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第11話
◇
村の娘とすれ違った。彼女は咲桜 に会釈する。村の女子 が巴炎 のもとを訪れる理由を聞かされた身では妙なばつの悪さがあった。その後の話では、この村の風習では結婚初夜の新婦であっても立会人の巴炎がまず一度抱く段取りがあるらしかった。何か気拙い、空気としても不味く、悪臭とはまた異なった臭さのある部屋へと入る。布団の上に巴炎が座っている。その脇の屑箱の底に丸められた懐紙が転がっているのを目に収めてしまった。苦笑いをして、先程から熱視線を送り続ける男へ顔を上げた。眦の下がったような眠げな目には粘着質な光が籠り、厚みのある唇は気が抜けてでもいるのか無防備に浅く開いている。
「呼び出してすまなかったね」
咲桜は中紅梅の部屋で寛いでいたところを使用人に呼ばれたのだった。弟を座敷牢送りにしてから初めて会う。
「いーえー。山鳩クンの件についてはどうも」
「ああ、いいや。いつかどうにかしなければならないと思ってはいて、結局何もやらずにいた私の怠慢だ。むしろ、こういう契機が必要だったのだと思う。礼を述べるのはこちらのほうだ。ありがとう」
咲桜は首を捻る。
「で、用というのは」
空気の濁った感じに酔いそうだった。香や髪油の匂いと人肌独特の極々微かな獣臭さが曖昧に饐えた臭気を作り上げている。悪臭や異臭と断じるほどのものではなかった。しかしこの部屋で行われていたことを知ってしまうと意識してしまう。厭でも分析をはじめ、粗探しのように嗅ぎ取ったものに思考は川の流水作用の如く徐々に掠め取られていく。巴炎が笑い出した。
「どうしました旦那」
「いいや、すまない。失礼。催淫効果のある香を焚いたものだから」
「あ~、だからちょっとぽわぽわするんですね。ははは、この前若旦那に盛られたのとは大違いですわ!」
巴炎は硬さのある微笑みを浮かべながら苦々しげに下を向いた。
「ああ、まぁこの話は置いときまして。腰を折ってすみません。で?」
「用ということはなくて。会いたくなった。陸前高田くんに………これという急な用はないけれど、どうしても………」
しっかりとした眉が気弱げに寄せられた。完全に俯き、いつの間にか一城の主にも関わらず、客人のように正座をしている。剛健な膝の上で揃えられた手は震えている。
「さっき、村の娘さんとすれ違いましたよ。若い女子 はいいですなぁ………あぁ、ご安心を。火子お嬢さんのことは実の妹のように思っていますよ。ということは旦那はお父さんですね!いやいやいや、お父さんだなんて。本当にそういうつもりではなく、火子お嬢さんのことを実の妹のように思っておりますとも。つまり、そう、下心は一切ありませんのでご安心くだされ、と言いたいのです」
「そうですか。では火子の兄としてこれからも頼みます。しかし陸前高田くんのような息子がいたら頼もしくて仕方がない」
「へひひ!褒めすぎですや!」
巴炎も気を遣うように笑っていたが、やがて悄 らしい態度に変わっていく。何か中身のある話をしなくてはならないのだ。そういう使命感に駆られた。
「山鳩クンはどうしているんで?」
「稲城長沼くんに任せているよ。火子が………火子とは折り合いが悪いというよりかは、火子が一方的に折り合う気がないようで、稲城長沼くんには苦労をかけてしまうけれど…………」
「若旦那のほうはどうしてるんで?」
山鳩の話も、野州山辺家次男の話も、巴炎の興味を強く惹いた感じではなかった。立場などもあって責任感が強いのだろう。責務として彼は話す。
「ずっと壁を向いたままさ。拗ねているのかも知れない。私より大人びていると思っていたが、幼き日々の反動というか……壁を向いたまま座っているか、寝ているか。食事も摂らない」
言い終えてから彼は苦笑した。咲桜の表情が強張っていくのを慮ってのことらしかった。
「そうですか」
「そのような表情 をして、気になすっているのかな。本当に、野州山辺の不始末に巻き込んでしまったと思っている。すまない。私は、陸前高田くんには……いつでも笑っていて欲しい」
咲桜は野州山辺家の長男を窺い見た。誠実さに溢れ真摯な眼差しと視線が繋がる。数秒経つ。彼から逸らそうとした。
「女子 に対する告白みたいですな」
軽く吹き出しながら茶化すと巴炎は顔を真っ赤にして俯いた。
「す、すまない。誤解だ。私みたいな爺いむさい男からそんなことを言われたら嘸 かし気色悪いだろう。申し訳ない」
「卑屈ですよ旦那。なかなかの男ぶりです。もっと自信を持ってくださいや」
火子が同席していたら怒るだろう。しかし咲桜はこの野生的でいて穏やかな大男の背を馴れ馴れしく叩いた。相手も気分を害した様子はない。
「ありがとう。けれども、誠だ」
そのことについて謝っておきながら、彼はなおも念を押した。しかしおそらくそれも社交辞令のひとつなのだろう。咲桜は感心した。同時に微睡みに呑まれそうな蕩けた双眸から読み取れたことは半ば社交的な挨拶では済まされないものがあった。ほとんどは本心かも知れない。無性にくすぐったい。催淫効果のある香を焚いているとは、つい、今、聞いたばかりだった。咲桜はゲラゲラと下品に笑った。
「こちらこそありがとうございやす、旦那。ありがた~く、受け取っておきますよ。さてさて、旦那、ヘンな気を起こす前に野郎はとっとと退散しますぜ」
「変な気を起こしそうか」
予測では、見送るの見送らないのの話になり、流れによって見送られる気でいた。しかし巴炎は引き留めようとしている節がある。何か腹を割って話したいことがあるのだろう。山鳩や青藍の件か、火子の縁談のこと、或いは外部から美女を連れて来るという報告、もしかすると、巴炎自身の気に入りの使用人との恋路の話か。伏せがちな赤い顔を探るように見つめた。おそらく使用人と弟の妖しい関係、娘の結婚の審議ではない。
「ま、旦那みたいないい男に迫られちゃ、変な気を起こすのは不可避ですよ!自信持ってくだせぇ!」
「………本当か?」
「もちろん」
「陸前高田くんも………?」
まだ自信のない顔をしていた。図体ばかり大きな猫がきつく怒られたときのようなある種の可愛らしさがある。
「もちろん、もちろん。男女を問わないいい男ぶりですよん」
巴炎は咲桜の視線を固く握り締めたまま立ち上がった。上背があるため威圧感が伴う。わずかにたじろいだ。
「陸前高田くん」
「は、はいッ」
一歩近付かれる。咲桜は小首を捻って一歩退く。また一歩近付かれ、また一歩退く。それが2回ほど繰り返し、一歩退くところが半歩で襖に当たった。また頭から飛んでいた、催淫効果のある香のことを思い出す。
「旦那?」
「陸前高田くん」
「何かご相談があるんですね?分かってますとも。そうですな……、恋のお悩みですね?オレには、分かる」
歌劇役者がするような大仰な仕草で咲桜は、巴炎が目を泳がせたことにも気付かず、ふざけた態度をとった。
「……私は分かりやすいか」
「ええ、ええ、まったく!さらに詳しく当てて差し上げましょう」
弟とは似ていない癖のある長い髪を彼はぶんぶんと振った。
「いい。これ以上は、怖い」
随分と弱気だ。あの美しい、少し年上の使用人もまたこの主人を悪くは思っていないだろう。
「旦那なら、イケますよ。自信を持つことです。自信、威厳、圧迫感、これです」
巴炎は咳払いをした。
「陸前高田くん。私と、」
しかし用件を告げられる前に背中に襖が当たる。と同時にその襖が叩かれた。
「ほ~い」
名乗った声と返事が重なる。目の前の子熊のような人陰は顔を伏せる。
「陸前先生がいらっしゃるんですの?」
「あ~、火子お嬢さん?」
「そうですけれど………お邪魔をしたようなので出直しますわ。失礼」
咲桜は忙しく翻り、襖を弾いた。火子がどちらを向いていてどのような顔をしていたのかも見ないうちに飛び掛かって引き留める。
「なんですの、気色悪い……」
そして火子は父親の手前、口元を押さえた。
「三者面談、三者面談ですな」
軽い身体を引っ張り込み、無理矢理座らせる。巴炎は苦笑した。窓を開け放ち、襖も開け、近くの戸もまた大きく開けた。仄かな緑の匂いを纏った風が入り、甘たるい香は消えていく。籠った空気を換えてから部屋の主は重げに腰を下ろす。空気中の空気とは異なる、人間の間にのみ流れる空気まで切り替えるように彼は咳払いした。
「ンで、ボクがいると憚られるような話だったみたいだったけれども、まっさか火子お嬢さんが、ボクに聞かれるのは拙 いだなんてお話を持っているはずありませんな?」
「お父様が陸前先生と大事なお話をしていたら邪魔をしてしまうと思っての遠慮のつもりです。深い意味はございませんわ。単刀直入にいって、翠鳥の話です。お父様の前で使用人の話をするのは適切ではないかも知れませんけれど」
火子の話し方は日に日に刺々しさや険を帯びてきて、今ではどこか突き放すような色さえある。巴炎は腕を組み替える。
「続けてくれ」
「あの隠密に任せず、分倍河原さんのお宅にお願いしたらいかがですか。あたくしがお願いに参ります」
「駐在さん宅 ?」
火子は咲桜へ顔をやって頷いた。
「いいね!飯美味いんですよ~。そっちのシュミはありませんが、夫奥さんも美人で!」
巴炎がぎくりとした。火子は無表情に父へ首を曲げた。
「そうか……」
「あの隠密もあまり子守は得意ではないようですから。叔父兄様も落ち着かない様子ですし………」
巴炎の様子からして渋っているのが窺えた。
「ボクがやりますよ。山鳩クンが嫌がらなければですがね。火子お嬢さんのお勉強を見るだけでなく、山鳩クンにもついでに読み書きをば」
部屋の主人の娘は咲桜を座った目で見つめる。
「野州山辺の家で起きたことだ。分倍河原さん二夫の手を煩わせるのは悪い。これは野州山辺で解決しようと思う。どうだろうか?陸前先生はどのようにお考えなさる」
「そうですな~。ボクから言わせてもらえば、蕎麦殻ナントカくんは子守が苦手というのがそもそも疑わしいんですよ。山鳩クンは言葉の通じないほどの幼子ではないでしょうが。それとも、若旦那に気を洗われてしまいましたかね」
火子は思いきり咲桜を睨んだ。
「いいですか、これはあまりに卑怯な気がしたからあたくし、黙っておりました。ですがあたくし、この目でしっかり見ました。あの隠密には、異常な気質があります!あの隠密は、年端もいかない男児を愛でる時代遅れな側面がございますの!昨日だって………汚らしい!」
巴炎は眉を下げ、戸惑いながら憤慨している娘を横目で見た。
「落ち着けって」
「これが落ち着いていられますか!お父様……お父様が許してくださらないなら、あたくし、翠鳥を連れて、少し頭を冷やして参ります。3日ほど……」
「いいね!書生さんも夏休みだってのに、たまにゃ休んだほうがいいですわ。ボクは毎日が夏休みなんですがね」
咲桜は話を大きくし、本題を踏み荒らした。巴炎は黙って聞いていたがやがて口を開いた。
「火子。お前は個人的に稲城長沼くんが気に入らないようだ。その個人的な感情で人を貶すのは非常によろしくない。お前を信じている陸前先生や、私のことも裏切ることになる。慎みなさい」
「ま、勝手にお嬢ちゃんはいい子だって思い込んでるのはこっちなんだけどな~」
火子は仕方なしに話している者を見るというような投げやりで飽き飽きしてうんざりし、落胆したような態度だった。不機嫌さを通り越している。
「分かりました。ではこの話は終わらせます」
「この話は鰻大沼くんの悪口ナシに進みませんからな、がはは」
それから彼女は顔を伏せてしまった。その父親も難しい顔をして畳の目を凝らしていた。咲桜は手を打ち鳴らす。
「一旦閉めましょうや」
巴炎は気の緩んだような微笑を浮かべた。
「冷たい茶が飲みてぇよ、冷たい茶が」
火子は拗ねたような表情を戻さず立ち上がった。咲桜もついていく。
「反抗期?」
冷えた茶のあてがある厨房とは別の廊下を彼女の足は選択した。咲桜も何も言わずせかせかとした足取りを追う。
「あの男!寝ているあの子の世話をするふりをして、いかがわしいことをしていたんです。それがお父様に言えまして?それが、お父様に!」
「内容によるねぇ」
「口吸いです!」
彼女は牙を剥き出しにして噛み付かんばかりに咲桜へ振り返り、顔を突き出す。
「口吸い……」
「体調を崩しているんです。湯浴みもできないあの子の身体を清めるふりをして、あんな子供の肌に!あの男は!」
「体調崩してんの?山鳩クン。見舞い行こうかな?」
小さな顔に治まった憤怒の面構えがふ…っと消える。
「厨房に梨がありますからあの子に届けてあげてくださいまし。お兄さんも一切れ二切れくらい食べたらいいですわ」
「お嬢ちゃんさぁ、急に山鳩クンに甘くない?」
大きな目が険しく咲桜を捉える。
「あの子を巻き込んだのはあたくしです。叔父兄様にも目を付けられて、あの子の人生をぶち壊したんです。けれどあたくしは野州山辺の人間ですから、あの子があたくしに望むみたいに、もう昔には戻れないんです。並んで寝るだとか、川遊びではしゃいぐだとか。気付いたんです、そのことに。今まで目を背けていたけれど、あの子の看病をしたときに……」
彼女はまた鬱 いでしまった。
「分かった。梨ちゃん届けとくよ」
「頼みましたわ」
そして別れ際に火子はまだ躊躇いを残しながら呼び止める。
「あの………あたくしは、なんとなく叔父兄様の牽制になればと思ってお兄さんを利用していましたけれど……そのことは申し訳ありませんでした。ですがそれはそれで、あたくし、お兄さんを連れてきてよかったとも思っておりますのよ。本当です」
悲嘆に暮れた後の余韻に浸っているような、そういう妙な落胆を彼女はその顔にも姿勢にも声音にも背負っている。文字通り肩を落としているのだ。
「急に、何?どした?別にそれ知ってても働かず食う飯美味いし、猫触れるし布団いい感じだし、ここに付いてきてたさ。利用されただとか、お嬢ちゃんは詐欺師だなんて思っちゃいないから安心して。それでそれを後ろめたく思ってたってことも、別に嘘だとは思ってないし」
彼女はそれをまた悄然とした態度で聞いていた。ひどく疲れた様子で長い廊下に消えていく。咲桜はまた来た通路を戻り厨房から梨を持って山鳩のいる部屋に向かった。使用人から聞いたところによると、この屋敷は増築されたもので、その前に本邸として使われていた西側の古い部屋に山鳩はいるらしかった。
西側旧本邸と便宜上呼ばれているそこはひっそり閑として襖も淡い黄土色に染まっていた。合図すると返答もなく真後ろの天井から稲城長沼が現れた。咲桜は肩に手を置かれて心臓を胸から飛び出させてしまう勢いだった。
「山鳩さんは寝ています」
「驚くわ、ふつうに。前から出て来なさいや」
相変わらず、美貌に傷を作っている。治りかけているのかと思いきや、おそらく色素沈着して長いことシミとなって留まっているものもあるのだろう。
「若旦那にまた殴られた?」
彼は目蓋に生えている簾を伏せた。
「あの若旦那が座敷牢で温順 しくしているわけないか」
咲桜は髪をざりざりと掻いた。薬湯が効いたのか髪質が前と比べて変わった感じがある。稲城長沼は深く奥を見据えるような眼差しをくれた。咲桜は小首を捻る。美しい眉が寄った。それは顰められたというものではなかった。探るような、それでいて探られるのを恐れているようなところがある。
「若旦那に殴られに行ってんな。お宅を見たら、若旦那、殴っちまうもんな。ンで、お宅は殴られたら殴られたただけ山鳩クンに心配してもらえるという寸法だね?邪推だったら申し訳ない。口先だけで否定してくれても謝るよ。ああいう見たら目ん玉が潰されそうな美男子にぶん殴られるシュミがあるなら否定しないし。美男子が美男子をぶちのめす、ふん、オレはシュミじゃないけど世のご婦人方は熱中することでしょうよ」
親指で反発力を溜めた中指で美貌を破く新しい傷を弾いた。隠密は晒した顔を歪める。さりげない仕草が小動物に似ていた。
「梨持ってきた。剥ける?オレ剥けるけど、身を無駄にしちゃぁからね」
袖で適当に拭った梨を咲桜は稲城長沼に差し出した。布に包んだ包丁も渡す。
「はい」
慎ましやかな態度で彼は古びた襖を開けた。竪縁や引手は錆びている。中は二間ぶち抜きで、奥に布団が敷いてあった。起き上がる様子は見せない。咲桜は布団の脇に腰を下ろす。寝ている相手の名を口にしかけたところで、山鳩はのそのそと布団から這い出る。稲城長沼は梨を繰る包丁を止めた。
「どした?」
山鳩は咲桜の膝を辿り、身体を乗せる。普段の使用人なりに控えめな態度からは急な積極性で首を伸ばす。土気色の顔と白い唇は見るからに体調が良くない。暑気中 りとはまた違う。咲桜の視界は翳り、唇が融ける。
「青藍 様……」
寝呆けた声は掠れながらも上擦っている。また、咲桜は唇を塞がれた。少し冷たい感じのする湿った厚みが口腔を舐めた。
「ぁ………、」
挿し込まれた舌を甘く食む。痩せた背に腕を回した。しかし山鳩からは届かない角度から掴まれた途端、眼前の陰が消え去り、口は冷たくなる。稲城長沼の侮蔑を込めた目があった。具合の悪そうな少年は彼の腕の中に納められている。
「山鳩さん。陸前高田様がお見舞いに来てくださった」
虚ろな目がほんのわずかに焦点を合わせた。
「咲桜さ、ま………?」
小さな口に梨の一切れが咥えさせられる。しょり…しょり…と頬は飼われたウサギのように可憐に動く。野ウサギのような逞しさはない。
「若旦那はいつも飴玉か金平糖をくれるのかい」
「ちよこりつ………」
短い時間咲桜を見ていた目はふたたび虚空を映している。筋張った長い指が梨を支え、頬袋が柔く蠢く。
「チヨコレーツか」
眠げな目蓋を下ろし、山鳩は頷いた。稲城長沼から訝しげな視線を喰らう。
「それが……?」
稲城長沼は山鳩をしっかりと膝の上で抱き留め、咲桜に対しては燃え滾るような眼差しをくれている。敵意に近かったが明確な敵意ではなく害意も感じられない。
「まぁ、慌てなさんな。山鳩クン、身体はどう?」
「少し……疲れちゃった、みたいです。すぐ、動きたい、です………ケド、カラダ、重くて、ごめんなさい…………です…………」
咳はないようだった。鼻炎も熱もなければ汗ばんでいる様子もない。ただただ顔色が悪い。
「若旦那はチヨコレーツを朝と、夜にくれる?」
山鳩が頷く。稲城長沼がそれに呼応する。火子の苛立ちや怒りを咲桜もいくらか冷笑的に理解した。彼は野州山辺の次男とそう変わりのない凄まじい独占欲と底無しの嫉妬心で豪火に身を焼いている。
「ちょっと若旦那と相談があるから」
「青藍様………」
土気色の顔が悲しげに中心に寄った。そして咲桜に近付こうとする身体を稲城長沼の腕が押さえ込む。
「また会いにくるよ、山鳩クン」
「おでも……」
「いけない。ここで梨食べててよ。火子お嬢ちゃんからだって」
虚ろだった目が瞬時に光を取り戻した。
「火子ちゃん……?」
「そ。早く元気になって欲しいってさ」
まだ稲城長沼の怪訝な視線を喰らいながら咲桜は肩を竦めて座敷牢に向かった。
青藍は謹慎中を示す白装束で、真っ白な布を被り、壁に向き座禅を組んでいた。咲桜の登場に何の頓着もなく、むしろ気付いていないふうであった。しかし咲桜のほうから声を掛けている。白装束は脚も崩さず姿勢も揺るがない。
「若旦那さぁ、有閑婦人帖とか悪趣味なモノ読んでるんです?」
婦人向けの雑誌名を挙げて咲桜は布被りの白装束が居座る牢の前を練り歩く。夫への不平不満を募った記事や美容法、婦人問題、中には不倫を勧めるような危うい内容まで含んでいる月刊誌だ。正式には有閑婦人戯画といった。
「チヨコレーツに毒混ぜて、山鳩クンのこと若旦那依存症にしちゃってません?しかも口移しで?」
「………俺の部屋の隅の桐箪笥だ。上から2番目右の抽斗にある」
話す兆候もなく、そよ風のように彼は言った。咲桜は片眉を上げる。空耳に違いなかった。白い置物は動いた気配もなかった。
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