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第33話

 野州山辺と三河安城の会議に忖度はなかった。三河安城 山茶花(さんざか)菊口任(きくじん)組にすべて打ち明けるよう命じたのである。文机の汚損のこと、仕組まれた強姦事件、なりすました文、現在までのことが語られた。そして稲城長沼が山鳩と情交を結んだことは本人から話され、そこに至るには薬茶の件も告白せねばならなかった。火子(あかね)は微動だにせず、大きな目から涙を落とすことも許さず聞いている。さらに菊口任組は故人・和泉砂川のことについても触れた。青藍(あおい)は据わらない首でぼんやりと虚空を見つめている。巴炎(ともえ)は乾いた唇を震わせ、ゆっくりと開いたところだった。しかし三河安城が割り入る。 「香染目ゆうのんに聞こうや。青藍どんからどこまで聞いとんのか。嘘ゆうとるゆうんがホンマもんとも限らんわ」  三河安城は太い首を捻った。 「()いたないんやろ。野州山辺どんの旦那はん()いたないこと立場が言わせんのあーしゃ好かんばい。今は戦後たい。妙な責任感要らんわ」 「い、いいや……その、私は、話せる。話せるのだ。話せるが…………」  巴炎は開口したまま固まった。 「鹿楓(かえで)は……っ」  野州山辺の当主の姿は痛々しい。胸の辺りに鉛でも詰まったような様は見ていられない。 「あーしゃ和泉砂川どんの話ば聞いとりませなんだが、嘘ゆうたんか(ちゃ)うか、それだけ教えてくださいや」 「嘘を…………話した」  羆みたいな男の嘆息が聞こえた。 「彼は土砂崩れに巻き込まれたんじゃない………ある罪を犯して…………人柱になった」 「人柱?」  三河安城の太眉が持ち上がった。咲桜も反応せずにいられない。今から100年ほど遡らなければそういう単語は出てこない。 「人柱って……あの?」  咲桜は三河安城と目を合わせた。 「山神に生きた人を差し出す儀式です」  火子が言った。やはり100年前のよくある風習で間違いない。 「そんなこと、まだやってんの」 「伝統です」  彼女の語気は吐き捨てるようだった。 「伝統………って、」 「やめなっせ、外地(ひと)()の領域にいちち口出せるもんかぃな。でもな野州山辺どん。陸前高田どんみてな何も知らん外もん飼い慣らして昔の(きょうと)い文化ゆうのんに付き合わすんなら、あーしゃ黙ってられん」 「陸前高田さんを連れてきたのはただただあたくし一個人の気紛れです。村の(しがらみ)や古めかしい伝統に巻き込むつもりはございませんし、山の生まれでないのなら意味がありません。山の恵みを受けた者でないのなら………」  この言動からいって火子もまたこの風習について懐疑的であるようだった。  会議が終わる。三河安城が暫く咲桜の身柄を預かると言ったが、野州山辺はそれに難色を示し、咲桜のほうでも断った。 「ありがとな、小豆喜ちゃんとみんな。ちょっと想像と違ったけど、オレが強姦魔じゃないってことは証言されたから」  布団の上で礼を述べた。三河安城に連れられ菊口任組も帰っていく。ただ小豆喜の横に流すような視線に咲桜も気付いた。香染目の件が終われど、彼女にはまだ日向和田との文通の任が残っている。 「あのさぁ」  青藍以外の者が咲桜に注目する。 「小豆喜ちゃんとオレ付き合ってるから、彼女がオレのとこ逢いにくるのは許してくんない?」  三河安城は手を叩き腹を叩き笑ったが野州山辺はそうではなかった。稲城長沼も不審の目をよこす。 「どうします、お父様」  火子の確認を巴炎は避けたいようだった。慌てふためいた態度で身体ごと背けようとしていた。 「す、好きにしたら………いい。好きにしてくれて、構わない………」  彼は顔を真っ赤にして己の膝ばかり見ていた。今すぐにでも逃げ出してしまいそうな妙な危うさがある。咲桜は小豆喜に対してそれらしく振る舞ったが、彼女は反応を示さない。白くなるほど握った拳が震えていた。  野州山辺の長男が三河安城を送った。火子は咲桜の横に残っている。 「あたくし、お兄さんのこと疑いましたわ」 「いいよ。気にしなさんな。その疑いは必要なことでさ」 「あたくし、翠鳥にも謝らないと……」  下から見ると、彼女の目が氾濫しているのがよく見えた。 「それはやめときな。お嬢ちゃんが何も知らないのが、山鳩クンには一番いい。背負うのは苦しいことだけど……」 「背負います」  頷いた拍子に涙が落ちた。そうなると一気に瓦解する。彼女は声を殺し、顔を覆った。咲桜は寝返りをうって背を向ける。三河安城たちのいた壁を眺めた。風邪が喉を(くすぐ)り、胸を叩くが、頭は冴えてしまい眠れそうになかった。やがて火子は青藍を手伝い、部屋を出ていく。まだ稲城長沼が残っている。彼は咲桜の前に来ると膝をついた。上体を伏せたかと思うと、額を畳に擦り付ける。 「ご迷惑をお掛けいたしました」  咳が出る。咳をするだけで喉が痒くなった。 「いいって」  彼は再訪した姻戚の三河安城にも立場上、頭を下げねばならなかった。これから野州山辺のところに行くのだろう。 ◇  咲桜が香染目と格子越しに対面したのは風邪が快方に向かってからだった。咲桜が投じられたときは掛かっていなかった錠は役割を果たし、この屋敷を網羅しているだけあり、拘束は厳しい。後ろ手に縛られ、足首にも枷が嵌まっていた。首枷も格子に繋がれていた。彼は格子側に首を傾け、壁に寄り掛かっていた。布を咬まされている。まるで悲哀戯画だ。被写体が嫋やかな美男子であるだけに息を呑むものがある。 「よぉ」  口を塞がれたところで彼は腹で話せた。しかし喋らない。目だけ咲桜を追い、姿勢は変わらない。 「旦那が、嘘吐いてたって認めたよ」  彼は興味が無さそうだった。咲桜と視線を交わすと千切られる。そして咬まされた布の奥で唸った。格子に手を入れると彼は後頭部にある(くつわ)の結び目を差し出した。解く。 「山鳩さんを連れてきてくださいましたら、話します」  赤痣のある美少年の目は恨みがましい。 「山鳩クン?」 「お屋形様がご存知のことかは知りませんが、若様のお話では山鳩さんに十分に関係のある話です」  訝りながらも咲桜は了承した。山鳩は戸惑い、まったく身に覚えがない様子だった。咲桜にぴたりとくっついて、明らかに香染目を警戒していた。美少年のほうでは泥臭く野暮ったい芋のような色小姓の不信感を気にしている感じはなかった。 「お屋形様も呼ぶといいでしょう。あのお方が嘘を仰せなのか、それとも本当にご存知なかったのか……」 「よ、呼んできます」  山鳩は逃げるようだった。そして彼が連れてきた野州山辺の長男に娘までついてきたのは香染目の誤算だったようだ。そこで初めて、眉間を歪ませた。それは親に叱られた子供のような表情だった。言葉を交わしはしない。巴炎が牢の前に来た時、娘をその背や袖に隠したこともある。 「話を、聞こう………」 「はい」  野州山辺の長男は緊張していた。咲桜からすれば野州山辺巴炎は香染目が語ろうとすることを知らないように思えた。話す前に香染目はちらと火子を見た。視線は交わらなかったようで、彼は一度俯き、桜色の唇を開く。 「山鳩さんには兄がいますね」  いきなりの断定を、山鳩は跳び上がって否定した。これには火子も口元を覆って驚いた。 「いない……!」 「そうですか。ですが若様は、その方を山鳩さんの兄だと言いました。名前は山鳩というそうです。いいえ……若様が翠鳥という本名に山鳩と改めるようにおっしゃったそうですね」 「おで、知らない……」 「山鳩さんはまだ小さかったそうです。和泉砂川様が山鳩さんの兄という方、つまり山鳩さん、苗字がありました、確か……大和(やまと)………」 「―大和朝倉(やまとあさくら)かも知れない………聞き覚えがある」  巴炎が口を挟んだ。山鳩は肩を縮め、硬直しながら俯いていた。 「和泉砂川様が彼を……その手で殺めたと若様は話していらっしゃいました。若様はそのことを和泉砂川様が亡くなるまで誰にも言わなかったそうです。幼い弟、つまりあなたです、山鳩さん。まだひとりで生きていけないあなたを黒烏梅(くろうめ)村に捨て去った。和泉砂川様を庇うためで……同時に、和泉砂川様はあなたを、自分と、その手で殺めた恋人の大和朝倉山鳩との子供のように思っていたのが気に入らなかったそうです。こうして大和朝倉兄弟は世間的には神隠しに遭ったのだと若様はお話しくださいました」 「和泉砂川のアニキと、山鳩クンの兄ちゃんて………恋人………だったの?」  香染目は頷いた。反して山鳩は首を振る。 「おで、そんなの知らない………」 「あなたは黒烏梅村で育つはずだったそうです。ただあなたは後に野州山辺の養女となる方と懇意だった。共に金春村に預けられたそうです。まだほんの幼い時分だったとか。あなたがここの生まれだと思い込むのも間違いはなく、実際ここの生まれでした」  巴炎は頭を抱えた。やはりそこに秘事があったようには思えなかった。山鳩も山鳩で堅苦しく座りながら脂汗で皮膚を光らせていた。 「和泉砂川様は肉欲の延長に凶暴性のある方だったと聞いております。若様はそれを知っていながら、和泉砂川様を好いていたのだと思います、これは私の主観的なものに過ぎませんけれど。そうでなければ酔いに任せていたとはいえ、お話しにならないと思います、こんなこと。若様は和泉砂川様と身投げの約束をしていたそうです。けれど………叶いませんでした。何故叶わなかったのかは聞いておりません。お屋館様のことを言いかけましたが突然に話が飛んで、人身供犠(じんしんくぎ)になったと言ったきり、もうこの話は終わってしまいましたから。」  香染目の話はここで終わった。彼はもう一度、彼の初めて見せる怖気(おじけ)付いた目を野州山辺の娘に向けた。しかしやはり彼女は応じなかったらしい。彼女は俯いたまま戦慄いている幼馴染の肩に触れ、腕を引いた。しかし山鳩は頭を振るばかりで立とうとしない。 「オレが傍に居るよ」  咲桜は山鳩を抱き寄せ火子に言った。彼女はふらついている父親を支える。すまなげに頷き、父と娘は座敷牢を出ていった。香染目は不思議な色の瞳を投げ、もう喋らなかった。 「おで…………兄ちゃんいるなんて知らない!嘘だ………」 「行こう、翠鳥」 「青藍様が、嘘を言ってるんです……!」  山鳩は咲桜にしがみついて叫んだ。座敷牢は響きやすかった。囚われの麗しい少年はまったく相手にしていなかった。咲桜は混乱状態にある山鳩を引き摺るように座敷牢から出た。縁側まで連れると、少年は咲桜の腕を擦り抜け、座り込んでしまった。(ふさ)いでいる。 「おで、どうしていいか分かんない………おで…………」 「少しこの村から離れる?」  モモとブドウを受け取り、この少年に届けたのは最近のことだ。そのあとに文のやり取りはなかった。 「ここで悶々としてたら、翠鳥、きっと潰れちゃうよ。今は、ちょっと休もう。考える時間が要る」 「でも、おで、ほかに行くところなんか………」 「罌粟朱(けしあか)の先生のところ、お邪魔しよう」  傷んだ毛先がしゃらしゃら鳴った。 「せんせぇには関係ない………あの人のとこには、いつ大事な人が帰ってくるか、分かんないから」 「じゃあそれまで。だって今の翠鳥、見てられないよ。先生の大事な人が帰ってきたら帰ってくればいいよ」  日向和田(ひなたわだ)の待つ人は帰って来ない。山鳩の気に掛けている者は存在しない。 「咲桜さま……」  彼は幼子のようになって咲桜へ抱擁を求めた。受け入れた躯体を強く締める。 「ちゃんと感じたこと、感じとかないとどこかでおかしくなっちまうよ。偏屈になっちまうんだよ。支度をして」 「火子ちゃんから離れたくない」  肩に置かれた頭が左右に振れた。少年の髪を撫でると体重が掛かっていく。彼はこうされると弱いらしい。 「行きなさい、翠鳥」  背後から山鳩の気にする娘の声がした。咲桜も振り返る。 「あたくしのことは大丈夫です。今は自分のことだけ考えなさい。陸前高田先生、あたくしに詳細を教えてくださらなくて結構です。だから、どうか翠鳥の安らげる場所にお願いします」  火子はいつにも増してしかつめらしい顔をしていた。彼女は封筒を咲桜に渡す。 「何これ」 「生活費です。どこかに行くのでしょう。村の有力者といっても山下に行けば矮小(わいしょう)(もの)です。多くはありません」 「火子お嬢様、おで、行かない!」  山鳩が身を剥がそうとするのを咲桜は阻んで強く抱き留めた。 「おで、行かない……火子ちゃんだって大変だったのに、おで、別にヘーキだから。おで、今まで何も知らなかったんだし………」 「翠鳥。あたくしがいるとあなたは気を張りますね。あたくしもあなたが可愛くてつい構ってしまいます。行きなさい。陸前高田先生、頼みます」  少年の手が咲桜を拒む。 「行かない……っ」 「行こうよ。お嬢ちゃんもずっと幼馴染のお姉さんじゃいられない」  耳元で囁くと猫のようなしなやかな身体が強張った。 「山鳩クンのことは任せて」  硬い毛束を梳くと彼は従順になった。首を伸ばして慰撫を乞う。火子はそれを見ると頭を下げて踵を返した。 「わがまま言ってごめんなさい」 「わがままなもんか」  子供みたいな手を引いて村を出たのは昼過ぎだった。罌粟朱に着く頃には日が沈んでいた。日向和田は突然の来訪者に嫌な顔ひとつせず、かといって彼の性分から外れるような満面に喜悦の笑みを浮かべているというわけでもなかった。山鳩の姿を認めるとそれが当然のように挨拶を交わしながら首に触れ、発育途上の肩まで撫で、己のほうに寄せていく。相変わらずの美人で、脚を引き摺り、常に夜か秋冬の中に身を置いているのかと思うほどに亜麻色の髪をさらさらと靡かせている。 「よく来ました」  背の高い彼は山鳩に合わせて膝を曲げる。そのときにはまだ背の伸びそうな子供の肩を支えにしているのだ。はたから見ても近い関係であることが窺える。 「用件はオレから説明します。オレが無理矢理連れてきたようなものなので」  日向和田の雰囲気がいくらか堅いものに変わる。山鳩を支えにしていた膝が咲桜に向いた。 「だいじょぶ。おで、ちゃんと自分で頼むから……」  異国的な麗貌は咲桜と山鳩の間で戸惑った。そのたびにさらさらとした髪は誘うように揺蕩う。咲桜は苦笑した。 「なんだい」  そして彼が選んだのは山鳩だった。 「い、いきなりでごめんなんだけどさ、その、泊まっても、いい?少しの間……ぜったい、絶対、めーわくかけないから。お手伝いもちゃんもする!」 「おやおや。そんな気を張らなくてもいいんですよ。どうぞ、自分のおうちみたいに寛いでください。お手伝いは嬉しいですけれど。ほら、中に入って、荷物を置いてくるといいでしょう。お風呂も、すぐに入りたければよく洗ってから沸かすんですよ」  山鳩を独り占めするように薄命げな美形男は彼を玄関に押し込んだ。そして思い出したように咲桜を捉えた。 「オレは帰ります。彼をお願いします。こちらで、2人で何か美味いものを」  嫌味にならない程度に慇懃な仕草で火子から渡された封筒を託す。日向和田は驚いた表情をする。 「ひとりもふたりもそう変わりません。家事も手伝ってもらっているのですし………」 「受け取ってください。いきなり来て、彼次第でいつ帰れるのかも分からんのです。彼の幼馴染からも、頼むと頭を下げられてしまいましたから」 「翠鳥に何かあったんじゃないでしょうね。貴方が付いておきながら」  その響きは挑戦的な色が多分に含まれていた。適当な箇所を省いて説明する。この歳になるまで覚えのなかった家族がいたことと、そこに派生した事件で(ふさ)いでいたこと、咲桜からして彼を屋敷から少しの間離しておきたいことを簡潔に述べた。 「そうでしたか。あの子がつらい思いをしたんですね。事情は分かりました」 「で、ですよ、日向和田さん。オレはこの前の手紙、許せんと思うのです。彼の気持ちが重くても、あんたの胸の中暴こうとするようなものでも、人にそんなの託せそうなあんたなら、受け止めてください。憎からず想っているんでしょう?」  麗しい顔がふっと鼻を鳴らして卑下に歪む。 「私は2人を同時に想っていられるほど器用な人間ではないのです」 「ほぉ。じゃ、オレは2人を同時に想ってられるんで、分かりましたよ。あんたの言うとおりオレが翠鳥を愛します。オレがもらいます。片想いでも……」  風呂の支度を終えたらしい山鳩が戻ってきた。不思議げに大人2人の顔を見上げている。元軍人とは思えない透明感のある手が男児の萎びた感じのある髪を一房ずつ撫で梳いた。 「そろそろ帰るよ、翠鳥。また様子をみに来るから。ちゃんと食べてしっかり休みなさい。火子お嬢ちゃんにもそうさせるから」  山鳩は頷いた。手放すのが惜しくなって、一度抱擁する。それでいて夏場にもかかわらず日に焼けていない手は咲桜の腕の中にいる少年の肩に乗っている。この者こそ手放す気などないのだ。 「火子ちゃんによろしくお願いします」  へにゃりと笑う山鳩の姿に安心した。日向和田の傍に居るときの緩やかさがある。何度か振り返ってみる。期待はしていなかったが、寺子屋の先生と並んで咲桜を見送るつもりらしい。棚田のような麓に入り、やがて山鳩と日向和田が見えなくなった。溜息が漏れる。 「出る幕なかったね」  小豆喜がついてきていた。彼女の手には懐中電灯が握られている。迎えに来たらしい。 「いいえ」  否定が返ってくると咲桜は微苦笑した。 「帰りたく……ないな」 「寄り道をなさいますか」 「いや、帰るよ。オレの居場所(いえ)でもあるんだよって何回も言ってきたし。実際帰るところ、ほかにないし」  懐中電灯を持つ小豆喜を先に行かせた。咲桜の足取りは重い。 「旦那の機嫌取らなきゃな。酷いこともしたし……」 「気が向かないのであれば、自ら出向く必要はないのでは」 「今甘やかすのはやめてよ、惑う」  深刻に響かないよう笑みを混じえた。小豆喜が比較的長いこと喋りかけている。嬉しいことだ。 「でも意外と後悔してないんだな。カラダで払わなきゃならないってのはなかなかキツいけど、働かずに寝て飯食えるし、寝るところはあるし、野州山辺のお嬢様と山鳩クンは無茶するから放っておけないし、見てて楽しいよ。守りたいものあるっていいね。オレがあの子たち守りたいだなんてそんな烏滸がましいこと思ってるんじゃなくて……あの子たちの力になれるように傍に居れたらなって、そこにしがみつく気持ちの問題よな」 「陸前高田様は素敵な御仁です」  ぴしゃりと冷淡な声音で言い放たれると一瞬何を言われたのか分からなかった。 「おっと~?」  戯けてみせるも小豆喜が冗談や気休めを言っているのではないことは分かっている。 「陸前高田様からご自身そのものを切り売りする必要はないと思います。陸前高田様の溌剌さや自尊心が磨り減るくらいなら…………無駄口をいたしました。申し訳ございません。これはわたしの勝手な意見でございます」 「ツケ払わない男ってほうがなんか、オレは許せないっつーか。でも、あんがとな」  咲桜は笑い声を滲ませ、小豆喜から少し遅れを取った。彼女は立ち止まり、振り返る。懐中電灯は足元を照らしていた。その表情は暗く塗り潰されている。 「情けないな。男なのに。こんなことで弱音吐いてさ」 「身を削ぎ落とすのに男も女も関係ありません」 「……あるよ。ある。男と女じゃ全然違う」  小豆喜が身を翻し枝を踏んだ。山奥の音がよく聞こえる。吐息までが(こだま)しそうだ静けさが咲桜に自省を促す。男同士の情念の折衝を女の性に相談するのは重苦しさを拭わせるようなものだ。言うのではなかった、何故言ったのだろう、そもそも孕みもせず不貞を疑われるわけでもないことに何を揺らいでいるのか。ただ不甲斐なくなった。 「心情を吐露してくださってありがとうございます。見ていて苦しいものがありましたから」  彼女は振り向かず、歩も止めない。山の()の囁きと紛う。小豆喜は足元が険しくなったり、枝の伸びが著しいところの注意以外は口を開かなかった。重苦しいものを抱えた道は短く感じられた。村に入ると懐中電灯が消えた。村人は仕事を終え、家々に戻っているらしく外に人気(ひとけ)はない。 「ありがとう、小豆喜ちゃん」  咲桜は放り投げるように礼を言い、顔も見なかった。彼女のほうでも気を遣っているらしい。その件についてこれ以上気に掛けはしないという態度だった。 「陸前高田様」  別れ際に小豆喜が呼び止めた。振り返る。表情はやはり見えなかった。 「菊口任組は、お望みならば壁にも風にもなります」  夏の夜の風が吹き抜けていく。中断した溜息ごと攫われてしまう。

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