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第5話
風呂場に着く前に使用人たちが蒼褪め、通路に立ち竦んでいるのが見えた。咲桜は反対方向から来る次男坊に気付く。彼は全裸で、同じく拭布に包まれただけの山鳩を抱えている。通ったところにはナメクジのように痕がついていった。しなやかな脚から水が落ちていく。濡れた髪が陰険な美貌に妖艶な色を加えている。
「若旦那」
咲桜は道を塞いだ。山鳩は動かず、目を閉じていた。口元が汚れている。雑に拭われたのか頬にまで嘔吐の跡が広がっている。
「寝かせておけ」
両腕を差し出す前に次男坊は意識のない下人を押し付けた。1人裸であることに何の羞恥もみせず、その姿も肉体もひどく美しかった。咲桜は少年の重さを受け止めた。
「湯伽が要るならオレ行きますよ、若旦那」
脹脛から水滴を垂らすのも、絶景を目にするのと同じ感慨があった。野州山辺の次男は足を止めたが振り返りもしなかった。山鳩は巴炎の部屋に運ばれる。火子の部屋とは違い、巴炎は大体部屋から出ず、誰かしらの出入りがある。案の定、部屋の主人とその養女がいた。2人は目を丸くした。
「悪いんすけど、預かっててくれます?オレ、若旦那にお呼ばれしちゃったんですよ」
「お呼ばれって、アナタ…」
火子が先に口を開いた。巴炎はまるで赤児を抱きたがるような手付きで腕を前に出し、咲桜はそこに山鳩を預けた。かなり慣れた様子で巴炎は下人に抱き上げる。火子が横から手を出した。
「お前では支えきれないよ」
父親に優しく諭されると彼女は素直だった。すぐ近くを通った使用人に布団を敷くよう言い付け、着替えを取りに行った。巴炎は己の衣が濡れるのも構わずに山鳩の肌を摩った。
「お願いします」
「任せてくれたまえ。むしろ、すまないね。弟と仲良くしてくれるよう頼むよ」
本当に病人を赤児と勘違いしているのか彼は身体を揺らした。
「ボキ側としてはそうしたいんんですがね!じゃ!」
咲桜は頭から2本指を立てた手を弾けさせ、また風呂場に飛んでいった。湯の叩き付けられる音がする。やはり次男は全裸を恥じらうこともなかった。堂々とした出立ちはむしろ見るものに見るもの自身の羞恥を煽り、着衣しているほうが恥ずべきこととすら思わせた。咲桜も例に漏れずだった。服を脱ぐか否か迷い、結局脱がぬままだった。
「若旦那。お兄様から仲良くするよう言われましたよ、お兄様から。お兄様公認の仲になりましょうや」
鍛えられた裸体は肩に湯を打ち、湯殿に入っていく。ひとつひとつの仕草が優雅だった。彼は咲桜にまったく気付いていないのか、ちらりともしなかった。
「しっかし、若旦那もお優しいところがあるんですな。まさか、ご自分で山鳩クンを抱き上げていらっしゃるなんて!」
咲桜は無愛想な男の傍に寄った。手桶で湯を掬い、白い肩に掛けていく。彼は一瞬だけ切れの長い目を流して寄越した。
「あの山犬がそこに吐いた」
「やっぱ吐いちゃってたかー。食欲ないって言ってたんですよ。でも残せないって無理矢理食べて、すぐ風呂でしょー?そりゃ、吐きますって」
袖を濡らしながら咲桜は湯を掛け続けた。上唇と下唇を縫い合わされているのかと思うほど静かな野州山辺の次男は逃げるように咲桜の手の届かない場所まで行ってしまった。
「手前の体調管理もまともにできない犬畜生なんぞは解雇だ。言っておけ」
「えっ!」
咲桜は下顎を突き出して戯けた。大型のカエルが踏まれたような声を出す。
「じゃ、使用人辞めたらさ、オレ、山鳩クンとお友達になれるじゃん。居づらくなって里降りちゃうかな?里降りたら仕事もいっぱいあるしなぁ。山鳩クン、近代髪結いとか似合いそうだな。喫茶店 の店員さんとか?やっぱここでの経験活かしてまた庭番とかになるんかな?」
使用人が洒落た街に出て行く様を想像した。返事は期待していなかった。そしてやはり湯の音しかなかった。それでいて昏い麗眼は咲桜を睨み付けている。手桶に掬った湯のやり場に困ったまま咲桜は片方の口角を吊り上げた。
「じゃ、解雇通告しておきま~す。いつ言おうかな?言いづらいことだし。一緒に寝てる時に言っちゃおっかな。飯食ってるときがいっかな~。いつ言うのがいいですかね、若旦那。オレ、そんな解雇、解雇、解雇!ってやれる立場になったことないんですよ。だから、どういう場面でやりゃいいのか、皆目見当もつかなくて!」
がはは、とついでにわざとらしく哄笑する。
「そんな解雇通告の線引きがあるだなんて解雇通告慣れしてるんでしょう?若旦那。どんなときに言うのが一番なんです?え、若旦那!」
温くなった手桶の湯をそのまま湯船に流す。返答はない。
「さぁてと、じゃ、もういいですね?まだ湯伽が要りますか」
「要らない」
咲桜は手を打ち鳴らす。
「じゃ、解雇!って言ってきますね。いつくらいまでに出て行かせるのがいいです?」
「明日の朝」
「鬼畜~」
咲桜は口笛を吹いた。次男のことなど忘れたように風呂場を後にする。巴炎の部屋に帰り、服を着せられ寝ている山鳩の傍に膝をつく。部屋の主人も咲桜の反対側で彼の寝顔を眺めていた。火子の姿はない。
「若旦那、解雇しろって言うんですよ。旦那はどうします。解雇、しますか」
穏やかな雰囲気は相変わらずだったが彼は難しげな表情を浮かべ、下人から顔を上げた。一度咲桜のことを見て、宙を仰ぐ。
「私としては辞めさせるつもりはないけれどね……彼を連れてきたのは、確か弟だと記憶しているから………」
彼は弟とは違う肉厚な手で眉間や額を撫でた。
「気紛れな解雇じゃないみたいなんですよ、ちゃんと規定だの線引きだのがあるみたいで。気紛れな解雇じゃないとしたら、これはきっと順当な解雇なんですよ。そこで提案なんですけど、オレ、助手が欲しかったんです。火子お嬢さんの出来が良すぎて、オレの仕事がまぁ間に合わない。旦那……働き者の過重労働のワタクシめに助手をば………助手をば!ついでに読み書きも教えれば、書簡屋さんができますよ!」
屋敷の主は腕を組む。好感触なのが空気で分かった。咲桜は布団があることも見えずもう半歩前に出た。
「魅力的な話ではある。ただ……弟が何と言うか………」
「若旦那?若旦那は関係ありませんがね。関係あるんです?と、すればどのように」
「いいや……まったくの私事 で……分かった。前向きに考えておこう」
「明日の朝には出て行けっておっしゃるんですよ、若旦那は。こんな病人に」
話している最中に火子が水を持って戻ってきた。静かに襖を閉める。咲桜に苦い表情が滲んだ。
「とりあえず、弟が何か言っても、明日の朝は早いだろう。良くなるまでここにいるといい……この部屋だと………少し都合が悪いな」
「あたくしの部屋になさればいいです。あたくしのお部屋なら叔父兄様も訪れたりしませんから」
「じゃ、一応の宿は決まり~っと。やりぃ。それじゃあ連れて行きます。すみませんでしたね、お取り込み中に。若旦那のココロはがっちり掴んだので、大丈夫ですよ旦那!」
咲桜は山鳩を抱き起した。水を飲ませる。嚥下されず口の端から垂れていく。4回ほど口移しで水分を摂らせた。彼は目覚めない。抱き上げると巴炎が手伝い、病人の腕が首元に回される。
「じゃ、お嬢ちゃん。奥の部屋また借りるから」
叔父兄様は義姪の部屋に寄らないらしかったが、彼女の部屋のに向かう途中で鼠色の浴衣を着た野州山辺の次男がいた。壁に背を預け、待ち構えているといった様相だった。
「湯冷めしちまいますよ、若旦那」
「解雇の通知はしたのか」
「焦らないでください。ついさっき言われたばかりじゃないですか。もう忘れたんで?それにまだ起きてません」
「叩き起こしてさっさと伝えろ」
次男坊は鼻先を横に滑らせ、壁から背を剥がした。咲桜は横に避けた。脇を彼が通り抜ける。薬湯の匂いがした。
「本当にいいんです?若旦那が連れてきたそうじゃないですか。え?」
「発情期の猫みたいに屋敷の前でうるさかった」
「ふぅん、そうなんですね。おやすみなさいまし、若旦那。寝るときは腹部 はしまってくださいね」
敷いたままの布団に彼を横たえた。隣で肘を突いて咲桜も寝そべった。そしてそのまま風呂も入らず眠ってしまう。柔らかな布の感触で微睡んでいたことに気付いた。
「お風呂くらい入ってから寝なさいな。あたくしが看てます」
「ごめん、オレ寝てた?」
「寝ていたように見えましたけれど。気絶でもしてらしたの?」
「いやフツーに寝てた」
上体を起こした途端に火子は入浴道具一式を彼に渡した。
「早く入ってきてくださいな。お父様が待っています」
「お、お父様?また旦那と入るの?ゆっくり入らせてくれよ……」
「文句言わないっ」
部屋を出ると、巴炎が待っていた。娘の家庭教師の姿に彼は朗らかな微笑を深める。使用人の容体を訊ねられる。
「寝てりゃ治りますよ、多分。明日には元気な顔見れるといいんですがね。しかし、明日元気になられちまうと山鳩クンに会えなくなっちまいますからね。それは悲しいな、ええ。なんたって、友達ですからね」
「友達……か。陸前高田くん」
巴炎が止まり、遅れて咲桜も止まった。畏まった空気と表情に、首を傾げて話を促す。
「私とも、友達になってくれないか。恥ずかしい話だが、私は生まれてからこの年齢 になるまで友人というものがいない。弟とも良好な関係は気付けなかった」
「旦那。旦那は旦那です。旦那は友達だ~なんて言ったら火子お嬢さんに怒られちまいますよ!」
厚みのある唇は苦々しく笑んだ。弱々しさがある。
「そうか。妙なことを言った。忘れて欲しい」
「忘れないです。旦那は旦那ですからね。火子お嬢さんに怒られない程度に話してくださいや」
彼はこくりと頷いた。その様が咲桜には少し意外に映る。
風呂は温くなっていた。また上 せたりはしそうにない。次男坊から薫った薄緑に濁る薬湯に彼等は浸かり、特にこれという会話はなかった。咲桜のほうでも沈黙に甘え、話題を探すことしない。
「村の外はどんなところなんだい」
抽象的で大規模な問いにすぐ答えることはできなかった。この村ほどではないが寂れた村や、空が狭くなるほど高い建物ばかり並ぶ街もある。
「もうちょっと、個人の自由というものがありますよ。あいつ知らないヤツだ!殴れ~みたいなのはありませんでした」
「そういう目に遭ったのかい」
「山の麓にある町と、ここでもありましたね。人も野生的でいいんじゃないですか」
「ああ、すまない。村人を代表して私から謝ろう」
「やっぱ旦那が村長なんですね。村一番の屋敷ですもんね。若いのに凄いですなぁ」
咲桜は指先で拍手した。湯が小さな波を作る。
「村長というものはこの村にはない。ただ野州山辺の長男だから、私が村の代表ということになる。若輩者だ。陸前先生、何かおかしなところがあれば、ぜひともお教えください」
「この村でのおかしさとボキの思うおかしさは違いますからね!こっちが郷に従うつもりでさ。さてさてさてそろそろ出ませんか」
「そうだね。火子を待たせてしまう。少し湯が温いから温め直したい」
「ああ、それならやっておきますよ。旦那がやることじゃないですからね」
「あ、いいや、そういうつもりでは……」
巴炎は眉を上げた。咲桜は雑に身体と髪を拭くと急いで着替えて外に回った。屋敷の主はそれを唖然と見ていた。外の風は心地良かった。夜は涼しさがある。満天の星空が真上を占め、炙られるのも気持ち良い。薪を焼べ、揺らめく緋色に暫く当たっていた。不思議とこの村のことは考えなかった。生まれ故郷、家族、軍役、ここに来る前に関わった者たちのことが思い出される。それから懐古に満足し、部屋に戻った。火子は山鳩の傍に座っていた。彼の手を握っていたらしく、彼女は飛び上がった。
「風呂熱いから、気を付けやっせ」
「まぁ、心配してくださっているの?ありがとう」
「2人も看病できないもんオレ。湯中り起こしたらお嬢ちゃんはお父様に預けるからな」
火子は顔を赤くして、怒ったように出て行ってしまった。彼女の握っていたところに咲桜も手を重ねる。あまり体温を感じられなかった。やがて薄らと目が開いた。一瞬で慌てた顔をして起き上がりかけ、咲桜の腕に倒れた。
「慌てない」
「ごめんなさい。あの、若様は……」
取って付けたような詫びを言って山鳩は懲りずに急いた。再び押さえる。
「若様は1人でお風呂入れるし、もう寝てるんじゃない?」
「あ、あ……若様のところに行かないと!若様のところに、行かせてください…」
「もう寝てるよ、きっと。どうしてもって言うならオレもついてく」
大きな目が咲桜を覗き込む。鏡のようだった。何も後ろめたいことはなかったつもりだが、後ろめたいものを感じてしまう。
「若様、きっと怒っていらっしゃいます……」
「怒ってないでしょ。山鳩クン運んできたの若旦那よ~?」
「でも、おで……若様のお手も汚してしまいました。それに……」
「大丈夫。大丈夫、大丈夫。若様だってガキじゃないんだ。人間の体調不良ってものに融通くらい利かせるさ」
実際に言われたこととは違うことを咲桜の口は悪怯れもせず作っていく。
「若様のところに、行きます。まだ仕事、残ってますから…」
「じゃ、オレついていくからね」
小さい顔がこくりと落ちた。もう二口ほど水を飲ませてから次男の部屋に向かう。襖の柄はちぐはぐだった。中では青藍 が煙管 を吹かしている。入室の許可が降りて早々に山鳩は畳に両手両膝額を擦り付けた。
「申し訳ございませんでした」
青藍は明後日の方を向き、紫煙を燻らせる。咲桜は通路で待っていたが、中に入った。
「ちょっとちょっとちょっと、山鳩クン?」
「申し訳ございませんでした…」
日に焼けた手が震えている。彼の肩を起こそう掴みながら、咲桜は青藍を睨んだ。
「お前みたいな使えないバカ犬は要らない。暇をやる」
「………若様…」
「明日の朝には出て行け」
「若様………ごめんなさい。次こそは、次こそは、ちゃんとしますから、」
次男は使用人を一切見ようとはしなかった。意地でも見ようとしない。他に見るものがなくても絶対に見まいという強い意志を感じる。
「次は、次はと何度目だ。お前はいつもヨガり狂って、勝手に気をやるだけではなく務めも果たさない」
畳に置かれた手を咲桜は拾った。両手を掴む。彼の視界を塞ぎ、次男坊を隠してしまった。
「でさ、一旦辞めてオレの助手になんない?読み書き教えるし。旦那も多分良いって言うよ。オレと一緒に書簡屋さんやろう!うん、いいね。村の人たちの言うことを紙に書いて、山の下の人たちに届けるの!そしたら余った作物なんかを買い取ってもらったりさ、物々交換とかね!」
激しい困惑が使用人の中に窺えた。
「でも……」
「だって辞めろ!って言ってるよ若旦那。解雇されちゃ仕方ないよ。明日の朝には出てけってことは夜には荷物纏めなきゃだよ、これから。行こうよ、オレと。行こうよっていうかこのお屋敷に居るのは変わらないんだけどさ」
山鳩は目だけしか動かせないようだった。咲桜の奥の野州山辺の次男へ恐る恐る視線を滑らせる。
「誰にでも尻尾を振る野犬め!どこへでも行け!」
次男が怒鳴った。飛んできた煙管から山鳩を庇う。畳に灰を散らかして転がった。
「ほらほら若様も良いってさ」
「ワタクシは……若様の下男ですから………あの、陸前高田様、あの…」
「でも解雇されてんの!分かってる?解雇だって。もうここに仕事ないの!お、し、ご、と、ないの」
ガラス玉に似た目が泳いだ。
「ひとつだけ、お前みたいな犬畜生にでもできる仕事を最後にくれてやる」
咲桜は横から茶化した。
「今日も夜伽をしろ。完璧にこなせたら、考えてやる」
軍役にも夜伽と呼ばれる任務があった。つまり夜間警備だ。青藍は何かから狙われているらしい。おそらく、ネズミか、幽霊だ。
「な~んだ。山鳩クンと寝ようと思ったのに。残念。じゃ、おやすみ」
姪の部屋から借りた襖を閉め、咲桜は部屋に戻った。
◇
朝は心地良かった。まだ寝ている火子を跨いで庭に出る。快眠はむしろ寝ていないのかと思うほど眠気のない軽やかさだった。手入れのされた庭木を眺め、赤い欄干のある丸みを持った小型の橋の上で朝日を浴びた。聴覚が機能していないのかと疑ったが、遠くで獣の鳴き声がした。屋敷に戻ろうと振り返る。音もなく、目の前に人影がある。
「ぅわびっくりした」
「おはよう、陸前先生」
気持ちの良い低音の声は寝起きを思わせなかった。巴炎だ。白い肌は朝の光を吸ったようだった。
「旦那ぁ、びっくりしましたよ。朝、早いんですね」
「こう晴れた朝が好きでね。ところで、昨日の問題はどうなっただろう?」
「あ~、山鳩クンは若旦那のところに戻りたいと言っていましたんで、若旦那と居ますよ。若旦那が夜間警備を命じたんですからね。夜間警備を!つまり、幽霊ですよ、妖怪です。猫叉 だと思いますね、あれだけ猫を外に出すんだから」
咲桜は広すぎる庭を練り歩いた。屋敷の主人も付いてくる。しかしまるで彼が客人のような控えめな態度だった。
「猫触りたいんですが、猫居ませんかね」
「あまり見ないな。陸前先生は猫がお好きか」
「そうですな、好きです」
隅々を見渡しながら答えた。猫の姿はない。裏庭には白洲があった。気紛れな探検に家主も付き合う。
「陸前先生…」
彼は呼ばれたことには気付いていたが、それよりも荷物を背負った山鳩が縁側から身を小さくして出てくるのが見え、それに気が取られた。足音の砂利を鳴らして駆け寄る。少年は朗らかな朝にそぐわない、鬱 いだ顔をしていた。咲桜に戸惑いを見せ、後からやってくる家主に深々と頭を下げる。
「お世話になりました」
「なんで出て行くの?夜伽ダメだった?」
「その……おそらくは」
俯きながら呟くようにぼそぼそと山鳩は話した。
「お屋形様、本当に、本当におでみたいなのを雇ってくだすって、ありがとうございました」
「待ちたまえ。これからどうするんだい?陸前先生とお話があるのではないのかね」
「そうそう。オレの助手になるって話」
忘れかけていたでまかせを慌てて繕った。少年は首を振る。同時に玄関の引戸がカラカラと軋み、出てくる者があった。鼠色の浴衣に兄とは正反対な髪質の美男子は真っ直ぐ今日付で解雇される下男のもとにやってきて、彼の首根っこを捕まえて無言のまま、誰とも目を合わせることなく屋敷の中に引き摺っていってしまった。
「火子を娘に迎え入れたとき……彼だったのかな。とにかく屋敷の外からずっと呼ぶ声が聞こえたり、門の前で待ち構えたりしている子供がいてね。色々、山の物を持ってきてくれるんだ。栗や、川魚、紅葉とか、様々だった。縁組みしたばかりで火子も不安定な時期だったから、一目も会わせてやることができなかった。2人には可哀想なことをした。それで、見るに見かねた弟が使用人として雇うだなんて言い出したから、私は驚いてしまったな。しまいには、一緒に寝たり一緒に風呂にも入るというからもっと驚いた。弟は昔から人間嫌いで……陸前先生にも失礼な態度があっただろう。その点についても兄の私から謝らせてほしい」
「あやややや、いいんですよ!山鳩クンの話だけで、オレ、めちゃくちゃ感動しましたから!すごくいい子じゃん、山鳩クン。意外と優しいんじゃん、あの人。火子お嬢ちゃんも、大変だったんだなぁ」
咲桜は肘に目元を埋めて大袈裟に泣いてみせる。
「旦那も大変だったでしょ。お嬢ちゃんのこと、弟のこと、村のこと、悩みは尽きないでしょうに」
袖を下ろすと、惑う瞳とぶつかった。何か狼狽するような仕草で愛嬌のある唇が軽く開いている。
「旦那?」
「陸前先生」
様子がおかしい。一度呼ぶと目が合ったまま離れなかった。厚みと温かみのある手が咲桜の筋張った手を取る。異様な空気に変わったのを肌で感じる。しかし不気味なものとは違っていた。
「どうしたんで?」
「貴方とは……仲良くありたいと思って」
照れ臭そうに巴炎は笑み、滑らせるように首を曲げた。手も解放される。体温が絡み付いている。妙な気恥ずかしさに襲われた。声が上擦る。
「なんでです、喧嘩しそうな感じでもあるんですか。お家騒動的な?」
「いいや、無いよ。そうではなく…………」
「ま、あったとしてもオレは旦那につくんで安心してくだせぇ。山鳩クンが若旦那 についても、オレは旦那の側 でいます。何てたって、屋敷の主人で雇主も同然ですからね!」
弟とは違い幅のある二重瞼が狭まった。しかし咲桜の言葉を聞いているうちに目を伏せ、苦笑に変わる。
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