4 / 34

第4話

 巴炎(ともえ)は村の歴史や村人のことなどを話した。咲桜(さくら)は相槌を打つばかりで、半ば空返事も混ざっていた。娘からは裁判士と聞いていたが、咲桜の知っているそれとは違い、異国の神職に近いものらしく迷う者には教え諭したり諍いがあれば仲裁したりする役柄なのだという。そして若者の房事の相談も受けることがあるのだと彼は目を泳がせて語った。単純な、しかし浅ましさを帯びた好奇心で咲桜は言葉を詰まらせる巴炎をまじまじと見てしまう。 「照れることはありませんや。きちんと若いうちに知っておくことですよ。親から教わるよりは頭に入るはずです」  ある程度部屋が片付くと巴炎も引っ張り出した座布団の上に座った。 「もう弟には会ったかな」 「会いましたよ。旦那と同じくらいいい男でした。ま、旦那には及びませんがね」  事実は事実だったが、それを(わざ)わざ口にしたのは社交辞令以外の何ものでもなくそれを隠そうともしなかった。 「失礼はなかったか」 「オレにはありせんでしたな」 「…と言うと?」  巴炎は真剣な顔付きになった。 「使用人にはありましたね。それから、そうですな、家財に」 「…なるほど。申し訳ない。よく言い聞かせておこう」 「お願いします」  言って聞くような相手ではないだろう。さらには子供ではない。分別はつく頃合いだった。この年まで人波に揉まれそれに気付かないのであれば、言って聞くか否かの望みは薄い。姪が緩衝材として駐在所から出自もあやふやな都会人を連れ帰るくらいだ。 「私は、村の者たちから大切に、蝶よ花よと育てられてきた。誰も私を注意する者はいない。陸前高田くん、私を躾けて欲しい」 「何を言ってるんですか。オレが旦那を躾けるなんてそんな、そんなそんなですよ」 「…陸前高田くん」  眼前に迫られ、咲桜は身を引いた。声音も少し落ちている感じがあった。何か改まった、重大な一言が待ち受けていることを五感とは別の感覚器官ともいえない、空気が告げている。 「私は…」 『失礼します、火子(あかね)です』  襖の奥から娘の声が響いた。咲桜は異様なものに変わった空気を感じ取り、勝手に入室を許可した。 『お父様はいらっしゃいませんの?』 「居るぞ」  彼女は迷ったのか、襖はすぐには開かれなかった。巴炎がまた一言掛けて、火子は一礼とともに敷居を跨ぐ。咲桜と巴炎の様子を不思議そうに眺め、布団の敷妙を剥がし始める。 「んじゃ、親子水入らずで。オレは夕飯を待つのに忙しいんでね」  咲桜は部屋を飛び出した。平静を装ってはいたものの疑問が(とど)まるところを知らず、得体の知れない羞恥を煽られる。低くしっとりと呼ぶ声が耳に張り付き、ぶるりと一度戦慄(わなな)いてから忘れるよう努めた。厨房には戻らず火子の部屋に向かう途中で、廊下を我が物顔で歩く黒糖麺麭(ぱん)に手足と毛が生えたような猫を見つけた。飼い猫がいるとは知らず拾い上げる。かつお節の匂いがした。 「捕まえた~」  猫はにゃうぅと鳴いた。人が好きなようで、触っただけで轟いている。頬擦りする。雉虎柄の毛はすっかり夏の短いものに換わっていたが質は良く柔らかかった。高く持ち上げたり、胸で抱き締めて遊ぶ。 「可愛い~」  猫はにゃうにゃう鳴いた。火子の部屋まで連れて行きたかった。しかし細長い足に蹴られ猫を放す。尻尾はだらりと垂れて緩やかに宙を掻く。後を追うと、猫は徐々に速度を上げて逃げた。尾の下で鈴型の毛玉が揺れているところからオスだ。猫は本格的に走り始め、曲がり角の奥から使用人の女の悲鳴が聞こえた。それが面白くて咲桜は笑っていた。使用人の女とすれ違うと彼女はばつが悪そうに咲桜を睨み、まだ夕食は出来ていないことを告げた。大声を出したことが恥ずかしかったのだろう。それがまたおかしくなって顔を緩めて廊下を歩く。そして曲がり角で人とぶつかった。猫が押しつけられる。 「猫を中に入れるな」  紺色の着流しに灰色の帯はあの小難しげな次男坊だった。毛の生えた黒糖麺麭は咲桜のほうへ手を掻いた。 「飼い猫じゃないの」 「(ばか)犬以外うちにはいない」  暗くなってきたため閉じられた建具を適当な場所で引いて彼は猫を放り出す。 「でも太ってるし人懐こかった」 「どこかの猿が餌付けでもしているんだろう」 「猫とか犬とか猿とかさ、そんな自然に溢れた場所で、ここ、熊とか出ないよね?」  冷ややかな目は咲桜を制するような圧があった。それに気付かないでもなかったが従う義理もなかった。かといって反発しようとしているつもりもなかった。 「虹ヶ脇(にじがわき)(ひぐま)事件って知ってる?オレあれ聞いた時もう怖くってさ~」  咲桜は喋り続け、紺色の着流しはその横を無言で通り抜ける。 「おっと、若旦那、怖くなっちゃった?」  反応はなかった。足音もなく去っていく。咲桜は同じところの建具を引いた。放り出したばかりの猫はまだそこに居た。座ると飛び乗って喉を鳴らした。飼猫と紛うほど質の良い毛を撫で、視界に広がる庭園を眺めた。苔の生した石畳や庭石は見ているだけでも涼しさがあった。空はほとんど夜になり、わずかにまだ赤みを残している。奥に(こうべ)を垂らす柳の木は焦点をずらすと人のようだった。 「咲桜様?」  視界の端からぬっと人影が入り、咲桜は飛び上がった。猫はすたすたと砂利の敷かれた縁の下に隠れてしまう。 「びっくりした、山鳩クンか。ちょうどあの柳の木が人みたいだなって思ってたとこなんだよ」 「ご、ごめんなさい…」 「いやいや。もうお仕事上がり?」  猫みたいにこの少年が膝に乗っては来ないかと期待した。だがそのような気配はまったくなく、その流れを作ることもできそうにはない。 「いいえ。まだですよ」 「そっかぁ。お嬢ちゃんには会えた?」 「はい。咲桜様がお伝えしてくださったんですよね。ありがとうございます」 「そ。会えたなら良かった」  彼はにこりと笑って前を通ろうとした。咲桜がその赤みのある汗ばんだ顔に気付くと同時に山鳩は肩から砂利に崩れる。咲桜はたまげて裸足のまま縁側から降り、山鳩の身体を抱き上げた。 「大丈夫?転んだ?」 「大丈夫です。ごめんなさい、ちょっと(つまず)いちゃって」  着ているものは汗ばんでいるが身体は冷えている。暑気中(しょきあた)りに違いなかった。 「昼飯食べた?」 「まだです」 「まだってもう夕食近いよ」  咲桜は山鳩を抱き上げる。深く考えもせず、巴炎の部屋ならばそれなりの処置ができると、おそらくはそれすらも思い浮かばずただ歩みは彼の部屋に向かっていた。腕に触れる背中や膝裏は濡れているといっていいほど汗をかいている。 「咲桜様、降ろしてくださいまし」 「山鳩クン、飲まず食わずだったでしょ」  許可も取らずに巴炎の部屋を開ける。家主は美しい顔立ちを驚きに染めた。 「お屋形様、」 「旦那、旦那、旦那!山鳩クンが暑気中りですよ。頭の中が茹で卵になりかけちまってるんです。とりあえず塩水と氷を持ってくるので、看ててくれますね?」  巴炎はまだ返事もしていなかったが、膝立ちのまま下されたばかりの山鳩に寄ってきた。咲桜は巴炎が(のぼ)せた時と同じように厨房の製氷機から氷をもらい、砂糖と塩を水に溶かして山鳩のもとに飛んで行った。彼は服を脱がされ、身体を拭かれていた。 「山鳩クン。ほら、不味いけどちゃんと飲むんだよ」 「失礼します」  少年は大きな人懐こげな大きい吊り目をまず主人に、それから咲桜に向ける。  腕と膝で支えて抱き起こし、可愛らしい唇に湯呑を当てた。首が細いために大きく見える喉頭隆起が上下する。氷水に浸した手拭いを首に当てる。 「今日はもう休むといい」 「いけません。これからお風呂を沸かさなくてはなりませんから」  巴炎は言ったが、山鳩は口元を拭うと咲桜の腕から去ろうとした。 「ああ、じゃあオレやるよ。この調子で薪()べるの危ないし」 「大丈夫ですよ、ワタクシできます。意識はありますし」 「遠慮すんなって。あとで遊んでくれりゃいいから。そういうわけで、山鳩クンを頼みますよ旦那」  膝を押して立ち上がり袖を捲った。 「(かたじけな)い」  巴炎は頭を下げる。咲桜の代わりに彼に抱き起こされている山鳩は目を瞠った。  薪を焚べ、赤い炎を眺めていると軍役時代を思い出した。浮かんだ汗を拭い、溜め息を吐く。風呂場の裏から風呂釜下に敷かれた鉄を温め湯を沸かすが、この屋敷の湯殿は広く、火を長いこと燃やし続ける必要があった。街ではすでにボイラーが普及していたがこの村ではそうもいかないのだろう。 「酔狂な人ね!」  火子が現れ、水をよこした。咲桜は大きな氷がひとつ浮かんでいる。 「そうかな。山鳩クンはどうしてるのさ」 「寝てますわよ。よくもお父様に面倒を押し付けたわね」 「それは素直に謝るよ。でも薪を焚べながら看病、出来ないし。ひとりにしておいたらまた仕事に戻りそうだったから、これが最善策じゃない?」  水を一口飲み、火子に返して薪を焼べる。 「何もお父様でなくても…」 「だからそれは素直に謝るって。土下座でもする?次男坊に預ければ良かったかな。いやいや、山鳩クンが見殺しにされちゃうよ」  竹筒を吹く。赤々とした明かりに炙られ、目は沁みた。これを毎晩こなす山鳩には尊敬の念を抱かざるを得ない。 「そうですわね…」 「とりあえず御大(おんたい)に任せておけば一番いい処遇してもらえるでしょ」  火子の呆れた嘆息が聞こえる。 「あたくしは野州山辺の人間ですから、一番に家を考えなくてはなりません。野州山辺の顔を立てなくてはなりませんの」 「お嬢ちゃんは毎日肩張って生きてんだね。おうちなのに」 「村民から慕われて、食うにも着るにも困らずこの村で過ごせるということはそういうことです。この家にあたくしという個人は要りません。野州山辺の人間になった時から」  薪を焼べ、もう一度竹筒を吹いた。炎が揺らめいた。そろそろ良い頃合いだった。火子から水をもらい、一気に呷る。 「素敵な自然、豊かな生活、温かい繋がりのある田舎生活かと思ったらろくでもねぇ場所だな」  火子の背中を押して邸内に戻る。咲桜は巴炎の部屋を目指したが彼女も付いてきた。山鳩は布団に寝かされていた。巴炎は氷の浮かんだ水の中で手拭いを絞り、少年の額を拭いている。 「代わりますわ、お父様」  火子は父親の脇に(はべ)った。その反対側に咲桜は腰を下ろす。 「大丈夫?」 「申し訳ございません」  色の白い唇が動いた。 「いいの、いいの。夜はどうする?オレと寝る?」 「離れに戻れますですよ」 「だめ。元気になるまで1人にしておけないよ」 「動くのも大変だろう。ここで寝るといい」  山鳩の大きな目は咲桜を見上げた。躊躇いの他に、何か助けを求めるようなところがある。反射のように口が回った。 「じゃあオレも一緒にここで寝ます」  書生時代のように天井に向け高らかに挙手する。 「では3人で寝よう。構わないかな、火子」 「あたくしでございますか?」 「陸前高田くんを二晩も()ってしまって…」  巴炎は少し照れていた。火子は父親と咲桜を見比べる。 「お父様がお気になさることではありません!」  火子はびっくりして叫んだ。 「ただ、叔父兄(おじにい)様がなんと言うか…」 「若旦那がなんか言うの?」  彼女は山鳩を見下ろした。そのために咲桜も彼を見下ろした。巴炎までもが山鳩を捉え、一斉に視線を浴びる。目玉を落とさんばかりに山鳩はただでさえ大きな目を見開いた。 「何かあれば私に相談して欲しい」 「あっあっ、やっぱり、おで、おで……大丈夫です、おで、……」  山鳩は飛ぶように起き上がった。しかしよろめき、咲桜は抱き留める。そのまま腕の中に閉じ込めた。手足の生えた太ましい毛玉と違い、あまり反発力がない。 「ああ、なるほどね。若旦那が山鳩クンと旦那が布団並べて寝るの嫌がるわけね。じゃあ山鳩クン、お嬢ちゃんの部屋で寝よ。お嬢ちゃん、いいでしょ?」 「好きになさって」 「じゃ、旦那!そういうことで」  咲桜は山鳩を抱き上げ、火子の部屋に連れ帰る。だがその途中、紺色の着流しが目の前を横切った。既視感がある。尾の生えた黒糖麺麭のような物体をその腕に抱いていた。次男坊は咲桜に気付き、冷ややかな視線をその腕の中の少年へ射した。降りようとする少年を強く押さえ込む。 「いいご身分だな。下人が客人の世話になるとは」  そしてその後ろの布団を運ぶ姪にも威圧的な態度を示す。 「猫を中に入れるな」  次男坊は猫を抱えたまま縁側のほうに消えて行く。 「あの人絶対猫好きでしょ」  山鳩を抱き直し、火子の部屋に帰った。布団が敷かれ少年はそこに寝かされた。少しすると寝息が聞こえる。彼女は土気色の寝息を傍で見つめていた。 「水を差すようで悪いのですけれど、」  咲桜は房飾りの付いた扇子を扇ぐ手を緩める。火子の物らしく、地紙は彼女の着物のような鮮やかな色と艶やかな柄が描かれ、金色の波模様が入った漆塗りの親骨で、中骨には花形の刳り貫きがある。 「叔父兄様はこの子に……その、お下品な言い方をすれば、唾を付けているんです」 「なんで?」 「理由なんか知りません!」 「あぁ、ホントぉ」  火子はいくらか語気を強めた。 「訊けばいいじゃん。訊いてやろっか?なんで山鳩クンにぺっぺ、ぺっぺ唾付けるんですかって」  房飾りが大仰に揺れる。彼女は得体の知れないものでも見るかのように顔を顰めた。 「そんなことをして、皺寄せは誰に来るか分かって言っているの?」 「お嬢ちゃんじゃないね」 「あたくしがどうしてあなたを呼んだのか…まったく分かってないのね。あたくし、叔父兄様がお父様を軽蔑してらっしゃることも、あたくしを毛嫌いしてるのも知ってますのよ。でもあの人はそんなこといちいち口にしませんし、あたくしたちとは距離を置いて暮らしていますからこれといって痛くも痒くもありませんの。ただ……」  白い手の甲は子供のように寝る少年の円やかで柔らかな頬の弾力を確かめた。 「この子には厳しいものですから。見るに耐えません」 「山鳩クンの身体が傷だらけなのも?」 「……見たんですのね。お父様もきっと見ましたね?」 「多分」  視線を感じるのか山鳩は寝返りをうつ。火子は目を伏せた。踏み込むなというような頑なな感じがあった。咲桜は見透かすように片眉を上げる。 「叔父兄様をあまり刺激しないで」 「してないけど」 「だから、彼に関わるのはやめてと言っているんです!」 「いや、そうは言ってなかったね。山鳩クンと関わることが若旦那を刺激するってこと?若旦那って山鳩クンの何なの」  怒っているらしき彼女を煽るように扇子で風を送った。 「関わるのはやめて、はいそうですか、村八分一丁あがり。野州山辺家ってのは一家庭なんて最小限の社会でもそんななのか。とんでもないな」  咲桜は一人二役で左右に顔を向け身体を捻り、口を尖らせて滑稽な表情を作った。火子は眉根を寄せた。 「じゃ、若旦那が村人に突っ掛かったらお嬢ちゃんたちは、あの人に関わるのはやめてよして触らないでって御触書でも出すのかい?」 「言わせておけば、野州山辺家を愚弄しないで」 「それなら発言に気を付けるんだね、そんなに家名にこだわるなら」 「あなたは自分の家が侮辱されても何とも思いませんの?」 「侮辱される謂れがないなら何かしら思うね。この件と違って」  火子は徐ろに立ち上がった。 「怒った?」 「夕食ですわ、夕食です!夕食を持ってきます」 「いや、オレが持ってくる。お嬢ちゃんは休んでて」  鮮やかな着物から伸びた手首を掴み、下に引いた。彼女の立つ力を借りて咲桜は立ち上がった。大きな目に睨まれてしまう。 「山鳩クンのこと扇いであげててよ」  火子の表情が凍った。気拙げに目を逸らされる。装飾品のような扇子を力無く握った。咲桜はそれに気付いていたが何か言うことはなかった。使用人を手伝い膳を運ぶ。山鳩は穏やかな様子で寝ていたが夕食を食い終わる頃にふと目を開いた。飯を食うかと火子はいくらか厳しい口調で訊ねた。彼は首を振る。鋭い眼差しによって弱々しくやはり食べると呟いた。火子は自分で食べた膳を片付けにいく。咲桜はぼりぼりと(たくわ)え漬けを齧った。箸を持ち膳の前で辞儀をする山鳩を見つめる。土気色で、手も震えている。 「あんま無理しなさんな」 「はい」  引き攣った苦し紛れの笑みが返ってくる。聞こえてはいるが届いていない。 「お嬢ちゃん、ちょっと気難しいんな」 「本当は優しい人なんです。ただ、家柄を守るためには、おでとはもう友達じゃないから…」  彼は漬物や葉物ばかり口に運んでいた。 「やっぱあんま食欲ない?」 「残すわけにはゆきませんから、ちゃんといただきます」 「半分くらいオレまだ腹入るよ。ダメそうだったら言って。お嬢ちゃんとはとにかく、オレとは友達なんだから」  山鳩の丸い目が少し伏せられ、そして彼は頷いた。主菜の白身魚の梅味噌、芋とこんにゃくの煮物、白飯のそれぞれが半分、咲桜のもとに回ってくる。代わりにまだ手を付けていない茶碗蒸しを渡した。彼は食事を終えるとすぐ横になった。それまでも、膳を片付けるの片付けないだのと一悶着あった。咲桜は寝ているように告げて廊下に出る。厨房に辿り着く途中で青い着流しと鉢合わせた。兄とは趣の異なる端麗な顔立ちがつまらなげに咲桜を捉え、そしてゆっくりと顔を背けた。ぎこちなく袖を振った。腕に何か抱いている。 「若旦那」  よく通った鼻梁にまで皺を寄せ、開き直ったように袖を下ろす。二度も屋敷に侵入した猫を抱えている。 「なんだ」 「別に、何でもねぇです」 「雑用くらい下人にやらせろ」  猫の目だけは見えなくなるまで咲桜を見ていた。 「あんま体調良くないみたいなんで、いじめないでくだせぇ。あと猫は屋敷に入れちゃまずいっすよ」  すでに目の前に次男坊はいなかった。咲桜は溜息を吐いて膳を片付け、火子の部屋に戻った。病人が寝ているはずの布団が平たくなっている。咲桜は掛布団を捲った。敷布団と枕だけがそこにある。 「山鳩クン?」  目に入る家具、道具を開け、動かし、隙間を覗いた。文机の下、箪笥の裏、抽斗(ひきだし)と棚の狭間、金魚鉢の陰、天袋、地袋、奥の部屋にもいなかった。 「山鳩ク~ン」  やはり彼はいなかった。 「山鳩クンや~い」  とうとう咲桜は散らかしたい放題散らかして片付けもせずに部屋を飛び出した。巴炎の部屋に断りも入れず乱入する。養女と何やら堅い話をしているようだったがまったく気にも留めずに山鳩が来ていないか訊ねた。 「彼が居なくなってしまったのかい?」 「そうなんですよ、旦那!ちょっと目を離したら……まさかどこか行っちまうなんて思いもしなくて。すんません。居なきゃ居ないで、オレが探してくるんで」 「いいや、気にしないでくれたまえ。しかしすまないね、家のことを任せてしまって…」 「いんや、山鳩クン探すのシュミなんで!」  潔い音をたて咲桜は襖を閉めた。 「陸前先生」  父親の前では畏まり、そして猫を被った態度に改めた火子が呼び止める。もう一度襖を開き、中を覗く。彼女もそうしようとしていたらしく、眼前にいた。 「叔父兄様のところじゃありませんか。そろそろ、叔父兄様のご入浴の時間ですから」 「そっか!ありがと。ちょっと見てく、る、?」  言い終わる前に背を向けた途端、襖から伸びてきた手に衣類を引っ張られ、抑揚がなくなった。 「行ってはなりませんの!」 「だぁいじょぶだよ。男同士、ぶら下げてるものくらい何も恥ずかしくない」 「まぁ!下品ですわ!とにかく、行かないこと!というかあなたも一緒に正座なさいな!」  そのまま火子に中へ連れ戻され、膝を叩かれながら巴炎を前に座った。胡座をかくと小突かれる。苦笑とともに胡座のままでいいと屋敷の主人は言った。 「随分と打ち解けたようだ。嬉しいよ」  穏やかに彼は娘を見ながら白い歯を見せ微笑する。 「打ち解けたというよりは尻に敷かれてるんですな。強い女はいいですよ、どこの地方(くに)でも、カカア天下(でんか)家庭(いえ)はまぁ円満(ながい)ですから。これは確かです。旦那の育て方がいいんですかね。それはそれとして、オレは山鳩クンが気になるんですが…そう、つまり、忙しいんですよ」  巴炎は悪い顔はしなかった。いつまでも口角は上がり、頬は緩んでいる。 「ああ、そのことなら、もう我が家のように探し回ってくれて構わないよ。少し心配ではあるが、私も探すと屋敷全体が萎縮してしまう。火子もお手伝いして差し上げなさい」 「いや、いいです。オレが見つけますんで。じゃ、邪魔して悪かったんな」  隣で渋い顔をしている火子を一瞥し、咲桜は次男坊の部屋を経由して風呂場の方向を探した。

ともだちにシェアしよう!