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第3話

 有耶無耶になった、どの部屋に布団を敷くのかという問題は、結局のところ咲桜(さくら)に選択権はなく、夜まで語り合いたいという巴炎(ともえ)の一声とそれを全力で応援する火子(あかね)に言い包められ、布団はそのまま巴炎の部屋で寝ることになった。飯は美味かったが味はよく覚えていない。醤油出汁の煮魚、根菜と蕃椒(ばんしょう)の漬物、白飯、麩としめじと擂身(すりみ)の吸物が出たのは覚えている。寝て食うだけの生活に憧れて山を越えたはいいものの、湯には浸かれず、飯も愉しめず、どこに布団を敷くのかにも手間が掛かり、酷く疲れた。親子で話している隙を見つけ部屋を抜ける。夜風に当たるのも良かった。しかしすでに縁側の戸は閉められ、唯一の癒しともいえる庭番の少年には会えそうになかった。寝る前にもう一度風呂に入る気になって、覚えたばかりの風呂場への道を辿る。脱衣所に入って、浴室とを隔てる曇り硝子の奥から湯の音を聞いた。 『あ、入ってますよぉ』  溌剌とした声はあの庭番だった。薬湯に浸かってぼうっとするつもりだったが、あの少年が入っているとなると気怠い予定が大きく変わっていく。 「山鳩クン?」 『咲桜様!すぐに出ます、ごめんなさい』 「いいよ、一緒に入ろうよ。背中流したげる」 『あ、あ、でも…下人と同じ湯に浸かるのは……』  咲桜は素っ裸になって浴室に踏み込む。日に焼けた山鳩の裸体が目に入った。引き締まった身体に、傷が目立つ。しかしそれは出来たばかりのものではなかった。背中や脇腹など目立たないところに集中している。偏っていたり、角度を変えた付き方は人為的な軌道が窺えた。彼は愛想笑いを浮かべ、咲桜も特に表情を変えることもなく目を逸らした。しかし彼を視界には入れておきたくなって愛くるしい顔を見つめる。 「背中流すよ。オレもさっき入ったんだけど、色々あって湯船には入れなくってさ」  泡を纏う山鳩の後ろに立ち、手拭いを奪った。近付くと思ったよりも傷跡は多く、元の皮膚に戻らず薄い膜のようになっているものもあった。 「咲桜様、いけません!」 「なんで?」 「火子様のお客人に、そのような…お屋形様に見つかったら怒られてしまいます」 「じゃあオレから旦那に言っとくよ、オレは山鳩クンの背中を洗うのがシュミなんだって言ってね。オレは(のぼ)せた旦那を扇ぐのもシュミなんだから」  手拭いの繊維で痛めないようあまり力を込めずに洗う。傷跡は多いが玉のような水滴が弾けるいい肌をしていた。健やかな背中に頬擦りしたくなったが思い留まった。湯を掛け、泡を落とす。肌理(きめ)細かい皮膚は水を撥ねる。 「ありがとうございます。咲桜様は…?」 「さっき入った………でも背中だけ流してもらおっかな。お願いしていい?」 「勿論でございます」  山鳩は手拭いを畳み直す。彼に背中を向けた。可愛らしい姿を何度か振り返る。逆上せてしまいそうだった。やがて背中を撫でるような加減で手拭いが這った。そして湯が打った。 「ありがとさん」  向き直ると彼は笑んだ。咲桜は湯を打ち、爪先から温度を慣らす。注ぎ足しはないようで温かった。髪を洗う後姿を眺める。幼い頃に共に水遊びをした仔犬のようだった。この屋敷の主人に次いで(のぼ)せてしまいそうになる。 「いつもこの時間に風呂入ってんの?」 「はい。大体この時間に」 「じゃあオレもこの時間に風呂入るからさ、その時間は下人とか客人とかナシにしよ。多分この屋敷(いえ)、話通じるの山鳩クンだけだよ」 「で、ですが……」  山鳩は律儀に湯殿のほうを振り返った。髪を泡と揉み込む姿に咲桜は胸を締め付けられる。 「も、もももももっと素っていうかさ、と、とと友達としての山鳩クンを、知り、知りたいよ。出会いがたまたまこんなだっただけでさ、他所(よそ)ならいい友達になれたと思うんだよね~、オレたち」  彼は少し困惑していた。 「ね!お風呂の時間だけ。オレ(ぬる)いお湯のほうが好きだしさ」 「…分かりました」 「じゃ、オレのことは咲桜(さくら)って呼ぶんだよ?山鳩クン」  こくりと小さな頭が頷いた。その仕草までが咲桜の胸を打つ。 「さ、咲桜…」 「素晴らしい」  髪を洗い終えた浅黒い身体が躊躇いがちに湯殿に入った。控えめに隣に寄る。咲桜はぼんやりしていたが可憐な、しかし都会でいう可憐とはまた別の健康的で快活な雰囲気のある、例えるのなら小猿や仔犬のような野生感もある少年を横に話題を探した。 「山鳩クンは、い、いいい何歳(いくつ)なの」 「こんなんでも16。さ、咲桜……さんは…?」  機嫌を窺うように大きな目が咲桜を覗き込む。いきなり距離を詰めさせるのは酷なようだ。 「その5つくらい上」 「では…若様と同じくらいですだす」 「若様って、じゃあ、例のお嬢ちゃんの叔父貴?」  かくん、と船を漕ぐみたいに山鳩は首を縦に下ろした。 「若様、おっかない?」 「……」  彼は躊躇いがちにまた縦に首を振りかけている。 「でも、カッコいいから。たまに優しくしてくださるし」  ある程度膨らんだ人物像崩れ、再構築されていく。咲桜の想像では常に顰め面で口数は少なく、喋ったかと思うと罵詈雑言しか浴びせないような人物だった。しかし見目が良く情もあるという。何故だかつまらなくなった。そもそもこの屋敷について興味がない。もはや興味があるのは飯と布団とこの時間だけだ。咲桜は両手で握り込み、湯を飛ばした。 「食らえっ」 「わぁ」  表情豊かな可愛らしい顔に湯が掛かる。顔面を押さえる姿もまた悶えるような感慨を与える。 「山鳩クンと入るといい湯だね。ちょっとヒリヒリするけどね」 「唐辛子が入ってるって聞いた」 「じゃあ辛いんだ?」 「あんまり、味はしなかったけど」  咲桜は味を確かめたらしい山鳩の姿を馳せてくすくすと笑った。 「傷に滲みない?」 「……ちょっとだけ」  肩にも疎らに彫り込まれた傷跡を一瞥して他意なく訊ねた。山鳩は呆気に取られた顔をしていたが気にした風もなく答えた。 「皮膚が強くなってるんだな。オレやっぱちょっとヒリヒリするもん。日焼けした後みたい」 「もう何年もこのお湯ですだすから」  彼はにこりと笑った。絶叫しそうな悦びが突き抜ける。しかし平静を装った。 「これは温いくらいがやっぱちょうどいいわ。そろそろ出るけど、山鳩クンは?」  この少年の返事次第では、多少薬湯が肌に滲みることなど些事に等しかった。しかし山鳩もそろそろ出るつもりだったらしく、風呂場の前で別れた。湯は温かったが身体は温まり、どこで寝るかの問題が起こったことなど()うに忘れて屋敷の主人の部屋に戻る。そこで思い出すのだった。  布団は2つ並ぶように敷かれ、その距離は非常に狭く、今日会ったばかりの者と接するにはあまりにも近い。布団を離そうとしたところで襖が開き、巴炎も戻ってきた。 「どちらに行かれていた」 「風呂ですよ、風呂」 「なるほど。しかしこの時間の風呂は温かっただろう?」 「温いくらいがちょうどいいんですよ、ああいう湯はね」  自然の流れを装い、まるで何も考えていないような振りをして咲桜は布団を離した。 「この時間は使用人が入っていなかったかい」 「ああ、それなんですけどね、一緒に入りましたよ。彼はすぐ出ようとしたんですけどね、まぁ、旦那流でいう風呂で語り合うというやつですな。ああいう湯は、やっぱり温いのが一番ですや」  布団を捲り、そこに下半身を突っ込んだ。多少ふざけた調子で、揶揄い半分嫌味を込めたが、相手はそれを深い意味合いとして捉えたらしかった。彼も布団に入り、上体を起こしていた。 「申し訳ない」 「いや、いいんですけどね」  巴炎に背を向け横になる。部屋が暗くなり、後ろで布団が擦れた。 「明日、私の弟が帰ってくる。気難しい偏屈屋だ。お恥ずかしい話だが、失礼があるかも知れない。先に謝らせていただきたい」 「お嬢ちゃんから聞いた」  彼は黙った。そしてふと、火子とこの部屋に来たばかりの時も彼は布団を敷き、そこに座っていたことを思い出す。つまり、間隔は空いているものの二度寝同然だ。日に焼けない類の青白さはあるが肉付きや体格、髪質からいって病的な印象は受けなかった。(あら)ゆる想像をしたが、具合でも悪かったのだろうと片付け、咲桜は目を閉じる。 「起きなさいな」  睡眠を妨害され咲桜は寝返りをうった。駐在所の固い床とは違う柔らかな感触はさらに惰眠を貪らせる。しかし沈もうとしている意識は嫌でも引き上げられる。 「起きなさいな、いつまで寝ているつもりなの」 「寝てるだけでいいって言ったろ」  唸り、半分眠ったまま頑なに咲桜は起きなかった。 「ここはお父様のお部屋なの!寝るならあたくしの部屋になさい」  反論は沢山あったがどれも口にしなかった。それよりも意識を覚醒させず再び深い眠りに就くことを優先する。 「起きなさいったら!」  布団を持ち上げられとうとう咲桜は畳に転がった。側頭部を軽く打ち、撫で摩る。 「あのなぁ、ここで寝ろって言ったのお嬢ちゃんだからな」 「あたくしの部屋で寝なさいな。まさかこんな自堕落な方とは想像もしませんでした」  火子は咲桜の後頭部に追い討ちをかける。 「あ~あ~、分かったよ」  崩れた布団を放置し、咲桜は部屋を出た。襖を開けると村人たちが列を成している。村人たちは目を見張って他所者を観察した。咲桜は小首を傾げ、雑な会釈をした。セミがうるさく鳴いているが、屋敷は涼しかった。目に痛い壁と薄紅の花が描かれた襖のある部屋に向かう途中で、目の前の障子が外れ、行く手を阻んだ。障子は縁側の硝子戸を割り、派手な音を立てた。そしてそこに日焼けした身体が尻餅をつく。 「山鳩クン?」 「誰だ」  男の声が聞こえた。耳に瀞むような甘やかな質感がある。見目麗しい人物を髣髴とさせたが、胡散臭いほどの綺麗な声質はかえって魑魅魍魎の中でもとりわけ醜悪な容貌を脳裏に描像(びょうぞう)する。 「火子お嬢ちゃんの家庭教師です」  立ち上がらない山鳩に寄り添う。使用人たちが集まってきた。咲桜は部屋にいる着流しの男を見上げた。野州山辺(やしゅうやまべ)巴炎の弟だとすぐに分かった。白い顔に冷ややかな切れ長の目に薄く沿う二重目蓋、小振りな鼻に冷淡げな唇。整ってはいるものの都会的な顔立ちで、もしかするとこの隔絶さた村では悪相(あくそう)と判断されるかも知れない。兄とは対照的な雰囲気を纏っている。何よりその眼差しは昏く冷ややかだった。セミの(やかま)しい鳴き声が遠くに感じる。 「野州山辺の人間に近寄る手で、卑しい下人を触るな」  野州山辺の次男は蔑んだ目を流し、袖を翻しながら背を向け、物のあまりない部屋の隅に腰を下ろす。 「大丈夫?山鳩クン」  使用人たちが割れた硝子を片付けていく。 「お見苦しいところを見せて、ごめんなさい」  山鳩はおそるおそる立ち、壊れた障子の上から退いた。立て掛けるにも歪んでしまっている。 「これは無理だなぁ。竪桟から折れちゃってるもん」  咲桜は敷居から鴨居までを壊れた障子を伝い眺めた。山鳩は寛ぐ次男に土下座する。 「すぐに新しいものと交換いたしますので…」 「俺は障子なんぞ無くても一向に構わん。お前がひぃひぃ鳴いている姿をみっともなく晒すだけだ」 「じゃあお嬢ちゃんの部屋の襖持ってくればいいや。ちぐはぐだけど無いよりいいでしょ」  咲桜は掌をぽんと叩いた。禍々しい人形部屋を仕切る襖は咲桜にとってほぼ不要だった。次男は鋭く咲桜を睨む。 「で、でも…」 「大丈夫、大丈夫。多分。よし、行こう」  山鳩の腕を掴み、咲桜は火子の部屋へ引っ張る。しかし彼は次男の顔色を窺う。 「好きにしろ」  次男は興味を失ったように煙管(きせる)を吸い始めた。山鳩は項垂れ、咲桜に従う。 「あれが次男?」 「はい。青藍(あおい)様です」 「確かに気難しそうだったな」  火子の部屋に入る前に、まだ肩を落としている山鳩と対する。躊躇はあった。少し下にある意気消沈している肩を抱き寄せる。軽い身体は一歩踏み出す。昨晩の薬湯よりも明確な疼きが全身を走る。 「ごめんなさい、無関係な咲桜様まで巻き込んじゃって…」 「いいって、いいって。友達じゃん?」  友達というには相応しくない感覚を彼に抱いていた。湧き起こる情動に任せ取って食べてしまう前に背中を叩き、抱擁を解く。火子の部屋から奥の部屋とを仕切る襖を借りた。青藍(あおい)とかいう次男は冷ややかに咲桜を一瞥くれた。 「馬鹿犬が」  呟きは咲桜にも聞こえていた。悲痛な表情をする山鳩にも届いているようだ。襖は嵌まり、一枚だけ異なっていたが機能は十分に果たしていた。廊下の散らかった硝子の破片も片付けられ、割れた部分には厚紙が貼られていた。とりあえず事態は収まったが二度寝する意欲は消え去っていた。山鳩は何度も礼を繰り返した。まだ彼と居たかったが火子の部屋に戻る。畳に寝そべり、欠伸をしているうちに腹が減りはじめた。近くを通った使用人に飯を要求するとすでに昼飯時だと告げられる。そしてその昼飯が出来ていないため、乾物を与えられた。腹を掻きながら横になって乾物を咥えていると火子が戻ってきた彼女は室内の異変に気付いたようだったが漠然としているようで、何度か練り歩き、目を細めたり、身体を傾けたりした。 「お部屋、何かしました?」 「ヤバい次男に山鳩クンがいじめられてたんだよ。障子がぶっ壊れたから借りた。別にいいよな、ここ、風通し良くしても?」 「叔父兄(おじにい)様に会ったんですの?」 「うん。ヤバいな、あの人」  彼女は襖を勝手に貸し出したことよりも彼が次男と会ったことのほうが大事らしかった。 「ああ…そうですの。襖のことは分かりましたわ。ありがとう。何か言ってらした?」 「山鳩クンをひぃひぃ泣かすとか、何とか。あの人も風通し良い部屋でも構わないってさ。でも山鳩クンがひぃひぃ泣かされるの可哀想だしさ」 「随分とあの下人の肩を持ちますのね」  乾物を噛み千切りながら少し不機嫌になっている火子を見上げる。 「そう?」 「あまり特別扱いしないでくださいな。きちんと下人として躾けてあるんですから………ああ!なんてこと!」  彼女は言い切った後に少しの間静止して発狂する。 「どうすればあなたみたいな好き放題言える能天気な自由思想を手に入れられるのでしょう?」 「手に入れたいと思ったら吉日ですな」  深く考えもしないで咲桜は答えた。乾物を噛む。頭を抱える姿は深刻そうだった。 「あたくしだってね、この家に来るまではあの子と同じだったんですのよ。あの子と…年相応に川で遊んだり、肝試しをしたりしていたんですのよ。並んで同じ釜の(まま)を食べて………」 「下人といったって、お給金で繋がってんだしさ。身分で関係を意識するのなら、刺しても死なない、食生活は霞だけ、ほとんど怪物にでもなってから言うんがいいや」  縋るような目で火子は咲桜を見つめる。 「ま、オレは山鳩クンと私的(フツー)に友達だけどね」 「それは、お兄さんのご勝手ですけれど………板挟みになるのは彼なんですからね。だってあの子が暮らしているのはあなたの思想が利いた場所じゃないんですから」 「なるほどな。こんな辺鄙(へんぴ)な村じゃ尚更だぃね。分かったよ。ここで暮らすんじゃ、その決まり事に従うよ。とりあえずのところは」  乾物を咀嚼し嚥下する。火子は少しの間首を傾げ居候を見下ろしていたが何も言わず部屋を出て行った。咲桜は横になったまま塩気の強い乾物を齧り続ける。  昼飯は麦飯に生卵と芋の味噌汁、野菜の漬物に鮒の甘露煮だった。食後に山鳩が部屋を訪れたが火子に用があるようで、伝言を預かろうとしたものの本人に直接用があるらしかった。横になっていた身体を起こし胡座をかく。 「また次男坊のとこいくの?」 「はい」 「お嬢ちゃん、襖のことは気にしてなかったから大丈夫だよ。でも山鳩クンが探してたって言っておくね」 「何から何までありがとうございます。ごめんなさい、鈍臭くて…」  山鳩の大きな目は濡れて大きく光っていた。泣きそうになっているのをどうにか堪えているようだった。あの口の悪い毒気のある次男に心無いことを言われたのだろう。 「大丈夫、大丈夫。あんなの朝飯前だし。昼飯後だけど。オレここで寝てるだけだからちょっと口を動かすのもいい運動だよ」  少年はいくらか緊張を緩める。その目から一粒雫が落ちた。咲桜の表情が強張る。目の前で瓦解する。沈んだ様子の彼はあどけなさの残る手で目元を拭った。 「ご、ごめんなさい。おで、何やっても……全部ダメで」 「次男坊に何か言われたの?」  徐ろに山鳩へ近付いた。彼は鼻を啜り、次々溢れ出る涙を拭きながら首を横に振った。 「どうして君を障子にぶつけることには嫌味を言うくせに、次男坊の御御足(おみあし)を君にぶつけることには寛大なんだ、あの人は。まったく不思議な人だな」  彼の傷んだ硬さのある髪を指先に絡ませ、泣く子供を胸へ迎え入れる。しかし山鳩は必死に踏み(とど)まって、両手で顔を覆った。 「若様は悪くないんです」 「いいや、あんな風に障子ごと突き飛ばして悪怯(わるび)れないのは異常だよ。ちょっとオレには、正常(フツー)の人として接せられないかな」  少年は首を振り続けた。虐げられても親に付いていく子供に似た健気さがあった。罵られ、賤しめられる日常が彼を卑屈にさせている。そういう価値観がまだ各地に隔絶されながら点在していることを咲桜は苦々しく思う。 「お優しいところもあるんです、お優しいところも……お怒りになったのはワタクシの落度で…」 「何もね、あの御仁が大激怒(おかんむり)一辺倒とは思ってないよ」  すぐに放すつもりだったが、放っておけなくなってしまう。胸が高鳴った。息苦しくなるほど力一杯に抱き締めてみたくなる。火子に覚える保護しなければならないという使命感もあるのだが、火子には感じなかった衝動や支配欲も湧き起こる。彼に触れると、筋肉だの鼓動だのと物質的なものとはまた違う解放感がある。もう少し強く抱き締めたい。 「ごめんなさい、変なところをお見せして。そろそろ戻ります、ごめんなさい。ごめんなさい」  しかし山鳩は咲桜を突っ撥ねた。涙を拭い、腕の中から逃れてしまう。 「……そう。頑張ってね……もう頑張ってるか。弱ったらオレのところおいでよ。手でも足でも貸せるし、胸も貸すよ」  目元を擦る様は眠げな幼児とも重なった。そしてこくりと頷き、恭しい態度で退室した。少年のいた余韻に浸り、脱力するように咲桜は再び横になった。(うつ)らうつらとしながら浮き沈みする意識の中で部屋の主が戻ってくるのを認める。彼女は文机に向かっていたがふと目が合った。しかし咲桜がまだ薄らと起きていることには気付かないようで、掻いたり撫で摩ったりして晒したままの腹に柔らかな綿紗の布を掛けた。 「あのさぁ」 「わっ、びっくりした。起きてましたの?意地が悪いのね」  彼女は跳ぶように身を引いた。特に意地悪をしたつもりはなかったが咲桜はそれに反応することもなく、眠気にかき消えなかった用件を告げる。 「山鳩クンが探してたよ」 「まぁ、そうですか。分かりました。ありがとう」 「お嬢ちゃん、昼飯食べた?」 「まだですけれど」  自ら山鳩を探しに行くのか踵を返す火子に問うた。 「旦那も?」 「そうです」 「へぇ」  襖が開き、静かに閉じられ咲桜はまた部屋でひとりになった。また少し眠り、突然活動的になり、やることはないかと邸内を歩き回った。村人も自由に出入りしているらしく、物珍しいげな視線を浴びるため外に出て薪割りを手伝ったがそう長く続かず、庭園にある池の中で孤立しているような四阿(あずまや)でまた横になった。しかし不快な蚊の羽音で飛び出し、結局厨房で夕飯が出来上がるのを見張っていた。出汁が薫っている。飽きた頃に使用人のひとりを介し「若旦那」に呼ばれた。廊下で村人とすれ違い、巴炎の部屋に辿り着く。彼は中心に敷かれた布団に座っていた。皺だらけの布団で、就寝している時とは柄も違った。生臭い匂いが微かに籠っている。 「なんです?」 「退屈そうだと聞いたものだから」 「夕食を待つのに忙しくしていましたよ」  馬鈴薯が使われるのは見た。人参もよく洗われ、女使用人の細指が糸蒟蒻を垂らしているのも見た。出汁の匂いからいえば旨煮になるのだろう。 「そうか。片付けの間、話相手になっていただきたく思っていたのだがどうだろう?」 「いいですよ、どうぞ」  巴炎は膝を押さえながら立ち上がり、座布団を出すとそこに咲桜を促した。部屋には2人きりで、咲桜は村では珍しいだろう懐紙の山を屑箱の中に見つけた。

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