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第13話

◇  使用人が座敷牢に布団を敷きに来た。拘束は不要だと巴炎(ともえ)は言ったが、散々に煽った結果、咲桜(さくら)の両腕はひとつに纏められている。隣からはぶつぶつと経文の読誦(どくじゅ)が聞こえる。彼の殴った相手だった。質感の甘い声が低くなって響いている。どういう家なのか新たに疑問が浮かんだが座敷牢は3つあり、もうひとつには野州山辺の義娘が放り込まれている。しかし気配はなかった。止むことのない読経を聞きながら欠伸をする。時間帯は朝のほうに近い深夜だった。 「生臭坊主が(イキ)りやがってよぉ、とっとと寝なさいよ、不眠症か?」  咲桜は叫んだ。経はやまない。乱れることもなく、火子(あかね)の仲裁もなかった。彼女のことを考えると咲桜はいくらか胸が痛痒くなった。火子の荷物には財布や手巾、時計、鼻紙と櫛、家鍵の他に握飯が3つと路線図が入っていた。今も同じ天井の下にいるが姿は見えず、この小うるさい読唱のなかで寝ているのか物音ひとつしなかった。枕を被り寝に入る。それでも低くなっているが元来の甘い質感の残っている音読は耳に侵入した。咲桜の聞き馴染んだものとよく似ていて、しかし聞き慣れない箇所が何度かある。咲桜が参列したことのある葬儀で聞いたものとは、何か一節、あるいは二節、崩すような音が所々に入っている。咲桜の中の鼓動と結び付いた調子に合わない。それがうるさいと感じられた理由なのだろう。どうやら宗派が違うらしい。 「若旦那ぁ。こういう時は、フツー好きな子の話をして寝るんでさぁ。読経じゃなくて。兵隊さんのとき、やりませんでしたかね。で、若旦那ぁ、誰が好きなんです?」  火子の叱責が飛んでくるかと思いきや、やはり咎める声どころか気配そのものがない。彼女が座敷牢に入るところも、使用人が食事や布団の支度をしに来たところも目にしたが、いつの間にか出ている可能性を疑うほどだ。 「若旦那は山鳩クンでしょうな。で、山鳩クンのどこが好きなんです?」  いくら質が良くても耳障りなことに変わりない念唱がぴたと止まった。 「野良猫の死骸を埋める様がよかった」  青藍(あおい)は続きから経を読み出す。 「若旦那がいじめまくって傷だらけにしてる綺麗な顔の兄ちゃんも山鳩クンのこと好きなんですって。それでなんで好きになったのかって訊いたんです。そしたら、胸が痛くて答えられないって言ってたんですわ。若旦那、何があったがご存知ですか」  経がやむ。 「許せと泣いて乞う翠鳥に、あの襤褸雑巾の頭を踏ませた」 「やめてくださいまし、そんな話。陸前先生、叔父兄上にそんな穢らわしい話をさせないでくださいな。翠鳥が腐ります。やめて」  火子がやっと存在を主張した。その声音は荒ぶることなく、むしろ心配になるほど沈着している。 「おっと。居たんだ、お嬢ちゃん」 「また明日、いいえ、あるいはすぐにでも翠鳥を連れ出しかねませんからね」 「ほぉ」 「お屋敷を騒がせたことは悪いと思っています。反省はしていますが後悔は微塵もしておりません」  経は途切れたままだった。 「そうこなくっちゃ」 「叔父兄上、翠鳥がお好きなら翠鳥を思って可哀想になることはおやめになって。叔父兄上は翠鳥をお好きなのではなく支配して清々したいだけです。実のところは忌み嫌っておいでなんです。二度と翠鳥を誑かすのはやめてくださいな。やめて」 「勘違いしているな。征服欲と恋慕は同じものだ。高潔極まりない叙情的なものとでも思ったか」  珍しいやりとりを咲桜は黙って聞いていた。何があっても、屋敷の中の様々な介入によってこの2人はそう長く喋ったりはしない、我を剥き出しにして話さないという印象が咲桜のなかに築かれていた。それが面白く崩されていく。 「それ、あの忍びくんも同じこと言ってた」  咲桜は小馬鹿にした調子で笑った。 「醜いっ!」 「そうだ。翠鳥には俺の醜く汚いものを癒やしてもらう」  混凝土(こんくりと)の壁一枚隔てた隣では、陰湿な作りの美男が陰険に嘲りの微笑を浮かべているのだろう。容易に想像がつく。何か叩く音がした。火子は黙り、また薄気味悪く、咲桜の骨にまで染み付いている律動とは異なる念唱が始まった。 「火子お嬢ちゃん」 「なんですの。寝ていましたのに」 「ああ、こんな小うるさい念呟(ねんぶつ)聞かされながら寝られるだなんて思わなくて。そっか、こんなクソうるさい中で寝てたならごめんね。あのさ、鰻大沼くんのこと放っておいていいの?」  会話を、遠慮しない経が邪魔をする。 「使用人に任せました」 「その使用人って桜々坂(おおさか)から来たっていう若い女の子?」 「はい」 「鰻大沼くんが何か言って山鳩クンのこと掻っ攫ってったけど……」  経が乱れた。咲桜はこの座敷牢に来る前に、そのやりとりを見た。同年代で山鳩のほうが背が高いにも関わらず、幼児じみた彼は使用人の女子よりも小さく見えた。そこに稲城長沼が現れ、破廉恥にも顔を近付け何事か耳打ちをしていた。 「内側から開いている」  読経がまた止まった。冷ややかな声が響く。その後すぐに金具の軋みが聞こえ、目の前を火子が通過した。 「座敷牢の意味なくない?」 「災害大国だからな」 「じゃ、若旦那がここから出て行かないのは、あくまでも野州山辺次男の矜持ってワケね!」  返事の代わりに読誦が再開する。その聴き慣れない節が紛れ込んだ騒音にも慣れ、温まった布団の繭で咲桜は眠った。  長たらしい呪詛が耳から耳を通って目が覚めた。格子に面した窓からは輝かしい光が入っている。朝だ。手を縛られているために制限された寝相で肩が凝り、軽く上下にした。辺りを見回すと通路にはすでに使用人が控えている。巴炎気に入りの嫁修行に来ているという女で、朗らかな朝日に照らされ黄味を帯びた口紅に白が差す。一騒動起こしたために夜も遅かったはずだが髪も綺麗に纏められ、咲桜は関心した。朝餉の用件かと思われたが、彼女は屋敷の主人からこの昨晩の一騒動をさらに大事にした張本人を呼ぶため遣われてきたらしかった。両手の縄を解こうとするしなやかな白い手を止め、咲桜はそのまま牢から出た。巴炎のいる部屋まで使用人が付き添い、襖を開く。朝餉が2人分用意されていた。ひとつは部屋の主の前に、もうひとつはそれと相向かいになるよう置いてある。 「おはよう、陸前高田くん」 「おはようございやす」 「ああ、早く解いて差し上げなさい」  客人の腹すぐ前で縛られた両腕の縄に肝を潰す。とうに外されているものと思っていたらしい。主人の前となると咲桜は使用人に両手首を差し出す。 「朝餉を一緒にどうだね」 「獄中でいただきやす。ほぼ前科者みたいなのと旦那が一緒に飯を食っちゃまじぃですよ」  巴炎の意外と大きな目が咲桜から惑うように逸れた。 「一緒に………陸前高田くん、私は陸前高田くんと一緒に、朝餉をいただきたい」  襖の傍に小さく侍る使用人と目が合う。微笑みかけられたような気がした。ずっとお待ちしておりましたのよ、とばかりの圧を感じる。彼女は、巴炎と好い仲だったはずだ。 「へ、へぇ。そういうことでしたら。ところで火子お嬢さんは?」 「翠鳥くんと一緒に分倍河原(ぶばいがわら)さん宅へ……野州山辺家で治めると言ったが、そうもいかなかった。情けない話だが……」 「頼れるものがあるのなら頼るのもいいですな」  分厚い大きな手に促され、咲桜は巴炎の対面にあたる膳の前に腰を下ろした。 「大沼くんも、お嬢さんたちと一緒なんです?」 「いいや……何か用があるのなら呼ぶかい」 「いーえー!これという用はないです。恨まれるようなことをしましたからね。恐ろしいですよ、冷や汗ものです」  巴炎は掌を合わせたところで硬直した。 「恨まれるようなこととは……」 「邪魔をしたんです。さ、さ、いただきます!」  部屋の主も困惑を往なしきらないまま合掌して箸を握る。 「陸前高田くんも、その、うちの稲城長沼と………何かあったのだろうか」 「ないですよ、何も」 「しかし、恨まれるようなことというのが気に掛かってしまう。本当に、大事ないのかい」  咲桜はまた首を捻って小鉢をとる。昨晩も出た芋の煮物に出汁(だし)がよく染みている。 「解決しましたよ。火子お嬢さんが山鳩クンをこの屋敷から連れ出したというところで」  大男の精悍でありながら人好きのする甘さもある顔が哀れっぽく歪んだ。 「やはり火子が関わっているのだね?私の娘が………すまない」  大きな手は小鉢を持ったまま箸を浮かしている。彼が持つと煮物の入った器は猪口のように見えた。 「いいんです、いいんです。あれくらいの年頃ならもう少し好き勝手したっていいくらいですよ。ボキが見てきたのじゃ、朝まで帰ってこないだとか、子供のくせに酒を飲んだりタバコを吸うだとか、そんなんばっかりでしたよ。おむすび持って川遊びだなんて可愛すぎて、いじらしいくらいですよ、それも幼馴染を哀れんでなんて。ぼかぁむしろちょっと切ないくらいですがね」  先ににんじんを胃に消す。巴炎はそれをじとりと見ていた。 「私は、怒ってしまった。引っ叩きはしなかったけれど……怒鳴り付けてしまった。私は間違っていたのだろうか」 「間違ってないと思いますね、子供(ひと)の親として、無断で夜に出掛けるのを心配して叱って教えるのは親の(しごと)のひとつのはずです。火子お嬢さんは間違っていたかも知れないけんどもそんなには悪くなくて、旦那も間違っちゃいなかった、むしろ正しいくらいだったとボキは結論付けました。ボキは、ですが」  豆腐の味噌汁を一度掻き回す。あまり熱くはなかった。出汁を奪られた煮干しが浮かんでいる。 「こんな親子の問題まで、君に相談するとは………私は……、父親失格だな」 「子供の有り様を認めるだけ親にも色の違いがあると思いますがね、ボカぁ。特に火子お嬢さんは育ってからの親子だ。異性の親子ってのもあるでしょうが、火子お嬢さんは聡明です。心配しなくていいくらいでしょうし、却ってそこが心配でもありますよ。失格だなんて思わないでくださいや。まだまだ心配する事や迷わなきゃならない事はたくさんあるんですから」  白い目で見上げてくる煮干しを口に迎えた。炊き立ての米によく合う。早番の使用人に対しては、夜更けの騒動を申し訳なく思った。 「陸前高田くん、いや、陸前高田先生。今後とも、愚かな娘と、不甲斐ない私のことをよろしく頼みたい」 「もちろん、もちろん。こんな美味い飯の前じゃ、文字通り朝飯前ですよ」  長方形に巻かれた玉子焼きを箸で細く刻むと内部に包まれていた乾酪が溶け出した。皿の端に添えられた練り梅を乗せて喰らう。酸味と旨味、玉子のまろやかさが引き立てあう。  食後の茶まで一緒だった。父親の自信というものを、野州山辺の当主は一気に失くしたようだった。肩を落としては、咲桜を見遣り、姿勢を正す。外見の威風堂々とした雰囲気に反し、実は繊細なのかも知れない。この男の弟なんぞは、顔立ちこそ(かよわ)い女を思わせる嫋やかな美男だが、人格には激しい綻びがあり、睡眠妨害をするのにも躊躇がないほどの太々しさだった。 「娘が居ないと…………寂しいほど静かで。元々そこまでお喋りな子ではなかったけれど……あの子がいると場が華やいでいたのかも知れない。本当に、私は何にも気付かない」 「卑屈に!ならないことですぞ!昨晩は遅くにドンチャンしてしまいましたからな、眠りが足らんのですよ。その責任の一端はボキにもあります」 「そんなことは……」 「あります、あります。結構な騒ぎでしたし………ああ、あと旦那には……」  咲桜は茶を置いた。そして身体の向きを正し膝を揃えると畳に両手をつく。巴炎の緊迫が伝った。 「陸前高田くん?」 「弟御を殴ってしまい申し訳ございませんでした」  深々と頭を下げる。前髪が畳の目に挿さる。沈黙が秒の単位。力強い腕力で上体を起こされた。 「陸前高田くんの謝ることではないし、彼ももう子供ではなくて……だから、陸前高田くんが頭を下げる必要は、ない……!」  畳から拾われた手を茶の熱さを残した掌にがしりと掴まれている。 「陸前高田先生………兄の私からこんなことを言うのは(はばから)れるけれども、弟は、何をするか分からない。陸前高田先生、心苦しいことを申し上げるが、弟とはもう……適度な距離を取って、接していただきたい」  野州山辺の長男は目を合わさなかった。咲桜が目を合わせようとすると、その目交いを嫌がる。 「旦那、ボキのこと心配してんです?それとも面倒事を恐れているんです?」 「陸前高田くんのことを、心配して……」 「後者なら従います。しかし前者なら心配無用です。弟と関わるなだなんて、フツー言いますかね。兄弟なんでしょう?」  咲桜は肉厚な掌から指を引き抜いた。 「ちぃっと軽蔑します」  咲桜はまた首を傾げて適当な挨拶をすると部屋を出た。背後からわざわざ足音を鳴らす陰が現れる。 「僭越ながら、先程のお屋形様に対するご発言はあまりにも酷かと」 「大好きな子に逃げられてるやつに言われたかないね」 「兄弟といえども別の人間です。ともなれば分かり合えないことがあるのは必定」  振り向くといやらしいほどに自虐的な面構えに大きな青痣を作った美男子が立っている。 「でも兄弟だ」 「兄が必ず弟の尻を拭う必要はございません」 「まるまる部外者のオレが野州山辺の家庭事情を引っ掻き回す必要はないけど、オレを口実に日和見(ひよっ)てるなら心外だよ」  咲桜はけらけらと笑った。 「それより良いの?陰湿に人目のないところでオレに駄目出しなんかしててさ。若旦那に殴られにでも行けば?ああ、大好きな子居ないんじゃ、会いに行って殴られるだけ損か」  淫蕩には直情的でも平生(へいぜい)は聡明なこの男はあからさまな挑発に乗らず、肩を竦めて歩き出す咲桜を見ていた。  咲桜はまだ青い思い出を捨て切れずにいる2人が遊んでいた小さな川を訪れる。川辺の砂利が臀部に刺さる。背後からやはり故意的に出された足音が聞こえる。 「旦那から監視しろって?」 「はい」 「なんでも(ゲロ)るね」 「訊かれなければ答えません」  そして互いに黙る。忍びの気配が消え、存在も忘れた。 「お屋形様は傷心していらっしゃいます」 「だから気を遣えって?」 「はい」 「とんでもねぇな」  咲桜は手元にあった小石を拾い、川に投げた。それらしい音を立て、視界から消える。 「忍びって手裏剣投げるんでしょ?石も上手く投げられんの?やってよ」  日没前の外のためか、稲城長沼は平服で、裁着袴を穿いている。垢抜けているように見えたが、おそらくはこの青年の体型や雰囲気に依るところが大きいのだろう。 「では、もし……」 「5回以上跳ねたら謝るよ。土下座して謝る」  腰を曲げ、なめらかな手付きで忍んでいない隠密は石を選んだ。影は人並みに、輪郭を強めて落ちている。水切りに適した型はあまり見られない。何よりその川が水切りに適していなかった。3回跳ぶ余裕もあるかどうかといったところで5回以上は難易度が高い。 「自信のほどは」 「ございません」  自信がない立ち振る舞いには見えなかった。何度か石を試し持ち肩を上げる。肘がしなやかに引かれ、石が手元を離れる。水面にひとつ、息吹が作られる。ひとつ、ふたつ、みっつで石は沈んでしまった。 「あらら~。でもいいよ。いつまでも臍曲げてらんないし。土下座はしないけど謝るよ。いきなり軽蔑する、は頭おかしかったし」  沈んだものを凝らしている稲城長沼の後姿に言って、咲桜は身軽に立った。大小数々の小石に揉まれた尻肉が鈍く痛む。 「臍を曲げていらしたんですか」  稲城長沼が振り返った。頬が日光によって白く炙られている。 「駄目出しされたからね」 「何故、お屋形様を軽蔑なすったんですか」 「軽蔑するしないに言語化できる理由があるかね?」  返事はなかったが、彼はあるとでも言いたげだった。 「(わたくし)は、お屋形様の強いご意向がなかったなら、陸前高田様をお屋形様のお傍に置くことに反対でございます」 「ごろつきみたいだから?」 「陸前高田様はご自分の素性を明かしてはくださらない」 「田舎臭いよ、そういうの」  咲桜は小石をひとつ蹴った。稲城長沼はまだ姿を晒している。 「兵隊に取られてさ、まぁ兵役の成績は良くてさ。でも、献身令出たのに、生きて帰ってきたんだよな。献身令出て、オレ、長男。18で結婚して、嫁の腹には子供がもういてさ、実家が出てきたんだよな。実家、そこそこ家柄、まぁ献身令来るくらいだからそこまでじゃないけど、家柄良くて。取り下げるのは流石にムリだけど、繰り下げるのはできたわけ。献身令で召集に行ったの、弟なんだ」  隠密の傷と痣だらけの顔が強張った。そういう色の話ではないのだと咲桜は苦笑して手を振った。 「お国様ってのは素晴らしくってさ、わざわざ兵隊さんの亡骸、帰してくれるんだよな。国でそのまま集団火葬のほうが安上がりかも知れないのにさ、ド貧乏の家なんて焼く費用もなかったよ。弟はドーンって爆死だったから、置いていった支給品のシガーケースが返された。まだタバコ吹かせる歳でもなかったのに」 「男鰥(やもめ)というのは本当に言葉の綾なんですか」  咲桜は苦笑して爪先で石を転がす。 「お国様最高!お国様のためなら死ぬる覚悟!お国様にお命(ささ)げます!って話だったっしょ。それが、うちの長男には家庭がありますから献身令は弟に!だ。次に来るのは外野の、横一列からの非国民、国賊、人非人のド正論ですわな。笑っちまいますよ」  ほんの微か、稲城長沼が首を傾げたのが見えた。 「で、だ。嫁は死んだよ。弟を見るだなんて言い出してさ。変なこと吹き込まれたんだと思うけど。子供も腹にいて、仲良かった義理の弟もッドーン!だし、色々気持ち的に不安定ってのもあったんでしょうが。ちょっと元気な日に川に行くなんて言って、そんな様子まったくなかったらしい。オレは献身令逃れた後は長いこと泊まり込みの事務仕事でさ。軍隊内部でも、そういう経緯で浮いてたし。お裾分けし合った隣人とか、組合からは無視されてさ、近所のジジババがいきなり鬼みたいになるんだから、たまげたね。あの人たちが悪いんじゃあない。あの頃はお国様自体がどうかしてた。あの人たちだって家族に1人は兵隊取られたんだから。取り下げなんてものじゃなくてもこっちの嘆願が利いたなんて、あの色々限界な状態じゃそれこそ起爆剤に炎ですわ」  あてもなく、また腰を下ろそうとした。しかし石の凹凸が臀部を押す。 「若い女子(おなご)でさ、同い年だったけんども、あれくらいの女子ってのはとにかく群れたがる。友人に除け者にされたりもしたんだろうな、可哀想に」  稲城長沼の眉が寄っていた。それを嗤ってやる。 「嫁御がそんなんになるって分かってたら、オレは献身令でチュドーンと一発ド派手な花火打ち上げたほうが良かったのかなって思うよ、たまに。2番目に生まれたってだけで弟死んだし。さっきも言ったけど、近所の人とか組合さんが悪いんじゃないって冷静な部分では思うんだけどさ……あの場所で生きていくの、やっぱギスギスするからさ、家飛び出して、放浪してた。で、今に至る」  咲桜はまた軽やかに笑い、稲城長沼の返答を待つ。訝しむような眼差しにまた微苦笑するはめになる。 「これはなんでもかんでも(ゲロ)っちゃう鰻大沼くんに応えただけだよ」 「何と申し上げたらよいか……」 「何も言わんでよろしいです。旦那を軽蔑したってのははた迷惑な八つ当たりですな。みんな同じ兄弟で、みんな同じ事情ってわけないのに、オレが勝手に色々思い出して、八つ当たりした。弟いるんなら大事にしたらいいのにって具合に」  嘆息し、そして石を踏み鳴らしながら屋敷の方角へ歩き出す。 「じゃ、約束の過半数はやってくれましたからね。謝りに行ってきまさ」 「陸前高田様……」 「お?」 「個人の事情に踏み入って、申し訳ございませんでした」  隠密は無防備に日に当たっている。 「言いたくなきゃ隠しておくってこともできるのに結局喋ったのは………そういうことだね。まっさか鰻大沼くんに話すとは思わなかったけれども」  火子や巴炎に話すことになるのだろうと漠然と、今この瞬間に後付けのように思った。しかし火子や巴炎はまるきり客人の経歴を訊こうとはしなかった。その無関心さが心地良くもあったが、流れに任せて話してしまうと、それはそれで足取りが軽い。同時に稲城長沼に背負わせたような嫌な(しこ)りが胸の奥に残る。

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