ)巴炎(ともえ)と申します」 「陸前咲桜」 「よろしく、陸前高田くん」  火子は随分と若い父の脇に座り、咲桜も横になりたかったが腰を下ろした。 「久し振りだね、火子。外の暮らしはどう?」  巴炎とかいっていた青年に答える前に火子は咲桜に自由にしているように言った。親子で話し合う時間に混ざるわけにもいかず、部屋を出た。よく知りもしない屋敷をほっつき歩いたが、結局、火子のいる部屋から近い白洲(しらす)と庭石が広々とみえる縁側に腰を下ろした。横になってそのまま飯を食って寝てしまいたい。怠惰な欲求に素直になって故郷とも流れ着いた町とも違う空気に浸る。視界の端で何かが動いた。猫の鳴き声が聞こえ、それに応えるあの声が聞こえた。睡眠欲と食欲が一瞬も経たずに吹き飛んだ。 「あ、こんにちは。火子ちゃ…火子様のお連れ様ですよね」  彼は抱き上げていた猫を地に下ろすと髪を掻き上げ、恭しく姿勢を低くした。空は暗くなっているが小さな顔いっぱいに笑っているのが分かる。 「あ、こ、こんにちは。えっと、えっとさ、えっと……あの、」 「ああ、ご挨拶遅れました。庭番の―」  舌でも噛んだか咽せそうにでもなったのか妙な間があった。美声というほどの美声ではなかったが、声に聞き入ってしまう半分、名を知りたいために早る気持ちにこの一瞬ほどの間は印象に残るという一種の違和感を植え付けたくらいだった。 「―山鳩(やまばと)と申します」 「山鳩!咲桜、さくら。オレ、咲桜!」  溢れ返るような波が胸の中で湧き起こる。自己紹介は上手く纏まらなかったものの、要点である名前を連呼すると彼は人懐こい表情に変わり、咲桜を安心させた。 「咲桜様ですね。火子ちゃ…火子様はどちらに…?」 「お父様と話し合ってるよ」 「では、咲桜様はお待ちになっているんですか」 「そ。ね、ね、山鳩」  咲桜は自分の隣を叩いた。山鳩と名乗った庭番は控えめに叩かれた縁側の前に(ひざまず)く。隣に座りたかった。彼のことを知りたい。声が聞きたい。自分のことを知って欲しい。睡眠欲と食欲を合わせても足りない別の欲が膨れ上がる。大きな吊り目は屋敷の明かりを借りて輝いている。 「えっとさ、えっと、まぁ、ここでお世話になるんだ、よろしく!」 「はい。こちらこそ、よろしくお願いします」  可憐な唇から白い歯が見えた。訳の分からない衝撃に身を打たれ、悶えそうになる。咲桜は山鳩の一挙手一投足を余すことなく見つめていた。 「山鳩はあのお嬢ちゃんと、ど、どどど、どういうさ、関係なの!」  (ども)り、抑揚を失い、質問は怒気にすり変わる。情緒不安定な印象を抱かせてはいないかと咲桜は深く反省したが、山鳩に気にした様子はなかった。 「幼馴染です。お屋形(やかた)様の令嬢になるまでは姉弟(きょうだい)みたいに育ったんですよ…………あ、」  彼は楽しげに話していたが突然口元を覆った。あの青年は15歳ほどの娘を持つ父親というには若すぎると思ったが、今の口振りからして火子とは血縁関係に無いようだった。山鳩は泣きそうな表情で咲桜を見上げる。幼少期、河原で仔猫を拾った時の感動を思い出す。また心臓が大きく跳ねる。 「今の…」 「ああ、大丈夫。言わないよ。言っておくけど、お嬢ちゃんとオレは昨日会ったばかりだからね、何にもないよ。何にも。オレはね、ここに綺麗な女がいるって聞いて来たんだから」  取り繕って喋ってたつもりが山鳩のきょとんとした顔にすぐさま間違いだと気付き、咲桜はどうしていいか分からず唸った。山鳩に嫌われてしまう。山鳩に気に入られたい。深く、奥深く彼を知りたい。 「ち、違うんだよ。違うんだよ、山鳩クン。あ、あああ、あのね、オレは…」 「お屋形様にはもうお会いになったんですよね?」 「え?うん」  山鳩は咲桜の瞳を捉えたまま小首を傾げる。咲桜も首を傾げた。すると庭番の少年は反対側に首を傾げる。話の流れを整理した。そして野州山辺巴炎とかいう美男を思い浮かべた。何より養子縁組といはいえ人の、それどころか火子の父親だ。 「いや~、流石にね。流石に流石にだよ」 「さ…ようでございますか。ワタクシめからすると、雲の上のような存在ですが…」 「あ、エっ!?山鳩クンは、ああいう人に、その、ぞ、ぞっこん参っちゃう?」  彼はまたきょとんと幼い表情で咲桜を見上げながら呆けていた。野良猫を撫でるように、その顔に触れてみたくなった。しかし今日会ったばかりの相手にそのような真似ができるはずはなく、咲桜は膝の布地を掴む。同時に襖が開いた。 「うるさいですわよ」  火子は縁側まで来ると山鳩を見下ろした。山鳩は俯いて大きな目を泳がせた。 「くだらないことを話していたんじゃないでしょうね?何も反省していませんの?」 「暇でさぁ。山鳩クンに話の相手してもらってたの。フツーはこんな()だっ広いお屋敷で到着初日の客人待たせないし、相子(あいこ)でしょ」  咲桜は顔の引き攣った火子に煽るような笑みを向ける。 「そうですわね!丁重にもてなせなくてごめんなさい。野州山辺家の面汚しですわね。まったく!」  火子は咲桜の肩を叩いて付いてくるよう促した。 「じゃ、じゃあね、山鳩クン。ま、また話そう。いっぱい…」 「はい。お疲れ様でございました」  立ち上がると細い腕に引っ張られ、咲桜はなんとか深々と頭を下げる山鳩が見えなくなるまで振り返りながら歩いた。 「随分と仲が良さそうじゃありませんこと?」 「いやいや、だって可愛いじゃん。犬っころみたいで」  言ってしまってから咲桜は撤回したくなった。そうではない。犬のように一方的に触り、撫で、抱き締めたいのではない。話したいのだ。相手を知り、そして知って欲しい。言葉を交わし、言葉で応酬したいのだ。 「無いとは思いますけれど、下人なんかに惚れてはいけませんよ………ああ、また。いけませんわ!」  彼女は拳を作り、リボンの飾られた自分の頭を叩いた。 「そんなに気に召したのなら、お兄ちゃんとでも呼ぶように躾けておきますわ。そのほうが嬉しいでしょう?嬉しいわね?」 「え?うん…まぁ」  彼女は地団駄を踏むように進み、咲桜を部屋に放り込むと、弾くように襖を閉めた。中紅梅色に塗られた壁が目に眩しい。白塗りの文机が洒落ていた。青い縁取りの金魚鉢には黒い魚が鰭を揺蕩わせ泳いでいる。 「ここがあたくしとあなたのお部屋です。でもあなたは寝て暮らしたいのでしょう?奥の部屋がありますから、そこで怠惰に過ごしてくださいな」  もうひとつ奥にある部屋を彼女は見せた。襖のある壁以外の三面に硝子の箱に入れられた衣装人形が並べられ、落ち着かない雰囲気があった。壁には狐と交合う中年男性の春画が貼られている。 「は~、すごい趣味で」 「気に入らなかったら剥がしてくださって結構」 「い~や、このままにしておく。で、逃げ場もなくなったところで、そろそろオレを呼んだ理由(わけ)を教えてくださいや」  目の痛い壁色の部屋に戻り、咲桜は腰を下ろす。火子は黒い鮒にエサをくれていた。 「次男が帰ってきますの。次男が……野州山辺の次男です。あたくしの叔父ですわね」 「ふぅん、叔父さんが?」 「一度は村を出て、そこから徴兵されたんです。無事にしているみたいで文は来たんですけれどね。何というか……偏屈なお人なんです。とても…気難しくて。家庭内で解決できず、部外者を巻き込むことは忸怩(じくじ)たる思いですけれど……家の外の人がいれば、少しは、軟化すると思って」  火子は口籠もり、はっきりしないところがあった。 「要するに、苛烈な叔父さんと家庭の緩衝材になって欲しいってわけだね」 「そうです。ちょうど、活きの良い都会人がいたものですから」 「都会人、ね…」  腕を広げればぶつかる距離にいるが、間を通る畳の(へり)が彼女との世間を隔てている感じがあった。空は同じだが、雲は形を変え解けてゆき、その下では山が隆起し、勾配があり、道のりの長さを物語らずとも物語る。 「気を悪くしたかしら。都会人といえば、あたくしたちの中では良く言えば自由なんですのよ。奔放で、良い意味で我関せず。悪く言えば自己責任に重きを置きすぎた個人主義といったところでしょうか」 「別にいいけどさ。そんな目立つかな。これでも故郷(あっち)じゃ地味なくらいだったのに」  溜息を吐いて咲桜は遠慮なくその場で横になった。火子の顔が引き攣った瞬間、襖が開く。美形の若い父親が立っていた。起き上がらない咲桜を火子が叩いた。 「フツー娘の部屋入る時はなんか一言掛けない?」  渋々咲桜は身を起こした。胡座をかいて苦言を呈した。しかしそれが一般的なことなのか否かは発言した本人にも不明なことだった。火子は目を剥く。 「まぁ!」 「すまないな、気が利かなかった。今度からは改めよう。悪かったな、火子。陸前高田くん、湯が沸いたんだ。一緒に入らないか」  客人の態度の悪さを気にも掛けず家主は本題に入る。 「いや~。流石に…」 「火子に住み込みで勉強を教えてくれるのだろう?それでは家族も同然だ。距離を縮めるには一緒に風呂に入るのが丁度良いと思ったのだが」  若父の見えないところで火子は背中を強く押し、賛同を強要した。咲桜にとって、風呂場とは個人でゆるりと過ごす時間という認識で、特に山を越えてきたばかりの疲労の溜まった今晩は尚のことだった。 「さいですか…」 「勿論、無理にとは言わない。今日は疲れただろう」 「申し訳ございません。急なことで驚いているようです。先程からお父様とお近付きになりたいとお話していたところですのよ。ねぇ、お父様、どうぞお先にお風呂場に向かっていてください。その間にあたくし、先生に屋敷を案内しますから」 「ちょっと、」  美父は柔和に微笑む。 「そういうことか。私も陸前くんと是非仲良くなりたい。先に身体を洗って待っているよ」  そして「では閉めるね」と一言掛けてから巴炎(ともえ)は襖を慎ましやかに閉めた。咲桜は勝手に話を進めた火子に噛み付いた。 「お嬢ちゃん!」 「信じられない。あなた流で言えばフツーああいう場合、二つ返事で承諾するものですわ。それにお父様に恥をかかせて!」 「おっと~、人選を誤ったかい、火子お嬢サンよ」  火子はぽこぽこと咲桜の背を叩く。 「じゃあ行くか~」  腕を伸ばし、背を反らす。そして気怠げに立つ。不機嫌を隠さない娘に風呂場へ案内され、脱衣所へ入る。広さからいってひとりで入るための風呂場ではないらしかった。浴室に通じる扉からは湯の音が聞こえた。 「入りますよ、旦那」 「ああ、陸前高田くん。来てくれたんだね。どうぞ、入ってきてくれたまえ」  内心は窮屈な感じがあった。適当に汗を流し、疲れを癒して飯を食いすぐに寝たいところだった。何故他人と一緒に湯に浸かり、気を張らねばならないのだろう。咲桜は人付き合いが苦手ではなかったが、かといって好きではなかった。  浴室に踏み入った。脱衣所同様そこも広く、檜の立派な湯殿があった。白い肩が濁りからしておそらく薬湯に沈んでいた。今にも貧血で倒れるのではないかと思うほど彼は色が白く、水を弾くような肌をしていた。しかし体格はそれなりによく、背も高かった。病弱であるだとか、発育不良のまま成長期を終えたという感じではない。ただ単に、日に当たらない生活をしているのだ。長い首に洗った直後の結い上げた髪から水滴が落ち色気を醸す。駐在所でみた巡査の配偶者にもいえたことだが、家庭のある者が持つ安定感とその裏返しに見え隠れする隙の綯い交ぜになった健やかな色気だ。咲桜は目のやり場に困りながら桶に湯を汲み、身体に打った。 「すまなかったね、無理を言って。火子から、孤独好きな夢想家と聞いているのだがね……こういう来客はあまりないからつい、嬉しくて」  孤独好きな夢想家。咲桜は火子に対しそのように思われるような行動や発言があったか、石鹸を手拭いで泡立てながら顧みたが思い当たる節はなかった。とするとでっちあげだ。 「陸前高田くんは普段、何をされているんだ」 「そうですね、まぁ、飲み歩いていますよ。銭の許す限りね。お(かみ)がお許しにならんでも、銭の許す限り…」  適当な泡が立つと身体を洗う。後方の湯殿から視線を感じ、ひどく落ち着かなかった。咲桜の認識からいって風呂は1人で入るものだ。公衆浴場や温泉でもない。 「つまり、いけるクチなんだね?」 「え、はい、まぁ…それなりにですよ、それなりに」  日頃から彼は酒を気狂い水と蔑んでいた。それでも時折口にしては、薄れた正気の中で気の狂う様を楽しんでいた。 「では火子が寝たら、一緒にどうだろうか」 「そうですね…まぁ、気が向いたら」 「楽しみに待つとしよう」  身体を覆う泡を流す。薬湯は少し皮膚に沁みた。 「陸前高田くんから見て、火子はどうだい」 「聡明なご息女ですよ、オレからみてもお転婆ですがね」  髪を洗いながら咲桜は答えた。 「火子から聞きましたかな。彼女(あれ)がまだ十にもなっていない頃に私の娘にしたんだよ。大体、貴方と同じ歳の頃に。だから娘とは血が繋がっていなくてね」 「大変でしたでしょ」  心にもなく無難な受け答えをする。 「親馬鹿と言われたらそれまでだがね、父親の私からみてもあの子は聡い。むしろ大変だったのはあの子のほうかも知れないね」  頭に湯を掛け、泡を落とす。耳を薬湯が打った。 「私では見えない(あれ)の色々なところを教えて欲しい。私はこの屋敷の主としてではなく、ひとりの父親として在りたいんだ」 「堂々とし過ぎなんじゃないですか。隙がないんですよ。つまり教官なんじゃないですか、教官です。上司なんですよ、家族である前にね」  よく考えもせずに思ったことを率直に述べた。血の繋がりはなくても親の威厳というものなのか、外見や皮膚や髪の感じから若さを感じても雰囲気はそうではなかった。日に当たらない透明感のある色の白さでも体格はよく長身であるため侮れる部分もなかった。 「分かった。的確な助言をありがとう。隙を作ってみることにしよう」 「的確かどうかは分かりませんがね」  それから静かになり、話題も尽きたのかと思っていたが、振り返ると巴炎は白い顔を赤く染めていた。明らかな異変に咲桜はびっくりして濁り湯に沈んでいきそうな家主を引っ張り上げた。  ろくに湯に浸かれないまま咲桜は団扇を扇いだ。目の前に寝かされた家主の額には氷嚢が乗せられている。 「申し訳ない」 「いや、いいですよ。いいです、風呂なんぞまた入り直せばいいんですからね」  巴炎は意識はあったが起き上がれないようで、仰向けのまま口を開いた。紅潮は引いてきている。 「誘っておいてこの様だ…」 「久々の来客とか何とか言っていたでしょう?意外と気付かないうちに緊張でもあったんじゃないんですか」 「正直なところ…そうかも知れない」  扇ぐ手は止めないまま咲桜は欠伸をした。薬湯を堪能する間はなかったが汗は洗い流した。あとは寝るだけだ。 「客人にこんなことをさせてしまって、本当にすまない」 「まぁ、いくら客人でも目の前で家主が逆上(のぼ)せたら、多少家人紛いのことはしますよ。でもすごいですね、氷冷庫あるなんて」  やっぱ金持ちだなぁ、という言葉を呑み込んだ。都会ならばそれなりに普及しているが、まだ各家庭に1機というわけにはいかなかった。特にこのような世間から隔絶された村ならば無くてもおかしくない。 「村にひとつあると便利だろう?こんな私的に使ってしまって申し訳ないが…」 「十分、使う要件は満たしてると思いますがね」  実家の近所にあった焼鳥屋のように団扇を叩いた。 「ああ、気が回らなかった。そろそろ夕食の時間だったな」  催促の意味合いはなく、空腹を忘れていたくらいだったが悪ふざけのつもりで焼鳥屋の真似をしたことで夕食を求めるかたちになってしまったことに咲桜はばつが悪くなり鼻梁に皺を寄せる。 「もう大丈夫だ。すまない、看病までしてもらって」  巴炎はゆっくりと上体を起こした。立とうとして大きくよろめき、大きな掌が咄嗟に咲桜の肩を掴んだ。覆い被さる肉体を思わず抱き留めてしまう。視界は(かげ)り、赤みの引いた白い顔が逆光している。鼻先がわずかにすれ違ったところで安定した。視線が交わると同時に襖が無邪気に開く。 「お父様!………お父様?」  虹彩が見えるほどの至近距離だった。息が肌を撫ぜる。三者は固まった。心臓が大きく跳ねる。 「あ……いや……」 「えっと……」 「め、飯食わしてくれるって本当です?腹へったんですけどね」  親子はまだ何が起こってるのか分かっていないようだった。咲桜は家主の身体を支えながらも離した。 「夕食だな、夕食だ。今、準備するよう伝えてくる」 「あたくしが行きます、あたくしが。お父様はまだ寝ていてくださいな、いいですね!」  叱り付けるような声音で火子は来たばかりだというのに駆け出した。咲桜と巴炎は互いに顔を背ける。 「怪我は、していないかい。重かっただろう…?」 「別に平均的(フツー)じゃないですかね。怪我もしてないと思いますよ、あれくらいじゃ」 「…陸前高田くん」 「は、はい…」  改まった調子で呼ばれ、咲桜は肩を跳ねさせた。何か(やま)しいことがあるわけではなかった。しかし気拙さも否めないでいる。特に火子に対して誤解を招く場面を晒したが、それを説明するにはまず言語化し、認めなければならなくなる。この抵抗感は(やま)しさの証明といえた。 「すまなかった」 「気にしないでください、ははは。それより横になっていたほうがいいんじゃないですかね」 「そ、そうだな。客人の前で不甲斐ないことだが、お言葉に甘えさせてもらうとしよう」  彼はまた横になり、咲桜も団扇を持ち直す。 「火子の勉強を看るために来たのに、申し訳ない」 「大丈夫ですって。謝らんでください」  温順(おとな)しく寝ていられないのかと悪態が飛び出そうになる。家主は長い睫毛を伏せ、やっと黙った。そのうち火子が戻ってきた。彼女は布団を一式、小柄な身体で抱き抱え、部屋の隅に置いた。そして父親を一瞥すると咲桜の腕を引いて廊下に連れ出した。 「お兄さん、お父様と寝られるのでしょう?」 「え?いいや」 「…あたくしは、その………構いませんのよ、お父様とお兄さんがそういう仲に発展しなさっても…」  彼女は小声で話した。娘の口から出てくるとは思えない発言に咲桜は首を振った。意味を分かって言っているのだろうか。 「え、嫌だよ。お嬢ちゃんの部屋で寝たい」 「でも、もう布団を運んでしまいましたし、お父様もお兄さんと居て楽しそうでしたわ」 「そんなの知らないよ!」  まだ話している途中だというのに火子は使用人たちが膳を運んできていることに気を取られた。まるで屋敷の者たち全員で(はか)っているかのように間が悪い。

ともだちにシェアしよう!