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第10話
忍びの姿はなかったが、ちりんちりんと鈴の鳴る音が聞こえた。嫌な予感がした。翠鳥 、と優しい甘やかな声が聞こえた。ちりん、ちりんと鈴が鳴っている。青藍 様、と掠れた返答が鈴の中にある。
「おいで。そんなに離れるな」
目の前の十字路から群青の着流しが見えた。やがて、村一番の美人といえばこの者しかいないというような美貌の持主が現れる。彼は咲桜 に気付いた。赤い綱が白い手から伸び、何に繋いであるのかはまだ見えない。
「おはようございます、若旦那」
末端冷え性と断定した白い足が止まり、挨拶の隙が与えられた。しかし求めているわけではないようだった。簾 のような小煩いこと間違いない前髪の奥で細い眉が意外げに動いた。ちりん、ちりんと音が近付いている。そして質の良い着物を身に纏う少年が群青の着流しにぶつかった。山鳩だ。彼の持つ泥臭い雰囲気や溌剌とした人柄を知ると雅やかなその衣は似合っていなかった。
「申し訳、ございませ…」
「いい」
山鳩は目元を布で縛られて視界を塞がれていた。野州山辺 の次男にぶつかり、その垂れた袖は少年を庇うように抱き竦める。咲桜の存在を気取 らせたくないのか、山鳩を前から、白い腕が捕まえている。溶けていくような温かみのある優しい声と、睥睨 。咲桜は片頬を吊り上げ、苦笑しているようにみえた。
「おはよう、山鳩クン」
「あ………おは、ようございます、咲桜さま」
「翠鳥」
面白いほどに次男は山鳩に構う。髪を梳き、肩に触れ、背を撫でる。
「またね」
「さくらさま、」
群青の着流しは、使用人が仕事中に着るには適していない豪奢な衣に身を包む少年を幼児の如く抱き上げてしまった。ちりん、と鈴が鳴る。
「俺以外見るな。目を潰すぞ」
意味と声音がまったく合っていない脅迫は咲桜にも届いた。
「申し訳ございませ、青藍様…」
「許そう」
「ありがたき幸せにございます」
そして2人は自分たちだけで満足して咲桜の視界を横断しきった。そのあと数十秒、1分はしなかったが、その間、何をしに来たのかも忘れていた。菓子をもらいに来たのだと思い出し、厨房で茶請け菓子をもらうと村一番の美人がいる部屋に戻った。何の話の途中だったかも分からず煎餅を齧り、春菜葉 という胡散臭さのある薄幸げな美女にどら焼きをくれた。そして彼女に土産を渡すつもりであったことをふと思い出し、煎餅を咥えて両手を打ち鳴らす。
「そうだ、おねえさんにお土産渡そうと思ってたんだった」
「わたくしはこちらのどら焼きだけで、十分でございます」
消え入りそうな儚げな声は、粗野な男たちが聞けば情欲を湧かせそうな征服してしまいたい類の色気がある。
「蕎麦殻くん、大事な時に居ないんだもんな。会わせたかったな。絶対、面白い。多分無いとは思うけど、自分に似てる男の人と会ったことある?」
髪色のよく似た女子は首を振る。
「ございません」
「あ~、2人の初対面、オレが居る時だといいな。あの人が女の人の服装 したら、絶対こうなるもん」
すぐに帰すつもりだったが、つまらない、中身のない、先立ちもしない話を咲桜はだらだらと自分が何の話をしているのか主題を忘れてしまうほどに引き延ばして喋った。この退屈な日々にほんの短かな期間で飽いてきているのかも知れない。そういう自覚のしきれない疑いが持ち上がる。春菜葉は艶めきのある声で小さく返事をする。また土産のことも忘れ海苔巻き煎餅を砕いた。割れる音が襖の音と重なった。
「不潔です!」
今共にいる女とは正反対の張りのある声が響いた。火子は襖に両手を掛け、咲桜よりも淡い色の装いをした儚げな女を睨んでいた。
「はしたない!こんなことをして。オス猫!」
そして少女はいくらか歳上の淡雪みたいな女を罵った。
「お父様から聞きましたわ。陸前先生を揶揄って悪いとは思いませんの?侮辱です!」
薄紫色の着物が深々と首 を垂れる。火子は怒鳴り散らし、女の前に立つとその胸ぐらを掴んだ。
「ごろつき風情が野州山辺の客人に、よくもこんなことができますわね!」
「ちょっと、お嬢ちゃん?どうしたのさ!」
咲桜はきぃきぃと怒っている火子と黙りこくっている春菜葉の間に割って入った。
「まだ分かりませんの?陸前先生は女みたいな見た目ならなんでもいいんですの?あの子のことも遊びだったっていうなら許しませんからね!この男みたいに!この男みたいにあの子を弄んで喜ぶ気なら!こんな女装 をして!あの子のことも弄ぶ気なんでしょう!アナタってそういう人!陸前先生に関わらないで!ごろつき風情が。アンタなんか、叔父兄様にずっと殴られていればいいんだわ!」
咲桜は村一番の美人として来ていた女を庇うようにしていたが、とうとう手を上げかねない火子の腕を掴んで2人を離させる。
「どうどう!どうどう!お嬢ちゃん!」
「大っ嫌い」
彼女は叫んだ。困り顔の女の眉がさらに困っている。
「陸前高田様……申し訳ございません」
儚げだった声が突然野太くなる。視覚情報と印象、聴覚情報に大きな差が生じた。
「えっ」
冷たく少女の目が男声の女性を見下ろす。ただ声が低いという域を越えている。さらにはその声質と特にこれという特徴のない喋り方も咲桜の疑ってかかっていた素破と同じだった。
「私 でございます。稲城長沼 7代目緑紫逢 でございます……」
「やっぱりか。すっごい似てると思った」
うっかりしていると火子の細い手が女性装をしている男の頬を張った。
「侮辱です」
「ま、まぁまぁお嬢ちゃん!確かに美人だったしさ!」
黙っていろとばかりに彼女は咲桜を睨んだ。
「お父様になんて言われましたの?」
稲城長沼は黙っていた。咲桜ははらはらしながら両者を見遣る。
「ごめんなさい、陸前先生。お父様もお父様です。どうしてこんなことを…」
「ぼかぁどうしてお嬢ちゃんがそこまで怒ってるのかが分からんね。オレがその気になって、鰻大沼くんが女の服装をしているのをその布団で手籠にでもしちゃってたら、そこで分かることでしょうよ」
「陸前先生、あなたそこでやめてくださるの?あの子とは最後までしてしまったくせに?野州山辺家がおかしくなります!おかしくなるの!叔父兄様もおかしくなって、お父様までおかしくなったわ。アナタもそうよ稲城長沼さん」
無作法に彼女は美女に扮した男の鼻先寸前に指を突き付ける。
「おかしく、なってんの?」
「叔父兄様、あの子を縛って繋いで赤児扱いよ。気が触れたんだわ」
「で、旦那もですかぃ」
火子はまた咲桜を睨み、そして仇のように稲城長沼を見下ろした。
「口が滑りました。陸前先生、忘れてくださいまし」
「オレに薬盛ったこと?村一番の美人ってのも嘘っぱちで野州山辺家ってのは客人をナメてかかりますねぇ」
少女の怒りに満ち満ちた表情が途端に消えた。無になり、無でありながらその矛先は忍びに向かう。
「村一番の美人というのは、若様のことでございます。ですが、若様が応じてくださるはずもなく、その任は私 が拝命いたしました」
「フツーは女子 連れてくるよな。女子を」
「村の娘はいけません。陸前先生を信用していないわけではありませんのよ。ただ、間違いというものがありますから。あの子と最後までしてしまったみたいに。ああ、責めているわけではありませんの。陸前先生も正気じゃなかったということくらい分かっていますから。あの子だって、野州山辺の顔を立てただけです。この男と違って」
塵芥 よりも価値のないものを見る目で彼女は言った。
「オレが山鳩クン抱いたのそんな気に入らない?ま、それはいいけど、めちゃくちゃ嫌うよね、鰻大沼くんのこと。何かあったの」
咲桜も頭を下げ続けている女装の忍びを横目で見下ろした。
「少し前に、山鳩さんを手籠めにいたしました……」
火子は冷めた視線をどこかに遠く投げた。
「好きなの?その場限りの欲求?」
「そのごろつき男に恋慕や思慕なんてものがあるはずありません。何食わぬ顔をして、まだあの子にちょっかい掛けるんです。お願いします、陸前先生。今聞いたことはくれぐれも内密に。くれぐれも。陸前先生の十指が失くなることになりましても………」
リボンと結われた栗色の髪がだらりと咲桜の前で翻った。彼女も深く頭を下げている。
「山鳩クンの名誉のためにだよ」
「お願いします」
おかしくなったという表現には意図しない意味合いが含まれてしまうが、彼女もまた野州山辺家として、おかしくなっているのを咲桜は見て取った。
「さっさと出て行きなさい、ドラ猫め」
火子は顔も見ずにぞんざいに人差し指をどこの方向ともつかぬ方角に投げた。着物を崩した女は立ち上がる。非常に背が高い。思い込みからか脂肪の少ない薄い肉体、幅のある骨格は男のもののように思えた。
「お父様のところに行きましょう」
彼女は有無を言わせなかった。咲桜は後頭部に両手を当ててついていく。
「オレなら傷付くね」
先を歩く栗毛の馬尻尾といくら黄味の入った赤いリボンが翻る。大きな目はもう怒ってはいなかったが訝っていた。
「いっくら相手が悪くても、あんなに感情的に、しかも事情も知らないヤツの前で罵られちゃ」
火子は何も言わずに前方に直った。咲桜もそれ以上は言わなかった。角 を曲がると彼女は口を開いた。
「叔父兄様が兵隊さんにとられる少し前です。あのドラ猫は翠鳥を辱めたんです。可哀想に。けれど翠鳥にはあのドラ猫しかいませんから、翠鳥は何もかも無かったことにしたんです。同等に話せるような人は……あの子はそんな手酷い扱いを受けても、あのドラ猫を許すんです。あの子が許しても、あたくしは許せません」
独り言のような一方的な口調で、興奮しているのか歩く速さも増していく。
「お兄さん」
彼女は急に止まった。咲桜は止まれずにその背中にぶつかった。
「何!」
「あのドラ猫は、あたくしの年上の甥です。あたくしの年の離れた兄の息子で………もう関係がないのですけれど。もう関係がないのですけれど、あたくし、あのドラ猫に対して少し踏み込んでしまうんです。血縁上の甘えですわ」
「はぇ~」
火子と稲城長沼を頭の中で並べてみた。顔、雰囲気、髪質、毛色、似たところはまるでない。頭の形や襟足なども似ていない。
「それを抜きにしても、あのドラ猫が翠鳥にしたことは許されませんし、許しません」
彼女は落ち着いた話し方でまた歩きはじめた。
「叔父兄様もあのドラ猫も稚児趣味なんです。信じられない。不潔ですし不純で不適切です」
「似た者2人に好かれるよなぁ。ンでお嬢ちゃんも、似た者2人と随分縁がある」
そして彼女たちは巴炎の部屋に着く。許可を取って襖を開ける。娘は故意か否か客人も一緒であることなど一言も告げなかったため、部屋の主人は彫りの深いところにある目を丸くした。
「陸前高田くん……」
「いやぁ、有り難い美人でした。具合も大変よろしく……」
火子が軽く咳払いした。巴炎はこれ以上ないくらいに戸惑いを示す。
「抱いたのかい………?彼は………」
「美人と言いましたからね。予定にはありませんでしたが、大変に美味でした」
部屋の主人は咲桜に手を伸ばしかけ、しかし座ったまま立ち上がることもできずに固まっている。意外と円みのある目が揺らぐ。
「その………何と言ったらいいか……………」
「娶っちゃぁかな」
「陸前高田くん!」
膝立ちになって巴炎は咲桜のもとに迫り、その両腕を掴んだ。
「その、ああ、彼は………男で、」
「そうでしたな」
「つまり、だから、男なのだ。中身も、身体も、男なのだ………」
「まぁ、オレはいつの間にか、村一番の美女ではなく、村一番の美人と言っていたようですからな。わざわざ女 の服装 をさせていたのは要らぬ忖度というもの」
咲桜は底意地悪くにんまりと笑った。
「陸前高田春菜葉、いいですな。悪くない。年上 女房………理想です」
「だから彼は………」
「男なのは構いませんよ。何せ美人ですからな。艶書 を認 めたくなるような。麓 の町の駐在所二夫 に世話になった時は、男2人であれまぁと思ったけんども、悪くありませんな。さぁ、結婚です。結婚しかない。二夫共々よろしくしてくれますね?贔屓に?」
嫌味を含ませず剽軽に、かえってそれが嫌味たらしいほど滑稽な調子で語ると巴炎は一言一言終えるたびに腕を引き、頑丈げな首が千切れんばかりに横に振った。
「申し訳なかった、陸前高田くん。私は君を侮ったり、貶めたりするつもりはなかった。陸前高田くん、ただ私は、いいや………君が、美女と仲睦まじく戯れているのを想像すると、急に………苦しくなってしまって、………」
「そりゃ嫉妬ですな。安心してくだせぇ、旦那はボクには負けますが素晴らしい男ぶりでさ。巷の若い娘に限らず、人妻老婆、とにかく老若に限らず持 テ囃されるのは旦那のような屈強な益荒雄 でさぁね」
咲桜の擁護を否定するでも謙遜するでもなく、それらの話を聞いていたのかも怪しいほどに巴炎は打ちのめされたような眼差しで彼を見上げる。隣に腰を下ろす火子が上からの目線を咎めるように咲桜の衣服を摘んで座るよう促す。
「陸前高田先生は、お父様の御務めをご存知ありません」
そして口を挟んだ。巴炎はまた別の狼狽と、同時に躊躇もみせた。
「あたくしから話しましょうか」
「いいや、お前の口から話すことではないよ」
「うん?」
何か父娘の間で厭な感じのする空気に変わった。
「私の務めとして………この村の女子 は、初潮を迎えたら、私と共に寝なければならない」
「あ?」
咲桜は間の抜けた顔をした。
「新しく生まれた子たちは村の子供として育てられる。父親は誰だか分からない。私の場合もあれば、私でない場合もある。ただ、初潮を迎えたら、順々に、私と契る。だから不用意に、陸前高田くんの前に村の娘を出すわけにはいかなかった。もし孕んでしまえば………陸前高田くん、君の子であってもその子は村で育てる」
巴炎の目が真剣な眼差しに変わった。咲桜は姿勢を正す。純潔的な父性をそこに感じた。子を孕ませて行方を晦 ます輩は掃いて捨てるほどいる。
「なるほど、孕ませるなと。でも旦那は随分とオレを清廉潔白な人だと思ってるみたいですな。抱くだけ抱いて孕ませて、後は知らんと知らぬ顔をして逃げることも、男はできるってのに」
「私には、それが、理解できない。自分の血を引いてる子供が、自分の与 り知らぬところで育っていくことに平然としていられる者たちのことが………」
人里離れた山の中の村の、さらに屋敷の奥深くに引き籠っているためか、擦れていない。
「市井の卑劣なろくでなしの甲斐性無しの人非人 とお父様を一緒にしないでくださるかしら」
火子はただ形式的に、一応の顔を立てるためといった冷めた声音で割り込んだ。
「なるほど、分かった。じゃ、村の子供は旦那の娘息子みたいに接すればいいんです?お嬢さんのご同胞 みたいに?」
「そこまでは、しなくていいが………火子、少し席を……」
「いやいや、ボクは、もうこれで。未来 の夫を待たせておりますからね。いやぁ、美しい細君ですよ。素敵な出逢いに感謝感激雨霰ですわ、まったく」
何か巴炎から、粘こい圧を感じる。咲桜は巴炎の手を振り解くと、父親の前にも関わらず火子の細腕に触れ、行かせないようにした。この男と2人きりになりたくない。
「陸前高田くん。すでに存じているかも知れないが、彼は稲城長沼くんで………彼にはどうやら意中の人がいるようなんだ。諦めてほしい。その………意中の人というのは、非常に言いづらいことだけれども、陸前高田くんではなく………」
「それは知ってますね。意中の人が誰で、叶わない恋路だということも知ってますよ。なんていったって、心も身体もひとつにしたんですからね。契ったんですよ。諦めるだなんてそんなそんな。旦那には是非とも背中を押してほしいものですな、オレとお春菜 さんの夫婦道というものの」
屋敷の主人は俯いた。火子も黙っている。
「稲城長沼くんを呼んで、一度3人で話し合おう」
「だめですわ、お父様。陸前先生はお父様との間に角が立たないような意趣返しをしているだけです。あの隠密と話し合う必要はございません」
「野暮なこと言うじゃん、お嬢ちゃん」
咲桜が横目で見ると、彼女はぷいと鼻先を逸らしてしまった。よりいっそう、巴炎は俯いた。
「申し訳なかった。一度ならず、二度も。こんなことを言うのも烏滸がましいとは承知の上で、これだけは分かってほしい。私は陸前高田くんを陥れたり蔑ろにしたいわけではないのだ」
「あ~、大丈夫ですよ、それなら………ああ、いや、下手なこと要求するとまた裏目に出ますね。いや、大丈夫です、大丈夫です」
咲桜はもったいぶった。泣きそうにまではなっていないが目玉をよく潤ませている男から目を放す。
「何でも、言ってくだされ。今度こそは、今度こそはやり遂げる所存……!」
「大丈夫なんです?そんな約束して」
彼はこくり、こくりと頷いた。
「山鳩クンのことなんですけどね」
火子からの圧が加わる。巴炎は眉根を寄せ、いくらか不快感らしきものを滲ませた。
「旦那が若旦那から彼を引っ剥 がして、彼を保護してください。鰻大沼くんあたりが面倒を看てくれるでしょう」
「陸前せんせ…」
火子の声には非難が混じる。
「分かった。約束しよう。すでに2度も貴方を騙した。今度こそは。二言はありませぬ」
「頼みましたよ、旦那」
「陸前高田くんは、また………私のところにお顔を出してくださるか」
「当然ですよ。オレが頼んだんですから。山鳩クンのことは」
また何か巴炎は哀れっぽく眉を顰めた。そして「じゃ!」と無礼な域に入るほどこざっぱりした挨拶を捨て咲桜は屋敷の主人の部屋を後にした。3、4歩行ってから遅れて火子もついてくる。慌しい様子で腕を掴まれる。
「どういうつもりですの!叔父兄様を刺激しないでってあたくし、申し上げました!それに、あのドラ猫にマグロでもあげるような真似!」
「ドラ猫にマグロあげるってどゆこと?」
咲桜は歩くのを止めず挑戦的な笑みを浮かべた。
「とにかく、とにかくですわ。翠鳥に何かあったらどうしますのぉ!」
彼女は地団駄を踏み、甲高く叫んだ。
「じゃ、このままでいいの?目隠しされて鈴付けられて絆綱 で繋がれてさ。このまま放っておいたら、今度は目を焼く耳を焼く、歯も舌も全部抜く!とか言い出さない?あの人のやってることは異常だもの。それくらいやるし、多分オレも拗らせたらそれくらいはやるよ。最悪――…」
「もうやめて!分かりましたわ。分かりました。手放しで黙認します!でもお願いですから、お願いです、後生ですから、翠鳥のことを守って。お兄さん、あなたの胸や腹に穴が空くことになってもですよ」
彼女は両耳を塞いで首を振った。過保護なところのあるこの娘には過激だったのかも知れない。
「でもです。でも、あの隠密は信用なりません」
「なるよ。大丈夫」
少女の背中を軽く叩いた。
この咲桜が巴炎に頼んだことで屋敷は騒然としたようだったがその首謀者同然の人物は中紅梅色の壁がある部屋で寛いでいた。陶器の割れたり、ガラスの割れたりする音や、悲鳴や怒号が壁を何枚も隔てて曇って聞こえた。目の前に忍びが降ってくる。顔には新たな殴打の痕が増え、左目はほぼ開かなくなるまでに腫れていた。
「もっとお嬢ちゃんに嫌われちゃうね」
稲城長沼は小さく会釈をした。それは首肯だったのかも知れない。
「先程、山鳩さんを保護しました」
「若旦那は」
「捕縛して、座敷牢にお運びするようお屋形様から仰せつかっております」
「……そっか」
暴力や器物破損、野州山辺の次男を座敷牢に放り込む理由はいくらでも出せる。咲桜は他人事のように天井を見上げ、稲城長沼がいることも忘れて畳に寝転んだ。
「山鳩クンの様子は」
「少々混乱している様子がみえました」
「お嬢ちゃんに嫌われる組として、仲良くやろうぜ」
忍びはまた事務的に浅く首肯したようだった。そして「わたくしは、すでに」と小さく空耳が聞こえた。
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