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第22話

 咲桜(さくら)はこの屋敷の主人に寵愛されているらしき立場に甘え、飼主が戻ってくるまでの間、香染目(こうぞめ)に管を巻いていた。ほとんどは巴炎(ともえ)の奇行についてである。そして火子(あかね)や山鳩のことを訊ねた。首だけで肯定か否定を示す寡黙なこの少年もまた山鳩にただならぬ感情を抱いているらしかった。視線を合わせれば誰でもそこに気が取られるほどに色素の薄い瞳が、山鳩の名を出すと泳ぐ。しかし好きなのかと冷やかせば、彼の先輩と反対に頑なに否定するのだった。首の振り方の威力がただの否定と大きく違う。 「山鳩クン、なかなか罪な男だよな。で、君からはなんか仕掛けたの?上官が怖くて遠慮してるん?」  稲城長沼のお友達みたいなのは頭を横に振り続ける。それが大人びた年少者の見せる子供らしい仕草で咲桜は楽しくて構うのをやめられなかった。けらけら笑っているうちに襖が開く。咲桜の悪戯っぽい唇が引き結ばれ、ほぐれた顔はすとんと無に帰る。 「陸前くん……」  夏場だというのに汗臭げで暑苦しげな大男が背に纏わりつくのだ。咲桜の首は絆を留めた襟巻き越しに頑強な腕が巻き付いた。 「許してくれ……」  咲桜は黙った。稲城長沼のお仲間みたいなのは先輩と違ってご丁寧に足音を立てる。踵を返したらしかった。2人きりになると咲桜はただ抱き枕になるしかなかった。繰り返し詫びを聞き、抱き締められ、頬擦りをする。夢の中で走行を阻止する正体不明のへどろみたいな強靭なのが腰を押さえつける。背中は汗ばんだ。頬や首、耳に素肌が当たりはするがいやらしく触ったりなどはしなかった。  実弟に疎まれているためか、この長男は人に嫌われるのをひどく恐れているらしい。咲桜はうんざりしていた。根は喋らない男だった。黙っていることは苦ではない。しかし陰気で根暗、ひとりでいることの多かった彼は、弟や妻以外との身体接触も得意なほうではない。この密着と懐かれようは疲弊する。火子や山鳩のような相手でなければ。  忙しい巴炎はいつまでも飼ったばかりの男を愛でているわけにも行かなかった。次に村の家々の巡回があるという。誘われたが返事はしなかった。飼犬が手を噛むように飼男が村中に響き渡る声ですべてを暴露する。そういう危惧はないのか。稲城長沼のお仲間みたいなのに目配せするがそこに答えはない。巴炎は眉を下げ、ひとりで行ってしまった。 「オレ連れていってどうするつもりなん、あの人」  明るい色の瞳が咲桜を捉えて首を傾げる。 「村のお偉い人がオレみたいな間男じみた好男子を捕まえて自分の部屋に繋いでるなんて知れていいの?」  突っ立っている置物みたいな若者に悪態をついていると合図もなく襖が開いた。置物が気に留めなかったところで咲桜も気付けばよかったのだ。 「オレは自分に懐いちゃくれなかった弟の代わりかよ」  そこで鴨居の下で立ち竦む巨体に気付く。傷心した表情の彼は咲桜のもとに来て布轡を嵌めてしまった。腕も足もきつく縛られる。畳に転がり、癲狂から正気に戻ったみたいに突っ立っている若素破の奥に広くがっしりとした背中が襖に消えていくのを見つめた。  膝を折り、伸ばし、のたくっているうちに鬼雀茶(きがらちゃ)衆の下っ端みたいなのが置物をやめて襖を向いた。間もおかず軽く叩かれる。今まではこの置物みたいな少年が部屋に到達される前に迎え出ていた。 「お父様」  火子だ。 「ご不在です」  初めて香染目が喋るところを見た。中性的な声の高さで、気取ったように堅い。 「まぁ……そうなの」  咲桜は呻いた。陸に揚げられた魚の如く、ばたばたと跳ねる。何か観念したらしき、しかしそれにしても先輩と同じく表情のない顔が陸上の巨魚を一瞥する。 「開けますわ」  襖が開き、少女が目に入った。彼女は大きな目をさらに大きくする。釣られてもなお活きのいい魚は尾を畳に打ち付けた。 「やっぱり……」  野州山辺の娘は咲桜の絆や拘束具を取り去るより先に置物みたいな若者に向かっていった。 「あなた!どういうつもりなんです?目の前で陸前高田先生が苦しんでいらしってるのよ!何故、お父様の味方をしたんです!こんなことは間違っています!見て分かりませんでしたの?」 「はい」 「見て分からなかったんですのね!わかりました。これは間違っているんですの!分かってくださいな。分かりましたわね?あなたが解きなさい!」  火子は腰を曲げ、前のめりになって人差し指を突き出した。 「拒否いたします」  野州山辺の養女は驚いた様子はなかったが、露骨に嫌悪を示す。 「………理由を述べなさい」 「(わたくし)はお屋形様の(めい)に従います」  彼の唇は動かなかった。口でも喉でもないところで喋っている。腹で話している。 「残念ですわ。こんなことをして、お父様はあなたに甘え続けるのね!お父様の後悔も膨らむことよ」  激しい侮蔑の色を灯していた火子は一瞬で顔を変え、咲桜の布轡をまず外した。 「なんか久し振りの感じする」 「毎日顔を合わせていましたからね。それより身体のほうは大丈夫なんですの」 「うん、大丈夫。でもいいんかい?お父様とケンカになるんじゃない?」 「人ひとりの自由を奪って起こる喧嘩なら真っ当な争いごとです。あなたが言うんですの?囚われたのが翠鳥なら、あなただってこうしたでしょうに」  火子の肩越しに見た置物の特徴的な目とぶつかる。逸らされた。 「山鳩クンはどうしてるの」 「叔父兄(おじあに)が、目覚めなくて………ずっと付き添っていますの」 「若旦那が?目覚めないって、ずっと?」  彼女の小さな顎が首に判を押す。 「なんで」 「それが……あたくしの口からは何と説明していいか……………」  火子の目はどこともいえない咲桜の口元や首、胸をぼんやりと凝らしていたが、神妙は面持ちになったかと思うと咲桜の顔色を窺うように覗き込んだ。 「大怪我してんの?」 「いいえ。これという外傷はありませんでした。もっと、内々的なもので…………病気ではありませんのよ、病気ではなくて………」  その目で確認して欲しい、そういう感じが伝わった。火子は警戒した様子で若い置物を気にした。稲城長沼に対する強く厳しいものではなくまだ遠慮や、同時に得体の知れない相手へ向ける類いの恐れを秘めている。 「行きましょう。こんなことはおかしいんです」  彼女はまるで自分に言い聞かせているみたいだった。しなやかな手で自分の指ほどの太さもある固い縄を解く。 「こんなことはおかしいんです、こんなことは……」  濃い曇空のような瞳の置物は控えることもせず主人の娘を見下ろしている。桜色の下唇を甘く噛み、女子(おなご)の丸い後姿を熱心に眺めている。猫の耳みたいなりぼんで結われた栗色の毛先が滑る背に夢中になっている。咲桜はそれを知るとふざけた、なんとも陰湿な微笑が浮かんだ。 「香染目くんはどうするの」  意地悪く意識の矛を置物に突き付けさせる。火子は訝しむ(よし)もなく振り返った。 「このことはどうぞ父上に、包み隠さずお話しなさい。けれどあたくしにも言い分があります。こんなことはおかしいはずだとお父様は分かっているはずです。このことも付け加えて……」  若素破は今までただの石みたいだった目に力を込めて頷いた。 「カレとも知り合い?」 「いいえ。鬼雀茶衆のことはそれほどよくは知りませんの」  寡黙で腹喋りをする忍び少年の眼はゆっくり火子から逸らされていった。自由の身になってから最初の笑いを咲桜は堪えた。 「翠鳥が心配なんです。飲まず食わずで……早く寝かせてあげたいのですけれど」  翠鳥は、翠鳥が、翠鳥に、翠鳥を、と火子はそればかり口にした。巴炎の部屋を出るまでは咲桜はそれを愉しんでいたが、襖を閉めた途端に他人事でなくなる。青藍が目覚めず、山鳩が付ききりで誰も寄せつけようとしないということまでは分かった。 「っていうか、オレさ、何が起こったのか、まだよく分かってなくて……アナタの叔父兄様にぶん殴られたのまでは分かるんだけど…………ああ、そうだ、稲城くんの風邪はどうなのさ?あと稲城くんのお友達も(まず)いことになってたよね」 「稲城長沼さんはすぐに回復しました。もうひとりの方も無事です」  彼女は少し恥じたように唇を忙しなく噛み揉んだ。 「そりゃよかった。で、安土桃山(あづちももやま)さんだっけ?」 「三河安城(みかわあんじょう)さんはうちに泊まっています。お兄さんと叔父兄を発見したのは―」 「あそこン()のなんとか組のわんころりんだっけ。それは旦那から聞キマシタ」  火子の足は青藍の部屋に向かっていた。咲桜は行先も予想せず彼女の後を追う。 「滝壷で見つかりましたの。何がありましたの……あたくしたちが、一度戻った後…………」 「それがさぁ、君の叔父御に殴られて……ちょっと正気じゃなかったな。そのあとは、もういきなり滝壷。片腕なんて縛ってあってさ。熊が来たと思ったら犬でさ、でも犬でも油断できないじゃん。人間に生まれてよかったよ、ホント。野生動物とかあんなのが毎日とか勘弁してほしいよ」 「正気でないのはいつものことですわ」 「だとしたらあれは気が触れたんだと思うね」  青藍の部屋の襖に小さな白い手が掛かる。開いた奥に見えたのは煎餅布団だった。粗末な衣に身を包んだが少年が振り向いた。 「咲桜様……」  吸い込まれるような目を向け、彼は呟く。 「山鳩クン、お久しぶり」 「咲桜様、お身体は、」 「ほぼ無傷。でも山鳩クンがほっぺにチュッてしてくれたら元気になっちゃうかも」  軽く膝を曲げる。山鳩は本気にしたらしかったが火子が阻んだ。幼馴染の手を取って、悪い虫から遠ざける。彼女たちのそういうところを見るのが大好きだ。あの置物小僧に勝ち目はない。 「本気にしないで翠鳥。陸前先生も人が悪いです」  山鳩の間に火子が入って咲桜たちは布団の脇に腰を下ろした。青藍は眠っていても隙のない美貌で天を仰いでいる。 「話してもいい?」  幼馴染がこそこそと話す。平生(へいぜい)ならば首を突っ込み、話に割り入るところだった。山鳩が頷いて可愛らしい2組の双眸が咲桜を捉えた。 「な、何……」  軽く考えていた咲桜は怯んでしまった。 「単刀直入に、と言いたいところなんですけれど、朝口無(アサクチナシ)という薬物はご存知ですか」  この質問で咲桜は次に語られることをある程度予想してしまった。戦前からあったはずだが、戦時中、瞬く間に広まったという感冒薬の亜種のはずだ。用量や使用法を守らなければ気違い水よりも有害で享楽的な毒になる。咲桜も使ったことがないわけではなかった。 「知ってるも何も、使ったことあるし。ドカンと1発当てて来いって時と、デカいの来た時に支給されるんだよ。口に放り込んで飲むなんてまだよかったね。ごりごりに粉砕して炙って吸うもよし、気違い水に溶かして飲むでも注射するでもよし」  若い2人の顔色がさっと青褪めた。咲桜は吊り上がった口元を下げるのに努めた。軍役時代の話は感情や所感に関わらず嗤ってしまうのだった。 「仕方ないね、お国様が人民を家畜だと思ってたんだから。それで、一夜明けても喋れないんだよな、頭の中には満天の星空で、単語は出てくるけど言葉が繋がらない。目は醒めてるのに喋れないから、朝口無し」  火子は隣で震えている幼馴染の肩を抱いた。それが少年少女という青臭く繊細で脆げなものではなく、どこか泥臭さのある逞しいもので咲桜は目を瞠る。 「陸前先生はそれをお使いになって、今、健康状態はどうなんです」 「オレは合わなかったからすぐやめたし、健康問題になるほどじゃない」  咲桜は真っ白な野州山辺次男の寝顔を眺めた。この薬物の特徴的な症状のひとつ、強い喉の渇きで水辺に行き、溺死や凍死するという事故は多いと聞く。 「中毒者は、鬼みたいに気違いになるから鬼キ印なんて呼ばれるワケ。お医者様の紙っぺらにもそう書かれるって噂なんでさ。まさか若旦那が?」  挑発的な問いに火子は毅然とした態度で肯定した。予想通りだった半分、裏を期待してもいた。 「いつからかは知りません。翠鳥は、何か気付いたことがある?」  山鳩は項垂れて首をぶるぶる振った。 「ま、いきなりガツっと使()った場合もあるかも知れないよ。鬼キであれだけ澄ました態度(ツラ)で読経してるの逆にすごいし」 「あ、でも……いつもお煙管(たばこ)を吸っていらっしゃいました」 「木の実みたいな匂いした?なんか、甘い感じの変な匂いするんだよ、燃やしてる時。オレも炙って吸った口だから」  山鳩はまた戦慄するように首を横に振る。 「これは割りと真面目な話なんだけど……少し込み入った話なんだ。お嬢ちゃんはちょっと席外してくれない?」  彼女は呆気に取られた。山鳩も驚いた様子をみせる。 「分かりました」  戸惑いをみせはしたが快く腰を上げようとした火子を幼馴染の少年はその袖を摘んで引き止めてしまう。 「だ、だいじょぶ……おで、怖くなっちゃって………怖くなっちゃったですけれど、だいじょぶです。火子ちゃんと一緒がいいです、おで、怖くなっちゃって、」  顔色や言葉遣いからして彼の生々しく激しい動揺が伝わった。火子は目配せで咲桜に判断を委ねる。 「じゃあ、先に言っておくけど、これさ、人にもよるけど、飲むと暫く男特有の元気ってものがなくなるわけなのよ。それ系の話」  色売りにさせられていた少年は何度も頷いた。 「だとしたら、つい、最近だと思います……」  姉みたいな幼馴染は山鳩の震える肩を寄せた。 「少し休みなさい、翠鳥。ずっとここにいて、何も食べてないんでしょう?」 「それぁいけないね、山鳩クン。何事も交代制だよ、何事も」 「だいじょぶです」  軽げに少女の力で山鳩は立たされてしまった。彼はまた座ろうとする。 「だいじょぶじゃないの。ほら、行ってきなさい」  咲桜は火子に加勢する。 「でも、おで、まだ咲桜様とお話したいです」 「あっ、それ言われるとお()さん弱いな。でもここは任せて、2人で行ってきな」  火子は一言二言謝って溺愛している幼馴染を連れ出した。次男坊の部屋はしんとした。天井板を仰ぎ、稲城長沼を呼ぶ。最後に見たときは風邪ひきだった忍びが現れる。その顔に傷は増えていなかった。火子たちの話を信じていなかったり疑ってかかっていたわけではないが、青藍は本当に目覚めていないということを咲桜に実感ささせた。そして稲城長沼の新しかった生傷が治りかけ、色素沈着や小さな瘢痕以外はほぼ無傷であることが時間の経過を知らせている。 「大変お世話になりました」  第一声で私的な内容が含まれると思わず、咲桜は内心意外に思ったが覚らせず、顔面を崩して繕った。 「いやいいよ。オレが風邪っぴきになったらお春菜(はな)さんが看病するんだし。恩は売っておいて損がないよまったく」  稲城長沼はその話は終わったとばかりに咲桜から臥人を見遣る。 「ここ数日間です」 「何が?風邪ひいてたのが?」  わざと的外れな返答をする。 「若様の薬剤使用期間です」 「そう。サキ勃つものが先立たなかったみたいだけど、山鳩クンとのことはどうしてたの。そっちの方面は」  咲桜は極力、嘲笑と愉快を堪えた。性分として根付いた底意地の悪さというものは良心と真面目と鼎立(ていりつ)し均衡を保っていた。 「…………香染目という若手が務めておりました」 「ああ、あの腹喋り師か。どうしてさ。あの子お嬢ちゃんのこと好きでしょ」  長い睫毛の奥の瞳が逸らされた。そして軽蔑を込めた眼差しに代わり戻ってくる。 「他人の色恋です」 「重大なことでさ。若旦那とオレは同類の性格ひん曲がり師なんだから。手に取るように分かるよ。火子お嬢ちゃんに懸想(けそう)してる香染目くんに山鳩クンを抱かせる、それが露見したら香染目くんはお嬢ちゃんに嫌われる。その様を見て若旦那は良心の呵責に苛まれながら優越感に悶絶し、侘び寂び審美眼の鍛えられたこの人は失恋した美少年に草木萌ゆるが如き感慨を抱いてんだよ。オレにゃ分かる。この人は芸術家なんだから。それで稲城くん、チミは粘着質だから若旦那も躍起になってる反面愉しんでるんだよ。チミが山鳩クンに横恋慕してる限り、チミは若旦那の圧からは逃れられないね、可哀想」  稲城長沼は返事をしなかった。 「きっと若旦那は、『君は姪御が好きなのに、彼女の大事な宝物を汚して興奮している主君不孝なごろつき』だなんだそんなようなこと言ったんじゃない?言ってない?でも思ったよ、この人はオレと同類で、良心があっても底意地が悪いんだから。良心の呵責ってのは出汁(だし)に過ぎないのさ。罪悪感ってのはオレたちみたいなのからすると素敵な酒なんだよな」  これにも相槌や異見はなかった。 「香染目くんとは仲良いの」 「いいえ」  にべもない。哀れみの笑みが自ずと貼り付いた。 「叔母に恋慕してるから?」 「彼に限らず」  理由を問いたげに咲桜は稲城長沼の視界に煩く紛れ込む。 「意識を持てば、任務に支障が出ることもあるのです」 「なるほどね。見捨てる系のやつな。忍びさん業界のは分からんけど、第一線(おつとめ)行った人たちがそんなようなこと言ってたわ」  歩けなくなった職業軍人を置き去りにして帰ってきたことを悔やみ、自ら命を絶った一般動員兵も同じ宿舎にいた。帳簿を付けた覚えがある。咲桜は黙った。ふと何気ない記憶の頁を繰ってみるとそのまま読み続けたくなる。同時に頭の中を無数の蜂が行き交うような秩序の無さに襲われる。頭痛ではないが重いような、どうにもすっきりしない感じがある。寝るときは巨体が抱擁し、食事では一口ずつ口に運ばれ、入浴中もまたありがた迷惑なことに至れり尽くせりなのだから疲労気味であるのも無理はない。 「呼んどいてあれだけど、ちょっと眠いわ。旦那のとこ戻らなきゃかな…………」  やたらと泡立ちのよい髪用石鹸で洗われた頭をがりがりと掻いた。拭き回され叩き絞られよく梳かされた毛は指通りがいい。それが却って落ち着かない。 「お屋形様は陸前高田様に対してならば異常な行動もとってしまわれがちです。この意味がお分かりですか」 「分かるよ、100那由他ほどまでね」 「では何故向き合ってくださらない」 「はぁ?向き合う必要あること?なんで本物(モノホン)の弟いるのにオレが弟役なんざやらなきゃなんないのさ。旦那だって成熟した男でしょうよ。理想の弟の幻影をオレに求めるのはやめろって」  稲城長沼は端麗な眉をぴくりと動かした。 「オレが従順で可愛い弟役になれば旦那は満足かいや?」 「まずそのご認識を改めてくださいまし」  その後の話は受け付けていないらしく、稲城長沼は一礼して部屋を出た。また天井裏にでも潜むらしい。  咲桜はそういう彫刻作品みたいな青藍の高慢げな鼻をあてもなく見澄まし、ぼんやりしていた。巴炎とのこれからの関係性を考えるとまた脳は百舌鳥(もず)の巣と化し、次には香染目のことを考えてみた。彼の先輩は巴炎に対する認識を改めろと言ったが、彼の片想い相手を改めてみてみることにした。火子は器量も良ければ、性格も良い。感情的なところもあるが、そこがまた保護欲をそそり、困らせたくもなるところだった。咲桜からみれば色恋よりも構いたくなる妹という面が強かったが香染目からは同じ年のひとりの恋愛対象らしい。彼と自身とのその差が弄くり回したいほど甘酸っぱく、身悶えするほど愉快で仕方がない。意識が青藍の傲岸不遜げな鼻に戻った。悪趣味な男だが、咲桜にもその芸術的嗜好が分かってしまった。美点はすべて容貌に注がれたみたいな俗悪かつ麁陋(そろう)な男に対し蔑みに満ち満ちた笑みを向けているうちに火子が戻ってきた。山鳩を寝せたのだという。子供扱いが彼女らしかった。香染目の叶いそうもない恋を咲桜は愛想の中で誤魔化した。 「もうすぐお父様がお帰りになるみたいです。お兄さん、あたくしのところに戻ってきて。あんなことは異常です。いくら、お兄さんのことをお慕いしてるからって……」 「お慕いしてるだって?」 「違いますの?あたくしの目からは、そうとしか思いませんでした。殿方は殿方同士のお付き合いの仕方というものがありますものね」  火子は父親の思慕を暴露した形になったことにばつが悪そうだった。咲桜の出方に警戒している。 「それは…―」  彼女は息を呑んだ。 「―それは勘違いだね、火子くん。それはそれとして、人の恋は黙って見守っていなきゃ。勝手に告げ口したら最期だぁね。畜生苦獄釜に堕ちちゃうんだから、墓場への道は人の恋路と十字路なんでさ。おっかねぇんね!」  咲桜はガハハと笑って火子の背中を叩いた。

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