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第20話

 哀れな若い鬼雀茶衆を山鳩と協力して稲城長沼の家に運んだ。ちょうど倉庫に担架がある。風邪っぴきの甥の世話をしにきただけの火子(あかね)も慌ただしく念珠の一玉で撃たれた若者の介抱をする。稲城長沼が身体を重げにしながら布団から起き出てきた。咳を殺している。 「申し訳ございません」 「寝ていなさい」  きつい視線をくれた火子を三河安城(みかわあんじょう)は胡散臭いほどに大きな目で見た。 「おれの父の妹御です」  丁寧な仕草で稲城長沼は火子を指した。 「っつーこた叔母かぃな」 「はい」  火子は訝しげに巨男を睨み、体格だけでなく大きな目に捕らわれ、控えめに肯定した。 「富豪(ふご)にゃよくあるこってすな。わては菖蒲馬(あやめ)くんの(ねね)(コレ)ですたい。つまり義理の兄ちゃき」  火子はまだ警戒の色を滲ませ、稲城長沼に戻る。 「姉がいるとは聞いてましたけれど、義理のお兄様もいらしたのね」 「はい」  彼女の声は刺々しい。 「それで遅れましたけれど……あたくしは野州山辺火子です。こちらが……」 「野州山辺……?最近どっかで聞いたぞな」 「おれの勤先では」 「それな」  太く逞しい指が稲城長沼を差す。汗ばんだ様子のある風邪ひきの義弟がやんわりとそれを制した。すると大男は猪首らしきがっしりした首を捻った。 「いんやぁ……えげねぇ(せがれ)の話だった気がするとよ」  気の強そうな長い毛髪を三河安城は仰々しい木の葉を思わせる大きな手でよく日に焼けた額を撫でた。 「違います」  稲城長沼が口調を強めて否定する。すると外観に反して三河安城は狼狽えた顔をし、そのまま呑んだ。 「こちらがあたくしの家庭教師です」 「陸前高田 咲桜(さくら)いいます。こちらのお嬢さんのお屋敷で住み込みで肉体労働をしております。稲城長沼くんとはなかなか深い関係でして、」 「違います。そしてこちらが山鳩さんです。年下ではありますがおれの親友で、仲良くしていただいております」  きょとんとしている山鳩の肩を稲城長沼が後ろから触れた。 「山鳩です」  それから稲城長沼は嫌味のように念珠で撃たれた若者の紹介もした。 「折角(せっか)菖蒲馬に会いにここまで来よったのんに勤先に顔ば出さないのんは悪かんべに。ちっくと案内ば頼みますけん」 「彼を一度屋敷に帰さなければならない用事もあります」  またもや嫌味のように熱っぽさのある赤ら顔で稲城長沼は呟いた。いじけた手が寝着の帯を解きはじめた。 「稲城くぅん?」 「お手数をおかけしました」  咲桜が戯けて呼ぶと、山鳩が跳ねるように風邪っぴきの前に回った。 「寝てろってば。風邪もっと酷くなったらどうすんだよ」 「そもそも風邪をひいていません」 「ひいてるよ、顔赤いもん。いつもより」  稲城長沼から背を屈めたのを咲桜は見逃さなかった。反射のように山鳩は姿勢を低くした風邪男の額に手を当てた。火子の眉間が神経質に寄る。 「熱はありません」 「寝てらして!この人はあたくしたちで連れていきますし、あなたのお義兄(にい)様はあたくしが案内します。あなたは寝てらして!」  彼女は叱るように言った。三河安城は火子に目をやる。彼女も大きな目を挑発的に受け入れた。 「わたくしの甥でもございますが義弟(おとうと)御は体調が優れぬようですから、野州山辺にはわたくしが案内いたします」 「あ、思い出した。うちの義弟(おとと)ぷっくらしたのんが野州山辺どんか」 「じゃ、おでが残って長沼くんを、あ、でもそれだと……」  火子は稲城長沼から山鳩を引き離す。 「あなたは陸前高田先生に人を運ばせる気?」 「オレは別に肉体労働大丈夫だけんども、稲城くんのとこに山鳩クン1人残したら若旦那が大激怒(だいかんかん)でしょ。オレは面白そうだからそれでもいいけどさ」  そして山鳩を引き離した火子を、さらに彼から引き離しひそひそ話し合う。 「オレが残るよ。お嬢ちゃんと山鳩クンで連れて行けるね?」 「はい。ごめんなさい。巻き込んで」 「ンなの気にすんなよ。一騒動二騒動ありそうだけど、頑張れな。主にオレのせいで」  火子は肩を落として首を振った。彼女等は大男を連れて帰っていった。男は長いこと自分勝手に喋っていたが火子は相手をする様子はなく山鳩を近付けさせまいと気を張っていた。稲城長沼はその子供みたいな想人が見えなくなるまで目を奪われ、咲桜は布団の横で風邪ひき男を待つ。 「陸前高田様もどうぞお帰りくださいまし。(わたくし)に看病は必要ありません」  一度解いた帯を簡易的に結び直しながら彼は言った。 「そうは言ってもな。飯食わせないと、あーたに」  米は炊けているが調理はしていない。持ってきた食材をどうするか考えているところだった。胡座をかいた膝に頬杖をつく。板を外された囲炉裏には火が移されている。そこで雑炊が作れるだろう。 「山鳩さんが若様に折檻されるかも知れない」  押し掛けた客人に対しては遠慮なく、彼は咲桜の目の前で着替えはじめた。忍び装束だと華奢に見えたが広い肩と引き締まった腰は結び飯を逆にしたような形を作り、しなやかな脚も素肌だと剛健な感じがある。 「寝てたほうがいいと思うけどな~、オレは。山鳩クンとあんだけど至近距離になったんだし、山鳩クンが感染(もら)ったら若旦那も感染(よこ)せってなるでしょ。若旦那は威勢が良すぎるしちょっと寝込んでくれたくらいのがまぁありがたくはあるけんども。山鳩クンがけほ~り咳して、お宅が責任感じて腹を切るとかやめてくれよな」  ニラを切るために咲桜は立ち上がった。反対に稲城長沼は床に落とした寝衣を拾って身に付ける。彼はまた口元に手を当て咳を殺した。 「オレは健康優良児だから遠慮しなさんな」  簾戸を越え、閉めた途端に空咳が聞こえた。ニラと玉子の雑炊が出来上がると器に(よそ)う。風邪っぴきは寝ていた。床板が軋んでも目を覚さない。打ち解けたのか、油断されているのかは分からない。頬が赤らみ、長く豊かな睫毛はクマケムシを思わせる。 「稲城くん」  呼ぶとすぐに目を開けた。重げに身体を起こす。雑炊と匙の入った器を受け取ると、おとなしく口に運んだ。 「食ったら帰る。まだ残ってるから帰って欲しくなかったらのろのろ食うこってす」  喋るのも厄介なのか首が落ちたように頷いた。彼は一杯で満足し、徐ろに横になった。中身が野良猫になってしまったみたいだった。いつもと比べても輪を掛けて静かだ。 「オレは帰るよ、稲城くん。養生とご自愛頼むよん。何よりも、山鳩クンのために」  小さな咳が聞こえた。それが妙に咲桜を感傷的にさせる。簾戸を閉めるだけ閉め、まだ火を消していない囲炉裏の側に腰を下ろした。世間は夏のはずだったが肌寒い。すでに外は暗かった。咳がほんのりと明るい空間に沁み入っていく。火が弱くなったのを機に咲桜は帰り支度をする。控えめな咳に後ろ髪を引かれる。稲城長沼の家を出ると前方を塞がれていた。まず雪駄(せった)が視界に入った。なぞるように上へ辿る。着流しだ。羽織も袴も付けていない。角帯に指を引っ掛け、そこに留まる腕には濃い色の念珠が嵌められている。垂れた房飾りは止まっていた。 「これはこれは、若旦那。ちゃんとお屋敷(うち)の人にお出掛けの旨は伝えましたかね?」  雪の妖怪みたいな野州山辺の次男と目が合っていた。しかし彼は茶化しに応えることなく咲桜の脇を通り抜けようとした。 「待って、待って。病人ですよ、もはや(あれ)は。野州山辺の人間が病人を打ち据えるのは大変見苦しい。徒手武術ってのは対等な人間を蹴って殴って叩き付けてこそ愉快なんですよ。病人や下人を打ち据えて喜ぶのは暴力です。変態だ。性癖なんです。草木萌ゆる感慨なんですよ。救いようのない好事家なんです。自覚してくださいや」 「大根役者が過ぎた口を利く」 「まぁ、若旦那の暴力は暴力じゃなく、ご指導ご鞭撻、真っ当なお仕置きで折檻だというのなら話は別ですがね。病人に手を上げるという点では……話は同じです。野州山辺の名が堕ちるのは変わりません。何故ならオレが吹聴するから。いいんじゃないですか?大根役者がお嫌いなら嘘寒い信奉者もお嫌いでしょう?嘘寒い信奉者か盲信者か、(ふるい)にかけられて。それともこれとは訳が違う?」  咲桜は良家の次男に肩をぶつけて進行を阻んだ。青藍(あおい)は足を止め、咲桜と向かい合う。兄弟揃って背が高い。 「叩き叩かれる関係の契りだとしても、今は、良い時機じゃないです」 「大根役者のお前に代役が務まるのか」 「ええ、もちろん、もちろん。でもここではいけませんよ。なにせ他人宅(ひとさま)集落(むら)ですから」  青藍は鼻を鳴らす。咲桜は地面を(にじ)る。衝撃が顔面の中心を襲う。鼻の奥が熱くなる。それでいて人中は冷たくなった。温度が相殺されそうで、擽ったさに感覚を奪われる。やがて疼痛が波紋を描く。 「若旦那ぁ……話聞いてました?」  鼻を摘んだ。血が落ちたのが見えた。 「来い」  腕を掴まれたりはしなかった。摘んでも出てくる鼻血を滴らせながら遠慮のない速さで歩く次男坊を追う。(あかがね)部落を出て、さらに北。顔面の浅いところにある鈍痛で視界がふらついた。冷淡に歩く青藍は茂みに入った。木を切り倒した跡がいくつかあり、草が刈られている。着いた途端、咲桜は胸ぐらを掴まれた。頬骨が爆ぜそうな勢いに呼吸を忘れた。呆気なく均衡を崩し、地面に背を打った。 「あの熊みたいな男に翠鳥が犯されたらどうする気だ」  質問者は答えを聞くつもりはないらしく、次男坊は起きかけた咲桜の腹に乗った。容赦のない殴打をもう一度喰らう。 「いやだな若旦那ぁ……ご自分の姪御の存在(すがた)もお忘れになったんですか」  鉄錆の匂いが鼻にこびりついている。口の中は砂糖とは異質の甘みが広がるが、それを味わっている間もなく拳が落ちてくる。人為的な熱量を持ち、柔らかな肉を狙う。 「あの娘も翠鳥があの羆男に喰われる様を見たがる」 「見たがりませんよ、そんなの」  前髪を掴まれ、後頭部が地を叩く。後ろにも眼球があるのかと思うほど連動して視界が明滅する。 「見たがる!貴様もだ。本当はあの羆に翠鳥を食わせる気だな……!」 「もう憂鬱症になってます、若旦那。神経衰弱です、」 「翠鳥は渡さない、翠鳥に手垢を付けるな、翠鳥を(たぶら)かすな……!」  厳かな念唱に似ていた。呟くようで、しかし焦りを秘めている。何度も拳を振り下ろす。薄い肉越しに骨同士が当たり、不快な振動がある。反撃を恐れた子供同士の喧嘩を思わせる。やがて房飾り揺れる腕が咲桜の首を絞めた。力加減、色濃く落ちた影の奥にある表情で、咲桜はこれが上官からの"可愛がり"に準じたただの折檻や悪い趣味でないことを覚る。声は掠れきり、研がれた息が抜け出る。 「苦獄に堕ちろ鹿楓(かえで)……!」  噛み締めた歯が見えた。夏でも風呂場でも凍りついた顔面が崩れている。力の籠って硬く張る腕を拒み、いつの間にか引っ掻いていた。爪が捲れるほど、加減も出来ず、青藍を拒むためだけでなく苦しみからの逃避のために皮膚を裂いた。痛みか、御しきれない力のためか咲桜の首ごと重なった手が震える。 「俺から平穏(シアワセ)を奪うな……俺の胸を掻き乱すな…………!」  片腕が首の上から退く。その隙をついて起き上がろうとするが見切られていた。上体の重さを使われて咲桜は再び後頭部を地に埋める。一瞬呼吸を求め開いた口に冷たく硬いものが詰められる。歯にぶつかり、舌の上に粉末状のものも降る。鉄錆の匂いから土臭さに変わった。念珠がじゃりじゃりと鳴った。振り上げられた拳に無数の瑠璃石が巻き付けられている。目の前が真っ白になる。顔面がよく熟れた柘榴になった気がした。体液の溢れた口から石ころを噴き出す。唾液よりも粘り気の弱い液体が地面に広がる。少なからず混じった口の津液(しんえき)がそれをすぐさま放さず、執拗に残る独特な甘苦さに吐気を催す。喉を上手く通らず、噎せる。この威力の大きな一撃は青藍にも反動があったらしい。咲桜の反応にか己の痛覚にか怯んだ様子があった。呆然と、自身の股の間から飛び出した大根役者が血を吐き出して咳き込んでいるのを見ていた。咲桜は良家の暴漢のことも忘れ、喉を押さえ激しい咳嗽(がいそう)に陥る。生理的な涙が睫毛に絡み視界を霞ませる。草臥れた袖に血が付く。顔を上げる。  青藍の目が見開かれたのは咲桜にも見えた。帯で結ばれてもゆとりのある着流しに包まれた下半身が大きく捻られる。足首にも巻かれた数珠の残像ばかりが脳裏に張り付く。強く頭を足で打たれ、咲桜はふたたび地を這った。肘で上体を支えていたが、(とど)めとばかりに伸びてきた足裏に胸を押され、地面を枕にする。骨が軋む。鼻は削げ落ちたように冷えて沁み、口腔は熱く疼く。息もままならない。 「二度と蘇るな、鹿楓……!」  耳に届いた乾いた音は繊維の摩擦に違いなかった。 「禁止ばっかするじゃん」  最後にもがいてみるが、逃れることは叶わなかった。負け惜しみのようにぼやいた。声は嗄れ、水音が口から漏れる。手は皮膚を辿る。爪の先を埋め、薄皮の下まで掠め取っていく。腕と揃いの赤い裂傷が(すね)にも描かれ、咲桜の首に角帯が巻かれると、胸にかかる重さが増す。呑気に揺れる房飾りは帯の端を連れて反対の手と反対に進む。喉が締まった。(いびき)とも(うがい)ともいえない痛々しく苦しげな音が咲桜の首で轟いた。  啜り泣きが聞こえた。  息苦しさと寒さに大きく(くさめ)をする。水の中にいた。冷水が頬を打つ。口の中の違和感に鼻から息を吸う。鼻腔を錐で劈かれるような、それでいて顔面の皮を剥がされるような痛烈な刺激を覚える。二筋の水が細く落ちた。口から見覚えのある数珠玉がぼろぼろと水面を叩く。他にも継続的に水が殴られる音がする。滝壺だ。ぼんやりとそう高くは無さそうな滝を見上げ、咳をした。口の内膜が疼く。身動きをするが水を吸った衣服は重く、それだけでなく片腕には(おもり)でも括られているように動作を制限されている。  咲桜は振り返った。腕には能天気な色の帯締めが固く巻き付けられていた。その先に人影がある。項垂れるように川に浸かっている。青藍だ。暗い視界の中で白い顔が浮かんでいる。若旦那、と呼んだ。口の中が痛む。喉は灼けたようで声を出すのをやめさせようとした。もう一度呼び、繋がれた片腕を揺らす。だが反応はない。  親指と人差し指で輪を作る。食むのに唇と口角が痛む。そして息を吐くがあまりの喉の痛みにまたもや彼は咳をした。何度か試みるが満足に笛の音は出ず、傷んだ喉の反射によって妨害される。青藍と結ばれた腕を引っ張る。水から引き上げるのは難しかった。空いた手で水滴を垂らす髪を搾り自分で濡らした土の上に座り込んだ。真横の溺死体みたいなのが水を噴いた。鱗も皮も剥がされた白身魚を彷彿とさせる。しかしその腕の裂傷は紅を引いたようだった。2人を繋ぐ紐は固く、何度か(ほど)こうと試みたものの、指が刺されたように痛んだ。野州山辺の次男の腕の肉を(こそ)ぎ取るほどの力を加えられた挙句、切り揃えられるはずの時機を逃した爪は数本折れてもいる。  捌かれ待ちの魚みたいなのの身体を咲桜は叩いた。やがて目蓋が開く。 「若旦那……」  誰何(すいか)されそうなほど干涸びた声は咲桜自身にも違和感を抱かせる。少し喋っただけでも痛痒さが喉を覆い、えずくように咳をした。  青藍の首が転げるように咲桜を向く。彼が起き上がろうとして咲桜の手首が千切れんばかりに痛んだ。骨に響いている。冷えた肉の中に熱がある。 「鹿楓(かえで)……」  手首を折られかねず咲桜は青藍のほうの片腕を振り払った。 「違います」  態度も滝壺に冷やされた。吐き捨てるように否定する。青藍は屋敷では見せないような間の抜けた顔で咲桜を眺めた。 「で、どうするんです、この状況。ここ、どこだか分かりますよね、当然?」  括られた腕を引っ張る。青藍は露骨に顔を顰める。 「死ぬぞ」  白い顔は何か思い付いたのかと鋭くなかったかと思えば、誘うような文言を口にして立ち上がろうとした。しかしもう1人分の重さに下半身の筋力が負けたらしく、濡れた土でさらに衣服を汚す。 「死のう」 「いやだね、アンタみたいなバカ息子と。なんか頭痛いし、サイテー。死んだら呪ってやるからな」  夜は越えているのかも知れない。木々の緑を帯びて、少しずつ明るくなっている。腹も減っている。ひどく疲れ、全身が鈍く痛む。鼻も口も喉も頭も痛い。片腕の自由だけ明け渡し、咲桜は眠気と疲労に任せて目を閉じた。濡れた髪と着物、袴が体温を奪っていく。そこにわずかながらも、今の咲桜には負担にしかならない重さが加わる。土が粘こく貼り付くのも不快で活力を吸っていくようだった。 「死のう、鹿楓…………」 「青藍サンって神懸かりの人?」  精気の抜けて譫言(うわごと)になっている心中の誘いに咲桜はぞんざいに応えた。 「あんたは山鳩を殺した…………」 「殺してないって。まぁ、それくらい歓を尽くしたのは事実ですけれども」  笑っているのか啜り泣いているのか分からない声を漏らし、野州山辺の次男坊は咲桜の片腕を引っ張る。彼に好き放題されて殴られ絞められ蹴られた身体は鉛と化して咲桜から動く気配はまったくなかった。それよりも近くの茂みがカサカサと鳴ったことが気掛かりだった。  羆のいるという地域が限られていることは知っていてもこの山が該当するのか否かは知らない。そして羆でなくとも熊であれば十分に危険だ。 「死ななくてもそこに熊がいるみたいですよ、若旦那。骨まで食ってくれまさ。痛ぇだろうな……嫌だな、食われんの」  蠢く無数に折り重なった草、蔦、枝の壁を凝視する。他人事であれば訓話や怪談になり得た(ゆう)害が目と鼻の先にある。死なば諸共を強いてくる相手みたいに気でも狂ってしまえばよかった。消極的で不本意な羨望が湧く。傷付き疲労困憊の冷えた身ではそれくらいしかできなかった。空腹も眠気も消え、著しい集中と、同時にこの場にはまったく関係のない朗らかな思考を片隅に残す。  咲桜の視線の先で、また葉が揺らめいた。大きさはない。枝が揺蕩う様子はなかった。しかし確かに何かいる。熊の子かも知れない。狸かも知れない。不衛生であること以外を除けば、今ほど狸を愛らしく思ったことはなかった。  茂みが揺れた。大きな影はまだ現れない。子熊かも知れない。親熊に見つかったら、確実に殺される。凄まじい緊張感がありながらも体力がついていけず、頭のおかしくなりそうな浮遊感に襲われる。縛られた片手に力が籠った。皮膚が擦れ、骨に響く痛みだけが現実にある。  草木の隘路から、否、ほぼほぼ簾戸といえる壁から毛に覆われた脚が現れる。だがそれは熊のものとは違った。それは、食うに困っていないどころか飽食の野良猫の足程度の太さと長さを持っている。口吻は長く、醤油だれに漬け込んだみたいな油揚げの色。耳は結飯が転がったようなのが2枚。クロモジの実みたいな目がさらにその下に2つ嵌っている。そして同じように黒い銛に似た形のきのこの断面図みたいのが口吻に乗っている。ヘェヘェと薄桃の長い舌を出している。犬だ。 「若旦那、ほら、死ぬなら首突き出して、オレのこと守って……」  青藍はぶつぶつ独り言を繰り返している。咲桜は犬から目を離せなかった。犬は肉を食う。飢えていれば人も食える。ヘェヘェと犬は舌を棚引かせ、夜の井戸みたいな双眸で咲桜と見つめ合う。先に動いたのは犬だった。咲桜は驚きのあまり肩を跳ねさせる。心臓が脈を飛ばした。毛物は首を仰け反らせ、空に向かって長く細く吠える。咲桜は本物の狼を見たことがない。この毛物は、或いは狼の亜種かも知れなかった。狼は好き好んでヒトを食う。話に聞いていた狼よりも狸に近い情けない面構えをしていたが、ヘェヘェと息を吐き、咲桜に黒々とした目を向けている。活きのいい、若々しい肉を前に興奮している。 「こっちのおじさんのほうが、筋肉あって美味しいよ……」  青藍を目の前に突き出したかったが、彼はぼそぼそ言っているだけで、咲桜のほうでも彼を動かすだけの力はなかった。  犬はまた空に向かって甲高く吠える。瑞々しく美味そうな肉を前に歓喜している。手汗がひどかった。

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