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第8話

鬼雀茶(きがらちゃ)衆って、何」  咲桜(さくら)は戸惑っている巴炎(ともえ)に気付いていたが見ないふりをした。 「さっき叔父兄(おじにい)様と一緒にいたでしょ。あの人」  火子(あかね)の態度には父を前にしてもまだ険しさが残る。 「あ~、あの兄ちゃんか」  川まで水浴びに行くのを巴炎は見送った。鬼雀茶衆というものの姿はどこにもない。 「あの滝は事故が多い。口煩いようだが、気を付けてほしい」 「ほーい。危険なことはしませんよ。ちょっと汗を流すだけでさ。ところで例の蕎麦殼(そばがら)なんちゃらってのはどこにいるんです」 「すでに君の後ろにいるよ。頼んだよ、稲城(いなぎ)くん。彼は私の大切な客人だからね………いいや、私の大切な客人なのはそうなのだが、火子の、大切な先生だから……」  巴炎は目を泳がせた。堂々とした外観とは合わない弱々しい仕草だった。しかしそれよりも咲桜は音も気配もなく半歩斜め後ろにいる軽装の人物に興味を惹かれた。袖のない服装で二の腕の筋肉がよく発達し、口覆はなかったが長い襟巻きを首に掛けていた。触書にあるような頭巾はなく、鉢金が巻いてある。朽葉色よりわずかに赤みのある茶髪がよく目立つ。野州山辺(やしゅうやまべ)の次男と似た系統の線の細い美しい顔立ちをしていたが、下がった眉や口角が気弱な印象を与えた。目元と頬、口に痣がある。 「よろしく、ウナギくん?たっけ?」 「稲城長沼(いなぎながぬま)7代目緑紫逢(ろくしょう)と申します」  自信の無さげな顔立ちの軽装の青年が喋った。話し方はこれという特徴もない。 「じゃあ6代目もいんの?」 「はい」 「6代目の名前なんつーの?」 「6代目緑紫逢(ろくしょう)です」  咲桜は半分笑った。巴炎に雑な挨拶をして川へと向かう。足音ひとつなかった。小石を転がす音も、枝を踏む音も、衣類の擦れる音もない。しかし振り返ればついてきている。襟巻きに痣のある口元を埋め、振り向くたびに目が合った。頬の傷が痛々しく目に入る。 「後ろから襲われそうで怖いんですけれども」  髪と同じ色の薄い目が横に滑った。眦の近くにある痣は新しい。 「若旦那に暗殺しろ、とか命じられてませんよねぇ?まさか」  返事はなかった。図星だったとしても否定されなければ気に掛かる。 「お屋形様からは陸前高田様をお守りするよう仰せつかっております」 「若旦那の件、否定してよ」 「山鳩さんが陸前高田様を選んだ際には両者を消すようにと」 「何でも喋るじゃん。誰かに(ボコ)られるんじゃない?」  鬼雀茶衆の6代目とかいった青年は顔を逸らした。 「旦那はぶん殴らなそう。優しそうだし。あれで意外と裏で殴るんかな?お嬢ちゃん?そういうシュミあっても別に意外じゃないな。お兄さんのこと、鴨居に縛り上げて、ぺしんぺしんってね」  彼は答えなかった。冗談のつもりだったが嗜虐心を煽る哀れっぽい目をして緑紫逢という素破は俯いた。 「じゃ、若旦那だな」  また咲桜の独り言になってしまった。 「なんだかなぁ……そういう暴力もやっちゃうんだ、あの人」  それからは無言だった。1人で歩いているような心地がした。川が見えてくると身に付けているものをすべて脱ぎ捨てた。 ◇  川の水が冷たかったのか、乾布を忘れて涼しい中に濡れっ放しでいたためか、はたまた短時間の急激な発汗があったためなのか、咲桜は帰宅早々にくしゃみをした。何人か村人らしき者たちが屋敷を出入りしていた。鼻を啜ると着替えを持たずに出掛けて上半身裸のままの彼に羽織が被さった。 「おかえりなさい陸前くん」  耳に好い声は屋敷の主だった。咲桜は羽織を脱ぐ。 「悪いですよ、旦那」 「くしゃみをしていた。部屋に着くまで羽織っているといい。今年の夏は過ごしやすいな…………涼しくて」  厚い手が布越しに咲桜の肩を軽く叩いた。そして彼は屋敷の奥に踵を返す。まるでここまで来たことに用はなかった、否、咲桜を迎えるためだけに来たといった様子だった。羽織を肩に掛けたまま首を捻る。野州山辺の当主から一枚衣を剥ぎ取ったとなれば火子は憤慨するだろう。巴炎の厚意を肩に放置し、自室とは言い切れない自室に戻る。実質の部屋の主はいなかった。上質な生地を畳に落とし久々に服を着た気分だった。暫く座って温順(おとな)しくしていたが火子の姿が見えないことに落ち着かず、縁側に移り猫と戯れる。使用人が行き来することに安堵する。山鳩を抱いたことも火子と押し入れで見たものも、すべて夢の中での出来事のような気がした。そういうことにしておかなければ、素朴で健やかな少年とはもう会えないような気になる。溜息をひとつ吐いた。庭木は美しく整えられ、雑草を許さない玉砂利の敷かれた庭も風情がある。石で囲われた池は空を映し、その下で鯉が彷徨している。いい景色だ。猫も毛艶がよく、人懐こい。器量は悪いがそこがまた愛らしい。隣に誰かが座る。鮮やかな橙の着物は火子で間違いなかった。彼女は消沈した様子で咲桜の胡座の中にいる猫を触った。 「翠鳥(みどり)に酷いことをしたもう1人の殿方って、アナタなんですの」  覇気がない。項垂れている。咲桜は空を見ていた。鳥が飛んでいる。 「そうだよ」 「どいつもこいつもあの子を嬲って………あたくし、アナタはあの子のことを大切にしてくれると思っていましたのよ」 「ごめんね、裏切っちゃって」  肩が重くなる。少女は頭部を咲桜に(もた)せ掛けた。怒りや失望を孕んでもいない、すでに書かれた文を読み上げるような調子だった。 「あたくしの所為であの子は叔父兄様に目を付けられて、奴隷みたいに暮らしてるのだわ。まだ小さい頃、軍警を夢見ていたのに、あの子は」  彼女は眠げに目を擦る。 「あたくし、アナタは……アナタのことは信じていたのに」  それでいて火子は咲桜を突っ撥ねたりすることはなく、目元を頻りに触りながらも彼の肩口を借りていた。軒下から何か落下した。咲桜は表には出なかったが少なからず驚いた。肩で凭れている火子は微動だにしない。落下物は人だった。野州山辺家の忍びだが、今はその身形をしていなかった。今風の若者といった具合の小袖に裁付(たっつけ)袴を履いていた。私服だと若く見える。彼はまた新しい生傷を携えていた。 「陸前高田様は山鳩さんを嬲ったりはしていません」  火子は動かない。 「おっと……?もしかして覗かれてた?迂闊だったわ」  咲桜は苦笑した。周りのことに気を配っている余裕などなかった。終わった後でもそう思えた。ただ山鳩の媚態を貪るのに夢中で、その時の感覚は生々しく身体中に残っている。強く握り合った指先にも幻覚に似た熱が絡んでいる。 「若様は陸前高田様を忌み嫌っておいでです」 「黙りなさい。ごろつき風情が野州山辺の客人になんて口を利くの」  火子は疲れを隠さなかった。心にもないことを立場をまっとうするために並べ立てている。 「若様は陸前高田様をお試しになった」 「また(ボコ)られるよ。男前がまぁ…オレには負けるけど」 「下がりなさい」  火子は無感動に、怒気を孕むこともなく吐き捨てた。困り顔の忍びは頭を下げて命令に従った。 「ごめんくださいな。野州山辺の者としてあたくしから謝ります」 「いやいいよ。別に気にしてないし」 「してますでしょ。そういうカオをしてました」 「いい男は横顔で語っちまうからな」  火子は自らの力で上体を起こす。 「オレが山鳩クンに関わるほど山鳩クンが君の叔父兄さんに執着されて、あの兄ちゃんがいじめられんの?」 「あの鬼雀茶(きがらちゃ)衆が叔父兄様に殴られているのは前からです」 「旦那は何も言わないの?」  何に呆れたのか彼女は溜息を吐いた。何に呆れなくても彼女自身がひどく疲れている。 「時には見ないふりをしておいたほうがいいこともあるんです」 「そうかぁ?」 「好きであんな生傷だらけの顔を黙認しているわけじゃありません。何でも表面化してしまうのは野暮というものです。あの鬼雀茶衆のたっての願いでもあるんですからね。あたくしたちが冷徹無比の鬼の一族と見られましても」  いくらかよろめきながら火子は立ち上がった。 「布団敷いてやろうか」 「まだ寝ませんわ」 「そうかい」  華美な橙色の着物が中紅梅の部屋に入っていく。咲桜は猫を撫で回しながら、ふたたび庭を眺めた。少年は現れない。所在なく夕餉を待つ。そして頃合いをみて羽織を返しに行った。村人の姿はなく、ちょうどよい時機で、巴炎は布団座り、脚だけ入れていた。白々しさのある対応で、目は眠そうだった。 「洗うよう頼んじまっていいんですね?良さげな物でしたから、勝手に持っていくわけにもいかないと思いまして」 「ありがとう、陸前高田くん。手間を掛けさせたね」 「ついでに飯もらってこうと思ってたんで、手間ってほどじゃないですよ」  巴炎は羽織を受け取り、布団を介した膝の上で畳んだ。咲桜はそれを見下ろしていた。 「川はどうだった」 「ちょっと涼し過ぎましたかね。山下の暮らしにはいいんでしょうが、ここは元から涼しいみたいで、寒かったですわ」 「そうか」  誘いの文句を出し掛けたが、彼は村の代表として忙しいようだった。童心のあるような人物には思えない。川遊びではしゃぐ歳でもない。社交辞令の類と思われるだけだろう。結局誘わなかった。 「今度、都合がついたら是非ともご一緒したい」 「意外ですな、川遊びに興味が?」 「陸前高田くん……と川へ遊びに行けたら、楽しいだろうな」 「川遊びなんぞ、よっぽど苦手なお相手とじゃなきゃ、大体誰と行っても同じですがね」  咲桜は肩を竦めた。目的を果たして戻ろうと思っていたが、巴炎は使用人を呼ぶ鈴を鳴らして茶を2つ持って来るように言った。 「夕餉までいいかな」 「どうぞ」  他に予定もない暇な人物なのだと見透かされている感じがあった。咲桜は苦笑しながら快諾する。 「稲城くんとは何か話したのかい」 「何も。実質1人でしたね」 「そうか。妙なことを訊いた」  厚い下唇と、下唇ほど厚みはない上唇が合わさる。短い話は終わっても垂れがちな目は咲桜を見つめている。まだ話したいことがあるらしかった。互いに無言に耽っているうちに使用人が茶を持ってきた。咲桜は使用人を呼び止め、夕餉の進捗を訊ねた。巴炎からの視線が痛い。毛穴という毛穴まで見られている。そして目が合っても、彼は穏やかに笑うだけなのだ。 「旦那……恥ずかしいですよ。そんな見ないでくださいや」  熱い茶に警戒しながら湯呑を傾ける手が震えた。舌先の火傷が苦手だった。しかしそれまで凝視、観察、監視、見澄まされるのは耐えかねた。湯呑を握ったまま熱心な視線を送る大男は硬直している。 「あ、ああ、す、すまない。そんなに、見ていただろうか。申し訳ない。そんなつもりは、なかった」  しどろもどろになりがら巴炎は普段の落ち着いた様子を失して弁解する。 「そ、その、昼間に具合が悪そうで……心配になってしまった。元気そうだよかったと……」 「そういうことですか。ご心配をおかけしました。このとおり、元気です。悪いものでも食べ……飲んだんですよ。そう、悪いものを、飲んじまったんです」 「………弟、だね?」  咲桜は指を鳴らした。そして肯定する。 「まず、私から謝ろう」 「いいや、いいです。ただ若旦那はちょっと不安定みたいですな」  結局湯呑に顔を近付けたが温度を警戒して少しも口に入れることができなかった。 「お恥ずかしい話だが、否定できない」  咲桜はふと襖や押し入れを振り返り、天井を見上げた。壁も余すことなく見回す。 「潜んでいたりするんです?何でしたっけ、蕎麦殻なんちゃら…」 「鬼雀茶(きがらちゃ)衆ですな」 「それです。男前を痛め付ける趣味があるとなると、オレも身の危険を感じてしまいますよ」  茶に息を吹きかける。飲み口を近付け、しかし覚悟が持てず下ろした。炊き立ての米も土瓶蒸しも、ある程度冷えるまで食えなかった。 「弟は稲城くんの……何かが気に入らない」 「他の人にはしないんです?若旦那の身内にする話ではありませんが、使用人を押飛(おっと)ばしたりとかは?」 「無い。そもそも……弟はあまり他人に興味がないみたいなんだ。外の者を連れて来たとして、それに不快を示せど、自ら行動してまで迫害しようとするほどの活発さはない。陸前高田くんと折り合うのは難しいと思っていたが、まさか毒を盛るほどとは……」  ほぼ同じ温度のはずだが、彼は茶を啜った。他人の湯呑は冷えて見える。 「とすると、オレと蕎麦殻なんちゃら集団のあの鰻大沼くんとかいうのがオカシイんですね?」 「おかしいとまでは言えないが………そうですな」  巴炎の熱烈な視線が和らぎやっと一口茶を飲んだ。火傷を負うことはなかったが熱かった。喉が洗われるようだった。 「何をそこまで嫌われちまったんでしょう」  苦笑して濁す。原因は分かりきっていた。山鳩だ。しかし嗜虐心を煽る顔をした素破が何故殴られるのかまでは分からない。 「申し訳ない。こんなことになって好い思いをするはずがない」 「いいですって。旦那もお嬢さんも使用人も、ここん()の猫まで好くしてくれるじゃありませんか。なんといっても夏なのに涼しい。飯も美味いですし」 「逆に気を遣われてしまったな」 「気を遣っただなんてそんな。本当のことですよ。ただ、鰻大沼くんのあの傷は、いただけませんな。そういうおシュミであろうとも。若旦那が、鰻大沼くんを鴨居に吊し上げて、ぺしんぺしん叩き叩かれたい関係にあっても……そうつまり、加虐願望・被虐願望の契りというやつですな」  何気ない、ただほんの少し色事を仄めかした話題で卑猥な意図のないものだったにもかかわらず、巴炎は目を丸くし、ぽてりとした唇には力がない。失敗が見て取れた。 「少し、話題が逸れて、申し訳なく思う、が………陸前高田くんは、そういった経験が………あるのだろうか?こ、れは………その、単純な興味で、いいや、参考まで、に……」  だがそれは余計な心配らしかった。厳格そうな家柄の生真面目げな当主であっても色事を匂わせる話題に十分な関心を示している。感触とは異なる非物理的なものを鷲掴みにした心地だった。 「ありませんよ、そんなシュミは。オレは至って淡白(フツー)です。つまらない話ですよ。褥で睦むのが好きです」  目に見えて巴炎の顔が赤くなる。咲桜の基準からいうと、巴炎の年齢ならば何度か女と通じていてもおかしくなかった。むしろそれが多数で、一般的だ。しかし彼に女の陰はない。養女を取ったのは不犯(ふぼん)のためかと勘繰ってしまう。村に好みの娘がいなかったのだ。そう結論付けた。 「褥で……睦むのが…」  咲桜の邪推ではすでに使用人の婦女子たちはほぼ彼の手付きとさえ踏んでいた。巴炎は顔を染めたまま俯いたかと思うと、突然湯呑を(あお)った。 「大丈夫です?旦那」 「変なことを聞いた。すまない。そんな個人的なことを……」 「話振ったのオレですからね」  袖から逞しい腕を多めに出して巴炎は自身の汗ばんだ額を拭った。その仕草に艶やかさがある。 「旦那はどうなんです?」 「わ、私かっ!私、は……わた、しは…」  襖越しに使用人が夕餉の支度を終えたことを告げた。振るだけ振ったが特に興味はなかった。巴炎のことに限らず、たとえ青藍や生傷を増やす忍びであってもその性生活に興味など持たなかっただろう。そして抱いてしまった山鳩については、考えることに後ろめたさを要した。  咲桜は夕餉というから立ち上がった。使用人は「どちらで召し上がりますか」とは問わなかった。 「陸前高田くん」  巴炎は哀れになるくらい真っ赤な顔をしていた。咳払いをしている。 「夕餉ですぜ、旦那。さ~飯、飯。腹減ったぁ」  襖に手を掛ける。 「ご一緒していいか」 「じゃあお嬢さんも呼んできます」 「あ、ああ。頼むよ。今日は少し元気が無いようだったから、そうしてほしい」  野州山辺の当主も様子がおかしかった。穴を空くほど、穴が空くだけでは済ませず抉じ開けるほど眺めていたくせ、今では畳の目でも数えているようだった。咲桜は火子を呼びに行く。彼女は文机に突っ伏していた。 「嬢ちゃん?寝てる?」 「寝てますわ」 「飯なんだけど。旦那に誘われちゃってさ。嬢ちゃんも一緒に!って言っちゃったから来てよ」  鮮やかな橙色の着物は伏せたままだった。 「(はらわた)が煮え繰り返ってますの」 「モツ煮込み?オレ味噌より鶏出汁の清汁(すましじる)がいい!」 「きっとお父様は、あなたと2人きりで召し上がりたいのよ」 「猥談しかすることないんだけど」  彼女は重げに頭を上げる。溜息が聞こえた。 「あまりお腹が減りませんの」 「お父様が心配してたけど」  火子はなおも渋った。半目で咲桜を捉えている。 「腹減りが暗い気持ちになることもあるし、今は1人になるのも毒かも知れないから、ま、とにかく飯。男2人で猥談して盛り上がったって色街もない村じゃ虚しいだけだし、なんか話聞かせてくれや」  彼女は重い腰を上げた。 「お父様には悪いけれど、本当に少し1人にしてください。人の声は耳がわんわん鳴りますわ」 「まぁ、そこまではっきり断られちゃそうするしかないわな。でもちゃんと食えな。もうムリ!って思ったらあと2口くらい多めに」 「吐くのにも体力を使うんですのよ」  火子の髪を雑に撫で、咲桜は夕餉に向かった。巴炎にどう話すか考える。叔父と幼馴染の過激な情事の音と声を彼女は近くで目の当たりにしている。彼女のそういった遍歴については想像することを躊躇ったが、咲桜の先入観からいえば、あまり色事には詳しくない、清純で淑やかな、市井の男が-否、市井の男の母親たちが(こぞ)って望むような女性像そのままだった。とすれば咲桜も鮮烈に刻み込まれたすべてに無関心げな青藍の力加減と執着心、山鳩の悲鳴と叩き出される嬌声、それらを包む打音は火子にとって重苦しい気鬱と逃がれられない虚脱の中に閉じ込めるものだったのだろう。この経緯は、まったく巴炎には無関係で、共に暮らす2人の身内が関わっているとしても、話すのは忍びない。目の前を背丈に差のある2人組が横切った。短い間だった。廊下を横断しきる直前に、腕を引かれていた山鳩が咲桜のほうを振り向いた。誰が誰なのか認識する時間も与えられない時間だった。一瞬よりも短い間、目が合った。それだけで、髪を振り喘ぐ表情や敷妙を皺だらけにして意識を手放す姿が脳裏に広がった。淹れたての茶を飲んだ時に似た熱が喉を通らず胸元に留まった。巴炎の元に戻るとすでに3膳並んでいた。使用人に話すついでに巴炎にも娘は来ないことを告げた。彼は視線を落とし、また咲桜を見た。 「酒は飲まれるか。酌をさせていただきたい」 「お酒……たまにはいいですな。少々いただきましょうかね」  落ち着かない、どこか忙しない相手との食事が始まる。箸が枝切れのように見えるほど大きな手が震えていた。病的なものというよりは(かじか)んでいるだとか、緊張しているという感じだった。咲桜も気を回そうとして、ただ料理を口に放り、咀嚼し、嚥下する作業になった。そうなると皿が空になるまでが速かった。野州山辺の当主とは合わない。互いに分かっていて彼も気を遣っている。証拠に、箸が進んでいない。火子に来てもらいたかったが叶わなかった。 「話がつまらず申し訳ない」  内面を読まれたのかと思った。繕おうとして舌を噛む。だが話が面白い、つまらないというよりも今まで会話はなかった。むしろ無言に急かされていたのだ。 「え?気にしないでくださいや、そんなこと。毎日毎食面白い!というわけにもいかんでしょうよ」 「私は、陸前高田くんと夕餉をいただけるだけで楽しいのだが、私ばかりだな。陸前高田くんに対する奉仕の心があるのは本当だ。けれど実力が伴わず申し訳ない」 「いやいや、屋敷に置いといてもらえるだけで十分ですって!ここにいれば美味い飯にも酒にもありつけますからな。そこの御大将からまだ何かいただこうなんて」  心にもないことを(おど)けて喋った。この男はここまで食べるのが遅かっただろうかと思いながら、大きな手に握られた長めの小枝と見紛う箸を見つめた。 「妙な………ことを言ったな。すまない。ところで、火子の様子はいかがだっただろう?」 「病気ではありませんな。多感な時期ですから、女子(おなご)は不意に、そりゃ曇り空から雨が降るくらい気紛れに意気消沈するものですわ。たまにはこういうこともあるのでしょう。特に、ボクが来て、環境が変わりましたからな」 「そういうものなのか。火子には悪いことをした。陸前高田くんは………女性(にょしょう)に詳しいのだな………」 「いや、詳しいというほどでは」  すべて口からでまかせだったがそれらしく聞こえたのか、それとも実際に当て嵌まるところがあったのか、反応からして謙遜と受け取られたようだった。 「陸前高田くんには女同胞(きょうだい)がいるのか」 「上に男同胞しかありません」 「そうだったのか。てっきり、火子との接し方からして妹御がいるのかとばかり…」 「お嬢さんは優秀なお人です。稚拙なボクを立てるのが上手いんですな。本当に、自慢の娘なんでしょうな!」  また巴炎はぼんやりと熱っぽい眼差しをくれた。

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