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第21話

 犬が3度目の遠吠えをした。油揚げ色の毛物はすぐ傍の豪勢な活肉をもったいぶった。足踏みする前足が憎らしくも可愛らしかった。咲桜(さくら)は頼りない枝を拾った。犬の毛皮を貫くこともできないだろう。  犬は呑気に吠え続ける。余程、焦らされるのが好きらしかった。咲桜の意識の中にはもはや自身と犬しか存在していなかった。やがて緊張感は不安を覆った怒りに変わる。食われる恐れに飽きるとこの張り詰めた精神のほうが深々と刃の如く身に刺さる。やがて咲桜は叫んだ。犬を真似て、あぉぉ~と甲高く鳴く。犬は遊び相手を見つけたようにまた足踏みして長い鼻先を天に向けた。胸の毛割れからして栄養状態は良いらしい。  忌々しい野犬と睨み合っている間に咲桜の背には冷たい、それこそまさに壁みたいなのが()し掛かった。全体重を預けても構わんとばかりに容赦がない。濡れた衣の奥に、生温かさがある。氷の妖怪にもヒト程度の体温があるらしかった。 「若旦那!正気かアンタ……」  声を荒げると咳が出た。遠吠えを真似たのも喉に染みている。語末は裏返り、掠れた。 「寒い……」 「アンタがやったの!アンタが!」  痰が絡み、繰り返した咳払いが首の内部を苛む。濡れ衣と背中に負ぶさる寒冷妖怪になけなしの体熱を持っていかれ、捕食者を前にしているにもかかわらず咲桜は強い眠気を覚えた。犬の(すすき)を何十本も束ねたみたいな尻尾が持ち上がる。そして甘やかに頭部の中身を吸い尽くすみたいな眠さの奥で毛物は遠吠えを再開する。しかしそれは何の睡眠妨害にもならなかった。彼はすでに意識を手放していた。  交互に持ち上げた腿はひどく重く、走っているつもりでもまったく進まず、疾走感も得られず、ビリビリとした痛みが膝を襲う。汚泥の中を走っている心地になる。もっと速く走れるはずだった。何故走っているのか分からない。追われているのか追っているのかも分からない。ただ腿上げの如く、移動距離は伸ばせないまま走っている。あまりにも動けず、上半身は前にのめっている心地である。  油揚げの醤油漬けみたいな毛物に尻を咬まれ、咲桜は飛び上がった。だがその大きく揺れ震えた身体は強靭な拘束具によって押さえられていた。それは平たくはなく、革製でも護謨(ごむ)製でもなかった。人肌なのだ。逞しい腕と分厚い胸板が咲桜を封じている。青藍の常々の態度と等しく人肌を拒絶し突っ撥ねるような質感ではなく、内包の意思を秘めた、疑いたくなるほどに人馴れした圧迫感と柔軟性だが、本当に人間の体温かと思うほど熱く、咲桜の全身の汗だけが冷え、非常に居心地が悪かった。肉布団から慎重に抜け出す。 「陸前くん」  今、彼を簀巻(すまき)にしているも同じの肉体の持主がしっとりとした声を出した。咲桜は何か汗の一筋でも背を滴ったかのような落ち着かなさだった。 「だ、旦那……」  太くも引き締まった腕は咲桜の頭に回り、髪に触れる。声を発すると喉が痛痒くなり、小さく咳をする。咲桜は寝着だが、同衾相手は全裸だった。それに気付くと、目覚めの跳躍が再来する。 「ちょっ、なんで……裸…………」 「随分と身体が冷えていた。本来は女性(にょしょう)の身体がいいらしいが……」  布団から裸体が起き上がる。嫌味のない男振りが素肌と布団によって妖しい雰囲気を醸している。 「な、何が、何が良いらしいんです?」  短い言葉でも煙に燻されたように彼は浅い咳を2度ほどやった。 「温めないと……健康を損ねる」  健康を損ねる。咲桜の脳裏にいじけたような仕草で咳や(くさめ)を往なす姿が過ぎった。 「稲城くん、ああ、そうだ、熊みたいな男いたでしょ!なんとか安河とかいう…………」  巴炎はわずかに眉を下げた。そこからは戸惑いが窺える。 「稲城長沼くんはもう回復した。三河安城(みかわあんじょう)さんは少しの間、この屋敷(いえ)に泊まることになったんだ」 「あ~~っえっと、火子(あかね)お嬢さんに会いたいんですがね」  咲桜は大きく乱れた襟元を直した。それなりに引き締まっていても巴炎の前では貧相だ。 「それは、後で……今は身体を休めたほうがいい」 「いいや……ぼかぁ今すぐ火子お嬢さんに会いたいんでさ……………あ~、もちろん、変な意味ではなく……………こう、ああ~日常に戻ったゾ、という実感が欲しいんでぇ」  野州山辺の当主は大きな目を泳がせた。抱いた領主というよりは抱かれた哀れな人質を思わせる嫋やかな雰囲気で、背中で持ち上げている布団なら温もりが逃げていくようだった。 「分かった。ここに呼ぼう。私も服を着るから、少しの間、背を向けていてくれないだろうか」  咲桜はぐるりと宙を見回した。落ち込んだ年上男に軽やかな嗜虐心が生まれた。火子に会わせないことの腹癒せでもあった。 「……嫌です」 「え……」  快諾を信じて疑っていないらしかった。腰の辺りまで抜け出て顔を真っ赤にした。 「見てて差し上げます。なんか御利益がありそうですな、旦那の裸体は」  共に風呂にも入った仲で、湯中りした彼の介抱もしたのだから深い意味はない。意地悪く掛け布団を見ていた。 「あ………その、陸前くん……」 「なんです。お着物を召さないとですよ、風邪ひきますから。稲城くんみたいに」  巴炎の瞳は忙しなく前方、左右の畳の目を転々と捉えた。顔は哀れなほど紅潮し、硬直している。 「見、見られながらというのは……」 「大丈夫ですよ、旦那。何も照れることはありませんや。肉体美といいますか、耽美派です。馬喰横山(ばくろよこやま)戯餓鬼(しゃれがき)の絵にもありましたな。唯美派というやつですよ。旦那の身体はそれだけうっとりしちまいます」  途中で喉が痛み出すが咳を堪えて言い切ってしまう。 「恥ず………かしい、」  咲桜は意地悪く、そして意味ありげに片目を眇めて襖を向くよう尻を回した。ここで、漠然と腰や肩が鈍く痛んでいることを認めた。 「ま、待ってくれ。着替える……から」 「いいえ、いいんでよ。ボキはそもそも同性(ヤロウ)の素っ裸見て喜ぶ嗜好(しゅみ)はありませんからね。ええ、何も気にするこたぁありません。馬喰横山(ばくろよこやま)戯餓鬼(しゃれがき)の絵じゃないようですが、こうして襖の絵を眺めていますからね。どうぞ、ごゆるり」  生真面目なこの屋敷の主人はそれを臍を曲げての行動と受け取ったらしかった。取り繕うような言葉が何度か投げかけられる。 「緊張してしまって……陸前高田くん、その、すまなかった。画匠に(なぞら)えてまで私を褒めてくださったのに、私といえば恥ずかしがってしまって………他意のない陸前くんに私は破廉恥にも勘繰ってしまった。どうか、許して欲しい…………陸前高田くんになら…………見せられるから…………」  巴炎は同情の念を禁じ得ないほど憔悴し、早口で、声を震わせながら捲し立てた。 「ええっ、いや、ボキには見せられるというのもいくらか照れ臭いですな。ホント、冗談ですんで!本当に!」  振り返るのを躊躇いながら声は上擦り、語気は強い。 「………見てくれないか」  巴炎の調子が変わる。覚悟を決めたらしき語末は落ち着いていて揺らがない。 「見てくれ」  咲桜は恐る恐る振り向いた。そうさせられた、という心地だった。鼻先を導かれ視線を引き寄せられている。野州山辺の当主のしなやかな全裸は着太りしていたわけではなく、有名な社寺閣に置かれていそうな双対(そうつい)金剛杵(こんごうしょ)神人像みたいに筋骨隆々としていた。目元の穏やかさえなければ、まさに化身といえただろう。そして髪と同様に黒々とした茂みを、太く長く確固とした繁栄の象徴が掻き分けている。自身も持っているもので珍しさはない。ただ形状や大きさなど、他人のものを好き好んで見たりはしなくとも気にしないではいられないこともある。だがこの時、咲桜は意識してそこに目をくれたわけではなかった。本能が、野州山辺巴炎の温厚な人柄とは正反対の凶暴げな肉砲を危険視した。しかしその醜くも逞しく、ある種の残虐性を匂わせた逸物を総合しても美しいとしか言いようのない男体の前に慄く。  裸体を晒し混乱しているのか猛々しい勃起に咲桜は気拙い思いをしつつも、それを悟られまいと喋り続けた。 「さ、さ、お身体の冷えぬうちに服着ましょうや」 「どうだろうか……私の身体は…………」 「ご立派です!もちろん、下半身(そちら)のほうも!やっぱり旦那はいい男っぷりですよ!ご尊顔、肉体、閨房、ぼかぁ旦那に勝てるところがありませんな!わはは」  裸体でも優勢な者が纏う威圧感を放っていたくせ、咲桜がおどけた態度を取り、また故意的な、しかし悪気のない咳を繰り返すとその神秘的な男は情けない顔に戻った。 「陸前くん……………私はどうあがいても、君には勝てない」 「なんでです?ちょっと、召物を羽織ったらボクのこと締めてみてくださいよ。多分ボキは振り解けないと思いますよ」 「そういうことではなく………………陸前くん。陸前くん、私の目を見てくれないか」  隆々とした両腕が咲桜のそれぞれ肩に乗る。形を掴まれている。向き合わされ、背くことはできない。喉の痛みが少し引いた。しかし代わりに薬を何度か飲み損じたらしき縫合の傷が疼いた。 「見てますよ」 「陸前くん。君は1日中眠っていた」 「そ、そんな!きちんと火子お嬢さんのお勉強を見ていますよ!それに旦那のほうで手伝うこととかあればやりますって!1日中寝転がって飯食ってるまた寝てるだけだなんてそんな!そんな、そんな!」  白状したも等しい動揺で早口になった。 「そうではない。君は稲城長沼くんを見舞った後行方が分からなくなって、青藍と滝壷で見つかった。それから1日中だ。一度も意識を取り戻さなかった」  古さすら感じる額の傷が痛んだ。記憶を辿り、いじけたように咳をする偏執狂の隠密のところまでは容易に思い出せた。そして瑠璃石の念珠と、滝の音、野犬の生き餌になりかけたことが手慣れた紙芝居のように蘇ってくる。 「あ、犬!奇態(けったい)な野犬がいたんですよ。あれが怖くて泣いたっけ。いや、泣いてないんですけれども。揚げられ過ぎた天麩羅みたいな色してたんですよ。もう少し前なら大事な食料だったんですがね。何しろ片腕が、――…」  言いかけて止めた。誰と縛られていたのか、目の前の男は知っているのだろう。そしてそれを、何かひどく重苦しく真剣な問題が彼との間に横たわっているようで、おどけられる域を越えていた。次男は死んでいるのではないかと思うほどだった。しかし次男が死んだという心配はひとつもなく、また一言も聞いていない。 「あの犬は、三河安城さん御抱えの忍びだよ」 「犬が?」 「そう。葵菊任(きくじん)組といってね。鬼雀茶(きがらちゃ)衆よりずっと大きくて歴史のあるところだよ。犬や鷹も使役しているんだ。いくら鍛えられていても人間にあの規模の山を捜索するのは限界だった。君は目星をつけた区域とはまったく離れたところにいたから、尚のこと……」  太い眉が不安げに下がった。咲桜を見る大きな眼が幅広い二重瞼の下で光っている。青藍に会ってから滝壷までの間に夜を明かしていたことも、1日中眠っていたことも、下品な犬が忍びであったこともすべてが信じられない。嘘や冗談の下手そうなこの野州山辺の純朴長男が唆され、今からでも作り話と打ち明けはしないか期待していた。 「っていうかあのおっさんはそんな立派な人なんです?」 「三河安城といえば野州山辺よりずっと長くて由緒正しいお家だ」  もう一度、三河安城という巨人を思い出してみる。とても巴炎の話しているような家の出とは思えない。数珠を引き千切って弾き飛ばすような野蛮な男だ。 「旦那のほうが高潔な感じしますけどね」  これはふと顔ごと視線を逸らしてからまた咲桜の瞳に戻る。 「陸前くん……私はもう、君にこんな危険な目には遭ってほしくない」  おそらく躊躇いがちにでも婉曲的にでもまた弟に関わるな、あの弟に分別はないと語られるのだ。そう高を括っていた。疑うこともなかった。何故ならば咲桜は断定し確信していたからだ。実際にこの男の弟に襲われ、殺されかけ、無理心中を企てられたのだから反抗できるはずがなく、前回の問題を穿(ほじく)り返して反省する必要がある。  言葉を待つが巴炎は口をわずかに開いたきり、まだ逡巡している様子があった。 「旦那?」  あと1人、この部屋に居る者がいた。咲桜と巴炎の他に。気配はなかった。肩を押さえられている彼の両手が後ろで結ばれ、視界を覆われる。 「旦那……」 「陸前くん。もう君から目を離さない」  首に柔らかな布を巻かれたのが分かったが襟巻の類いではないらしく、一巻きもせず頸で結ばれる。まるで捕虜の扱いだった。物音とともに咲桜は(きづな)に繋がれた。飼育されることになったのだ。  食事、風呂、就寝、目を離さないどころか巴炎は物理的にも離さなかった。そしてそれは村娘との閨房のときも然り。壁際の万年床で肘の枕を当てがい村娘が野州山辺の当主と交合のを見ていた。色気や艶情というものは感じられず、どの村娘とも互いに嫌がる様子はなかったが乾いた生々しさや義務感や気遣い、遠慮は他人行儀の限りを尽くし、空気は堅く張り詰めている。村娘は首輪をし、絆に繋がれながらも呑気に腹を掻いて寝ている半裸みたいな傍観者を気にした。薄手の大きな寝衣が大きく、紐を結んでも(たわ)んで胸は丸見えだった。彼女は野州山辺の当主以外に素肌見られることを警戒し、恥じらい、その男の動向を気にしている。情交というよりも体操という感じが強く、目の前で行われていることに何かという反応を示すことはなかった。  湿ったふたつの息遣いを聞きながら欠伸をする。村娘を膝に乗せている巴炎の潤みがちな目が飼男を見た。二度目の欠伸が出る。火子にも山鳩にも会うことができず、また彼女等のほうからこの部屋を訪れることもない。使用人すらも近付けさせず、一言も喋らない稲城長沼の仲間みたいなのが細々(こまごま)とした用をこなした。  野州山辺の主人の気が散っていることに村娘も気付き、気付かぬふりももうできないまでになっていた。他の知らない男に裸体を晒し、哀れな少女も困惑顔で咲桜を見る。この状況をどうにかしろとばかりだった。だが関係のないことである。鼻を鳴らした。彼はいくら機嫌が悪かった。それは朝食後に遡る。まだ咲桜は片腕の縫合の痛み止めを飲む必要があった。その薬を巴炎が持っていたのである。袋も同じで、医者の癖が強い達筆も陸前高田咲桜に宛てたものを示している。中紅梅の壁が特徴的な野州山辺の養女の部屋を二間ぶちぬいた状態にある咲桜の部屋から持ってきたらしかった。ここまでならばそう神経質でもなければ疑り深くもない彼の気性上、特に腹を立てるほどのことでもなく機嫌に影響は出なかったであろう。この粉薬を咲桜は嫌っていた。味を誤魔化すための薬草の甘苦さと草っぽさ、ありがた迷惑甚だしい薄荷の清涼感が苦手だった。巴炎は当主自らの手で咲桜の舌の上へ粉末を入れると、口移しで水を飲ませた。口の中で粉に水分を奪われているところへ巴炎から水を与えられたのだ。人口呼吸のようなもので恥じる必要はない。人助けであり立派な行いだ。しかし、咲桜には湯呑を持つだけの力もあれば嚥下の機能も衰えてはいなかった。口移しをされる必要性がどこにも見当たらずにいる。その時は確かに両手の自由を制限されたが、逃げる意思を一度たりとも見せていないのだ。まず拘束される理由も分からない。  ぼんやりしていると強過ぎるほどの眼差しに気付いた。至近距離も至近距離、鼻先、眼前にある若い女のことも忘れたように燃えるような瞳が、腹を掻き、耳を掻き、鼻を掻き、口蓋垂まで見せて欠伸をする咲桜を捉え放さない。目交(まなか)いに入ってしまう娘を除け者にして、2人の目が合う。少女の瑞々しい身体が上下に動いた。咲桜からみて巴炎は房事に長けていない。第三者がいるためか、手はぎこちなく、抱動は中途半端で、自分よりもひと回り、ふた回りは小さく細い者を抱いているという自覚の足りていないところがある。しかし口を出すのは部外者としてあまりにも野暮だ。顎を鳴らして欠伸をし、傍観に徹底する。火子に管を巻き、稲城長沼をからかい、山鳩の様子をみて、厨房で使用人と無駄話がしたい。巴炎と稲城長沼のお仲間のひとり、そしてここに出入りする村娘以外、親しい人々の顔を見ていない。青藍が無事なのかも知らされていない。知らされていないということが咲桜にとっての手蔓でもあった。死んだか、座敷牢だろう。じっとしていることにも飽きている。隣の布団では巴炎が娘を下に敷き、丸みのある腿に挟まれながら腰を揺らしている。どこか意気地のない見窄らしさがあった。娘はやがて、巴炎を気遣う。中断を切り出したのは彼からだった。溜息を吐きながら首を振り、柔らかな声音で相手を労い、詫びた。媚びているようにも聞こえた。野州山辺の当主は簡単に衣を纏うと丁重に娘を見送る。  咲桜は尻たぶを掻いた。稲城長沼のお友達みたいなのが布団や濡れ布だの懐紙だのを片付けた。香染目(こうぞめ)というらしい火子と同じ17歳の男で、会釈や首肯はするが一言も喋らなかった。顔の右側に火傷の痕があり、赤痣のようになっているが眉毛や睫毛の根までは損傷しなかったらしい。この国の美的感覚からいって、その訳のありそうな痛々しさが侘び寂びとしていっそう、整った顔立ちのこの寡黙な少年を引き立ててみせている。顔を合わせたらそこに目を向けずにはいられなかった。咲桜もそのひとりだった。この若い忍びの出自は知らぬが戦時中を生きた者ならば傷があるのはそう珍しいことではない。都会なぞは片腕や片足のない者も少なくはなかった。咲桜もまた目立ちはしなかったが銃剣訓練中に負った傷が指に刻まれている。  巴炎が戻ってきた。手に胡瓜を持っている。彼は落ち込んだ顔で咲桜を見下ろした。そして軽く嘆息すると飼男の前に胡座をかいた。 「さぁ、お食べ、咲桜くん。つまらないところを見せてすまない……」  味噌を先端に塗りながら巴炎は胡瓜を飼男の口元に運んだ。咲桜は飼主を見上げる。肩越しで香染目が憫然とした眼差しをくれた。目の色が薄い。土瀝青(どれきせい)―アスファルト―がいくらか茶色がかった色をしている。 「さっきの娘のご両親からいただいたんだ。今朝獲れたんだそうだよ」  口を開く。遠慮がちに野菜を咥えさせられる。小気味良い音をたて繊維を噛み切った。巴炎は一咬みごとに味噌を塗った。指は塩気に蝕まれ、やがて痒くなるのだろう。しかしこの男の太く頑丈げな手の皮膚はそれらを跳ね除けてしまいそうでもある。 「今日は少しいつもより暑いみたいだ」  咲桜は黙って胡瓜を齧った。昨晩から会話はない。舌も顎も重く感じられた。 「傷は痛くない?」  問いにも答えない。目を逸らし、棒状野菜を短くする。 「怒っているのかい」  まだ指に一口と少し餌が残っていたが咲桜は壁を向いてしまった。視覚を殴り緑色の面影を置いていく中紅梅の壁が恋しい。 「おれを許しておくれ。怖いのだ、また君がどこか行きはしないかと……」  またもや飼男には反応がない。壁を剥いているほうが有意義で生産的であるかのようだった。 「こんなことをして、好かれないことは分かっている……ただ、嫌わないでほしい…………恨みに思わないでおくれ。君に憎まれるのだけは、我慢ならない」  雪崩を起こしたように咲桜は飼主に背を向けたまま寝転がった。薄布が掛けられる。少ししてから襖が閉められた。咲桜は広々とした一間を顧みた。稲城長沼と違い香染目は脇に控えることもせず真ん中に突っ立ていた。いくつも変わらないくせそれがひどく若者らしかった。 「さっきの話聞いてた?都合良すぎじゃね?別にこれっぱかりも恨んじゃいないけどさ」  微苦笑をして訊ねてみる。舌でも抜かれているのかとにかく無口な若い忍びは首を傾げるだけだった。 「オレは(てい)のいい商売女かよ。色街行っちゃいけない感じの人だよ。そう言っておいて。ああいうのは最初無害だけど段々有害になっていく客さね」  それがほんの短い期間、日銭を稼ぐため迷惑客を追い払う仕事をした咲桜の談だった。若い忍びも先程の咲桜同様に顔を背けた。

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