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第34話

 玄関扉が重い。使用人が夕餉の支度をしたと告げた。へらへらと飯の前に入浴を求める。腹には鉛玉を収めている心地だった。風呂場に向かう途中で火子(あかね)に呼び止められる。彼女にまだ帰宅の旨を伝えていなかった。 「おかえりなさいまし、お兄さん」  背後から投げかけられた言葉が鼓動にまで響いた。 「ただいま」  大仰に振り向く。幼馴染を自分は知らない場所に預けられ、その顔には不安がかぎろっている。 「山鳩クンにすごく優しい人だよ」 ――そしてある点に於いては残酷な人物にでもある。 「だから心配しなくて平気だ」  火子は一度俯いた。それは頷きであったのかも知れなかった。遠慮があるのか根掘り葉掘り訊いてこない。 「オレより歳上の優しい人さ。頭も良いし、気も利いてて綺麗な人だった」 「翠鳥のこともそうですけれど、お兄さん。あなたのこともです」 「オレ?なんで」 「あたくしはてっきり、お兄さんも一緒に泊まるものだと思っていたんですの。あなたにもここではないどこかで養生が必要だと思って」  話しているうちに少しずつ彼女の表情が曇っていく。 「オレは枕変わると寝られないからね」  肩を竦め、戯け、躱す。入浴しているうちに使用人が着替えを持ってくるはずだ。 「でも、そうは言っても、お兄さんが帰ってきてくださったことに安心しています、あたくし」  と言いながらそこに安堵の色は感じられなかった。 「そらよかった」  上面の会話が終わった。しかし彼女にはどうしても踏み込まれたくないこともある。身体中を清め、山鳩に行ったような準備をするか否か迷い、結局はやれずに薬湯に浸かった。これからどうするかを考えると思考は絡まり縺れ合う縫糸のようだった。野州山辺の長男は本当に男体に飢えているのだろうか。山鳩は趣味ではないのだろう。それか弟に遠慮している。使用人や鬼雀茶(きがらちゃ)衆にも様々な体格や雰囲気の男がいるが、それでは満足しないのだろうか。悶々とした感覚は落としきれなかった。水滴をよく切れもしないまま浴衣を身に付ける。蒸れるのも気にしない。また夜に入ることになるのだ。巴炎(ともえ)の部屋に行く前に厨房へ寄り1杯薬酒を飲み干した。全身が一瞬火照った。まだ中紅梅の壁が目に煩い部屋に戻ることはできる。火子は幼馴染ほど露骨に大仰でなくとも自分を甘やかすだろう。咲桜(さくら)にはその自信があった。まだ微かに揺らいでいる。この些細な躊躇いに取り縋ろうとしてしまうのが嫌だった。巴炎の部屋に行けば解決する話だ。あとは抱くなり抱かれるなりがあるだけなのだから。この時ばかりは広い屋敷があまりにも小さく感じられた。野州山辺の当主の部屋の前に立つ。喋りたくない。喉が(つか)えた。 「旦那。オレです。陸前高田咲桜です」  襖の前で項垂れたまま声を上げる。 「入ってくれ」  中に入ると彼は(ふみ)を書いていた。硬筆ではなく筆と硯が置かれているのが巴炎らしかった。 「三河安城さんに宛てたものだよ」  巴炎は来客の視線に気付いたらしくそう説明した。自嘲的な微笑を浮かべている。おそらく内容は香染目の件についての謝罪だろう。 「なるほど。取り込み中にすみませんでした」  野州山辺の長男は緩やかに首を振る。咲桜は話を切り出せず、巴炎を見下ろしたまま突っ立っていた。 「座ったらいかがかな」 「ああ、すみません」 「火子のことかい」  彼は文机の前から離れ、咲桜のほうに膝を乗り出した。 「ち、違います」  それでは何の用だと彫りの深いところにある双眸がわずかに傾いた。 「だ、んな。疲れていませんか。肩揉みしましょうか」  眉や鼻の陰になるほど奥まった目が丸くなる。厚みのある唇もぽかんと開いた。 「大丈夫だよ。ありがとう。気を遣わせたようですまなく思う」 「気を遣ったわけではなく……だから、その…………オレ、野州山辺のお屋敷に至れり尽せりしてもらってるワケでしょ。分かってます。だからつまり、要するに、夜伽に来たんです。ちゃんと分かってます。そういうのは自分で頃合いを測らなきゃならなくて旦那から来させちゃまずかったのに、すみませんでした。今は取り込み中みたいなので待ってます。もう風呂には入ってきたんで」  巴炎の膝の上に置かれた大きな拳がぶるぶると震えている。咲桜も座っていながらまた膝のしっかりしない感じがあった。 「帰って…………くれ。帰ってくれ」 「え?」 「帰ってくれと言ったんだ。私は君に、そんなことをお願いした覚えなんてないよ」  怒気を孕んでいる。咲桜は眉を顰めた。 「オレも頼まれた覚えはありませんが、あれはそういうことだったのだと思わざるを得ません。でなきゃ処罰にしたってあんなこと、できませんよ。待ちます。なるたけ丁寧にしますから。油などはお持ちなんですか」  追放か何かするつもりの最後の取立てとして、搾り取られたのだろう。根拠はない。今のところは思い込みが自暴自棄を加速させ、その口調を尖らせる。巴炎の顔面が引き攣った。触れたくないところを突つかれたような苦々しい顔をしている。 「咲桜くん……」 「ちゃんとやります。カラダで払います。旦那好みの色小姓に徹します」 「やめてくれ。言わないでくれ。悪かったと思っている………君を色小姓として扱うつもりは……………」 「オレはこの屋敷に居たいんです。オレは脱走だの擬装だの悪いことをしましたが、オレのカラダで決着してくださるなら償っていきます」  問題は肉体的反射が起こるか否かにある。しかし咲桜はそれを誤魔化すように巴炎にずいと出た。 「君はまだ、この屋敷に居たい?」 「はい」  野州山辺の当主は眉を大きく歪めた。泣きそうになっているように見えた。しかし俯かれ、陰が彼の表情を塗る。 「けれど君が好きなのは女性(にょしょう)だろう」 「オレの好みはここでは関係ありません。もちろん旦那の好みは関係あるでしょうが、(よう)は旦那がオレに用を足せるかどうかでしょう?」  今まで咲桜の見たことのない物凄い形相がそこにあった。下半身はもう帰ろうとしていた。 「君は私をなんだと思っている………?」 「間違いなく野州山辺の当主ですよ、そんなの。だからきっちりお代金は払わないと、オレみたいな問題持ち込むヤツはすぐ追い出されます」  巴炎の大きな手が彼自身の顔を覆った。眉間を揉んでいるようにも見える。 「私は別に男色というわけではない。和泉砂川の件はたまたまだ。それに君とのことも。別に私が男色だからというわけじゃ…………」  咲桜にとってはありがたい展開である。野州山辺の当主が男色好みでないのなら身を削る必要はない。腰から下は襖を向こうとしている。 「けれど、ねぇ、咲桜くん。君が私をそうやって煽るのなら私は、君をいただくよ」  巴炎は上半身を襖のほうへ伸ばそうとした咲桜を捕まえた。分厚い筋肉に包まれる感触があった。野州山辺の屋敷の匂いと彼の匂いが(ほの)かに薫る。視点が陰を帯びて転がった。 「旦那………」 「私は君を色小姓だなんて思わないし、私は君を君として、(しとね)に招くつもりだ。いいのか、咲桜くん」  逆光して巴炎の顔色は見えない。 「い、嫌です。オレのこと、道具だと思ってください」  頭の中にどろどろに溶けた鋼でも注がれているような心地だ。顔は一気に火照った。一個人として契るなどは我慢ならない。男色は、まだ成長しきらず疑似的な弟のような愛らしさのある山鳩だからこそ年長者としての慈愛や兄的な立場による保護欲が置換され成り立っていただけに過ぎない。咲桜の中でそれは男色ではなかった。男色と言われて、その概念と一致しない。 「できない。道具みたいに君を扱うなんてそんなこと、できない」  咲桜は首を振った。両腕を押さえられている。背中の畳の質感が繊細に分かる。逃げたい。来るんじゃなかった。後悔の雨漏りは天井を突き破り瀑布を形成した。 「だんな…………ッ」  逃げようとした。逃げようとするだけ指が二の腕に食い込む。鼻先がぶつかるほどに近付いた。 「出て行きなさい。君はこの屋敷に要らない。火子が寝静まったら何も言わずに出て行くんだ」  冷水をかけられたも同然だった。それでいて力む身体は熱くなっている。巴炎はすぐに咲桜を放した。 「君の行動に巻き込まれるのはもう、うんざりだよ」  彼はのそりと動き、文机の前に座った。巴炎の睥睨(へいげい)は水膜を張っている。 「お世話に、なりました」  咲桜は部屋を出た。貧血のような気分で火子の部屋の近くの縁側で休んだ。柱に凭れかかり膝を組むと野良猫が飛び乗る。食う物に困っていない柔らかな毛並みだった。 「どうしましたの」  風呂上がりの火子が髪を拭きながら部屋に戻るところだった。 「ちょっと、夜を愉しんでるんでさ」  振り向けなかった。愉しむものはない。 「湯冷めします」 「すぐ寝るよ。嬢ちゃんも早く寝るこったな」  次に行き着く先もまだ決まっていない。目的地など必要ない。また流離(さすら)うだけだ。野良猫を下ろし彼も部屋に入った。浴衣に濡れた髪へ乾布を被せた野州山辺の娘と中紅梅の壁を網膜と脳裏に焼き付けた。 「あのさぁ」 「なんです」  墨の汚れが大きく染み込んだ文机を前に濡れた髪に櫛を通し、彼女は鏡の中の自分と見つめ合っている。 「山鳩クンのいる場所、教えとくわ」 「急にどうしましたの」  火子は髪から櫛を抜いた。気の緩んでいた顔がしかつめらしく整った。 「いや、一応言っておこうかなって思って」 「………訊きません。翠鳥は帰り道を知っていますのね?」  咲桜は唇を尖らせながら頷いた。 「それならばいいです。あたくしが鬼雀茶衆を遣って迎えにやったらどうするんです。お兄さんが信用している方なら、あたくしが疑う理由はありませんからね」  微苦笑を浮かべる。これがほぼ最後の会話だった。あとは寝る前の一言二言交わしただけである。消灯し、彼女の寝息が定まるのを待つ。火子が寝たのを確認すると足音を殺して部屋を抜けた。玄関を出てまず向かったのは離れ家だった。控えめに手を打ち鳴らす。 「小豆喜(あずき)ちゃん」  近くの茂みの奥から現れた菊口任(きくじん)組の女忍びは応答もせず次の言葉を待っている。 「この屋敷出て行くことになったから、もう小豆喜ちゃんとはこれでお終い。いきなりだけど、ごめんな」  野州山辺の屋敷を出て行くことは山鳩とも別れることになる。日向和田のことなどはもうどうでもよいことなのだ。 「……――承知しました」  小豆喜は軽く頭を下げた。彼女に改めて礼を言って村から出る。どこも明かりはない。後ろから自分のではない足音があった。明かりが点く。己の黒焦げになったような足元が浮かび上がる。 「本当に出て行かれるのですか」  稲城長沼だ。まさか見送りにくるとは思わず、振り向く前に咲桜はあらゆる表情を作った。 「御大将(おんたいしょう)に出て行けって言われたら、そりゃね」  言葉が震えるのを聞かれたくなかった。 「あれは売り言葉です」 「そうかな。慰めならありがとう、稲城くん。君とはなかなかいい友情を築けたと思ってるよ。いろんなこともうっちゃけたし。オレの話は、オレごとぜんぶ忘れてくれや。ここでの(こと)も日輪さん浴びたらぜんぶ忘れっから」 「承知しました。ですが今後とも明かりも持たず夜の山を歩こうなどとは思わないでください」  稲城長沼には似合わない懐中電灯が握られている。野州山辺の備品だ。それを差し出された。 「悪ぃよ。あんまりこういうの、手に入るような地域じゃないでしょ」 「熊が人の味を覚えるのは厄介です」 「なるほど。熊さんよ我はここぞと、ね。ありがとう。借りとくわ。返せないと思うけど」  咲桜は懐中電灯をぶんぶんと振って光芒で遊んだ。そして村を出て山を下りる。罌粟朱(けしあか)のある方角とは逆の道だ。一歩、一歩踏み締めながらひとつひとつ思い出していた。巴炎の泣きそうな眉間の崩れ方がその中でも真新しいだけに鮮明だった。引き返してみることもできただろう。しかし咲桜はあの若いうちから一身に様々なものを背負う男に寄り添えない。その魂に触れるでもなく掠るだけの覚悟もない。真摯に向き合い契ることはできない。  山下の町に辿り着いたのは夜明けだった。幸い、熊だの鹿だの猪だのには遭遇しなかった。鳥が鳴いている。犬を散歩させている人がいる。店の準備をしている人がいる。金春村で見た住人たちとは何か時代が違うような感じがある。一夏の夢を見たのだ。石鹸玉に似ている。忍び集団を抱えた名家なぞは現代に於いて狂気の沙汰だ。夢遊病患者の譫言だ。懐中電灯をまだ開いていない駐在所の前に置く。郷里には帰らない。 「お兄さん」  声の主を誰何するより早く咲桜は振り返った。しかし呼びかけられたのは自分ではなかった。期待があった。だがよく聞けばそれはよく知れた声ではない。苦い笑みをこぼさずにいられなかった。背後から肩をぽんと叩かれる。 「お兄さん、お仕事どうですかっ」  弾むような声は低めの女のものか、まだ若い男のものだ。 「寺子屋の先生探してるんです。お兄さん、こんな時間にふらふら山から降りてくるなんて、どうせ決まった仕事には就いてないんでしょ?おうちも付いてきますよ。六畳一間、お勝手お風呂付き、御不浄は外です。いいでしょ」  淑やかな雰囲気のそばかすの特徴的な少年で、あざとく咲桜を覗き込んだ。頭に巻いた手拭いから伸びた毛先は癖がある。 「別にオレは朝狩りに行ってたワケじゃないよ」  彼は冗談が分からないようで小首を捻った。しかしまたぐいと半歩乗り出す。目線が随分と上にある。顔立ちは見たところ10代半ばといった頃合いの少年だが、背が高い。五尺七寸ある咲桜が見下ろされている。 「読み書きとある程度意思疎通できたらすぐやってもらいたいんですけど、お兄さんくらい愛嬌があったらお給金はずんじゃうなっ」 「君には負けるよ……」 「ふふ、ありがとぉございます。でも僕、高等学校に入るからダメなんです」  少年はけらけら笑った。寺子屋の先生になるというのも悪い話ではなかった。 「どこでやってるのさ」 「隣の村です。結構近いですよ。あ、お野菜とか好きです?ご厚意で沢山いただけるんですよ」  興味を示した咲桜に少年は食い気味だった。互いにほぼ確定と踏んでいた。 「お兄さん、お名前は?僕は―……」  咲桜はすっと顔色を悪くした。 「なんて?」 「―灼鯉(あかり)です」  呆然とした咲桜に彼はもう一度屈託なく名乗った。 「野州山辺灼鯉です」  どこか燃え尽きた顔をして咲桜は背の高い少年を瞥見した。同じ苗字ということはあり得るが、しかし断ち切れない疑いが咲桜の手足に絡み付いている。その古びた鎖を手繰り寄せかねない。可愛らしい2人の幼馴染が頭の中を揺蕩う。 「ごめんな、用事思い出した。良い人が見つかるといいね」  当たり障りも中身もない断りを入れ、咲桜はまた歩き出した。行く当てはない。ただ郷里とは反対に、そしてこの土地にも背を向け行くだけだ。  彼は朝日に消えていく。

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