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第27話

 巴炎(ともえ)が見舞いにやってくるのを咲桜は漠然と恐れ、そしてその時が来てしまった。三河安城(みかわあんじょう)の言葉を真に受けたつもりはなかったが、ひとつの可能性としてすでに拭い切れないところまで染み込んでしまっている。それは驚きに比例して奥深くまでいってしまったのだ。事実無根の容疑をかけられ拗ね、不貞腐れ、捻くれていると取られても構わなかった。顔を合わせられない。確かめてしまいそうになる。『何を言うんだ』『そんなことないよ』『陸前高田くんは面白いな』と言って、俗っぽく下品に両手を叩き、白い歯の裏側まで見せて笑い転げて欲しい。  巴炎は壁と沈黙の対話をしている咲桜を待った。 「陸前高田くん……水餅を持ってきた。召し上がってくれ」  訊いてしまいそうだ。否定が返ってくるに決まっている。好かれる要素がない。さらに、野州山辺の長男は過去に想人がいると語ったではないか。現在でも、嫁修行にきているとかいう使用人の女と仲睦まじかったはずだ。三河安城はそれを知らないためにおかしなことを言い出したに違いない。 「陸前高田くん…………こんなことになってしまって、とても残念だ。いや、その、君を責めているのではなく……………自分が、不甲斐なくて……」  座敷牢では主屋と響き方が違う。三河安城の不要ではなくむしろ阻害に等しい気遣いによって生まれた意識が殊更に巴炎の声を変えて聞かせた。 「すまない。もっとやりようがあったのかも知れない。こんなところに押し込めない方法が…………」 「……旦那の部屋に繋ぎ留めておくだとかですか」  監禁など惚れた人間にすることなどではない。咲桜の観念ではそうだった。妻を閉じ込めておこうなどと考えたことはない。閉じ込めておかなかったからこその過ちですらある。偏愛狂の稲城長沼も山鳩を監禁まではしていない。その気になれば誘拐もできてしまう身で、そうはせず、思慕に煩っている。立場上、客人の不始末に付き合っているだけなのである。三河安城はこのことも知らないのだ。 「そのこと、は………」 「いいえ。賢明なご判断だったのかも知れません。勝手に出て行ってしまったのは僕のほうですから」  ごつりと鈍い音がした。格子に巴炎の頭が当たる。 「性暴行は鬼畜外兵に劣る最低の行いです。疑いの段階でも追放は免れない。それでも座敷牢行きで済ませてくだすっていることに感謝しています」  軍役式の口上をそれらしく述べ、咲桜は鼻で嗤った。 「陸前高田くん……追放なんかしない。私は、今まで君といて、君がどんな人だか知っているから君を疑うこともできないし被害者がいる以上、君を信じることもできない。どちらであって、君が私たちを許さないことになっても、私は君を離したくない。この村に居て欲しい……」 「僕がそれで了承しても、周りの人々は許さないでしょうよ」  壁の質感をひとつずつ眺めていた。錯覚を起こす。 「私は構わない。君に石を投げる者があるなら、私が守ろう……」 「旦那が余所者の僕に(かま)けていいはずがない。僕は疑われても仕方がなかった。どうしてこうなったのか、まぁ、分からないということはないですが口にするのは憚られる。むしろお嬢さんの怒りは正常で、健全なくらいです。それに旦那の戸惑いもまた真っ当です。どうか罪悪感など覚えないでください。ただオレは本当にやっていません。これは信じていただきたい」  巴炎の言葉を、三河安城の軽口に植え付けられた妙な意識が変な解釈を加えてしまう。寒さに近い座敷牢の涼しさが心地良い。 「陸前高田くん…………すまない」  その詫びの言葉は深く沁みていった。個人がどう判断しようとも立場が許さない。巴炎の気配が去っていくやいなや、咲桜は全身の力が抜け、風化するが如く横になった。汗が冷え、寒いくらいだ。緊張と燃焼に費やし凝固した活力が一気に融解し、大波となって疲労に変わる。目を瞑った。よく眠ったはずだが穏やかに意識が攪拌されていく。  すぐ近くで微かな足音がした。ご注進、と小声がした。自身の瞼が下りていたことに気付く。 "山鳩さまの行動に異変あり"  こういう際に使用人に敬称を付けるのは鬼雀茶衆ではない。 「山鳩クン……?」  姿を探したが誰もいなかった。振り返る。屋敷山辺抱えの忍び集団よりも軽装なのが立っている。おそらく女だった。彼女は山鳩に異変があることをもう一度伝えた。野州山辺の息女に半ば喧嘩別れをして外出しようとしているらしい。喧嘩別れという表現を咲桜はすぐに理解できなかった。なにしろあの幼馴染だ。火子(あかね)と山鳩だ。さらにこの三河安城抱えの忍びは、己の主人が来ることを告げた。と、同時に酒臭さが座敷牢に吹き込んだ。 「昨日の……朝ぶりですか」 「ぁあん?知らねぇが!うん」  非常に情緒不安定な感じで三河安城は怒鳴ったり、突然落ち着いたりした。これは訛りを解いただけなのである。咲桜もそうだった。格子の奥に三河安城の巨体が入ってきた。酒瓶は持っていない。どこかですでに楽しんだようだ。 「義弟(おとと)のホの字小僧が行くとこあるち()うとるけん。野州山辺どんのご息女と、この忙しいときにやめろ~り言い争ってるち聞いとるとよ」 「あの2人が喧嘩するなんてあるんですか」  尻と腿の裏を擦りながら格子に(にじ)り寄る。 「ンなこつあーしが知るかぃや。なかったらンな報告入らなんだこ」  三河安城も羆みたいな尻を床に下ろした。 「大体どっちかが折れるか、どっちかが抜け出てきちゃうんだよ。付き合いそんな長くないけど、一緒にいる時間は濃かったと思う」 「うんにゃ、お()さん、()け」 「いやいや、無理でござんしょう。夫女(ふじょ)暴行の疑いでこのザマですからね」 「ンなん分かっちょるき。ンだけん、うちのんが一肌脱いですっぽんぽんでさ」  三河安城は逞しい顎で咲桜のいる牢の中を差した。咲桜は振り返る。そこに、咲桜に似たのが立っている。酷似しているとまではいかない気がしたが、背格好や髪など、かなり寄せられているところはある。 「また、随分な男前が……」 「変化(へんげ)の名手がおるんじゃまき。その集団の下っ端がうちのんの見習いにいたんゆうこっちゃ。ちょうどお()さん、特徴ないけん」  背後から伸びて手に枷を外される。 「巴炎(ユキエ)どんの前でも背ぇ向けてたち聞いとる。ずっと壁ば見てればよかろ?」  三河安城は面倒見の良さそうな顔で咲桜の替玉を見遣った。 「雉鳩くんいうんば追い。さすがん、山外に忍びなんぞが出たら事けんね。もう時代と違う。そっからはあんさんで行けさし」  両手が自由になると服を交換し、偽物に枷を嵌めた。 「ごめんな。ちょっとの間頼まい……」  偽物は頷いた。注進をしにきた女忍びに導かれ、屋根裏から外へ出た。玄関でまだ言い争いが聞こえた。本当に火子と山鳩が喧嘩をしている。どこに行くつもりなのか、何故場所を言わないのか、今でないとならないのか。喧嘩と聞いた時は互いに攻撃体勢に入っているものと思われたが、実際のところは過干渉な火子に山鳩は黙ったきりで腕を掴まれている。それを外から聞いていた。やがて山鳩がまだ躊躇いを残しながら出てきた。袖を引かれる。隣には探りに慣れた三河安城の忍び集団からひとり女がいた。彼女はひょいひょいと咲桜の顔をいじる。眼鏡を挿され、鬱金香(うっこんこう)―チューリップ―を思わせるつばの広がった帽子を被せられる。これから恋人関係の2人を演じるらしい。  山鳩は長いことかけて山を下りていった。咲桜は忍びに道を案内される。火子と辿った方角とは反対で、道はできていたが咲桜の通るのはそこから離れた茂みの中だった。山鳩は尾行されていることを覚った様子もなく、肩を落とし、項垂れていた。今すぐ傍に駆け寄って何か言いたくなる。同行者に他に忍びが潜んでいないかと問うと、いないと答えた。落ち込んでいるも進む足の止まらない少年はやがて山を降りるとすぐにある蔵造りのように景観の統一された町に入っていった。忍び装束を解き、市井の娘と見紛う服装に変わった女に場所を訊ねた。罌粟朱(けしあか)郡の罌粟朱町というらしい。きょろきょろと辺りを見回していると横から注意が飛んだ。山鳩はどの立者にも寄らないで真っ直ぐ歩き、気紛れに突然走り出したり、しかし尾行者に気付いた様子もなく、非常に子供みたいだった。空は青く、白い雲が漂い、日差しは強く、蝉が鳴いていることに咲桜は今の季節をやっと感じた。この光景が山鳩の小さくなっていく後姿を健気にさせる。  彼が止まったのは田舎の駅的な田舎の駅だった。無人駅だ。屋根と数えるほどに椅子が設置され、柱には灰皿用の錆びた長方形の缶が括り付けてある。開放的だ。むしろ閉鎖的な部分はない。山鳩は椅子に座り込んでしまった。 「どっか行く気?」  呟いて、咄嗟に咲桜が出て行こうとするのをまたもや同行者が止めた。 「家出する気だったら嫌だ!何かあったらちゃんと謝るよ。オレが三河安城さん巻き込んだんだって」  火子と喧嘩をして、そのまま自暴自棄になったのかも知れない。都会育ちの咲桜も厄介な鉄道を果たして山村の山鳩が把握できるのか。行けば最後、帰って来られないかも知れない。手紙のことで何か思い詰めているのかも知れなかった。山鳩は単純明快なところがあり、そこがまた世話の焼ける部分でもある。青藍(あおい)の刷り込みによって夜中に脱走したところが特にその点で顕著である。  金春村では聞こえなかった蝉がうるさく鳴いている。日差しが強い。山鳩は背を丸め、膝に頬杖を作る。 「翠鳥!」  ぼぅっとしてたらしい少年はびくりと身を跳ねさせた。混凝土(こんくりと)を切り崩したような不親切なほど急な階段から姿を現す。忍びの女は付いてこなかった。 「咲桜様……?どうして……」  声で分かったのだろう。だが咲桜はまったく違う風采をしていても簡単に判明されたことに嬉しくなった。 「心配になって付いてきちゃった。みんなには、秘密(ナイショ)だよ?」  少年は咲桜を見上げた。眩しさも厭わない。口をもぐもぐと動かしてから、すっと視線を逸らした。情を寄せる男は、多感な女も、相手にそうされたなら気にするのが常だ。 「どした?ナイショにできない?」  傷んだ癖毛を煌めかせ、彼は首を振った。 「あ、火子ちゃんのことは、忍びの人が見ててくれるって言った……」  拗ねている。敵ではない、責めるつもりはない、怒りにきたのではないと、汗ばんでいる背中を軽く摩った。 「ああ……君のことで頭がいっぱいだった。そうかい。ここで何をしているんだ」  山鳩は俯いている。 「言いたくないならここで待ちま~す。困る?」 「…………人を待ってるんです」 「例の人?」  彼はまた首で否定した。 「病気なのかなって思ったら、あの人毎日、ここで人を待ってるんですけど、それもできなくなっちゃったのかなって思ったんです。だから、おでが代わりに待とうと思って…………」 「代わりに待つって、君も知ってる人なの?」  ふたたび首が横に揺れた。 「でも分かると思って…………なんとなく……………なんとなく、分かると思ったんです」 「そう」  線路が熱げに白光りしている。生卵を落とせばすぐに半透明になりそうだ。 「……兵隊さんに取られて、ずっと、帰ってこないんですって。便りもなくて。だから毎日、あの人はここで待ってるんです。……だからおでが代わりに待ちます」  大切な幼馴染を振り切って来たのだから、山鳩の言う"あの人"に対する想いは並ではない。  咲桜は灰皿のほうに歩み寄った。時刻表を見つけたのだ。1日に5本ある。それだけだ。 「来ました」  列車は来ていない。来たのは人だった。背の高いすらりとした男で、白い着流しに青みがかった灰色の帯を締めている。右足を引き摺っている。髪の色が薄かった。亜麻色だ。鋭利な感じのするおかっぱを彷彿させる髪型で、洒落者なのか浮浪者風の仕上げなのかはよく分からないが、櫛がよく通っているところを見ると前者のつもりなのかも知れない。目鼻立ちの通った美青年で、雰囲気は野州山辺の長男のような穏やかさを持っていたが、外見は次男に近いものがある。彼は急な階段を手摺りを使ってゆっくりと上ってきた。そして山鳩と咲桜に目を留めた。 「こんにちは。久しぶりですね」  凛とした声で、何より優しい。せせらぎのように響く。 「こ、こんにちは……」  山鳩は放心したように返した。咲桜は頭を下げるのみだった。 「今日はお出掛けですか」  涼しげな跛行(はこう)の美青年は椅子に座った。優雅だ。右足首には固く布が巻いてある。 「ち、違うよ!日向(ひなた)せんせぇが、変な手紙、よこすから……!」  山鳩はびっくりしたらしく叫んだ。どこを見ても薄い色合いの青年は目を丸くした。その姿もどこかおっとりしている。 「え?手紙……?」 「暫く会えないってやつ!」 「暫く、会えない……?いつの話だろう。ごめんなさい、覚えがありません」  咲桜は横で話を聞いていた。稲城長沼と話すより砕けた態度の山鳩のことが気になってもいる。 「こ、この方に、読んでもらったの!おで、字、まだ全部読めないから……」 「知っています。覚えは早いことも知っています。地頭が良いのでしょうね……それで、こちらの方は?」  説明しようとした山鳩を制して咲桜は気持ち前のめりになった。 「陸前高田咲桜いいます。山鳩クンの、お友達……兼、平たくいうと仕事仲間ですな」 「そうでしたか。私は日向和田(ひなたわだ)霞炭(かすみ)灰煉(かいねり)と申します。彼に家のことをやってもらっている寺子屋の者です」  眉毛も睫毛も髪の色を濡らしたくらいの色で、やはり薄かった。軍役時代は黒髪が絶対的であった。赤茶けた髪をした咲桜は上官から墨汁をかけられたこともある。この日向和田という男も山鳩によれば退役軍人らしい。 「かいねり?これは横文字ではどう発音するんです?」  彼は一瞬警戒するような気配をみせた。しかし目を眇め、上品に微笑した。 「カーネルです」 「なるほど。で、話を戻すと彼の言っている手紙はボクも読みました。ボクが彼に読んで聞かせたんですから」 「残念ながらそれは私ではありません。どなたかと間違っているのかも知れませんね」  日向和田という人はまた嫌味のない優美な笑みを浮かべた。 「……そっか」  まだ山鳩の顔は納得していなかった。それでも口先では聞き分けの良いふりをする。それもそのはず、手紙の差し出された先が罌粟朱というのなら、彼の中にはそこの寺子屋ひとつしか浮かばないだろう。 「か、勘違いしちゃったんだ。おで、日向せんせぇが病気なのかと思って、早とちりしちゃって、おうちから出られないなら、おでがここで待ってようと思ってた」 「そういうことですか。カレは忙しいから、きっとまだ帰ってきません。その手紙のことは分かりませんが、山の上からわざわざ来てくれたのでしょう?気を遣わせましたね」 「お、おでが勝手に、やったこと!だから………」  咲桜は2人のやり取りをただ眺めていた。 「いつの間にか習慣になっているんです。そうなると欠かすのも恐ろしくなってしまって。何が起こるわけでもないが……」  呆けている部外者に、この夏の風鈴みたいな男はそう説明した。彼の瞳とぶつかり、そこには待っている相手が何故帰ってこないのか理解している色があった。こういうとき、山鳩の無邪気さが外側に尖り、人の柔らかなところを刺すのだ。 「日向せんせぇ、じゃ、おで、またせんせぇのトコ来ても、迷惑じゃない?」 「うん。私はこんな調子だから家に居ないかも知れないが、気が向いたらいつでもおいでなさい。そちらのお師匠さんの宅で都合のつかない時にでも」  まだ山鳩は不安げだった。あの手紙が日向和田が出したものでないことは信じたらしいが、そうなるとあの手紙はどういうことになるのだろう。 「ちょっと最近、違うお仕事に移ったんだ。だから来れなくなって、でも来れたら、また来たい。今日は何もお土産なくて、ごめんなさい」 「気にしないでください。とんでもないことです。翠鳥の元気な姿があれば私はそれで満足ですからね。それに家の手伝いもさせてしまっているのだから、遠慮することはないのですよ」  少年の髪に隠れた長く細い指は本当に軍人だったのか疑うほどだった。そして慈愛に満ち溢れたその手付きからして、2人の関係に何か切なくなるような感慨をやはり第三者に徹している咲桜に植え付けた。稲城長沼と少年の関係と感情を5度ほど洗い清めた雰囲気なのである。香染目と火子の関係を酢抜きにした雰囲気なのである。今回は山鳩から鈴蘭水仙の化身みたいな男に対して……  しかしそれは今に覚えたことではない。先程からこの男は言っている。この駅に毎日あてもなく訪れ、時間の流れが過ぎ去ることも厭わないのはその相手が、ただ待つことを要するだけの者ではないからだ。咲桜はそう踏んだ。山鳩はそれを分かっているのか否か。おそらく分かっていない。少年にとっては、彼にとっての火子や稲城長沼が帰ってくるような認識なのだろう。それはそれで非常に喜ばしいことには変わりがないが、この点に於いては違うのだ。 「今日は少し暑い。山の上から来たのでは疲れたでしょう。私のうちに寄りませんか」  日向和田は嫌味のないしっかりした態度で2人の顔を見た。 「あ、でも、列車……」 「今日は帰ってきませんよ。分かるんです。貴方もどうですか」  あまり日に焼けていない手が山鳩の腕を子供にするみたいに繋いだ。そして咲桜に確認する。 「ぜひぜひお邪魔したいところなんですが、ちょっと連れもいいですか。女子(おなご)なんですが」  山鳩がぎくりとした。咲桜はへらりと笑う。 「さっき町で世話になりまして。ちょっと人見知りがあったので奥に隠れてしまったのですが」 「ええ、どうぞ。子供が多く通うところですから広さはあります」  青年が訝しむことはなかった。同行した女を呼ぶと彼女は階段の下から現れる。山鳩は不思議そうだった。  日向和田は歩行の遅さを謝りながら寺子屋へ案内した。通されたのは道場のような部屋で、半分床板、半分は畳になっていた。確かに子供が走り回れるだけの場所はあった。山鳩は着いてすぐに家事に参加した。疑っていたわけではなかったが本当に家のことを手伝っているのを咲桜はその目で見た。緑色の綺麗な茶がよく透けたガラスの器に入っている。 「何もなくて申し訳ない」  茶が4人に行き渡り、引き摺った片足を庇いながら日向和田は腰を下ろした。 「いえいえ。むしろすみませんでしたね、急に。ボクたちまで」 「私は嬉しいです。翠鳥の顔を見られたことも、翠鳥のご友人と知り合えたことも」  山鳩はもう我が家のような寛ぎ具合で、隣の青年を自慢げに見上げていた。野州山辺に仕えている時の堅さはない。青藍の稚児色の任からも火子に対する義理からも上面を繕いぎくしゃしゃくしている稲城長沼との間柄からも今、この時ばかりは解き放たれている感じだった。 「こんな仲良い人がいたんだね?」  山鳩は顔を赤くし、水出しの茶を呷った。代わりに日向和田が口を開く。 「私が山で足を挫いてしまったんです、左足を。そのときに助けてもらいまして。そこからですね?確か」  白い袖がたらりと垂れて山鳩の肩を静かに抱いた。少年の素朴な顔がきゅっと引き締まるのが夏橙でも齧った心地になる。 「そ、そう!」 「なるほど」 「私も、あまり翠鳥から仕事先のことは聞きませんでしたから、仲の良い友人がいるようで驚きました」  部外者に話せるような真っ当な人間は野州山辺の屋敷にはいない。小児趣味みたいなのに暴行癖を持った次男と、意固地な娘、何か腹に逸物隠しているような長男に一から百まで知ろうとする忍び。話せるような人はいない。 「咲桜さんには色々助けてもらったんだ。倒れちゃったときとか、悲しいときに」  日向和田の微笑か無表情しかないどこか糊の張ったようなところがある顔が本当に、しかしわずかに驚きで染まる。咲桜のほうでも反応を示すと、誤魔化しているのか微笑を見せられる。ただただひたすらに山鳩が稲城長沼みたいなことになっているわけではないようだ。 「そうですか」  逆剥けのある指先に動揺が現れている。手慰みに撫でているのか、意地悪をしているのか、少年の保湿力に欠ける毛を百舌鳥(もず)の巣にしていく。 「それは、よかったです」  優美を極めたような美青年から目交いを千切り、咲桜は横の寡黙な女に目配せした。彼女は目を逸らした。

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