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第12話

 例のものは野州山辺の次男が自白したところにあった。銀紙に包まれている。甘たる過ぎない匂いがした。おそらく手作りだ。咲桜(さくら)は想像して呆れたような苦笑を浮かべる。西側旧本邸に戻り、襖を開けた。具合の悪い寝人を慮ったのが悪かった。隠密は咲桜の接近にも気付かずに臥せった少年を敷いて腕立て伏せでもしているようだった。だが稲城長沼に驚きはない。ただ冷やかな目を咲桜に向けている。鼻で嗤ってその視線を往なす。 「膝立ち腕立て伏せですな。一体どこを鍛えているのか、凡人にはさっぱり分かりませんや」  稲城長沼は卑屈に目を伏せた。下に敷かれた少年の衣服は乱れ、衿が開き臍まで見えている。咲桜が近付き肘にある襟布を掴むとぼんやりとした目がまた醒めた。 「青藍(あおい)様………」  野州山辺の次男だと錯覚している体温を探し出し、少年は頬を寄せた。咲桜はへらへらと笑って銀紙を剥く。甘く薫る茶色の物体を摘む。半分意識の飛んでいる山鳩も鼻を鳴らして匂いを嗅いだ。可愛らしい唇が餌を欲しがり、咲桜は野良猫にするように焦らしたりはしなかった。一口で済みそうな大きさの茶色の菓子は半分砕かれる。内部から糖蜜が溢れた。咲桜の指に温さが触れる。山鳩は二口を食いに来るかと思うとほぼ脱げている衣の裾を持ち上げ、尻を露わにした。傍で暗黙的な憤激に燃やされていた稲城長沼は緊張感のある眉を大いに顰める。 「何をしているんだ」  咲桜の前から尻を突き出していた少年の姿が掻っ攫われ、今は隠密の両腕にしまわれている。 「あ、お宅が訊く?」  しかし咲桜もよく分かっていなかった。 「山鳩クン、あと一口」  少年の口はまだ菓子の半分を咥え、糖蜜で周りを汚している。虚ろな目が咲桜を見ると駄々を捏ねる子供の如く稲城長沼を嫌がった。少年はふたたび咲桜に尻を向け、窄まりまで晒してしまう。 「奥まで…………挿れてください、ませ………青藍様………」 「だから青藍様じゃないんだって」  いじらしく肉体反射をみせる器官に糖蜜を秘めた油菓子を押し込んだ。座薬だ。淫靡な意味合いはなかった。しかし山鳩は小さな嬌声を漏らすと、精を迸らせた。 「青藍様………青藍様…………」  液体と化した茶色を纏う山鳩の口が咲桜の口をまたもや捕まえ、膝に乗った。今度は腕を強く頭に回される。所々に苦みを帯びた甘さが口腔に広がり、掻き回されながら、簡単に次男坊が口を割った理由を解した。座敷牢から遊ばれている。咲桜は接吻したまま少年を抱き抱え、布団に寝かせる。やがて山鳩がくすぐったがりはじめ、抵抗してもやめなかった。稲城長沼に引き剥がされかけてもやめない。正気に戻りつつある意識のこもった拳が遠慮がちに胸や肩を叩いても咲桜は止めなかった。 「陸前高田様」 「んっ………、く………ぅん、?」  上下から肩を掴まれ天井に向かって力が加わる。山鳩は口角から2人分の唾液を滴らせ、そこには油菓子の曇りひとつない。肘を掻かいていた手が片方ずつ倒れていく。首が仰け反り、少年の肉体は無防備にすべてを咲桜に委ねた。凍えるように震えている。舌が絡み合い、彼と癒着しているような心地がした。 「陸前高田様、お離れください」  とうとう稲城長沼は客人には対してあるまじき荒々しい力で咲桜を捻り上げた。剣呑な雰囲気を醸し、睫毛簾の奥では恨みにその眼光が澱んでいる。 「若旦那の流儀に従ったの!文句なら若旦那まで」  山鳩は蕩けた目を天井に向け、婀娜(あだ)な姿のまま休んでいた。 「これで具合は良くなるでしょうよ。じゃ、ちゃんと着て。お大事に」  (はだ)けた衣を直そうとすると稲城長沼の飛び道具のような手に止められる。触るなという圧があった。咲桜はへらりと笑う。両の掌を擦り合わせてから立ち上がる。 「火子(あかね)お嬢ちゃんにはよろしく言っとくから、梨ちゃん食って存分に休んでな。オレみたいに」  山鳩はこくりと頷く。 「火子お嬢ちゃんに会いたい?」 「あ………ぅ、でも、風邪だったら、おでの、うつしちゃうですから………」 「陸前高田様。山鳩さんを揺さぶるようなご発言はおやめくださいまし」  咲桜はけらけら笑って彼等に背を向けた。 「おで、だいじょぶ………」  砕けた口調で山鳩と稲城長沼は話していたが、咲桜が部屋を出る頃になって隠密は足元もなく真後ろに立っていた。暗殺でも目論むようだった。 「たまげるよ」 「申し訳ございません」 「お宅もいつか座敷牢入るんじゃない」 「自制に努めます」  美貌の意識があるのかないのか、傷と痣の目立つ顔を哀れっぽく伏せて彼は言った。  屋敷の隅々までが寝静まった時間帯に咲桜は起こされた。中紅梅の部屋はその主との仲の悪さからおそらくすぐにでも出入り禁止になりそうな相手によって。 「夜分遅くに失礼します」 「………よっぽどのことなんでしょうな」 「火子お嬢様が山鳩さんを連れて夜逃げなさいました」  咲桜は飛び起きた。隣室には布団が敷かれ、文机に書置きがあるものの内容は布団の始末と飼い魚への餌やり2点のみ、それを頼むことへの簡潔な詫びだけだった。 「でもお宅なら1人で連れ戻せるでしょ」 「連れ戻していいものか………即断できませんでした」  寝衣でいる咲桜に見慣れた上着が飛んでくる。数秒で支度を済ませ、長い廊下を忍び足で、しかしせっかちに歩いた。音もなくいつの間にか稲城長沼は数歩先にいたり、また、消えたりした。玄関は鍵を外す時に大きく軋むのだった。開扉にも音が伴う。静かに、物音を殺して外に出る。 「ボキのところに来ちゃって見失ったとかない?」 「はい」  迷った様子もなく稲城長沼は案内した。敷地を抜け、村を抜け、山へ出る。満天の星空と月によって、まったく暗いということはなかった。 「あの2人、こんな時間に山入るかい」 「土地勘はおありですから」  咲桜は噛み合っていそうで噛み合っていない会話に唸った。村を出てすぐの二手に分かれる道で咲桜は夜に溶けそうな稲城長沼の袖を引いた。 「どうすんの?分かれる?」 「いいえ。こちらです」 「なんで分かるの」 「山鳩さんには特殊な香を忍ばせてあります」  止まることのない忍びを追いながら咲桜は顔を顰める。 「匂い袋とかだよな?」 「衣に焚いて」 「今頃お嬢ちゃんに臭がられてんじゃない?」 「訓練されたものしか嗅ぎ取れません」  彼は平静と答えた。足音も気配もないために奇怪な感じがする。 「逃げられたときのことを考慮して……だよな?今みたいに?」  青年から返答はなかった。 「屋敷のどこにいても山鳩クンを監視観察鑑賞するためじゃなく………」  小石を蹴る音も枝を踏み折る音もない。咲桜はひとりで夜の山道にいる気がした。 「山鳩クンが逃げ出したら、若旦那に半殺しくらいにはされちまうもんな?」  遠くで低い笛の音色を思わせる鳥の鳴き声がした。一人分の足音だけがする。 「鰻大沼くん、消えたのかい」 「おります」  そのまま進み続けると暗い中に溶けていた後姿が現れる。随分と前を歩いていた。 「でも、火子お嬢ちゃんと山鳩クンを行かせたね?」 「たびたびお嬢様が旧本邸に……隠れながらいらっしゃるのです。(わたくし)は気付いていながら、山鳩さんへの欲求を止められませんでした。お嬢様は態度こそお厳しいですが、山鳩さんを大切に思われています。私のもとに山鳩さんを置いておけるはずがなかった……」 「ああ、そう……」  口吸いをしているのを見たと彼女は言っていた。俯いている美しい横顔を咲桜は覗き込む。月からも星からも隠されていたが、憂いを含むその面構えは、揶揄でもしなければ闇を拭い去ってでも見惚れてしまうだろう。 「お宅、山鳩クンのこと好きなの」 「はい」 「好きなんだ」 「はい」  確認しなくても分かっていた。しかし本人の口から聞きたい。そして満足のいく答えを受けたかと思うと、傷だらけの麗貌を痛ましく歪めたい欲に駆られた。愚直なしぶとさが挑発的なのだ。男振り艶やかに誑かしている。山鳩に向ける優しくしながら掻き抱いてしまいたい複雑な願望とは違う。野州山辺の次男が下男に向ける異常なまでの執着と独占欲ともおそらく違う。簡単に諦めがつきすぐに飽きのくる類いの一過的な艶めきだった。男同士の密でいてこざっぱりした関係の中にはそういうものが往々にして潜んでいる。 「若旦那とのことはどう思ってんのさ」 「苦しいと思っております」 「ほぉ。詳しく」 「(わたくし)は山鳩さんに対する気持ちを止めることができません。ですから若様はそんな私を罰してくださいます。それを当然のことと思っていながら、若様が山鳩さんに触れるのを見ると、たまらなく、苦しくなります」  暗い中で咲桜は微苦笑していた。声音は淡々としているが、今までの行動からして嘘や上面ではない。 「オレが山鳩クンに触れた時も?」 「気が狂うかと思いました」  本当にそうかと問いたくなるほどにやはり淡々と彼は答えた。 「今は?」 「(わたくし)は常に陸前高田様を(かく)すつもりでいます。若様のご命令を差し引いても私一個人の感情によって……」 「本当に何でも(ゲロ)っちゃうんだ」  咲桜は大仰に身震いしてみせた。 「なんでそんな好きなの」  しばらく待ったが沈黙している。密度の薄なった広い山道に出ると木々の間から星々が煌めいている。忍びも隠れられるようなところがなくなると、いつのまにか後ろを歩いていた。 「寝た?」  振りむく。いじけたような青年は濃い影を落としている。手袋をしていない白い手が、よくよく目を凝らせば浮き上がる体格の居所を示した。忍装束の襟元に手を広げている。心臓に病があるのかと一瞬咲桜はぎょっとした。 「思い出すと胸が痛くなりまして、その件をそっくりそのまま話すことができそうにありません」 「へぇ」  会話が途切れ、川の流れる音が届いた。稲城長沼は水のあるほうへ歩いていった。岩が突き出て(ひさし)のようになっている。川の音が下方になる。彼はその先の細まった場所に立つ。昼間で涼しかった風は夜では寒いくらいだった。 「見つけました」  稲城長沼の呟くような声を聞いて咲桜も一、二歩前に出る。砂利が敷き詰められた細い川を前に火子の夜に紛れかけた鮮やかな着物が見えた。その近くの川の浅いところで少年が水に足を浸けている。 「川遊びねぇ………この時間に」  咲桜は溜息と同時に苦笑する。 「いかがなさいます」 「あ、オレに判断させる気なんだ?」 「(わたくし)の立場からすれば、火子お嬢様にはお屋敷に戻っていただかなくてはなりません」 「まぁ、そうでしょうな」  咲桜は岩の庇に腰を下ろしてから足元に十分注意をし、何段か経て川べりに降りた。先に彼に気付いたのは山鳩だった。軽快な声が落ちていった。火子も幼馴染の異変に気付き、咲桜のほうへ首を曲げる。笑みが薄らぎ消えた。 「お嬢さん方、どちらまで行くんで?」 「………すぐに帰るつもりでした」  咲桜がそこから一歩踏み出すと、山鳩が両腕を広げて前に立った。 「おでが悪いんです!火子お嬢様は悪くありません。おでが川で遊びたいって言ったんです!」 「おやめなさいな、翠鳥。いいんです。曲がりなりにもあたくしも野州山辺の矜持というものがありますから」  砂利を踏む音が川の奏でとともに風情を作り耳心地が良かった。 「帰りましょう、翠鳥」 「ぼかぁ帰れなんて一言も言ってないんですがね」 「見つかってしまった以上帰らなければなりませんし、お兄さんからしてもあたくしたちを見つけた以上、帰らせなければならないはずです」  火子の顔がふとわずかに側められた。稲城長沼の気配を咲桜も感じた。 「あたくし、あなたに酷いことをたくさん言いましたわ。けれどあなたのこと言えませんわね、稲城長沼さん」 「………いいえ」  彼女が忍びと話している間、咲桜は俯いている山鳩を見ていた。粗末な夜着の上に上質な女物の衣を身に纏っている。火子のものだ。 「3日くらい休みもらうんじゃなかったっけ。ぼかぁそう聞いたんですがね。いきなり出て行くもんだからたまげただけで。どこにどれくらい留まるかは大人に言っていきなさいよ。子供の嗜みだぃね」  近付くと少年は顔を上げたが怯えているようだった。肩に手を置く。火子もまた少年に近付き、咲桜の手を彼から剥がした。 「翠鳥はあたくしにきちんと反抗しましたのよ。けれどあたくしが無理強いしたんです。だってあたくしのほうが立場が強いんですもの、翠鳥が従わなきゃならないことは明々白々」 「そうですな。そのとおり。あたしゃァ山鳩クンが悪いだなんて微塵も思っちゃいませんよ。無断という点はけしからんですが、まぁ無断じゃなかったらまずこんな夜更けに外に出るなんてことも叶いやしませんもんな」  火子は妙に堂々としていた。開き直りに似ている。 「帰りますわよ、翠鳥。ほんの少しの時間だったけれどとても楽しかった」  彼女の口は中途半端に開いたが声は乗らなかった。 「いいんですかぃ、帰っちまって」 「賭けに負けたんですからね」  そう投げやりに言いつつも山鳩の手を引き、稲城長沼にも咲桜にも触らせないような威圧を撒き散らしている。 「ンじゃあまた遊んだらいいですな。今度は日が昇っているうちに」  火子は山鳩を引っ張って先に行ってしまう。稲城長沼はわざとらしく足で砂利を鳴らした。 「傍に置いておかないと満足できない好きなんでしょ、お宅の好きは」  咲桜はへらへらと笑った。嘲りの色が含まれている。 「この感情は高尚で高潔、美しいものではございません」 「ほほう」 「醜い」 「なるほど」  彼は先を歩く2人の姿を見ていた。咲桜も歩き出す。後ろを気配も足音も殺さず忍びもやってくる。  屋敷に戻ると、時間帯が狂ったように明かりが灯っていた。門のところで火子と山鳩が向かい合って話している。そこに追い付いた。2人の年少者の間に割り込み、両手でそれぞれの肩を抱き寄せる。 「こういうのは大人に任せときなさいや」 「お兄さん、あたくし、自分の責任は自分で……」 「それはもう少し大きくなるまで取っておきなさい」  玄関を開け放つ。丁度、使用人が突っかけに足を入れたところだった。 「陸前高田咲桜、ただいま夜遊びから帰って参りました。火子お嬢様と山鳩クンもご一緒しとります。思い立ったが吉日、真夏の蒸し暑さもどこへやら。しかし山下の風物詩、夕涼みに次ぐ夕涼みを体験していただきたく、出掛けておりました」  芝居がかった口上の途中に野州山辺巴炎がぎょっとした顔をして現れた。 「火子は………」 「一緒に帰ってきとります」  咲桜は玄関扉を開けた。火子と山鳩が広々とした三和土(たたき)に入ってくる。山鳩はすぐにその場で膝を突き、深々と頭を下げる。そしてそれを火子が許さなかった。 「申し訳、ございません」  巴炎の目は咲桜と山鳩の間で揺れていた。火子は幼馴染の少年を放し、一歩前に出る。 「あたくしです!あたくしが…」 「3日ほど山鳩クンを連れて物見遊山(ものみゆさん)という話をしたでしょう。その延長です」  巴炎は誰を見ていいか分からないようだった。 「火子。まずお前が説明なさい」 「はい。わたくし、お父様の翠鳥に対する処遇が気に入らなかったんです。稲城長沼さんに翠鳥を近付けないで欲しいと申し上げたのに、その話が通らなかったから。このまま任せておけなかったんです」  火子は真っ直ぐに父親を見上げていた。対立も已むなしとさえ思っているような気の強さがある。 「それで……その翠鳥くんというのが、」 「おでです。山鳩と呼ばれておりますが、おでの名前は翠鳥と申します……」  ほんの一瞬、巴炎は咲桜に目をくれた。それを受けた彼は首を傾げる。 「君の話を聞こう」 「おで、火子お嬢様と………昔みたいに、川で遊びたかったんです。どうしても」  巴炎は腕を組み直し、咲桜にふたたび視線をやった。 「陸前高田くんは……」 「火子お嬢さんが自宅にも関わらず肩張って暮らしてるのをボカァ見てますからね。ボキといても息抜きはできませんから、歳の近い山鳩クンを同行させたんです。川遊びといっても小魚1匹獲れそうにない浅いところですよ。危険性も十分に配慮した、少し無欲なくらいの罪のない夜遊びです。父親としてご心配になるのはご尤も。責められるのならボキです」  屋敷の主人は眉根を寄せ、心苦しげに唸った。 「稲城長沼くんはどうだ」  天井から音もなく忍びが降りてくる。 「火子お嬢様が山鳩さんを連れて行くのを知っていて黙っておりました。陸前高田様はこの件に無関係でしたが、(わたくし)が相談を持ちかけ、今に至ります」  野州山辺の当主の顔は傷付いたような、落胆したような歪みを持っていた。 「………分かった。処遇は明日までに考えておこう」  火子は山鳩に頭を上げさせようとしながら、彼女自身は頭を下げた。 「冷えただろう。身体をよく温めて、早く寝なさい」  巴炎はよろよろと奥に消えていった。 「ごめんなさい、お兄さん」 「な~にが。ほらほら、お父様も早よ寝ろ言ってたし、行こ。山鳩クン、3人で一緒に寝ようぜ」  三和土に額を擦り付ける少年の背を撫でる。広々とした敷台にまた家人が現れた。一同が顔を上げる。白装束に黒みがかった瑠璃石の念珠を下げた背の高い、幽霊のような男が立っている。 「翠鳥」  甘い声が降る。咲桜は掌を乗せた背中が戦慄いていたのを感じ取った。 「あ、あ、青藍様……」 「おかえり。心配したぞ」 「も、申し訳……ございません…………」  手が震えている。声音も言葉も優しかったがやはりそこには威圧がある。 「おやすみ」 「おやす………み、なさい…………ませ………」  掠れた声で山鳩は答えた。 「長沼、来い」 「はい」  気配のなかったものの横に控えていた稲城長沼が白装束に近付く。咲桜は踵を上げかけた。瞬間、鈍い音がする。紺色の人陰が飛んできた。 「あ、青藍様………」  山鳩は哀れなほど肩を跳ねさせ、三和土に打ち付けられた忍びに触れようとする。稲城長沼は唇を切り、歯まで赤くしてにちゃりと厭な感じのする妖笑を浮かべた。血の滲む傷が口角が上がるとともに開いている。野州山辺の娘は激しい嫌悪を隠さない。 「長沼く……」 「大丈夫です」  ぎこちない指が新鮮な傷に伸びた。白装束は裸足のまま三和土に降りた。山鳩の手に触れた稲城長沼を拾い上げ、拳がまた落ちる。火子は口元を覆った。 「あ、おい様……!」  少年は傷付いた忍びを庇おうとする。優しい指先がその発育途上の身体を避けた。二撃では終わらない。白装束の裾からしなやかな素足が露わになり、青年を踏む。咲桜は不機嫌げな面でそれを見ていた。冷ややかな目は親の仇のように素破を見下ろし、その素破は被虐に蕩けた目をしていた。 「青藍様……」  少年の戸惑った声に野州山辺の次男坊は足を肉足置きから引いた。肉足置きの髪を鷲掴みながらもそのほうは見ないで、溺愛する色小姓に目線を合わせて屈み込んだ。 「翠鳥は優しい子だ」  見たら粟立つほどの冷たく鋭い美貌がふんわりと冬の猫の胸毛よろしく柔らかく笑んだ。節くれだった手が日焼けの止まった頬を丸く描く。咲桜は気配を消して傍観に徹していた。製氷機ではなく自然発生した氷に似た美青年は何事もなく立ち上がり、(かまち)を跨いだ。夕立は、否、雹雨はこのまま去っていくものと思われた。 「姪よ、其処許(あなた)も座敷牢に入るべきだ。野州山辺の人間でも、結局余所者は平然と後ろ足で家名に砂をかける」  少年が唇をもぐもぐと食むのを見た。火子は唖然と白装束を凝らしている。咲桜は気付くと、野州山辺の次男の肩を掴んでいた。瞬間的に移動した稲城長沼に制されながらも止めることはできなかった。野州山辺の客人は、その家の次男を殴り倒してしまった。 「結局余所者が平気なツラして野州山辺家様サマに後ろ足で砂掛けてたならさ、今回の件の根底が覆るんだけど、経過分かって言ってらっしゃるんですか、若旦那」  白装束は相変わらずの無表情で、馬乗りになる客人を冷ややかに見透かしていた。胸ぐらを掴まれてもされるがままだ。 「お兄さん!いけない、離れて、離れて!」  火子は叫び、咲桜の服を摘んだ。必死になって叔父と客人を引き剥がそうとする。 「お嬢ちゃんが平気なツラしてこんなことやったなんて思ってるなら節穴でさぁね、若旦那の素敵なお目々は。山鳩クンの目を潰すだなんて脅すより、自分の目玉の存在意義を問い質してくださいや。見えてねぇ、見てねぇ、興味がねぇってンなら、平然と後ろ足で砂かけてっかどうかなんて簡単に断じなさんな」  もう一度、次男坊唯一の文字通り美点に咲桜は拳を入れた。

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