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第14話

 帰り道の途中、ふと稲城長沼(いなぎながぬま)から口を開いた。 「以前、お屋形様に対して上に男 同胞(きょうだい)が居るとおっしゃられたのはどういうことですか」  数歩、咲桜(さくら)は無言でいた。やがて口を開け、言葉が伴うのはさらに数歩進んでからだった。 「弟になって生きてみたいと思ったんだよな。弟が死んで、嫁も子供もいなくなって、近所のこともあって実家は萎縮したし、愛しの故郷ってものも在るには在るけど、さっき言った通りの始末だから。残りの人生、お国様にド派手な花火見せてやった弟に………なってみたいと、思ったね」  稲城長沼を顧みた。彼は半歩後ろを隠れることもなくついてきている。 「鰻大沼くんにはいないの、同胞。過激派な叔母様で精一杯かい」 「詳しくは知りません。火子(あかね)お嬢様につきましては、(わたくし)を甥と認めてくださいますが、(わたくし)は父が穢触底人の女に産ませた子供です」 「はぇ~、まだそんなんあるんだ、この辺」  戦火の影響がほぼない田舎中の田舎であるだけでなく、色情魔であることを除けば優秀な戦闘員になりそうなこの稲城長沼が召集されない理由に肯いた。穢触底人は建前上、"お国様"や人民のためにはなれない。この山間部の集落からは野州山辺の次男が兵役に取られていたが、彼は山から出て街に暮らしていた時分にとられたと聞いている。 「このことはご内密に……そういうことを陸前高田様がお好きでないのは分かっております。ですが……(わたくし)は構いません。ただ、火子お嬢様の身内にそのような者がいると思われ、火子お嬢様が蔑まれるのは、私が心苦しいのでございます」 「ま、君等の中では問題なくても世間的にはそうもいきませんもんな。黙っておきまさ、訊かれてもね」  それからまた沈黙の中を歩く。足音を立てることのほうが意識的なのか、気付くと稲城長沼は消えている。咲桜は止まった。屋敷まではもう少しだった。伸びた枝と枝、幹と幹の間から村が見えるところまで来ている。 「若旦那が稲城くんのことぶん殴るのって、その生まれのせいじゃないよな?」 「はい」  村に入ると忍びは消えてしまった。この村を横断するように最奥に据わる邸宅へはほぼ一直線で、まるで村人の家々が花道のようだ。玄関戸を開いても想像した騒々しさはなかった。実際は稲城長沼の言うようなことは起きていないのかも知れない。昨晩よりも静かだった。しかし奥から慌ただしい足音が聞こえた。巴炎(ともえ)気に入りの使用人が帰って早々、まだ土間に突っ立っている咲桜に巴炎の具合が優れないことを告げた。そこに来て、稲城長沼に傷心中であると言われときにはなかった罪悪感が、真上から咲桜の等身大、彼の爪先から脳天、指先の一本一本にぴたと収まるような罪悪感が降ってかかった。裾をたくし上げ、履き物を脱ぎ捨てる。巴炎の部屋の前には数人の村人の列があった。農作物や魚の干物を持っている。襖は閉まり、使用人たちが頭を下げていた。そこに居る者たちの目も気にせず咲桜は屋敷の主人の部屋に入った。中心に布団、その脇に屑籠。枕元には盆があり、湯呑が2つ並んでいる。 「旦那」  部屋の主は布団に脚を突っ込んでいた。肩を落とし、大男には似合わない怯えた目で咲桜を見上げた。咲桜は後ろから村人たちに押され、村人たちはまたたくまに巴炎のいる布団を囲んでしまった。薬草だの、風邪に効く食材だのと言って賑々しく変わる。咲桜は本題を諦め、嵐を連れ込むだけ連れ込んで引き返した。中紅梅の壁が目に痛い、野州山辺の娘の部屋に逃げ、横になる。 「稲城くん、居る?落ち着いたら行くわ。あれじゃムリ。じいさんばあさんってのは喋りたくてうずうずしてんだから、村に憩いの場でも作ることですな。旦那も肉体労働の後は多弁(べしゃり)業ときちゃ、さすがに体調も崩しますて」  両腕で枕を作り、脚を組む。天井に喋りかける。居ないと分かった途端に廊下から忍装束に変わっている稲城長沼が現れた。 「陸前高田様は聡く鋭い御仁のようで………鈍いところがおありのようです」 「はぁ?」 「お屋形様の不調は仕事疲れではありません」  ひょいと咲桜は起き上がったが、稲城長沼のほうでは長話をするつもりはないらしく、言うだけ言って襖に消えた。  巴炎の身が空いたのは昼過ぎで、まだまだ秋は遠く日は長いが、それでも外は微かな黄味を帯びている。村人の消えた部屋に入る。彼はやはり布団に下肢を入れ、座っていた。窪んだ感じのある幅の広い二重瞼の下でよく濡れた目が泳いだ。咲桜を見られないとばかりに不自然に動く。 「旦那」  布団の横に腰を下ろし、膝を開いた。緩く握った拳をその上に置く。巴炎はぎこちなく彼を見ようとして躊躇っているところがあった。 「り、く前高田くん。おかえり……どこかに出ていると聞いたものだから…………」 「実際出ていたんですけんども。体調不良のときに申し訳ないんですが、あの、旦那……その、すみませんでした」  上体を前に傾ける。自分の影が落ちる畳の目を凝らしていた。 「な、何がだい」 「軽蔑云々と言ったことですよ。軽蔑なんてしていません。オレの、ワタシの八つ当たりです。ワタシ、微塵も旦那が軽蔑に値するようなお方とは思いません」  分厚い肉感が両肩に触れた。身体を起こされる。咲桜は上半身を起こしたが項垂れたままだった。 「顔を上げてほしい」  徐ろに顔を上げると濡れた目に迎えられる。 「陸前高田くんの言っていることは、正しかった。私は弟を避けて生きた。弟を独りにして、放って置いて、家族の輪に入れようとしなかった」 「ごめんなさい、旦那。オレは……その、戦禍で、半分オレのせいなんですけど、弟が…………死んじゃってて」  大した仲ではない忍びに話した時には滑らかに出てきた言葉が、突然詰まった。両肩にあった重みのある手が、膝上に放置された拳を包んでいる。指先まで冷えていることに気付く。 「八つ当たり、したんです。弟のこと考えない兄貴ってサイテーだなって、自分のことと重なって…………旦那と若旦那にも事情あんのに………」  強い力に引かれ、咲桜の視界は暗くなる。心当たりの何度かある熱と硬さに包まれ、身動きがとれなくなった。 「すまない。私たち兄弟のことを、陸前高田くんに背負わせるべきではなかった。私たちで……火子も翠鳥くんのことも巻き込まずに、私たちでどうにかするべきことだった」  人肌に蒸されながら、娘にも同じような子供扱いをしているのかと咲桜はぼんやり考えた。布越しのぱんと張った胸板は押し返すくせ、逞しい腕は押し込めようとする。 「踏み込んだのはこっちですよ。旦那はいつも、自分が悪いばっかだ。今回は本当に、気遣いナシに、オレが悪いし間違ってたし、っていうか根本的に、八つ当たりなんです」 「そうは言うけれど……本当に、私は、あの時……心を入れ替えようと思った。陸前高田くん、ありがとう。弟から逃げて、目を逸らすのはもうやめる」  咲桜はひとり納得し解決している熊のような大男の頭の下で、太幹と紛う腕に締め上げられながら首を傾げた。 「体調不良のところを、すみませんでしたね」 「いい。そんなことは気にしないでおくれ。それにこうしていると、落ち着くのだ。陸前高田くん………――だ」  最後は呟きや、独り言、呻めきや嘆き、猛暑の季節の悪態と同じ類いのものだった。咲桜は目を見開き、固まった。何か妙な心地のすることを言われた気がしたが、具体的な単語は耳を擦り抜けていく。 「えっと……」  声を発した瞬間、巻き付いていた腕が消え失せた。咲桜は均衡を崩してよろめく。目の前に落ちた陰が大きく動き、身を引いた程度に距離を開けた相手は顔を真っ赤に染めていた。 「変な時に来ちまいましたね!ゆっくり休むことですぞ!オレのしたことは、弱り目に祟り目、あたりめはするめですよ。さ、さ、使用人と代わりますから……」 「か、回復した……君といたら、(すこぶ)る良くなったよ。村の者と屋敷(なか)の者には悪いことをした。廻覧しに行くとしよう」  翻した掛布団を、咲桜はまた戻した。巴炎は不思議げな顔をする。 「回復したというのは気のせいです。風邪というのは油断させる厄介な敵なんですよ。今日のところは寝ましょうや」  先程とは反対に、咲桜は熊のような美丈夫を枕のほうに押し倒す。布団も直した。弱い風が薫り、顔を火照らせる。伸びてきた手に掴まれる。 「水とか要ります?取ってきますよ」 「できるなら、まだ……ここに居てほしい」 「承知のショですよ」  身体中が掻痒(そうよう)感のないむず痒さに襲われた。聞き逃してしまったが重要な一言が気になって仕方ないくせ、訊き直すだけの剽軽さも素直さ、ある種の愚かさもない。 「こういう時……弟のことを話すものなのだと思うけれど、長いこと弟を放っていた私は、青藍(あおい)のことを何も知らなくて、語ることが何もない…………」 「旦那が(とぎ)してどうするんです。ンじゃオレが、同僚たちを唸らせた爆笑話をして差し上げますよ」  大きな手は咲桜の指を握ったまま放さなかった。 ◇  火子は山下の町の駐在員で野州山辺の遠縁にあたるという分倍河原家に泊まったらしく帰って来なかった。巴炎はすっかり元気を取り戻して、今朝も食事を共に摂った後、村人との面談に誘われた。布団を用いる面談に付き添えるはずがない。つまり、村娘を抱く場に居合わせないかという誘いだった。巴炎はしかつめらしい顔で言ったが、文化の壁は大きく、咲桜は逃げるように飛び出してきてしまう。足は座敷牢に向かっていた。昨晩に訪れた時は飯も食わず白い布の下で延々と念唱を続けていた。しかし今日は、咲桜が来たことを悟った途端に読誦(どくじゅ)がやむ。 「翠鳥は無事か」 「そうですな、無事です」 「翠鳥は俺がいなければ寝られない。可哀想に」 「それはないです」  格子の奥では白い布の塊が右から左に経文を開き、翅のようで、羽化に失敗した蚕我のようだった。 「翠鳥は俺のものだ。だがあの襤褸雑巾に汚されるよりかずっといい。翠鳥は俺のものだ。誰にも触らせたくない。俺をここから出すな。翠鳥に触れたその両手を斬り落としたくなる」 「どうしたんです、若旦那」  ぶつぶつと何か聞こえ、読経が再開した。咲桜は茶化すように首を横に倒す。布を被った後ろ姿は何も答えない。 「抱いたのは間違いなくオレですが、抱かれても構わんとしたのは若旦那ですからね。そこをお忘れなく」  それから格子の外からであれば何度聞いても新鮮な読経と甘たるい質感の拭えない声を少しの間聞いていた。  火子はまだ帰って来ず、他人の気配のない二間ぶち抜きの静かな部屋で眠っていると布団が持ち上がり、彼は掛布団ごと床に転がった。地面が直角になるほどだ。尋常ではない。大地震に違いなかった。しかし揺れはない。咲桜は布団を見上げる。 「緊急事態でございます」  稲城長沼は非常に早口で、焦燥している感じがあった。 「何……?」 「山鳩さんが分倍河原様宅から失踪したとの報告が」  一瞬で目が覚める。 「あ、え?なんで」 「捜索に向かいます」  咲桜に伝えに回ってきただけでも相当の辛抱だったらしく、稲城長沼は答えることを放棄し夜の中に溶けてしまった。  夏にもかかわらず夜は冷え込むため咲桜は上着を身に纏ってから外に出た。途中の玄関には寝衣の巴炎がどっしりと構え、咲桜に詫びた。使用人も捜索に駆り出されているらしく屋敷は広い範囲まで明るかったが不気味なほどに静かだった。  明かりを借りて火子と歩いた山下の町と金春(こんぱる)村に来るまでの道筋を辿った。何人か見知った使用人と会う。疲れた様子で、薄ぼんやりとした明かりが人玉のようだった。不要な追尾をするために衣に香を焚いたという異常な執着をみせる稲城長沼がすでに見つけているかも知れない。この労力は水泡に等しく。  咲桜は滝に伸びる川沿いを歩いた。細い山道が確かにある、ような気がした。踵が滑る。横道に逸れ、布団には負けるが柔らかさのある土の上を転がった。2回転半で止まった。肘を擦り剥いた程度で他に痛みはない。何かの贖罪のようだった。八つ当たりによって巴炎を不用意に傷付けたこと、稲城長沼を軽んじて小馬鹿にしたこと、野州山辺の次男をむやみに煽ったこと。  痛痒い肘を撫で摩り、道に合流する場所を探した。枝や幹を除け、整備されていない大自然を進む。幸い、山鳩を探す声が聞こえているため人気(ひとけ)はある。山鳩の捜索よりも咲桜は上に上がる道を探していた。擦り剥いた肘が痒くなる。しかし布越しに掻くと痛みに変わる。落ち着いてくると月丘(げっきゅう)の痺れが覚め、熱に変わる。山鳩の名を呼びながら進んだ。熊の出そうな山に怯みながら、月のよく見えるほうに、何のあてもなく向かっていった。やがて黒々とした木々の奥から細流(せせらぎ)の音が聞こえはじめる。不気味さが緩和した。掌や肘の疼きから意識が逸れる。人陰があった。明かりに照らす。見覚えのある衣服はやはり女物で、持主と今着ている者が合致しない。小さく(うずくま)っている。明かりを向けられたことにも気付いていない様子だった。咲桜は上着を脱いで後ろから忍び寄る。 「山鳩クン」  小さい人影が跳ねた。4尺4寸はあるはずだった。それが火子よりも小さく見える。 「咲桜様……」 「今2人きりだよ、山鳩クンさん」 「咲桜さ、ん…………」  山鳩は子猫みたいに首を伸ばした。夜風は寒いくらいだった。流れていく水の音がこの地の夜の気候には不要な清涼感を与えてくれる。 「帰ろう。この場合………どっちに帰るんだ?山鳩クン、どっちに帰りたい?」  上着をすっぽりと羽織らせ、落ちないように背を撫でた。山鳩は黙っている。 「駐在さん()ダメだった?飯は美味かったと思うけんども。あれか、分倍河原さん二夫(ふうふ)って所構わず惚気るからな……所構わずっていうか自宅かあれ」  肩を叩きながら山鳩を川から離す。入水できるような大きさや深さではなかったが、何か厭な不安がある。山鳩は咲桜に行き先を任せたまま強張っている。 「ここぃらて夜、ホント冷え込むよな。カブトムシとかいんのかな?見てくか?」  道を探すが、どこも茂みがあり人の歩けるようなところはない。足場はいくらか滑りやすさがある。忙しなく明かりを回していると山鳩から歩き出す。 「こっち、です」  川を上るほうへ彼は進んだ。 「火子ちゃんと、昔、この辺にホタル観に来たです」  走り出したりはしなかったが早歩きで、ついてくる咲桜に焦れるように何度も振り返る。彼は明らかに急いていた。 「ホタル、居るかな……」  無邪気な呟きに咲桜は彼を射すように見てしまった。当の本人はそんなことには気付かないで、茂みを掻き分け身軽に奥へ進んでいく。 「山鳩クン、危ないよ。水辺はほら、滑りやすいし」  咲桜も穿いているものの裾を上げ、若々しく軽快な山鳩を追う。彼が明るさに照らされた。急な傾斜になっていることに気付くと同時にやっと追い付いた少年がふらりと傾いた。一瞬目にしただけの離れたところにある緑の禿げた地層が強く印象に残り、山鳩を庇いながら転がっている間、他人事のように脳裏に張り付いていた。黒糖麺麭と紛う猫のようでもあれば、ミルヒーユとかいう千枚ケイキのようでもあった。同時に喫茶店によくある小洒落た珈琲(カーヒー)のようでもあった。細木にぶつかり、下から突き出ている石に刺され、長く感じたがおそらく短い時間の滑落がやむ。砂利に叩き付けられた。両手は山鳩を抱き締めているために、ろくな受身も取れず、何よりも突然の静止だった。骨が軋み、脇腹が痛む。肘から二腕にかけて回り込むように鋭い痛みがある。身体中が重い。しかし飛び上がった。山鳩を下敷きにしているかも知れない。 「大丈夫かいや、山鳩クン」  腕の下にいる少年に見たところの怪我はない。はたから見ると小生意気な顔立ちだがその内面には恭しさと可憐さのある山鳩の大きな目がさらに大きくなる。 「咲桜さ…………」  彼は華やかな女物の衣の袖を長く持った。躊躇いながらも咲桜の額に腕を伸ばす。尖った痛みが走る。下から出ている石にぶつかった覚えがあった。 「あらら、悪ぃね。こりゃオレも一緒にお嬢ちゃんに謝らないと」  鮮やかな衣の袖が不自然で突拍子もない赤に染まっている。 「咲桜さ、ごめ……なさ……」  斜面に生えた、狡猾げな細い木に引っ掛かり寝衣は乱れ、脚を擦り剥いている。 「大丈夫。今誰か呼ぶよ。気付くかな。蕎麦殻ナントカのお手並み拝見と……」  人差し指と親指で輪を作る。唇に挟むと、口角も痛んだ。今から手並みを拝見する男と揃いの傷があるらしい。苦笑しながら指笛を吹く。一声目は上手く出なかった。二声目に感覚を取り戻し、三声目で木霊する。どこかで短く指笛の応答があった。もう一度吹き鳴らす。 「咲桜様……咲桜さん………」 「寒い?」  泣きそうな顔をしている年少者を抱き寄せ、へらりと笑った。腕の怪我は出血を伴い、夜衣が色を変えていた。 「ごめんなさい。おで……なんてコトを……」  凍えているのか彼は小刻みに震え、小さくなっている。 「どしたのさ。言いたくなきゃ、いいけど。代わりに何か話そ」  山の麓に落ちたらしく、開けた空には月は当然のように図々しい態度で鎮座し、その周りに山々の影絵が並んでいる。咲桜は雲のかかった月を睨んでいた。 「…………若様のことが、気になって」 「若様?若旦那が居ないと寝られないって本当なんだ」  彼は項垂れるように首肯した。 「若様、死ぬって、おしゃられるんです。おでが、離れたら死ぬからって、おっしゃられて、おで……、急に、若様が、死んじゃうと思って、怖くなって…………若様、あの………ご無事、でしたか……」  話している途中で山鳩は息を荒げた。呼吸が激しくなる。必要以上に息を吸い、追いつかないうちに息を吐く。咲桜はその背を大きく摩った。 「あ~、無事、無事。自分と一緒じゃないと寝られないってそういうことか」 「で、でも、やっぱり、若様が、おでなんかのために、そんなこと、するはずない、ですから。でも、もし、若様、おでのせ、で……死んじゃ、たら、も、火子お嬢様と、ッ、居られ……」  尋常ではない呼吸の仕方だった。彼の借り物の服を汚すことも構わず、咲桜は少年の頭を抱くと鼓動に合わせて揺らした。弱々しくも荒々しい息遣いに彼本人が焦っているようだった。 「若旦那は大丈夫だった」 「でも、もし、若様が、おでのせ、で、死んじゃ、たら、火子お嬢様のこと、おで、うらぎッ、ちゃ……から、おで…………おでのせ、で、若様が、死んじゃ………」  手まで戦慄いている少年があまりにも気の毒で咲桜は彼の身体ごと抱擁する。 「若旦那はすんごい太々しくて図々しくて、あんな背が伸びたもやしみたいな見た目しててもめちゃくちゃ強靭だから大丈夫」 「火子お嬢様に、また迷惑かけて、いつも、足引っ張って、若様も、おでのせいで、おで、もう……どうしていいか、分かんなくなっちゃって、」 「山鳩クン居なきゃ死ぬって若旦那が言ったんだね?」  彼は数度頷いた。その頭を撫でる。 「おでのせいで、若様が…………」 「う~ん、多分だけど、若旦那は自分が死ぬ前に稲城くんなんとかしないとまず死にきれないね、あの感じは。で、その稲城くんはぴんぴんしてるから、若旦那もまだまだ大丈夫だな」  体温の高い少年で暖をとった。本当に夏かと疑いたくなるほど、秋の中旬といった冷え込みだった。 「おで、火子お嬢様と離れたくない…………」 「お嬢ちゃんもそう思ってるよ」  抱き上げられるのが嫌いな猫のように山鳩は咲桜の腕の中でぎこちなく動いた。そしてしがみつく。骨が痛んだ。漠然としたところも妙に疼いている。 「色んなこと諦めた火子お嬢様の傍に、おで、ずっと居たいんです。知ってる人と仲良くすることだけは諦めて欲しくなかったから。火子お嬢様、お屋敷入って毎日忙しいから、おで、一緒にいたかった。火子お嬢様が背伸びして疲れてるの大変そうで、おで、力になりたかった。都会に出て、お人形作る人になりたいって言ってたのに、もう諦めなきゃだから……」  山鳩はとうとう、せぐり上げた。咲桜は何か言葉にできない強いものを抱いている心地がした。痛みも忘れ潰すほど彼を閉じ込めてしまう。

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