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第26話

 酔っ払いは(たお)やかな見目の美少年を押し倒していた。いくら素っ気無い、薄情な者でも雇主の客人をぞんざいには扱えないらしく、特徴的な色の瞳の持主は咲桜(さくら)を拒まない。否、寝に入っている酔っ払いへ妖しげな美少年は介抱を試みて近付き、自ら敷布団になったのである。酔っ払いを乗せたまま徐ろに上体を起こしたかとおもうと卓に置かれた手付かずの酒瓶を一気に飲み干す。白百合のような美少年の鼻から酒気が溢れ、無造作に倒れ込んだ。顔の赤くなっている酔っ払いに反し、少年の顔は病的なほど真っ白くなった。忍び装束を乱し、肌を曝け出す。酔っ払いは引き締まった薄い腹の上で眠り続けている。個人の境界へ手を滑り込ませ、帯をするすると解くと放り投げてしまった。緩んだ酔っ払いの襟元を寛げておくことも忘れない。  この部屋へ最初に現れたのは使用人だった。彼女に、2人重なって眠る若い男たちはどう映ったのだろう。人を呼んでください。涙ぐんだ少年が訴えた。巴炎(ともえ)は不在で、青藍(あおい)は昏睡状態にある。次に話が行くのは火子(あかね)だった。それはこの娘が野州山辺の跡取りというだけの話ではなかったのかも知れない。  咲桜は激しい揺れによって目覚めた。喉が酒臭い。 「どういうことなんですの!」  目の前は火子によって薄暗くなっていた。広い座敷には、巴炎を上座に香染目、使用人の女が1人と男女で分けたように1対1になって咲桜の視界の左右に座っていた。彼は挟まれるように寝ていた。火子は溜息を吐いて使用人の隣に腰を下ろす。 「な、何?」  まず最初に動いた人物を捉える。巴炎は顔を覆ってしまった。 「な、何、ホント、何……」 「……こちらの方を、お酒に酔ったあなたが襲ったと聞きました」  火子も酔っ払ったように顔を真っ赤にした。彼女の恭しい手は香染目を差している。 「は、ぇっ、なんで?」  そのあとのことは使用人が説明した。咲桜が若い忍びの身包みを剥いで押し倒していたこと、そして咲桜も衣服を一部脱ぎ捨てていたこと。巴炎は両手に強く顔を埋め、火子は肩を縮めて下を向いたきりだった。 「うっそだぁ」 「ぼくは嫌がったのに、お酒を飲まされました」  咲桜はがりがりと頭を掻いた。もう誰も喋らなかった。 「ちょっと待って。本当の話なの?」 「はい」 「なるほど。ちなみに違ったら、ボクの立場っていうのがとっても(まず)くなるんだよな。冤罪ってのは恐ろしいから。違ったら、君と、そこの君、何してくれんの?」  不躾な人差し指は香染目と使用人を知らしめるように差した。 「ちょっと、陸前高田先生?いいですか、あたくしはこんなお話はあたくしとしては信じたくありません!けれど、そういう証言と、実際、被害に遭ったという人がある以上、あなたを疑わなければならないんです!あなたもお酒に酔っておいででした。どうしてご自分を疑ってもみずにこのお二人を最初から疑ってかかるんです?なんですか、このお二人が共謀しているとでも?」 「いいや、共謀と言われて、そうですな、と答えるのは(いささ)か早いですな。偶然、意図せずに共犯になった可能性がなくはないんですわ。だってボク、やってませんもん」  使用人の女は青褪めた。それは図星を突かれたという類いのものではないように思われた。香染目に対し眉根を寄せている。 「陸前先生。こういう暴行は、被害に遭った方が自ら口にするのはあまりにも酷なことです。それを分からない陸前先生ではないはずです……」 「そうだね。君の言っていることは真偽の曖昧な君の立場上、何ひとつ間違いじゃない。だから反論のしようがない。ただね、疑惑のかかってるボク側一個人としては反論もしたくなるってもんです。やってもないことでこういう暴行の加害者にされたら、もう世間様に殺されたも同然なんですよ。こんなド田舎の肥やし臭い山の中の村で起きたことなんぞ、山下じゃ無いも同然だ?バカ言っちゃいけませんよ」  咲桜は飄々としていた。 「ところでボクのことを運んだのはどなたです」 「三河安城(みかわあんじょう)さんです。離れ家が近かったものですから。犬が吠えて……」 「それは客人の手を煩わせて申し訳なかったですな。そうお伝えくださいや。ややっ!ボクも客人という扱いになるんですかね」  顔を覆ってばかりの巴炎は突然立ち上がった。どこかに行こうとしているのか爪先は席を外そうとしている感じがあった。一同の視線が集中する。 「すまない……」  彼は大きな手で顔面を揉んでまた腰を下ろした。 「それで、疑惑の深まるボクの処置はどうします。旦那も、そんな牡畜生をご息女の傍には置いておけませんね。というか、ボクがそんな疑惑を持たれている以上、ご息女の傍をほっつき歩いて旦那の物憂いの種になりたくないんですよ。牡畜生の如きが何を、とお思いかも知れませんね?けれど李下(りか)で冠を正したボクの落ち度でもありますからね。また両手を縛って座敷牢にでも放り込んでくださいや。今度はちゃんと錠をするこってす」  香染目を観察するように見ている。特徴的な瞳が燃え滾るような輝きを持っている。 「おうおう、お()さんみてな鼻摘みもん引き取ってくだするゆう場所探すんべか?」  図々しく他人の屋敷の襖を開けて羆かと思うほど圧迫感を醸す男が入ってきた。三河安城だ。 「鼻摘みもんというほどではないですな」  羆男は咲桜のほうは見ないで、被害を訴える赤痣の美少年を人懐こげな大きな目で見ていた。咲桜はその眼差しが気に入らず羆男を隣の部屋へ押し出す。大木(たいぼく)に抱き付いているみたいだった。とにかく太い。しかし肥っているのではなく、それが筋肉と太々しい骨だというのだから恐ろしくなった。おそらく力勝負になれば敵わない。 「そんなに見ちゃ怪しまれるでしょうが!もうちょっと、泳いでもらわないと」  巨体を押しながら羆の引き締まり過ぎてがっちりとした腹に口を当て、小声で伝える。 「あなたもほら、オレを疑って!この際だから、縛って!」  言い終わるや否や咲桜の踵が浮いた。 「こン餓鬼!五体バラして湾に沈めたるさかい」  随分と不自然に三河安城は憤慨し、咲桜の背が畳を打った。両手を握り潰すように捕まれる。三河安城は縄を渡すように怒声を上げた。こうして陸前高田咲桜は二度目の座敷牢行きが決まったのだ。  騒ぎを聞き付けて、山鳩が座敷牢まで飛んで来た。彼にだけはこの姿を見られたくなかった。後ろ手で固く結ばれ、長いこと横になっていたが、重苦しい身体を起こした。視界には薄汚い壁だけが入っている。 「咲桜さん……」 「五体バラされて湾に沈められる話が座敷牢で済んでるんだからありがたいよ!」  暗く湿った座敷牢は静かになってしまった。壁に向かって喋るため、反響した。 「咲桜さん…………こっち来てください」 「行けないよ。お嬢ちゃんに怒られる前に戻りなさい」  返事はなかった。まだ気配は背後にある。 「お嬢ちゃんを1人にしたらいけない」 「火子ちゃんは、今、お屋形様といます……」 「……そう。苦労をかけて申し訳ない」 「あの……おで、咲桜さんは、やってないとおっしゃってるって聞きました。おで、信じてます。信じて、いいですか…………?」  山鳩はかなり言葉を選んでいるようだった。彼は聡さはあれど、贔屓目にみても擁護のしようがないほどに学はない。だが彼なりに気を遣っているのはよく分かる。薬に呑まれ少年を掻き抱いた前歴がある。酒に呑まれてあの美少年を掻き抱かない保証はない。このことが野州山辺の親子とこの見舞い人を悩ませている。咲桜はそう踏んでいた。 「オレはやってないよ」 「信じます」 「信じるの難しかったら、思ったままでいいよ。山鳩クンが来てくれたってだけで救われた気分だから」  座敷牢というもの自体がどの言葉をどのような調子で飾っても陰気にさせる。 「…………でも……」 「立場を悪くする。恨んだりしないし軽蔑もしない。オレを信じるだなんて言って山鳩クン、君が白い目で見られるのはそれこそ何より耐えられないよ。こんなふうに追い詰めてごめんだけど、オレのことはいいから。疑いが晴れたときに、全部……」  純な少年はまだそこを立ち去る様子がない。 「山鳩クン?」 「じゃ、あの、1コだけ、話、聞いてください」  格子と壁の間は狭かった。咲桜は湿った壁に痺れてきている両手を押し当てた。罪の無い少年にあらぬ疑いが掛かれば大事だ。 「罌粟朱(けしあか)の寺子屋のことです……」 「ああ……」 「手紙が、来て……読みたいんですけど、おで、字、読めなくて…………」  座敷牢の薄明かりを頼りに、格子越しに広げられた紙に目を通す。 「そのおうちの人は、君が読み書きが得意じゃないのを知ってるんだよね?」  彼は広げた手紙の奥で頷いた。不親切な達筆だ。カン字が混ざっている。山鳩が読めるように書かれていない。送り主は気が利かない。 「あ~、要するに……」  彼の知り合いを名乗る者に付き纏われて迷惑しているため二度と関わりたくないという旨のことがご丁寧に書かれている。署名は、「ご存知より」。咲桜の知る限り、今時の恋文でも使わない。 「本当にそのおうちの人から?」 「この字だけは、多分そう読むと思いましたから……」  山鳩は毛羽立ちの多い封筒を見せた。確かに宛名は罌粟朱郡になっている。それのみで、住所も名前もない。 「なんて、書いてありますか……?」 「暫く会えないってさ」 「な、なんでですか!病気とかですか!」  少年は前のめりになった。大きな目が柱に括り付けたひとつしかない燈火に揺れている。 「それは書いてない」  四つ這いになるように彼は手紙をくしゃくしゃにして落ち込んでしまった。 「悪い病気だったら…………足が悪いんです。馬は、歩けないと死んじゃうって聞いたことがあったから、おで、その人も…………」 「人間と馬は構造が違うから…………病気で?」  山鳩は頭を横に振った。 「2回目の戦争のときって聞きました。足首を撃たれたって」  咲桜は聞きながら首を捻った。彼がとられたのは4回目の大戦争だった。3度目までは一般市民を巻き込むことになるほど大きなものではなかった。となると山鳩が言っているのは職業軍人だ。 「そうか。古傷が痛むのかも知れないし、まったく違う事情があるのかも知れない。ちなみにそれ、宛名がないみたいだけど、君に直接来たの?」  どうにも胡散臭い。宛名はなく、送り主もはっきりしない。読み書きに疎い子どもの集まる寺子屋を営む人物がこれまたやはり読み書きに疎い少年に向けて(わざ)わざ難しい字を用いて婉曲的な表現まで駆使したことも、平生(へいぜい)の癖というのならば仕方がないが署名は「ご存知より」ときている。 「受け取った人が、この手紙に思い当たる人がいないかって探しに来たんです。海向こうの神様を信じてる人だから、おでも言っちゃいけないことだと思ったし、あの人も言いたくないのかなって………この前の戦争、おで、よく分かんないですけど、若様も兵隊に行ったし、咲桜さんも、行ったって…………」  山鳩の声が震えている。手紙を折り畳む音がやたらと大きく聞こえた。 「ご、ごめんなさい。敵国に、かぶれてるかも知れない人の手紙、その、読ませちゃって…………」 「いいよ、いいよ。戦争はもう終わったんだし、オレが恨んでるのはお国様。頼ってくれてありがとう、嬉しいよ。でももう行ったほうがいい」  少年はこくこくと頷く。格子を隔て、彼が視界から消えるのを咲桜は待っていた。 「また稲城くんを出し抜いちゃったよ」  強面にしていた表情を崩した。呟くと、まるで山鳩とすれ違いに座敷牢を訪れたかのようにして呟きに馳せた人物がやってくる。それでいてすれ違いにはなっていないのだ。 「彼のことになると職務放棄かい」 「彼といるための任でございます」  咲桜は薄暗い中にぼんやりと浮かぶ稲城長沼を見上げ、挑発的な笑みを浮かべた。 「どこから聞いてたの」 「最初から」 「あの手紙には山鳩クンの周りをうろちょろしてるやつがいるってあった。もし本当なら、それってお宅?」 「違います。(わたくし)は通常山から出られません。まず彼の言っている人物に心当たりがないのです」  片想いの情念がまたもや稲城長沼を美しく妖しくしてしまう。叶わない恋に苦悩する美青年を、弱い明かりが炙っている。 「ほぉ。まぁ、あの手紙、すごい変だったし、破り捨てて欲しいよ。あんな薄気味悪いもの」 「実際は何と書かれていたのです」 「………オレ、嘘ヘタかなぁ?要するに、山鳩クンの追っかけが(うち)まできて目障りだから二度と来るな、関わりたくないってことだね。お為倒(ためごか)して書いてあるし、山鳩クンに読めない文章にしてどうすんのって感じ」  咲桜は肩から力を抜いて寝転がる。 「何故、嘘を吐かれたのです。山鳩さんを傷付けるからですか」 「お宅はあの手紙のとおり、二度と来るな関わるなってことを約束させて山鳩クンが落ち込んでも訳分からん男のところに行って欲しくないんだろうけどさ、この手紙がホンモノなら山鳩クンの周りをうろちょろしてるやつって誰?火子お嬢ちゃんかね?若旦那?それならまだいいよ。でもお宅じゃない?って疑っちゃうね、オレなら。山鳩クンがどう思うかは分からんけんども。だとしたら、それがミソだよ。赤味噌酢味噌ですわ。つまり、山鳩クンが稲城長沼くんなんて嫌い!って、そこまでは言わないにしろ、2人の距離が開くの期待してるんじゃないかってのがオレの見立て。どう?」  稲城長沼は黙っていた。咲桜は臭い畳の上を転がった。山鳩と喋っていた時とは大違いの態度だ。 「山鳩クンのこと狙ってんだか、お宅のこと狙ってんだが知らないけど」 「(わたくし)はとにかく、山鳩さんが狙われるとは何事です」 「言ったら、他人の色恋です!ってペッてされるから言~わない」  おそらく稲城長沼は優秀な忍びなのだろう。それを野州山辺の兄弟は気に入って信を置いている。弟に至っては気に入りを通り越して玩具にしている。ある種の色奴隷として扱ってもいる。だがこの男に純粋素朴な少年の存在をちらつかせると、たちまち彼の鋭さや聡さを狂わせた。 「陸前高田様は、手紙の主に対しどのような印象を受けましたか」 「嫌味ったらしい人だね、まずは。で、気障(きざ)。ご存知より、なんて書くかフツー?」  咲桜はひょいと身体を起こした。稲城長沼は俯いた。 「山鳩さんはその者を…………」 「残念だね稲城くん。君は万年片想い」  色気が匂い溢れるような、喘ぎ声に似た溜息が小さく聞こえた。不都合なことに彼はそれが通用する相手には懸想しないのである。間抜けで、情けない。またそれが野州山辺の次男や咲桜みたいな不埒者を愉しませた。 「その者の若様はご存知なのでしょうか」 「お宅が知らないんじゃ、知らないんじゃない?言わないでしょ。山鳩クンからも言わないと思うよ。でも、オレに知らせてきて、お宅にも吹き込んできたやつがいるとすれば、若旦那が知らないとは言い切れないよな。でも、若旦那が今の状況で、この話が出てきたってことは、やっぱ知らないと思うな。だって山鳩クン、もう行ってないって言ってたし」  稲城長沼はもう色香漂う溜息も漏らさなかった。 「さ、さ、お宅もこんな強姦魔の容疑かかってるやつの相手してないで任務(しごと)行った、行った」  追い払う仕草は後ろ手に拘束されているため叶わなかった。  座敷牢の眠りは静かで、慣れてしまうとカビ臭さにも気の休まるところがあった。冷えた空気も布団の中の温もりとの差異で不思議と恋しくなる。何よりこの村自体が夏にも関わらず涼しく、日中外に出ない咲桜にとっては心地良いはずだった。  陸前高田咲桜は男色稚児趣味であるとでも噂されているのか、布団を敷きにきたのは使用人の娘で、拘束は前になり、木枷が嵌められた。両手首を挟んだ木板を持ち上げ身体を伸ばす。格子の奥にいる大きな人陰とは目を合わさなかった。採光は悪くない。朝の明るさは主屋ほどでなくてもそれなりに感じられる。清々しさはある程度感じられる。しかし夏の朝の爽やかさを感じられなかったのは、酒臭さのためだ。 「起きんさい」 「朝から酒かっくらってるんですか大旦那」  掛布団を捲るだけで身を起こすこともなく咲桜は欠伸をした。 「おん」  酒瓶に口を付けて、酒臭さの濃くなったのを吐く。 「義弟(おとと)……まぁ、なんだ、あーしの細君の(おとうっと)の婿御いう洟垂れ小僧、つまり………雉鳩(きじばと)クンいうのんの………ああ!要するに野州山辺どんのご息女ですな。―ば、尾けてるのがいるゆう話は来とるんですなぁ。で、どこまで話しまひょ?」  ありがた迷惑な、不要どころか妨害になっている気遣いによって抑揚がおかしくなっている。 「山鳩クンですね。あと、そちらの菖蒲馬(あやめ)さんの婿ではなく、ボクのですね。まだ何もお知らせしてくださらず結構。まだまだ泳がせるつもりです。焦らされるのが好きなんでね。まだ答え合わせには早いんですわ」  三河安城は酒瓶から口を離した。 「するとうちンの菖蒲馬は寝取り野郎ちいうことかいね」 「いやいや、寝取るほどにも達していません。完全なるホの字そしてカの字ですよ」 「ほぉん。菖蒲馬はまだ童貞かい」  ぐびびっ!といやらしい音を立てて三河安城は酒を啜った。 「いや、童貞では…………分かりませんね」  山鳩にとって稲城長沼の性暴行をひとつの色事の経験として数えられるのは屈辱ではあるまいか……咲桜は否定しかけて結局のところは曖昧にした。姻戚弟が童貞であるか否か、それはこの羆男の関心を引くところでもないらしい。 「それはそれとして、ボクのほうでもある程度目星はついておりまして。ただ、まだそれをはっきりさせたくないんですよ」 「何か目的があるちいうこつじゃね?」 「そうです。すべて吐き出してもらいたいんですよ。目的の人物は誰で、その誰某(だれそれ)さんに何をしたかったのかを………その誰某さんの前で打ち明けてもらわないことには」  切り株のような首を仰け反らせ、三河安城は酒瓶を呷る。それから酒臭い息を吐き、首を捻った。 「ばってん……野州山辺どんのご息女は大丈夫なんかいや。(やっこ)さんばそのまんまほっぽり出しといて?」 「それを言われたら痛いですよ」  頭が冴えてきた。二度寝は臨めそうにない。 「ンまぁ、そちらさんのお考えにのりまひょ」  また欠伸をした。三河安城は新しい酒を開けた。 「朝っぱらからいくつ飲む気なんです」 「あーしはお()さんみてな活きのいいんを肴にするんが好きなんさ。ま、気にしなさんな」  使っている様子のなかった猪口に大きな手に掴まれ細く小さく見える酒瓶が傾けられた。澄んだ湧水のように透明のくせ異臭を放つ液体が注がれた。 「飲みやっせ、飲みやっせ。気が(ちご)うてなけりゃこン世は苦獄よ。飲みやっせ」 「朝から飲みませんよ」 「人死にがあったとこで飲むと、味が変わる~り聞いたことあるくさ。本当かぇ」  お前の分はそれだけだとばかりに2瓶目を直飲みした。 「座敷牢で人が死ぬもんですか」 「飲んでみんさい」 「いや、結構。変な味なんぞがしたら、物も食えなくなりまさぁね」  三河安城は瓶を咥え持ち上げかけ、見下ろすように咲桜の動向を窺っていたが、彼が飲まないと分かるや酒瓶の底を天井に向けた。子供の拳ほどありそうな喉の塊が上下する。 「時に、あの野州山辺の旦那……ユキエゆうたかいな、あの旦那、お()さんにぞっこん参ってんな」  何事もないふうに大男は言った。 「急に思い出したで。ありゃ相当惚れ込んでるわぃな。お()さん気付いとらなんだろうから、義弟(おとと)がホの字の洟垂れ小僧……つまり金鳩クンいうのんとよろしくやってるちさっきゆうとったけん、そこのところ、片が付かんことにはね」  咲桜は一瞬で顔を真っ赤にした。今夏は、この地域は、この空間は涼しいなど嘘である。 「今の大旦那のお言葉で一気に片が付かなくなったんですが……?」  そして熱が引いてきた。早とちりし本気にした自分を恥じた。冗談ではないにしても、この羆みたいな男の観察眼が果たして正しいだろうかと、そういう疑問がふと浮かび、瞬時に解決した。誤解である。巴炎からそのような言葉を聞いた覚えはなく、またそういう素振りもなかった。何を以ってそのような結論を堂々と、自分を疑うこともなく断定したのか、咲桜は酒飲み羆をまじまじと見つめた。

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